挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
コルシカの修復家 作者:さかな

1章 記憶喪失の少女

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

3/108

第一話 ニノン

 カシャン、カシャンと肩から提げた空っぽの虫かごを鳴らせて、ルカはマキの森の中をさっそうと歩いていた。普段から感情の起伏に乏しいルカの瞳には珍しく、欲の輝きが灯っていた。というのも、先程マリーからこんな他愛もない世間話を聞いたからだ。

『そう言えば今朝ゾンザにいらっしゃってる学者さんが、この付近の森で絶命したはずの昆虫を発見したって大騒ぎしてたの。こーんなに小さいのよ。そんなに喜ぶようなことかしら』

 マリーは人差し指と親指で奇妙な虫の小ささを強調してみせた。マリーにとって絶滅した虫が実は生き残っていたことなどどうでも良いのだろう。
 ルカにとっても虫の話はさして興味のある話題ではない。それとはなしにどんな名前の虫なのかを尋ねてみただけだった。

『なんだったかしら……確か、エンジュムシ? だったかなぁ』
『エンジムシだって?』

 ルカの瞳に欲の輝きが灯ったのはその小さな虫の名を聞いた瞬間だった。エンジムシから抽出される顔料は鮮やかな臙脂(えんじ)色をしており、太古から重宝されている虫だった。この虫が絶滅した今となっては臙脂の顔料を手に入れることも難しい。
 いても立ってもいられない、という風に、ルカはお礼を告げて虫かご片手に意気揚々とマキの森の中へ入っていったのだった。

「男の子って分からないわ……」
そんなマリーの呆れた声は本人の耳には到底届くはずもなかった。


 そんな訳で、今まさしくルカはエンジムシというごくごく小さな希少虫を見つけるのに血眼になっている最中だった。マキという様々な種の植物群は色彩が濃く、コントラストもはっきりとしている。その為、探し物をするとなると強靭な集中力と並はずれた根気が必要になる。普通の人間ならば十分も探し続ければ諦めもつき、大人しく元来た道を引き返したことだろう。強靭な集中力と根気を持たない人間なら。

 しばらく歩き続けると、ふいにマキの景色は終わりを告げた。そこに現れたのは、マキに護られるようにひっそりと佇む、幾つもの石によってできた遺跡のような場所だった。
「マキの森の中にこんな遺跡があったなんて――」
 人が出入りした痕跡はない。湿気を帯びてじめじめとした空気によって、積み上げられた石の表面はびっしりと苔むしている。もうお昼過ぎだというのにこの遺跡一帯は薄暗く、どこか神秘的な雰囲気を保っている。まるでここだけ時間が止まっているみたいだ。風が凪いでいるからだろうか。

 ルカはゆっくりと遺跡に足を踏み入れた。その時、視界の隅で僅かに何かが動いた。
「……見つけた!」
 真っ赤な身体の小さな虫が数匹、岩肌にむした苔の上を這うように歩いていた。文献でしか見たことのなかったエンジムシは、その名の通り美しいえんじ色をしていた。
 ルカは喜びに心躍らせた。見失わないようにエンジムシから一秒たりとも目線を外さず、そっと虫かごの蓋を開けた。そろそろと近づき、両手をゆっくりと近づける。タイミングを見計らい、ごくり、と生唾を飲み込んだ時――。

「きゃあ!」
「うわっ」

 あと少し、というところで思い切り何かにぶつかった。そのすぐ後に少女のような声。そして、地面に倒れるどさっという音が立て続けに聞こえた。
 何が起こったのかその時のルカには直ぐには理解できなかった。そもそもこんなマキの森の中の、しかも誰にも見つけられていないような遺跡に、人がいるなんて。
 倒れているのが誰なのか、何なのか、確かめるために恐る恐る音のした方へ歩み寄る。石でできた壁にぽっかりと空いた穴――入口のようなものだろうか――を覗き込むと、確かにそこには人らしき影があった。

「いたたた」
 しりもちをついているようで、倒れた時に打ったらしき腰の辺りをさすっているのが見える。膝丈程のワンピースは淡い黄色で、赤いフード付きのポンチョを羽織っている。眉上で揃えられた前髪と、肩より長いしなやかな髪の毛は倒けた時の衝撃で少し乱れている。
 ルカはほっと胸を撫で下ろした。ただの女の子だ。

「あの、ぶつかってごめん」
 ルカはとっさに手を差し伸べて少女を引っ張り起こした。小さくて柔らかい手だった。それに透き通るほど白い。だけど病的じゃない白さだ。
 少女は微笑み、礼を言った。葉の間から射す木漏れ日に照らされてようやく少女の姿を見た瞬間、ルカは奇妙な感覚に襲われた。

――彼女を、どこかで見たことがあるような気がする。

 しかし、いくら昔の記憶を辿ってみても出会った記憶など全くない。だけど忘れているということでも無さそうだ。何故ならば、少女の髪の毛は見たこともない美しい撫子色をしていたからだ。こんな髪色をした少女に会ったことがあるなら、忘れてしまうことなど到底無いように思われた。
 だったらこの不可思議な既視感は何なのか。ただの思い違いなのかもしれない。若しくは――。

「ねぇ、私たち――どこかで会ったことがある?」

 どきり、とルカの鼓動が脈打った。そんなはずはない、と直ぐには否定できなかった。もともと左脳で物事を考えるタイプだったルカはオカルティックな現象には否定的な節があった。だから前世がどうとかスピリチュアルなオーラがなどと言われるとどうにも心から頷くことはできなかったし、信じようとも思わなかった。
 なのに。今まさに起こっている現象は、いささか不思議が過ぎる。

「会ったことは……ないんじゃないかな。記憶にはない」

 確証は無いが、出会ったことのある確率の方が確実に少ない。己の信念の元に選んだのは『記憶にない』という、なんとも歯切れの悪いフレーズだった。

「だよね。ごめんごめん、私の勘違いだったかも」
 屈託なく笑う少女の動きに合わせて、撫子色の髪の毛がさらさらと揺れる。木漏れ日が当たった部分が黄金色に光った。そこで、ルカの頭に浮かんでいた疑問がすとんと腑に落ちた。

「でも、その髪の毛の色には見覚えがある」
「え?」

――そうだ。ずっと見てきたんだ。
――晴れた日には欠かすことなく眺めたじゃないか。
――この島が作り出す芸術を。いつかキャンバスに描いて手にしたいと思っていた、あの景色を。

「この島の朝焼けの色が、君の髪の毛と同じ色なんだ」

 空いっぱいの撫子色を。太陽が目を覚ます直前の刹那の色を。





 それがいつの事だったのかは分からない。
 海の見える高台のような場所には黄色くて小さい花が一面に咲いていて、時折潮風が吹いては可愛らしい花弁を宙に巻き上げた。海も花畑も軽々と覆ってしまう大空は、手なんか到底届きそうにない位高いところまで突き抜けているというのに、不透明に沸き立つ入道雲は目線の先にどっしりと構えている。手を伸ばせば届きそうな距離だ。

 懐かしい景色。懐かしい香り。
 悲しいことなんて何もない、楽園のような場所だった、と少女は思う。
 ここが何処だったのかは思い出せない。
 だけど確実に分かるのは、そこが大切な場所だったという事だけだ。


「――大丈夫?」

 すぐ近くで声がした。少女ははっと目を見開いて隣を見る。真っ青な瞳がふたつ、心配そうな色を浮かべてこちらを伺っていた。

「急に返事しなくなったから」

そうだったのかと、少女も自分のことながら頭を傾げた。
 辺りを見渡してみるとそこは深い森の中で、先程二人が出会った遺跡が木陰の向こうに見え隠れしている。
 白昼夢でも見ていたのだろうか。意識がはっきりしてくるのと比例して、先程脳裏に過った景色はまたしても深い霧に覆われて朧げに消えていった。思い出せないのなら仕方がない。

「ねぇ君、名前は?」
 けろっとした様子で尋ねたからか、少年は少しびっくりした顔でこちらを見てきた。

「道野琉海」
「みちのるか」
「ルカでいいよ」
 少女は嬉しそうにルカ、ルカと何度かオウム返しのように呟いた。
「いい名前だね。とても綺麗」

 ルカは今度こそ戸惑って「え、」と発したまましばらく言葉に詰まってしまった。今までけなされることはあっても、名前を褒められた事など一度もなかったのだ。むず痒さを一掃する為にルカは咳払いをした。

「君は」
「私はね、ニノンっていうみたい」
「『みたい』?」

 ニノンは腰あたりのポケットから真っ白なハンカチを取り出して、顔の前で自慢げに広げてみせた。にかっと笑いながら、ここを見て、と人差し指でハンカチの一角を指し示す。

「ニノン……って書いてある」
「そう、だから私の名前はニノンなの。覚えてくれた?」
「ああ、うん。――じゃなくてさ」
 小さく首を振ってルカは否定した。だがニノンは彼が何か口にする前に、
「覚えてないの。自分のことも、それ以外も」
 と、まるで他人事の様に明るい口調で言い放った。

 愕然とした表情をしていたのはむしろルカの方だった。どう答えようか考えあぐねている様子で、しばらく沈黙が続いた。それからぽつりと「出身も、年齢も?」とだけルカは尋ねた。
 ニノンは首を横に振った。
「考えようとするとね、こう、意識がモヤーっとしちゃうの。まるで霧のお化けが記憶を食べちゃうみたいに」
 そう言いながら両手でヘビのような口を作ると、パクパクと動かして霧で出来た化け物の真似をした。
 ああでも、とニノンは思い出した様にハンカチの入っていたポケットを弄り、くしゃくしゃに丸められた紙切れを取り出した。

「ダニエラって人に会いたいんだけど、知ってる?」
 ダニエラ。ルカがその名前を耳にしたことはなかった。少なくともレヴィにはそんな名前の人物が居ないことは確かだ。

「いや、分からないな」
「そう……ありがと!」
 角をちぎった様な古い紙の切れ端には確かに殴り書きの後があった。覗き込んでみるとかなり手荒に《ダニエラに会いなさい》と書かれている。

「近くに町はある?」
「この森を真っ直ぐ抜けるとレヴィって村がある」

 ルカは村のある方向を指差した。気が付けば辺りは薄らとオレンジ色に染まり始めていた。耳を澄ませば鳥たちに交じってひぐらしが控えめに音を鳴らしている。
 すると、村の方角から、ゴォンと金属のぶつかる鈍い音が立て続けに鳴り響いた。木陰からギャア、ギャアと不気味な鳴き声を絞り出しながら野鳥が暮れの空へと飛び立った。

「ねぇ、ねぇルカ! へ、変な音がしたよ。しかも三回」

 村の高台にある鐘塔の鐘の音だ。毎日夕刻になると鐘を三度鳴らすのが、アルタロッカ地方に点在する村々の習わしだった。外に働きに出ている村人たちにとっては帰路に就く大事な合図なので、この鐘の音の意味を知らない者は、この付近には存在しない。

「この鐘が鳴ったら、皆家に帰って夜ご飯を――」
 そこで、ルカははたと気が付いた。
「まずい、すっかり忘れてた! 工房に行かなきゃならなかったのに」
「工房? 村に戻るの?」
 ルカ焦りながらこくりと頷いた。

――あれから何時間経っている?
 時間に関して失敗を犯して来なかった実績に自信を持っていたルカのプライドは、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
 同じような乾いた音を立てる空っぽの虫かごが目に入った。そこでまたしてもああ、と落胆の声が漏れる。「ため息ついてるの?」というニノンの暢気な言葉を受け流しながら、鋭い目つきで辺りをぐるりと見渡した。そこにはビリジアンの緑が広がるばかりで、もうエンジムシの鮮やかな朱色を見つけることはできなかった。
 踏んだり蹴ったりとはまさにこの事だ。ルカはぞんざいにため息をついた。

「またため息」
「……君もとりあえずレヴィに来る?」
「いいの?」
 ルカの放つ陰気くさいオーラも吹き飛ぶほどの眩しい笑顔だ。
「というか、森に一人放って置くのは罪悪感が残るし……第一危ないし」
「ありがとう、ルカって優しいね」
 一般的な倫理観だと思うんだけど、とルカは心の中で呟いた。
「でもね、あと少しだけこの辺りを調べることにするよ。自分のこと何か分かるかもしれないでしょ。それが終わったらルカの村に行ってもいい?」

 本来なら手伝ってあげるべきなのだろうが、生憎ルカには先約がある。謝罪の気持ちも込めて、深く頷いた。

「食べ物と寝る所なら用意できるから」
「うん。ありがとう。……急いでるよね? 大丈夫?」
「ああ、いや、うん。多分大丈夫」

 大丈夫と言いつつも、徐々に暗くなる景色に焦りながら「また後で」と声を掛けると、ルカは森を後にした。





 再び静けさを取り戻した森は思った以上に深く、寒々しい。さえずる小鳥達の鳴き声さえもどこか不気味に聞こえる。ニノンはぶるりと肩を震わせた。

「……。ささっと調べちゃお」
 無駄に大きな独り言を呟きつつ辺りの詮索を始めた。
 夕暮焦れ時は時の移ろいが早い。そうこうしている内に森は強い赤みを帯びて、ニノンの視界を悪くする。節くれだつ古い巨木の根が地面から突出していることにも気付けないほどに。ニノンは足を捕られ盛大に転んでしまった。
「いたッ……」
 その拍子にポケットにしまってあった紙切れが地面に転がり落ちた。

――ああもう、無理だ。今日は大人しくルカの所へ行こう。そんなことを考えながら、ニノンは膝に付いた砂埃を払う。しなびた古紙を拾い上げようとした時、ふと違和感を覚え、伸ばした手を止めた。先程目にしていたものと同じような荒れた筆跡で、何か違う文字が書かれている。
 しわが平らになるように優しく手で古紙を延ばしてみると、幾分か見やすくなった文字が紙上に現れた。橙色に染まる古ぼけた殴り書きを解明しようとニノンは目を凝らす。

「み……ちの――道野?」

 ガバッと顔を上げ、少年が走り去った方向を凝視した。
 少年の名前はルカ。ファミリーネームは『道野』。
 心臓がどくりと脈打った。ざぁ、と風が森を吹き抜け木々を揺らす。ルカに、もう一度会わなければ。
 頭の中で思考が繋がった瞬間、弾かれるように少女は森を駆け出した。
cont_access.php?citi_cont_id=735031982&s
nojs.php?00178171&guid=ON
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ