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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第三章 『再来の王都』
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第三章32 『絶望という病』



 不安が、喉を掻き毟りたくなるような不安が全身を支配していた。


 足は前へ、心は未来へ、意思は目的へ向かって進んでいるはずなのに、じりじりと後ろから得体の知れない恐怖が追いかけてきているような気がする。

 嘔吐感が酷い。耳鳴りがガンガン聞こえる。心臓が胸からこぼれ落ちそうなくらいにがなり続け、地を蹴る足は意識していなければ指先から掻き消えてしまいそうなほどか弱く頼りない。


 どうして、こんなことになってしまっているのだろう。


 全てがうまくいくはずなのだ。なにもかもがいい方向へ向かうはずなのだ。

 巡り合わせが悪かっただけだ。タイミングが合わなかっただけだ。

 やればできるはずなのだ。やることが明快なら、迷わないでいけるはずだ。


 やるべきことはわかっている。エミリアを助けられればいい。

 彼女が窮地に追いやられているのならば、そこから救い出すのがスバルの役目だ。

 ずっとそうしてきた。今回もそうしよう。それでなにもかもうまくいく。彼女もスバルのことを見直すはずだ。やっぱりスバルがいなければダメなのだと、そう思って自分を側に置いてくれるはずだ。


 見放されたくない。見捨てられたくない。見くびられたくない。見限られたくない。


 必死の思いで、懸命な意思で、決死の覚悟で、スバルはそれを反芻する。


 息が切れる。肺が痛み、酷使された全身が軋み、治り切っていない肉体の各所が悲鳴を上げているのがわかる。――でも、止まることなどできるはずがない。


 一秒でも早く、ほんのわずかでも早く、走らなければならない。

 そうでなければ追いつかれてしまう。後ろから迫りくる、わけのわからないなにかに、そして食らい尽くされてしまう。


 それは嫌だ。それだけは嫌だ。今はただひたすらに、それだけが恐ろしい。


 エミリアに会いたい、微笑まれたい。レムはどうして自分を置いていったのか。昨晩、触れていたはずの温もりはどこへ消えたのか。ベアトリスの憎まれ口が、ラムの減らず口が今はひどく懐かしく愛おしい。ロズワールの偏屈さが、パックの長閑さがどれほど心を安らげるだろう。


 ずっと、この場所にあれればよかったのだ。

 ずっとずっと、スバルの時間はあの屋敷の日々に埋もれていればよかった。


 王都に向かったことが間違いだった。

 王都で過ごした時間の全てが、今の苦境の原因だったのだ。


 ラインハルトが、フェルトが、ロム爺が、クルシュが、フェリスが、ユリウスが、アナスタシアが、アルが、プリシラが、賢人会の顔ぶれが、騎士団の連中が、次々と脳裏に思い浮かび、その全てが今のスバルには憎悪の対象にしかなり得ない。


 呪われてしまえ、苦しんでしまえ、苦痛の限りを味わって死んでしまえ。


 彼らさえいなければ、スバルは己を見失わずに済んだ。

 屋敷に戻り、エミリアと和解し、あの心沸き立つような日々に戻れるのならば、喜んで全てをなげうっても構わない。


 もうなにも残っていない、残されていない。

 全ては掌からこぼれ落ちてしまった。だから、今はそれを拾い集めにいく。


 そのために、そのために、そのために、走り続ける。

 肺を焼かれそうな苦しみに、心を割り砕きそうな後悔に、意識を埋没させてしまいそうな耳鳴りに、全てに耐えながらスバルは走る。


 ひたすらに繰り返すように、怨嗟と後悔の念が頭の中を通過する。

 そんな後ろ向きな精神で、前を目指して走り続けてどれだけ時間が経ったろうか。


 周囲、ふいにそれまで生い茂っていた木々の流れの間隔が開き始め、自然が人の営みに切り開かれた形跡が生まれ出す。

 次第に蹴る地面にも踏み固められ続けた故の感触があり、ハッと顔を上げたスバルはなだらかに上り始めた斜面に気付いて思わず頬をつり上げた。


 ぼんやりと、見覚えのある道に出たのだ。

 目印らしきものはないし、見る人が見ればただただこれまでと変わらない林道が続いているだけに思えたかもしれない。

 しかし、ひたすらに変化を求めて走ったスバルには、幾度かこの道を通ったスバルにはそれが、この終わりのない緑の迷宮の終わりであるのがわかった。


 屋敷に到着した、わけではない。

 その手前、スバルの眼前、斜面の向こうにあるのは屋敷最寄りの村落だ。


 ふと、それまで屋敷の面々の顔しか浮かばなかった脳裏に、その日々の中で何度も接した親しくなった人々のことが流れ出す。

 馴れ馴れしい子どもたちに、おかしなぐらい警戒心に欠けた村人たち。異世界知識の数々を荒唐無稽と笑わず、ありのまま受け入れた変人連中だ。


 懐かしすぎて、涙が出そうになった。

 どうして忘れていたのかもわからない。スバルが帰る場所は屋敷以外にも、スバルを温かく受け入れてくれる場所はまだ残されていた。


 そこにも、スバルがスバルである価値が残されている。

 あの村はスバルが救ったのだ。スバルなしでは消えていたかもしれない村だ。スバルの功績だ。スバルの行動の結果として、これ以上のものはない。

 目と鼻の先にある自身の拠り所、それを思い出したスバルの足はさらに逸る。


 斜面の先、木々の遮りを越えた早朝の空にたなびくのは、日々の営みの象徴である立ち上る白い煙だ。

 煮炊きか、あるいは湯沸かしか。鍛冶や金属細工の工房のものかもしれない。いずれにせよ、誰かがそこにいてくれることの証左だ。


 今はただ、それだけで十分だった。

 自分を知っている人に、自分を受け入れてくれる人に、今は名前を呼んでほしい。親しげに、友愛を込めて、ここにいていいのだと証明してほしかった。


 駆け抜ける。駆け上がる。斜面の終わりが近づき、白煙の根元が見えてくる。上り切った。額を伝った汗がふいに瞼にかかり、スバルはわずらわしく思いながら乱暴にそれを拭い、そして晴々しい気持ちで村を見た。





 ――そして、スバルはついに、背後から迫る悪夢に追いつかれていた。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 村の入口に駆け込んだとき、スバルが最初にしたのは第一村人を探して視線をさまよわせ――違和感に気付き、眉を寄せることだった。


 一度足を止めると、途端にそれまでの負担が一気に心肺機能に襲いかかる。

 荒い呼吸を繰り返し、涎と痰を吐き出しながら、その場で膝に手を当てて腰を折りながら体力回復に努める。無論、その間も視線だけは上に上げたままだ。


 一見、村にはなんらおかしなところはないように思えた。

 しかし、明らかにどこかがおかしい気がする。


 早朝の村は涼やかな空気が程よく張り詰め、寝起きの頭に目覚めの光を注ぎ込む。なのに、なぜか人の気配がどこにも感じられないのだ。


 腕を組み、しばし黙考してからスバルは「ああ」と気付く。

 夜を徹して走ったスバルには自覚が薄いが、今はまだまだ活動時間に入った村人も少ないレベルの朝方の時間帯だ。

 故に家から外に出て、日常作業に入り始めた人影が見当たらないのかもしれない。


 そこまで考えて人気のなさに納得し、それならばと今度は空に立ち上る白煙の正体を確かめに足を運ぶ。

 火のないところに煙は立たないと言うが、煙の立ったところに人の手が入っていないはずもない。そちらへ向かえば、誰かしらと遭遇することができるだろう。


 が、その目論見も空振りし、スバルは何者とも出会うことはできなかった。


 白煙の立ち上る村の端へ到着したとき、そこにはすでに誰もいなかったのだ。

 ただただ火の気の燻る煙の原因が弱々しく燃えているだけで、周囲を見渡してもそれを行った実行犯の姿はどこにもない。


 今度こそ、漠然としたものではない、はっきりした不安がスバルを包み込んだ。


 疲労とは別の理由で呼吸が早まり、心臓の鼓動が再び速度を上げ始める。それらの反応に急き立てられながら、スバルは溜まらず近くの民家の扉を乱暴に叩く。

 反応がない。嫌な予感に掻き立てられ、鍵すらかかっていないそれを乱暴に押し開いて中に押し入る。が、やはりそこももぬけの空だ。誰もいない。


 一家総出で野良仕事でもしているのか、と益体もない冗談を呟き、スバルは渇いた笑みを張りつけたまま外へ。そのまま勢いを止めることなく隣家へ。今度はノックする手順すら飛ばして屋内へ侵入。悲鳴が上がって、住人が不法侵入したスバルに叱責の声を飛ばす――ことはない。ここも無人だ。


 いよいよ状況に理解が届かなくなり始める。

 その得体の知れない悪寒が、森の途中で遭遇した黒装束たちから与えられたものに酷似している気がして、スバルは我を忘れるほど必死に人影を追い求める。


 だが、どれだけ走り回っても、喉が涸れるほどに人を呼んでも、子どもが悪戯で隠れていそうな場所を全てさらっても、誰ひとり見つけることはできなかった。


 静寂がここにもぽつんと落ちていて、スバルは世界に取り残されていた。


 どっかりと、力の抜けた体で地面に座り込み、スバルは長く深い息を吐く。

 意味がわからない状況、というのはどれだけ遭遇しても慣れはしない。もちろん、意味がわかった上で理不尽な展開というのも同義だ。

 その両者に絶え間なく押し寄せられるスバルの現状は、四面楚歌や前途多難などといった言葉ですら言い表すことはできないだろう。


 ふいに鮮烈な痛みが頭蓋に響いた気がして、スバルはとっさに額に手を当てる。だが、当てた瞬間に不快感が肌にべったりと広がった。

 見れば、座り込んだ際に地面に置いた右手は、濡れていた地面の汚れをもろに浴びており、気付かないまま盛大にそれを顔面に己でぶつけてしまったらしい。


 赤茶けた泥が鼻筋を流れる感覚は不快感の極みで、スバルは汚れていない左腕を駆使してそれを拭い去ると、右手が汚れた原因の地面に恨みを込めた視線を向ける。


 走り回っていたときから気にかかってはいたが、今朝はひどくぬかるんで走り難い状態だ。村の入口や煙が立ち上る周囲は特にひどく、村人を探して駆ける間に何度足を取られそうになったことか。

 なるべくそうなっていない地面を選んで腰を下ろしたが、右手の状態を見るに尻の方の被害も甚大かもしれない。意識し始めると、じんわりと下腹部に湿り気のようなものを覚えて、さらに盛大なため息が外へと吐き出された。


 だいぶ頭が馬鹿になっているな、と思う。

 それも当然だ。一昼夜以上、過酷な移動の中でほとんど睡眠を取っていない。オットーに分けてもらった非常食のような味気のないものを腹に入れたぐらいで、食事も十分であるとは言い難かった。付け加えれば、意識がある間はひたすらにエミリアの身を案じてめまぐるしく脳が活動していた。これで疲労しないなら、スバルは人間ではなく超高性能な人工AIだろう。


 益体もない冗談が浮かび、スバルはまたしても渇いた笑いを浮かべる。

 尻を払い、右手に付いた汚れを仕方なく壁に押し付けて取り払うと、体を回して再び村の中を捜索する。最後の悪足掻きだ。

 これだけ懸命に呼びかけ、走り回り、それでも顔を見せないのだ。おそらくはすでに村の中には誰もいないのだろう。どこへ行ったのか、なにが理由なのか、それらを把握することはできないが、それだけ納得してしまえば区切りをつけるしかない。


 ぐるりと村の中を一巡りし、スバルは最後にまたしても白煙のたなびく村落の端っこへ。ゆいいつ、風に揺れるその場所だけに時間が流れているような気がして、時にすら置いてけぼりにされているような孤独感を癒してくれるような気がして。


 目的の場所へ到着すると、燻る白煙はいよいよ熱を潜めて消えかける寸前だった。

 弱々しい煙がそよ風に殴られ、右へ左へと頼りなく揺れながら霧散する。そんな白煙の様子に物悲しさを感じながら、スバルは期待していない目で周囲を見渡す。

 が、やはり誰の姿も見当たらない。捜索は徒労に終わってしまったようだ。


 すでに何度目かわからないため息をこぼし、スバルは苛立たしげに地面を蹴る。ぬかるんだ地面を爪先が抉り、飛び散る泥が終焉の見えた白煙にトドメを刺した。

 火の消えるささやかな断末魔が鼓膜をくすぐり、煙は根本を絶たれて空へ消える。最後の白煙が風にさらわれ、消え果てたあとに残るものはなにもない。


 消える白煙の行方を見送り、スバルはゆっくりと視線を下ろした。

 煙が失われれば、そこも他の場所と同じで時の止まった、世界から隔離された空間だ。スバルの意識をひくものは、もうそこにはなにもない。


 ただ、白煙を立ち上らせていたムラオサが転がっているだけだ。


 頭を掻きながら、それから意識を外すとスバルはぐるりとあたりを見る。壁際に打ち捨てられたように角刈りの青年が寝転んでいた。仰向けになっている胸のあたりに凶器が突き刺さっており、おびただしい出血が大地を赤く染めている。

 最初に踏み込んだ民家にも、入ってすぐの部屋の隅で中年の男女が重なり合うようにして倒れているのがわかった。

 次の家も、その次の家も、スバルが探し求めた人影は見当たらない。あるのはボロキレのように尊厳を奪われ、命を凌辱された残骸が残されているだけだった。

 積み重なる残骸の数は膨大で、それらを見届けながらスバルは人影を探す。誰かが自分の名前を呼んでくれやしないかと、それだけを求めてひたすらに。


 しかし、村を何度巡っても、そのスバルの望みが叶うことはなかった。


 ここにはスバルの求めるものはなにもない。ただそれだけを理解して、他の全ての理解を投げ出して、スバルは村での行動を放棄すると、屋敷へ続く道へ向かう。

 余計な寄り道をしてしまった。初志貫徹しない結果がこれだ。無駄な時間を浪費し、すでに得られていたはずの安らぎにまだ届いていない。無駄だった。全ては無駄だった。ここにあるのは無駄だけだ。スバルを含めて、無駄しかない。


 吐き捨てるようにそう呟きながら、ふらふらとした足取りでスバルは進む。と、村の外への道筋で、ふいにスバルは足をなにかに引っかけて転んでしまった。

 ずるり、と足下が滑ったことに気付いた瞬間にはもう遅かった。周りには転倒を防げるものはなにもなく、勢いあまって肩口から思い切り地面に落ちる。

 痛みが脳をつんざき、スバルは呻くような声を喉の奥で爆発させ、反射的に浮かんできた涙を瞳の端に溜めながら、転んだ原因を求めて足下を睨む。




 ――もうなにも映さない、空洞となったペトラの目と目が合った。




「あああああぁぁぁぁぁぁぁッ――!!」



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 ――逃げ切ることはできなかった。



 スバルは嗄れ果てるほどに泣き叫んだ喉をなおも震わせ、滂沱と涙を流しながら、地に投げ捨てられていたペトラの亡骸を抱きかかえていた。


 ペトラの体からはすでに温かさが消えて久しく、手足も固くなり始めていた。意識のない人間の体は意識のあるそれよりはるかに重いはずなのに、ペトラの体は彼女が小柄であることを考慮しても軽すぎた。

 きっと、胸を貫通している傷口から流れ出した血の量が多すぎたのだ。


 目を見開き、驚いたような顔で死んでいるペトラ。その表情に痛みの名残が見当たらないことだけが、心臓を破壊された彼女の即死を意味していて救いだった。

 胸に穴が空いて死んでいくような死に方で、痛みまで味わう理由なんてこの子にはないのだから。


 愛らしかった顔立ちは血の気を失い、茶色がかった巻き毛は今は血と泥で汚れてしまって見る影もない。せめて、その見開かれた瞳だけは閉じてあげたかったけれど、硬直の始まってしまった瞼はその慈悲すらも彼女に与えてくれなかった。


 ペトラの亡骸を地面に横たえ、スバルはせめてもの償いに上着をその見開かれた双眸の上に被せ、彼女の眠りに安らかなものが訪れることを祈った。


 そうして、目をそらし続けていたものを見るのを恐れながら視線を持ち上げ――見慣れた村が地獄に変わっている現実をようやく受け止める。


 燻る白煙をたなびかせていたのは、焼き殺されたムラオサの体だ。

 青年団の若者は剣を手に戦ったのだろう。見覚えのある剣は今は彼の胸部を貫通し、血溜まりを生んで主を沈めている。

 重なり合うように倒れていた男女は夫婦だった。夫が妻を庇うように上から抱きかかえ、そのまま二人まとめて凶器に貫かれて息絶えていた。


 惨殺された死体があった。焼殺された死体があった。引き裂かれた死体があった。押し潰された死体があった。叩き潰された死体があった。死体ばかりがあった。


 村のそこかしこに死が落ちている。

 死体ばかりが転がる村にはうっそうとした静寂が横たわっており、全てはスバルが到着するよりずっと前に終わってしまっていた。

 今はただひとり、この場所で起きた惨劇の結末をスバルだけが見届け、あまりに遅すぎる両手を差し伸べて、誰に手を取られることもなく喘いでいるだけだった。


 なにが、あったというのか。

 なにかが、あったのだ。なにか、とてつもないことが起きたのだ。


 そのなにかは容赦のない暴虐でこの村を犯し尽くし、あらゆる生命の尊厳を凌辱して、罪のない村人たちを皆殺しにしていった。

 息のあるものは誰もいない。生き残ったものはひとりもいない。

 執拗に、隠れる場所はないか念入りにあらゆるところが引っ繰り返され、隠れ潜んだまま焼殺されたと思しき死体すらも見つけたほどだ。


 頭が回らない。顔の穴という穴から、とめどなく液体が流れ出している。

 涙が、鼻水が、涎が、堪えるという気力を失った顔面を汚し続ける。


 起きた事実は理解した。だが、理解はできない。

 なにが起きたのか、なにひとつわからない。なにひとつわからないが、わかっていることがひとつだけあった。


 それは、この悲劇がこの場所だけで終わっているはずがないという事実だ。


 遅すぎる理解に達したとき、スバルの全身をこれまでにない悪寒が襲った。

 それはこの世界に落ちてきて以来、命の危機を何度も乗り越えて、あるいは屈してきた中でも、最大級の恐怖をスバルにもたらしていた。


 歯の根が震える。

 涙を流し過ぎて痛みすら感じる瞳が明滅し、おぼつかない視界が空を見上げる。

 憎らしいほどの青空に、その下に屋敷がスバルを待ち構えている。


 あれほど帰り着きたかった場所が、あれほど求め続けた場所が、目と鼻の先にまで迫ったその場所が、今はあまりにも恐ろしい場所に思えた。


 なにがあったのかわからない。

 なにかが起きたことは間違いない。

 そのなにかはきっと、その場所を見逃すようなことはしてくれていない。


 恐かった。恐ろしかった。

 その可能性すら、考えたくなかった。その可能性を頭に思い浮かべてしまえば、ましてや口にしてしまえば、それが現実になってしまいそうで恐ろしかった。


 だからスバルは首を振り、その想像を振り払う。

 しかし、一度、脳裏を過ったそれは振り払おうとするスバルの腕をかいくぐり、耳元に囁きかけるように忘却を拒絶する。

 故にスバルは振り払うことを諦めて、別の手段に縋った。


 その可能性を口にするぐらいならば、それで彼女の身が危うくなるぐらいなら。


「レム……は? レムは……どうしたんだ……?」


 自分より先に、この地へ辿り着いているはずの少女。その彼女の安否を心配する言葉を紡いで、スバルは自分の心を最低の手段で騙そうとした。


「レムが戻ってたら、村がこんなになるのを見過ごしたわけがねぇ……」


 言い訳だ。自分しかいない場所で、自分すら騙し切れない言い訳をしている。


「なにか、あったのか……? まさか、途中でトラブルでも……」


 最低だった。最悪だった。理解したくないけれど、理解していた。

 愛しい少女が失われる可能性を口にするぐらいならば、それで自分の心が壊れてしまうぐらいならば、もっと別の生贄を用意すればいいのだと、心を騙したのだ。

 信頼を裏切ったのだ。


「そうだ……レム……レム……レムは……」


 ふらふらと、立ち上がったスバルは力のない足取りで進み始めた。

 ペトラの亡骸を置き去りに、引きずるような歩き方で、ゆっくりと村の出口へ――屋敷の方角へ向かって、亀の速度で進み続ける。


 その先に、なにが待っているのか、わからないまま。わかりたくないと思ったまま、わからなくてはならないと思っていながら、駆け出す勇気を持てないまま。


 引きずるように、縋りつくように、拠り所となる少女の名を呼びながら、スバルはゆっくりゆっくりと、坂道を上り、屋敷を目指して歩を進めていった。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※













































 ――レムは庭園で死んでいた。







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