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コルシカの修復家 作者:さかな

1章 記憶喪失の少女

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第二話 絵画修復家

「僕にはやっぱり絵を見る才能が無いみたいだよ。あの絵画の点々、何だと思う? 父さんは最初虫か種かと思ってたんだけど。どうやら――花びらみたいだ」

 湯気の立つ猪のスペアリブにかぶりつきながら、光太郎が楽しげに話し掛ける。
 革張りのソファの向こう側にある小さなコーヒーテーブルの上にはトースト程の大きさの(正確に言うと、二十センチ四方の)小さなキャンバスが置かれている。描かれているのは色鮮やかなレモン色の花びらが舞う快晴の風景であって、決して虫が空を飛行していたり、誰かが篭に乗せた種をばら撒いたような絵には見えない。
 だがそんな事は、ルカにとってはどうでも良い話だった。走りすぎて荒げた呼吸はもうすっかり落ち着いたが、辛気臭いオーラは相変わらず辺りを漂い続けている。

「工房に行く事すっかり忘れてて、ごめん」
「え、そんなこと気にしてたのかい? 父さん別に怒ってないよ」

 ルカは本当に真面目だなぁ、と笑いながら輪切りのトマトにフォークを刺した。光太郎の豪快な食べっぷりを余所に、ルカはもう一度コーヒーテーブルの上の絵画を眺めた。
 絵画を修復するチャンスを逃してしまった。経験値を蓄える機会を自ら潰した事が一生悔やまれる対象なのであって、父が怒っているか否かというのはあまり重要事項ではない。

「おおい、ルカ。父さん本当に怒ってないからね。それとこのスペアリブ、ロザリーおばさんのお店のよりおいしいよ。お代わりしようかな」
 深底の鍋からまだ熱をもったスペアリブを数本引き上げて骨だらけの皿に盛りつける。それを光太郎に手渡してから、ルカはそのままテーブルの上に置かれたキャンバスを手にとった。

 薄く延ばされた空色の上に厚い雲がたなびいている。まるで生き物のようにざわめく草原、そして舞い散る花びら。どれくらい昔に描かれたのだろうか。鮮やかな色合いは時の流れを感じさせない。
 小さなキャンバスの中で一迅の風が吹き抜ける。春が生きている。

「何度も何度も絵の具が塗り替えられていたよ、普通の人が描くよりもずっと沢山。よくよく調べていくと、構図は変えずに、同じ部分を同じように修正していたんだ。どうしてだと思う?」

 夕食を終えて、残ったリブの骨をゴミ箱に移しながら光太郎は問いかけた。
 修復の終わった絵画を一目見て「春の季節だ」と瞬時に理解できたのは何故だろうか。ルカはまぶたを伏せて思考の海に沈んだ。それは、まるで生命の息吹を祝福するように、あまりにも色鮮やかに空や草や花々が描かれているからだ、と思い至った。
 同じ構図を同じように修正しているなら、理由は一つしかない。

「――色彩にこだわってたんだ」

 正解、と光太郎は嬉しそうに指を鳴らした。
 命が眠る冬の季節が長いヨーロッパでは、春の訪れは希望だった。春になれば人々は皆外へ出てお祭りを開き、陽気な陽射しに飲んで歌って大騒ぎする。喜びに溢れる季節を表現する為に幾度も修正を重ねて完成させた絵画なら、画家が最も大切にしていたのは色合いだ。

「今でこそ絵画はエネルギー源に使われているけれど、昔は純粋にアートとして人々に慕われていたんだよ」

 地球に残るエネルギー源が枯渇し、絵画を源とした新たなエネルギーが誕生したのはおおよそ五十年ほど前の出来事だ。それまでは様々な画家があらゆる手法を駆使して表現を楽しみ、己の心で感じたものをキャンバスに書き残したという。

「現代じゃ近代以前のアーティストはタブー視されているだろう。大抵の人は生産性が無いと言うけどね。父さんはそういう人たちが描くものの方が、アートの本来の姿なんじゃないかと思うんだよ」
 ルカは静かに耳を傾ける。そして、芸術家が付加価値を考えず、純粋に絵を描く世界に思いを馳せた。
「もちろん絵画が人類を助けたのは事実だし、僕らはきっちり恩恵を受けてる。こうやって普通の生活が続けられているんだからね」

 よいしょ、と光太郎はパンパンに膨らんだ汚れたリュックサックを棚の脇から持ち出して、コーヒーテーブルの上にどさりと置いた。
「ルカはどう思う?」
 自分の気持ちを言葉にするのがあまり得意ではないルカは、ゆっくりと、深く頷いた。

 隣で修復作業を補助していく中で、絵画一枚一枚に様々な画家の思いが込められていることを知った。そして長い歴史の果てに埋もれるはずだった思いを、自分たちの手で繋ぎ止められることも。
 墨を水で溶いたみたいな灰色の瞳が優しげに微笑んだ。そして、その右手薬指にはめられていた鈍色の指輪を取り外すと、ルカを手招きした。

「これを指にはめて」
「指輪?」
「代々受け継がれてきた、言わば道野家の宝みたいなものだよ」

 幅が深くてくすんだ指輪は長い年月を経て傷だらけになっていた。表面には不思議な模様が刻まれている。しずくの上の部分がクロスしたような形だった。そして、しずくの中には寄り添うように二つの円が描かれている。薬指にはめると、それは仕立てたようにぴたりとフィットした。

「この模様にはどういう意味があるの」
「ああ、これは」
 と、光太郎はしずくの模様を眺めた。
「とある貴族の紋章だよ。僕らの家系と古くから繋がりがある」
 指輪が鈍く光った。そんな話は聞いたことがない。

「大事な話を二つしよう」

 急に声のトーンが下がったかと思うと、光太郎の視線がいつになく真剣味を帯びた。
 ルカの心が妙にざわめく。今まで『大事な話』と前置いて大事だったことなど一度もなかったのに。

「もしも指輪と同じ紋章を持つ人が現れたら、何があっても護ること。――()()()()()()()()()

 ごくり、とルカの生唾を飲み込む音が響いた。

「って、僕も祖父に同じことを言われたよ。結局三十五年間生きてきてこの紋章を身に着けた人に出会ったことなんて一度もなかったけどね」
 そう言って光太郎は軽快に笑った。どうも真剣に話し続けるのは向いてないようだ。一気に肩の力が抜けたルカは、はぁと小さなため息をついた。

「一応覚えとく。それで、もう一つは」
 すると何故だか光太郎は急にそわそわと身じろぎをしだした。うんん、と小さく唸ったかと思えば何かを言いかけ、また口を噤む。
 そんな父の不審な行動も気になったけれど、ルカはもう一つ気になるものがあった。テーブルに置かれたパンパンに膨らんだリュックサックだ。
 光太郎はゴホン、と咳払いをした。

「あー、父さんな、修復家を辞めることにしたんだ」
「そうなんだ…………え」
 妙な単語が聞こえたな、聞き間違いだろうか、とルカは思った。
「えっと……今、なんて?」
「えー、本日をもちまして、私道野光太郎は修復家を辞めたいと思います」
「な――」
 ただし! と、ルカが講義をするより早く光太郎は声を張り上げた。
「これからは、息子・ルカが修復家として跡を継ぎます。大事な話は以上!」
 強引に話を終わらせて、席を立とうとする光太郎の裾を思い切り引っ張った。ルカは意味が分からないと瞳で訴える。

「ちょ、ちょっと待って、なんでいきなり、そんな」
「いきなりではないよ。ルカはもう十分一人立ちできるに値する知識と技術を持ってるし、良い頃合いだと思ったんだけどなぁ。それに――」
 一旦言葉を切った光太郎は、ルカの方に向き直ると、無邪気な少年の様な笑顔を向けた。

「父さんには叶えたい夢があるんだ」
「夢……」
 大人にも夢があるものなのか、とルカは思った。
「父さんの叶えたい夢って?」
「もうすぐ分かるよ。ルカもきっと気に入る」
 そんなに嬉しそうな顔をされるとさすがのルカも首を横に振ることなどできなかった。
 ただ、頷いた理由はそれだけではない。父の夢を見てみたいと、ルカも思ったからだった。

「芸術は何もエネルギーを生み出す為のものだけじゃない」
 ふいに、光太郎はそんなことを言った。その言葉で一体どれだけの人を敵に回すだろう。五十年前のエネルギーショックを経験していないからだと年長者に罵られるだろうか。

「アートは、人の気持ちを仕舞っておくアルバムだよ」

 光太郎の瞳はどこか遠い景色を見ているようだった。うっすらと微笑みをたたえて、遥か彼方を見つめている。
「忘れたくない記憶を鮮明に思い出す為に、僕らは在るんだ。そしてそれを共有したいと願った画家の夢を実現させる為に。父さんはこの仕事を誇りに思うよ。ルカもそう思わないかい?」

 現実に戻ってきた父の、やはり墨を水で溶いたような灰色の瞳を見つめながら、ルカは今一度深く頷いた。
 ダミアンに今朝言われたことを薄っすらと思い出す。彼の言うとおり、やっぱりこの親子はどこか世間とはズレていて、浮いているのかもしれない。他人事のようにそんなことを思って、ルカは小さく笑った。


挿絵(By みてみん)

〈第一章 記憶喪失の少女・完〉
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