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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第三章 『再来の王都』
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第三章33 『白』

 幾度も同じ朝を見届けていた庭園は、一度も見たことのない地獄へ様変わりしていた。


 小さいながらも色鮮やかだった花壇の花々は吹き飛び、焼き潰され、屋敷を囲うように立ち並んでいた木々は半ばからへし折れ倒木している。

 ところどころ、抉れた地面はとてつもない質量が爆砕した結果であり、猛威をふるったそれは土だけに留まらず肉片をいくつも飛び散らせていた。


 緑の芝生をどす黒い血に染め、伏して永久の闇に沈む黒装束の遺骸。点在するそれらは大半が原型をとどめておらず、頭を吹き飛ばされたもの、半身を叩き潰されたもの、胴体を千切られたものなど凄惨さは村落でのそれを上回っていた。

 それはその哀れな犠牲者たちを骸に変えた執行者が、どれほどの怒りをもってそれを行ったかという証左であったのだろう。


 その惨状を生んだ功労者であるところの血染めの鉄球。鎖で柄と繋がれたそれは幾人もの敵対者を打ち砕き、それを滅ぼし――しかし、道半ばで持ち主に手放され、今は庭園の片隅に放置されるように転がっていた。

 そして、それを片手に奮戦していたと思われる『鬼』は、


「――レム」


 全身におびただしい量の刃を突き立てられ、左腕を切り落とされたレムの死体がスバルを出迎えていた。


 この庭園の、彼女以外の死体の多さを見ればわかる。

 彼女は戦ったのだ。村人を殺戮し、その牙を屋敷にまで向けようとした悪意と。そして奮戦し、幾人も打ち倒し、傷だらけになって、いくつもの刃を打たれ、武器も、それを操る腕をも失い、それでもなお抗い――死んだ。


 黒を基調としたエプロンドレスはあちこち裂かれ、穴が空き、至るところから噴出した血によって赤黒く変色していた。

 数えることすら目を背けたくなる、彼女の体に突き立つ凶器。十字架を模したようなそれは先端を刃とした悪趣味な拵えで、それが小柄な彼女の体躯に両手の指で足りないほどの本数が打ち込まれていた。

 さらに唾棄すべき事実として、それだけの凶器が突き刺さっているにも関わらず、倒れるレムの体に残る傷跡はそれよりもずっと多いのだ。


 何度も、何度も、何度も。

 倒れた彼女の体に刃を突き刺し、引き抜き、まだ息のある彼女を痛めつけ、命を弄び、尊厳を凌辱し、生き様を侮辱し、そして突き立てて、消えない傷を残した。


 そうまでされる罪が、彼女のどこにあったというのか。


 なにを考えて、彼女を殺した奴らは彼女を殺したのか。

 奴らはレムのなにを知っているというのか。彼女は一生懸命で、努力家で、面倒見が良くて、早とちりが玉に瑕で、スバルを優しく甘やかして、でも時に辛辣で、苦しいときのスバルの味方になってくれて、だけどスバルを置き去りにして、姉思いで、自分のことが嫌いで、でも少しは自分のことを好きになり始めたばかりで――。


 誰かの代替品だと言い聞かせてきた人生を、やっと自分の人生だと歩き始めたばかりだったのに。


 レムは動かない。揺すっても、冷たくなってしまった体はすでに固く、何度も撫でた柔らかな青い髪は血糊でべったりと張りついてしまっている。うつ伏せに倒れる彼女は顔を地に伏していて、スバルにはその顔を見る勇気がなかった。


 悲痛な顔をしていたとしても、最後まで抗おうと決死の形相をしていたとしても、あるいは仮に安らかな死に顔でいたとしても、それを受け止める勇気がない。

 だってレムは、スバルのせいで死んだのだから。


 膝をつき、もう動かないレムを揺すっていたスバルはぼんやりと顔を上げる。ふと、レムが崩れ落ちている場所の不自然さに気付いたのだ。

 庭園を戦場に絶望に抗った彼女の死体は、屋敷から離れて庭園の端――花壇からも距離を置いて、あまり人の立ち入らない空間に打ち捨てられていた。

 別段、おかしな話ではないと思う。戦っている間に敵に回り込まれ、あるいはかわす内にここへ追い込まれ、そうして終焉をここで迎えただけにも思える。


 が、スバルはその状況を奇妙だと思ったのだ。

 そして、働かない頭で思考を回す内に、その奇妙な点の正体に気付く。


 前のめりに倒れるレムの、その腕を広げて倒れる姿――左腕が肩からないから、右腕を伸ばして倒れ込んだその姿がまるで、なにかを背にして戦っていて、その最中に事切れたが故に倒れた形に見えたからだ。


 顔を上げた先、倒れるレムの背後にあるのは、造園用の庭師の鋏や花の種などが仕舞い込まれた木製の倉庫だ。

 利用されなくなった調度品などが一時的に保管される役目も持つその場所は、倉庫とは名ばかりのちょっとした小屋並の大きさがある。


 立ち上がり、這いずるようにその倉庫の入口に足を向けて、近づくにつれてスバルは気付いた。

 すでに何度も味わった感覚。じっとりと肌を粘っこく撫でつけ、口の中の水分を渇きを覚えるほどに涸らし、茫と思考を鈍化させる陰鬱で濃密な――死の気配。


 入口の正面に差しかかり、その死臭を敏感に嗅ぎ取りながら、スバルは視線を落とす。足下、倉庫の閉ざされた扉の下から、大量の血が流れ出して若草を染めている。

 息を呑み、唾を飲み干し、込み上げる嘔吐感を呑み下し、戸に手をかけようとする。その手が小刻みに震えているのは警戒ではない。恐怖だ。

 中に、人のいる気配などない。そんなことを心配する必要はないし、そもそもそんなことに思慮を割くほどの心の猶予がスバルにはない。


 指先が扉の取っ手をかすめ、握ることを拒絶するように何度も空振る。苛立ち、言うことを聞かない自分の肉体が情けなくて涙が浮かぶ。それでも何度も繰り返す内、ついに小指が取っ手にかかり、軋む音を立てて扉が開かれた。


 瞬間、むあっと広がったのは鼻孔を埋め尽くしてなお犯し足りないほど、倉庫の中に充満していた膨大な血臭だ。

 思わず鼻と口元を手で覆い、込み上げてくるものを堪えながらスバルは中を覗き込む。そこにどんな光景が広がっているのか、想像することすら放棄して、ただありのままの現実を眼に焼き付けるために。


 ――倉庫の中にいたのは、村の子どもたちだった。


 それに気付いた瞬間、スバルはせり上がってきた胃液を口内に溜めて、転がるような足取りで倉庫の外へ飛び出した。

 前のめりに芝生の上に倒れ込み、その熱い吐瀉物を思う様に吐き出す。吐き出す。胃の中身は空っぽで、出てくるのは黄色がかった胃液だけだった。それでも吐く。吐き出し続ける。内臓が苦痛を訴え、喉が胃酸に焼かれ、口の中を酸味が蹂躙し尽くしてもなお、スバルは吐き続けた。


 中で、あの倉庫の中で嘔吐することなど許されない。

 もう誰も、誰にだって、あれ以上にあの子たちを汚す権利などないのだから。


「レム、は……」


 子どもたちを守って戦い、そして死んだのだ。

 村でスバルが見つけた子どもの死体は、ペトラという少女のものだけだった。村人全ての死体を探して歩き回ったわけではないから、生き残りがいたかもしれない可能性は完全に考慮から外してしまっていた。

 大人たちは村で戦い、子どもたちだけは領主の屋敷へ逃がしたのだ。そしてその逃げた先にも絶望は襲いかかり、結末は変わらないという結果を残した。


 無残に、無慈悲に、残酷に、命は奪い尽くされたのだ。


「ひ」


 ふいに、裏返った声がスバルの喉から漏れていた。

 なにかがあったわけではない。ただ、急に恐ろしくなったのだ。


 自分を知る誰かを求めて、スバルは村に、屋敷に帰り着いてきた。なのに生者は誰ひとりとして残されておらず、物言わぬ死者だけがスバルの帰還を責め立てる。


 言われている気がした。ものを映さない空虚な瞳が。

 責められている気がした。ぽっかりと空いた、血の滴る唇が。

 憎悪されている気がした。彼らと接し、笑い合った日々の思い出に。


「違う……違う、違う違う違う違う……」


 ――なぜ、お前は生き残っているのかと。

 ――なぜ、自分たちは死ななければならなかったのだと。


「違う……俺は、違う……こんな、ことを、望んじゃ……」


 理想があった。妄想していた希望があった。

 エミリアに危機が迫っていると聞いたとき、スバルは天啓を受けたのだと思った。スバルを見限った彼女に、自分を見直させる機会が恵まれたと信じ込んだ。

 これまでもそうだったように、スバルはエミリアを救い、そして彼女に感謝され、ささやかな行き違いの溝を埋め、共に手を取って歩いていけると信じていた。


 引き起こされる窮地は、危険は、悲劇は、そのための踏み台に過ぎないと高をくくっていた。なにが起きたとしても、挽回できると見くびっていた。

 その報いが、この膨大な数の死者だというのならば。


「俺の、せいじゃない……俺が、俺は……ッ」


 首を振り、立ち上がり、スバルは倉庫から目を背け、レムの死体に背を向けて、屋敷へと向かって走り出した。


「誰か……誰か、誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か……!!」


 提案を横切り、屋敷の正面へ回り込み、玄関の扉をぶつかるように開けようとする。だが、扉はまるでスバルを部外者とみなしたかのように頑なに閉ざされ、何度体をぶつけようとも、乱暴に蹴りつけようとも開く気配がない。


 もどかしく、扉を最後に蹴りつけると、スバルは再び庭園の方へ。転がる黒装束の死体を踏みつけ、飛び越え、目的のものの場所へ。

 拾い上げ、腕が軋むほどに重いそれを引きずり、屋敷の庭園側のテラスに向かう。そして息を深く吸い込み、全身の筋肉をたわめると、


「――あぁ!」


 握り込んだ鎖の遠心力で鉄球が旋回し、叩きつけられたガラスが木っ端みじんに砕け散って室内に大いに散らばった。

 そうして強引に作った侵入路をあわただしくくぐり、スバルは屋敷の中へと身を滑り込ませる。半端に破られた窓の破片が薄く肌を裂き、いくつもの裂傷が手足のあちこちに刻まれたが、その鋭い痛みが今のスバルにはなにも感じられなかった。


「誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か……」


 縋るように、とりつかれたように、スバルの唇は他者の存在を求め続ける。

 それは村に駆け込んだときと同じようであり、あのときとはさらにまた違うものを求めてのものへと移り変わっていた。

 即ち、


「俺のせいじゃない……俺のせいじゃない……俺のせいじゃ、ない……」


 生きている誰かに、それを肯定してほしかったのだ。

 あるいは誰かが生き残っている事実そのものが、その肯定になるのだ。


 だからスバルは生者を探し求めた。渇望した。見つけ出さなくてはならなかった。

 そうでなければ、スバルは自身を自身で肯定することができない。


 この惨状が自身の軽はずみな考えによって引き起こされたものなのだと思い込んでしまったら、心が平衡を保っていることなどできるはずがない。

 心が砕け散ってしまわないためにも、この膨大な死者の死の責任を負わないためにも、もっともらしい理屈で自分を守らなくてはならなかった。


 よたよたと、上体をふらつかせながらスバルは屋敷の中を駆け回る。

 屋内の状態は庭園と違い、荒らされた気配や壊された形跡が見当たらない。よく知る屋敷の光景と変わらないものが広がり、外界にあれほど死が満ちているにも関わらず、平常を失わないこの場所がなぜかひどく恐ろしいものにも思えた。


 手近な部屋の戸に手をかけ、乱暴に開いては中を確認し、舌打ちして力任せに閉める。膨大な部屋数に比して、実際に利用する人間が少なすぎる屋敷だ。

 屋敷の関係者でスバルがまだ存在を確認していないのは四人――そのいずれかの人物が見つかるまで、スバルは手当たり次第に総当たりで扉を開けては閉じるを繰り返す。


「くそ……くそ! なんでだ……なんで、誰も……いつもだったら……」


 ひきつった半泣きの声でぼやき、スバルは前髪を乱暴に掻き毟る。

 普段ならばスバルは狙う必要すらないほどあっさりと、ベアトリスが管理する書庫へと辿り着くことができるのだ。なのに、肝心の今、どうしても見つからない。


 あの憎まれ口が今は喉から手が出るほど欲しかった。

 虫けらのようにぞんざいに扱われ、不快感を隠さない吐息をこぼされることにだって耐えられる。生きて、命でスバルを肯定さえしてくれるのであれば。


「出てこい……出てこいよ……頼む、頼むから……助けてくれ……助けてくれぇ……!!」


 もはや流れ出す涙を堪えることもできず、頬を滂沱と濡らしながらスバルは屋敷の中を駆け回った。口から漏れるのは嗚咽と、この絶望から手を引いて救い出してくれる誰かを求める女々しい繰り言のみ。


 屋敷で最初に目覚めた客間を通り過ぎ、ベアトリスの魔法で無限ループする廊下と化していた絨毯を踏みにじり、幾度も通った食堂で這いつくばり、マヨネーズを作ろうなどと奮闘した厨房に背を向けて、スバルに与えられた仕事の中でもっとも重労働な清掃を任された大浴場をあとにして、使用人の部屋が集合する階へと駆け上がると手近な部屋から全て引っ繰り返して中を覗き込み――、



 七つ目の部屋で、ラムの死体を見つけた。



 ベッドに横たわっているラムが眠っているわけではないことぐらい、この短時間であまりに多くの死を見てきたスバルにはすぐにわかった。

 透き通るような白い肌は血の気を失って蒼褪めていて、唇のそれは逆に普段よりも朱色が目立つ。容姿がそっくりな妹の死に様と相反するように、死に化粧すら施されたラムの姿はどこか死相すら可憐だった。

 黙っていれば、可愛らしいメイドで通るとは普段の軽口で言ったものだが。


 寝台に横たえられた彼女は、ここで眠るように息を引き取ったわけではないだろう。死んだ彼女を寝台に運び、こうしてその死相を整えてあげた人物がいる。

 おそらくは、レムだろう。姉の死を前に彼女がなにを思い、死に化粧を施しながら何度彼女が涙を流し、そしてどんな思いを抱えて姉をひとり残していったのか。


 その当のレムがああも無残に殺された今、その心象を知ることは永遠にできない。


 冷たいラムの唇に指を触れさせ、朱色の化粧が爪の先にわずかに付着する。指と指を擦り合わせて指先でその色を弄び、スバルはいつの間にか部屋の隅に腰を落としていた。

 ぼんやりと、顔を上げる。穏やかに、眠っているだけだと言われれば信じてしまいそうな死者の姿がそこにあった。


 無言でスバルの帰還を出迎えた彼女の姿が、生者たるスバルを糾弾する。


 村でスバルを見上げた、いくつもの虚ろな眼と同じように。

 二度と震えることのない唇が、無音の呪詛を延々とスバルに浴びせかける。


「ひ」


 這いずるようにして、スバルはラムの眠るベッドからほうほうの体で逃げ出す。震える腕を、言うことを聞かない膝を、無理やりに突っ張って立ち上がり、よたよたと壁に手をつきながら一秒でも早く、その部屋から遠ざかる。


「やめろ……違う……俺じゃない……俺が、俺は、俺はなにも……!」


 耳を塞ぎ、頭を振り、嗄れた喉で自分を守る言葉を紡ぎながら、スバルは耳元で囁かれるような怨嗟の声から遠ざかろうとする。だが、声は、絶望は、逃げるスバルを嘲笑うようにどこまでもどこまでもつきまとう。


 足を引きずって廊下を走る。階段のある踊り場へ出た。手をつき、四つん這いになりながら階段を上る。途中、何度も転び、何度も挫かれ、ぶつけた唇から血を滴らせながら、辿り着いた上階の廊下にまた挑む。

 死者だけがスバルを出迎える。ラムが死に、残る生者はあと三人。足は自然と、同じ階にあるエミリアの部屋を避けていた。二階、ラムが死んでいたのは使用人に割り当てられたラム自身の個室だった。自室で死んでいたラムの姿が頭にちらつき、涸れ果てたはずの涙がまたしても込み上げる。もう体中の水分を吐き出したつもりでいたのに、吐き出す嗚咽も胃液も空っぽになったはずなのに、なおも尽きることのない悲しみが、胸の奥で痛みを発しながらスバルに走れと責め立てる。


 それがなければ、もう座り込んで、頭を抱えて、なにも見ず、なにも聞かず、なにも知らず、なにも求めず、なにも与えられず、なにも奪われず、なにも愛さず、なにも愛されず、なにも始まらず、なにも終わらず、なにも変わらず、停滞していられたのに。


 泣き言と涙をくしゃくしゃになった顔面から垂れ流しながら、ふらつくスバルは最上階――ロズワールの執務室の前に辿り着く。両開きの重厚な扉は沈黙を守っており、強固なそれはこの屋敷に迫った悪意すら跳ねのけそうな頑健さに守られて見える。

 だが、そんな希望は儚く消える。

 なにもかもが終わったこの場所に、安全な場所など、許される場所など、あるはずがないし、あってはならないのだから。


 押し開き、ひんやりとした風が廊下へと流れ出してくる。

 肌寒さが腕を刺し、スバルは自分がそれに対して無防備なほど軽装である事実をふいに思い出す。上着はどこにとまで考え、それは村でペトラにあげてしまったのだと思い出して、益体のない思考で自分を守ろうとする事実に辟易する。


 部屋に踏み入った。あるいは執務室の机に、ロズワールが死者となって寄りかかっているやもしれないと、半ば諦観する気持ちがあったことは否めない。

 レムが死に、ラムの命が潰え、その最中に他者への希望を抱き続けることは難しい。生者を探し求めて屋敷の中を駆け回っているのか、希望を見失うために絶望を引き連れて思い出を蹂躙しているのか、もはや自分自身でもわからない。


 しかし、村で、庭園で、個室で三度スバルの希望を裏切ってきた世界は、四度目の裏切りをスバルに対して向けることは、今はなかった。


 執務室には、誰の姿もなかった。


 人気のない室内に視線を走らせ、机の陰や調度品の置かれた棚の下、応接用の机の裏まで這いつくばって探し回り、それでもその痕跡を見つけることができない。

 少なからず、安堵の気持ちがスバルを支配した。

 それはロズワールの生死を確かめずに済んだことへの安堵感であり――死者にこれ以上、苛まれる理由を増やされることがなかった自分可愛さへのものでもあった。


「――?」


 ふいに、風に窓が揺られる音がしてスバルは振り返る。

 見れば、廊下と繋がる扉を開けた途端、室内にはやけに底冷えする風が流れ出し、それが窓を叩き、あるいは部屋の片隅に置かれた観葉植物の葉を揺らしていた。


 風の流れが生まれているのだ。

 扉という通り道を得たそれは冷気を伴いながら、室内をぐるりと回って外へと吹き流れていく。その事実を肌で味わいながら、スバルはその風の出所がどこなのか、風の感触と勘を頼りに探し回り――、


「こんな、仕掛けが……」


 黒檀の机の下に隠されていた仕掛けを弄った途端、歯車の噛み合うような音が鳴り響いた。そして、石臼を挽くような低い音がして、執務室の奥の壁に設置されていた書棚が一メートル近く横にスライドする。


 想像の外の仕掛けに唖然とするスバルの前で、動いた書棚の向こうに現れたのはぽっかりと口を開けた黒い抜け穴だ。

 おそるおそる近寄り、そっと顔を中に覗き込ませると、石造りの通路が数歩だけ続き、その向こうに階下へ向かう階段がらせん状に組まれているのが見えた。


「隠し、通路……か?」


 おそらくは有事に備えて、のものに相違あるまい。

 辺境伯という身分で、領主という役割を持つロズワールにしてみれば、自衛の手段として当然用意しておくべき逃走路の確保。実際に利用する機会があるかどうかは別として、彼の人物ならば嬉々として準備しただろうことは容易にうかがえた。


 まさか現実に、その通路を使用するような機会が訪れることになろうとは。


 部屋の中を流れていた冷たい風は、どうやらその抜け穴からきているらしかった。つまり、その抜け穴の向こうの通路を通り道にして、どこかさらに深く冷たい場所を始点に風は吹き抜けているのだ。


 息を呑み、何度も深呼吸を繰り返し、高く鋭い鼓動を打つ心臓がわずかばかりでもその気勢をゆるめたのを見計らい、スバルはその抜け穴へと身を踊り込ませた。


 触れるとひんやり冷たい壁はなんの材質で作られているのか、ぼんやり淡く青い輝きを放ち、数メートル先までではあるが視界を確保してくれている。

 その光を頼りに、壁伝いに手を当てながら、スバルは踏み外さないように細心の注意を払ってらせん状の石階段を階下へ向かって降りていく。


 どこまで続いているのか、どこへ向かっているのか、まったく未知の場所へ踏み込む不安が内腑を締め上げる。だが、それらの負感情よりもさらに強くスバルの背中を焼き焦がすのは、隠匿されたこの通路の存在への怒りだった。


 風が吹いているということは、出口に抜けているということだ。

 つまり、誰かしらがこの抜け穴を利用し、外への脱出を図ったということに他ならない。屋敷で見ていない生存者は三名――場所が誰の執務室からのものだったかを思えば、屋敷の惨状を見捨てて逃げ出したのが誰なのか考えるまでもない。


 あれを放置して、あれだけの惨状を見捨てて、あれだけ自分を慕う少女を見殺しにして、逃げたというのか。浅ましくも、命惜しさに逃げたというのか。


 歯の根が怒りに、そして歓喜に震えているのにスバルは気付かない。


 仁義にもとり、唾棄すべき、誹謗されるべき悪徳に走った人物への怒り。

 怨嗟を、呪詛を、侮蔑を、罵倒を、物言わぬ死者の全ての責を、代わりになすりつけることができる相手を見つけたことへの歓喜。


 感情がごちゃまぜになった狂気的な笑みを浮かべて、止まることのない涙を延々と流しながら、噛み切った唇から血を滴らせて、狂人は階下へ向かう。


 何段、階段を下りたことだろうか。歩数にしてみればかなりのもので、高さにしてみれば三階から地上へというレベルではない。抜け穴はどうやら屋敷の地下へと通じていたらしく、階段の終わりには再び直進する通路が続いているようだった。壁の材質は変わらず青い光を放つ鉱石であり、触れると指先の熱を奪うそれに掌を当てながら、ひきつった笑みを浮かべてスバルは進む。


 生者の名残を追いかけている。その一点が、今のスバルには嬉しかった。

 この先にいるのが、自分に勝るとも劣らない、劣悪な選択をして罵声を浴びせられるべき存在であろう事実が嬉しかった。

 死者しかいない世界で生者を見つけ出し、自分が今、本当に生きているのか、あるいは死んでしまっているのではないか、それを確かめることができるのが本当にウレシカッタ。


「ん、お……」


 と、壁伝いに当てていた掌がふいにその壁を見失って空間を撫でる。思わず泳いだ体が前に進み出ると、広がったのはそれまでの通路と違い、わずかに四方の空間を大きくとられた小部屋だった。

 ぼんやりと薄明かりの空間に、いくつもの柱が並び立って点在している。間隔が不揃いな柱に歪なものを感じながらも、この抜け道自体が突貫工事で作られたような代物であるとすれば、その杜撰な設計に頷けないでもない。


 納得を得て、スバルは邪魔くさい柱の横を抜ける。ここへきて、ひどく手足の動きが鈍くだるい。まるで手先に鉛でも詰めたかのような倦怠感があり、ただでさえ曖昧になり始めていた思考までも鈍化し始める。

 足を一歩、前に踏み出すことにすら苦戦しながら歩みを進める。口の中が渇き切って痛みすらあり、流れ出ていた唇の血もいつの間にか止まっている。

 瞼が重く、両肩に重石が圧し掛かったように動きが制限され、それでもただひたすらに執念が、怨念が、狂気がスバルを前へと進ませていた。


 広間に点在する柱をよけて小部屋を通り抜け、スバルは行く先に鉄製の扉が備えつけられているのを青い明りの中に見つける。通路、階段、通路、小部屋ときて扉――この向こうに、自分の求めているものがあるのだろうか。


 ――いったい、なにを求めていたんだっけか。


 停滞する思考が答えに辿り着くより先に、血の通わない指先が伸びる方が早い。扉の前に立ったスバルは喘ぐように口を開閉して呼吸をしながら、なにも思い浮かばない思考を放棄して使命感だけを理由に扉の取っ手に掴みかかる。


 ――瞬間、取っ手に触れた右手に焼けつくような激痛が走った。


「――ぁがぅぁ!」


 激痛に喉が絶叫し、スバルは引き剥がすように右手を振り払っていた。焼かれるような痛みはノブに触れた掌全体に及んでおり、痛みに苦鳴を漏らしながら、スバルは傷付いた右手の惨状に目を落とす。


 ――右手ノ人差シ指ガナカッタ。


「――は?」


 呆然と、唖然と、スバルは眼前に持ち上げた右手を広げて見る。

 白く変色し、掌の皮がズタズタに剥がれた右手――その伸ばされた五指の内、人差し指だけが根本から存在しない。


 ゆっくりと、視線を正面の扉へ。その掴んだはずの取っ手に、スバルの右の人差し指だったものがくっ付いたままになっていた。


 ――早ク、クッツケナクチャ。


 とりとめもない思考でそれだけを弾き出し、スバルは取れた指を取り返そうと取っ手に右手を向ける。が、先ほど以上に体を動かすのに難儀し、肩から肘、肘から先へと意思が伝わらない。動かない腕がもどかしく、スバルはもっと扉と距離を詰めようと前に踏み出し――右の足首が根本から砕け散り、横倒しに倒れ込んだ。


「――ッぁぁぁあ」


 声にならない声が喉から漏れ出す。

 それは苦痛に対する絶叫だったのか、ただ意味もなく出た命の奔流だったのかは自分でもわからない。ただ、わからない中でわかることがあった。

 声を吐き出そうと開いた口が息を吸った瞬間、体の内側までもが白いものに埋め尽くされ、動かなくなっていったのを。


 肺が痙攣し、呼吸がおぼつかない。短く、浅い呼吸を繰り返し、膨らまない肺に必死に酸素を送りながら、スバルは尋常でない状況に目だけを忙しなく巡らせる。


 なにが起きたのかわからない。ただ、全身の感覚がひどく曖昧だった。

 右の足首が粉々になる、味わったことのない痛みと喪失感があった。そして倒れ込んだ瞬間、横倒しになる体の下敷きになった右半身も、右足首同様に部分部分が欠落し、崩壊していったのがわかる。


 もう震えない唇から、かろうじて命を繋ぐ呼吸を吐き出す。その吐き出された息が目に見えるほど白いことに、今さらながらにスバルは気付いた。


 地面に接した顔が床に張りつき、首を動かせば頬が剥がれるだろうことがわかる。もう痛みも感じない。乱暴に動かし、頬と右目の外側がごっそり落ちた。構わない。ようやく仰向けになった視界に、逆さまになった通り過ぎた小部屋が見える。


 そうして下から意識して見て、スバルは小部屋を点在する柱の並びがまちまちだった理由が、手抜きの欠陥工事が原因でなかったことをようやく知る。


 小部屋に並ぶそれらは皆、氷漬けになって死んだ人間の氷柱なのだ。


 スバルと同様にこの白い終焉に迷い込み、そのまま氷像と化した犠牲者たちなのだ。そして、それは間もなくスバルの身にも訪れる最期で。


 すでに呼吸は止まっている。

 限られた酸素が脳をめぐるが、脳も意識を保っているのが不思議なほどに緩慢で、極寒の世界でその存在は消える寸前だった。


 なにもわからない。

 なにも見えない。


 足の先から体は次第に氷の破片になり、ナツキ・スバルではなくなっていく。

 それを言うのであれば、もうここにいたのはナツキ・スバルではなく、その皮を被っているだけの狂人であったのかもしれないけれど。


 下半身の感覚が消えた。すでに腕もどこにも見当たらない。今、右目が落ちた。残った左目がまだ見えるのが不思議だった。命はどこに宿るのか、脳かそれとも心臓か。

 その答えは凍てついた世界の中で出るはずもなく――、


「――もう、遅すぎたよ」


 白だけが支配する世界に温度を失った呟きが響き、



 ――ナツキ・スバルは粉々に砕け散り、破片となって世界から消えた。


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