4-2
急ぎの用を終えて、これから二日間くらい寝っぱなしになる意気込みで寮の部屋に戻ってきたカルを待っていたのは、学園当局からの緊急の呼び出しだった。
「まじか……」
グリーンホールでは快適なベッドがあったとはいえ、ろくに眠るひまもなかった。その翌日は馬車での道中であり、リナと交代でうたた寝したくらいである。ほとんど徹夜といっていい二日間だった。
ベッドからの引力を感じながら、呼び出しの内容に目を通す。
剣はおいてくるようにとの記述から、仕事の内容はおそらく雑務のたぐいだと思われるが、はたしてどうだろうか。
呼び出しが掲示ではなくわざわざ寮にとどけられたところをみると、今朝の時点では予定されていなかった事態がどこかで起きたのだろう。
大仕事から帰ったばかりのカルにお鉢が回ってきたのは、たまたまか、上の嫌がらせか、それとも彼でなくてはならない何かが起きたのか。
考えてみてもしかたない。どういう理由にせよ、一生徒という身分であるカルには辞令を無視することはできなかった。
カルは頭上はるかの丸天井を見上げていた。声を反響させたい衝動に先ほどから耐えている。
学園正面から四分の一周したところにある、南口の来客用ホールである。大聖堂に似ているのはアーチ状の空間だけでなく、その規模についても同様だ。天井の高さも、ホールの広さも、まるで巨人の宮殿のようだった。
生徒の動線からは離れた場所にあるため、カルの他にも物珍しそうに辺りを見回している者がいる。
召集された生徒は、戦闘において前衛を担当することの多い武張った連中だ。見知った顔も多く、軽く挨拶をかわす。誰もが、剣をおいてこいという指示に首をかしげていた。
集合の号令がかけられた。カルの予想に反して、特に緊急事態が発生した様子もなく、ごく普通に点呼をとられて今日の作業の説明を受ける。
ただ、行き先は生徒たちの日常からかけ離れていた。
学園塔の中枢部分である。学園の執務関係の施設が並び、生徒が立ち入ることはまずない区域だ。
作業の内容は、ナタリア姫のために用意された執務室の模様替えである。
何か不都合があったらしい。
緊急であることに変わりはないが、カルが想像していたのとは違って人命にかかわることではなかったようだ。
失礼のないように、という言葉がことあるごとに前置きされながら、注意事項が言い渡される。私語を慎む、目を合わせない、廊下はドアと反対側の端を歩く──などなど。
生徒たちも神妙に聞いていたが、作業場所への移動の最中にはさすがに口もゆるむ。
「王女はなんで仮王宮の方に入らないんだ?」
「それはあれだろ、学園が囲いこんでおきたいんだろうな」
カルはあくびをかみ殺しながら、聞くともなしにひそひそ話を耳に入れる。
「国軍か……あいつらに大きな顔をされるのもしゃくだしな」
学園都市には、王都消失の被害をまぬがれた国軍の一部が居候している。
居候、という言葉はどこか侮蔑的だが、的確な表現ではあった。彼らは自分たちに命令できるのは国王だけだと主張し、これまで魔法学園の作戦には協力せずにきたのだ。
そういう連中が、ナタリア姫を迎えたらどう出てくるか。
王権をかさにきて学園都市での主導権を握ろうとする、くらいのことは容易に想像できる。
だからこそ、学園首脳部は王女の居室と執務の場所を、生徒もおいそれと立ち入ることができないような学園塔の一等地に置いたのだろう。
無論、王女と国軍の接触を妨げることはできない。しかし、取り次ぎを挟むことによって彼らの動きは学園側に筒抜けとなる。
当然、国軍は姫が仮王宮へ入ることを要求しただろう。だが、それを邪魔することは学園側には容易だった。
なぜなら、学園都市で最も安全な場所といえば学園塔なのだから。普段は閉鎖されて長らく使用されていない仮王宮には、警備上の不安が残るのも確かに事実だったのだ。まだ情勢が安定していないので姫の御身を第一に、などと言われれば反論は難しい。
まだ国王の安否が確認されていないというのに仮王宮に入ることは不遜である、という主張も成り立つだろう。何より、王女を迎えるにあたって国軍は何の功績もなかったのだ。当然、王女の身辺に関する発言権も弱い。
改装のために生徒たちが動員されたのも、王女の身辺に学園以外の人間をなるべく関わらせたくないという学園首脳部の思惑があったからだろう。
ただ、その中にカルが含まれていることには何か理由があるのだろうか。例えば、ナタリア姫の意向とか。
などというカルの自意識過剰な想像は大きく的をはずしていた。
いくつもの関門をくぐって着いた先には、ナタリア姫どころか侍女のクロエの姿すらなかった。
待っていた侍女──おそらくクロエの管理下にある女性──から説明があり、カルたちはそれに従う。実際にはその間に生徒たちの引率役がいるので、カルの立場はクロエの下の下の下、ナタリア姫から見ればさらにもうひとつ下だ。直接顔を合わせる機会はなさそうだった。
作業が始まると、カルはなぜ自分が呼ばれたのかに気づかされた。
主な仕事は家具の移動である。集められた生徒は神綬であるが魔法での評価が低い者たちがほとんどだった。
何のことはない、カルが呼びだされたのは別にカルだからというわけではなかったのだ。
聞くつもりもなく耳に入ってくる王女側からの要望は、やけに細かいものが多かった。
色、模様、形など、王家には色々と格式があるらしい。そういうものも王家の威厳を保つことに一役買っているのだろう。
実質的な立場の弱いナタリア姫たちにとって、体面を形作るのは単に儀礼上の問題だけでなく、自分たちの身を守ることにもつながる、より切実な問題と言える。
「なんでこれが駄目なんだろうな」
カーペットを丸めていた誰かの呟きに、肩を並べて同じ作業をしていた生徒が反応する。
「花が駄目なんだと」
「花? 種類か?」
「こっちを向いてるのが不敬ってことらしいぞ」
「なかなか面倒くさい話だな」
作業も面倒くさい。部屋がやたらと広いせいだ。
カルたちは、最後はカーペットを足で転がして筒の形にする。
作業はどうにか一段落した。
だが、新たに持ちこまれる予定の敷物や調度品の到着が遅れているらしい。
撤去作業の方が早く終わりすぎたというのもある。力自慢ばかり集めたせいでもあった。
そんなわけで、カルたちは部屋での待機を命じられた。
うろうろ出歩くことは禁じられていたが、カルは「トイレ」という最強の通行手形をもって堂々と廊下に出た。
部屋にいる生徒たちもこの近辺の構造には通じておらず、カルが部屋を出て右に行こうが左に行こうがそれを咎める者はいない。
廊下の角をいくつか曲がると、その先には衛兵が立っていた。
屋内で抜き身の短槍をかかげる物々しさからいって、あの先が王女や側近たちの居室になっているのだろう。
衛兵の方にはカルに見覚えがあるらしい。カルの姿を認めて目を見張っている。
王女一行の中にいた者なのか、態度からはカルに対して並々ならぬ敬意が感じられた。
職務中の衛兵だから腰を折ってお辞儀をすることはできない。その代わりに槍を引き寄せてカルへの礼を尽くしている。
カルの方は「どうも」と遠慮なく頭を下げる。
行き止まりではしかたがない。カルは廊下を引き返し、スタート地点の部屋まで戻ってくる。
開け放したドアの前を何食わぬ顔で素通りしようとして、部屋の中から声をかけられる。
「おい、うろちょろするなよ」
「あっちにはトイレがなかったんだ」
またも最強の札をきって廊下を逆方向に進む。
特にあてがあったわけでもない。
名実ともにお姫様となったナタリア姫──あの少女ともう顔を合わすことがなさそうなのは少し寂しい気もするが、わざわざこちらから探して回るほどつながりがあるわけでもない。ヒースレイヴンとの戦闘で勝手に飛び出していったことは一言詫びを入れておきたいところだが、それも今となっては難しそうだ。
カルは何とはなしに、廊下に面したドアを開く。
開いた。小部屋の先にはまた同じようなドアがあった。
開く。開いた。
廊下に出る。どんどん進む。
知らない道を見つけると、ついその先を確かめたくなってしまう。これも王都の下町育ちの習性だろうか。
そろそろ帰り道に自信が持てなくなってきた。
これで最後と決めてドアを開く。
辺りの様子が一変した。
そこは、中庭に面した回廊であった。
中庭と言っても屋内である。天上には分厚いガラスがはめ込まれ、そこから日光がふんだんに降りそそいでいる。庭と回廊の境もガラス張りになっており、色とりどりの草花が咲き乱れて豪華な温室のようでもあった。
これは、公共の場所ではないな。
そう直感した。学園のお偉いさんだとか、客人だとか、観賞する主体を選ぶたぐいの庭だ。
建物の奥深くだというのに、涼しげなせせらぎの音まで聞こえてくる。生まれた時から現在に到るまで庶民百パーセントのカルには、この環境を維持するのにどれだけの手間がかけられているのか想像もつかない。
誰にも見とがめられずにここまで入りこめてしまったが、もしかするとここはすでにナタリア姫とその一行の居住空間ではなかろうか。
衛兵もまだ建物の構造に不慣れなのだろう。きちんと穴をふさげていない。
中庭へのガラス戸も開いた。とことんざるだ。
しかし、ここはすでに俗世から切り離された警備の内側なので、こんなものなのかもしれない。
中庭にはささやかな小川が流れていた。雪解け水のように澄みきっている。
流れとは別に、ばしゃばしゃと水音が聞こえてくる。カルは小川の上流に向かった。
小川の始まりは壁から突きだした肉食獣のレリーフであり、その下は水をためる泉になっている。
そのほとりに足を投げだす形で等身大の人形が置いてある。
よく見るとナタリア姫であった。
口を開けてぼうっとしている。まるで、その口から魂が抜けてしまったかのようだ。
まあ、無理もない。色々あったからな。
実家ではずっと針のむしろで、ここに来る途上ではあんな戦闘があったのだ。
到着してからも色々あって頭がパンクしているのだろう。
ようやく一人になれてほっとしているのだとしたら、わざわざ声をかけることもない。
カルが立ち去ろうとした途端、目が合った。
ナタリア姫は、びくっと寝起きみたいに身を震わせる。
人形に魂が戻ったようだ。
「ああ……お主か。そんなところに突っ立っていないで、まあ座るがよい」
そんな気軽に王女と差し向かいになっていいものかと迷ったが、年下の気づかいを無下にするのも大人げないと思いなおす。
一応、遠慮して王女には近寄らず、その場に腰を下ろした。
うわ、草がやわらかい。このまま横になったら睡魔に勝てないだろうなぁ。
そんなことを思っている間に、ナタリア姫の方からわざわざカルの真ん前まで来て、行儀よく膝をそろえる。
「入れかわり立ちかわり客が来るのでな……途中からじゃがいもにしか見えなくなったわ」
今もその幻がちらつくのか、拳で左右のまぶたをぐりぐりしている。
「正式な面会は明日からじゃなかったのか? ……なかったんですか? でしょうか??」
「よいよい、無理してそのような言葉など使うな。他の者はおらぬし、お主は命の恩人だ、ざっくばらんにいこうじゃないか」
ナタリア姫は笑って、カルに向かってひらひらと手をあおがせている。
敬語に慣れないカルにとってはありがたいのだが、本当にそれでいいのだろうか。
「気の早い者もおるからの、無下にもできまい。それよりお主のことだ、カル・ナイトウォーダー。今回のことで罰を与えられたりはしていないか」
自分の立場を気づかわれたのはともかく、自分の名前がナタリア姫の口から正確に出てきたことにカルは驚かされた。
「フルネームでおぼえていたんだ」
「うむ、ちゃんとな。お主はどうだ」
来た。これだから女は怖い。
自分が知っているものは当然相手も知っていると思いこんでいる、という無邪気さを装いつつ、その実、男は試されているのだ。
年齢はほぼ関係ない。女は三歳から女、という説を女ばかりの家庭で育ったカルは支持している。
それよりナタリア姫のフルネームだ。
謁見の時に聞かなかったか? リナが言っていなかったか?
ナタリア姫の作ったような笑みを見つめながら、カルは記憶の棚を片っ端からあさる。
「ナタリア……」
「ふむふむ」
「……姫」
「姫は姓ではないぞ」
ついでに王女も殿下も姓ではない。
ナタリア・ナイトウォーダー、とかいう言葉が脈絡もなく頭に浮かんできたが、そんなことで女子が無条件に喜ぶと思ったら大間違いだ。
カルは肩をすくめて降参の意を示した。
「すまん」
「ナタリア・ファブリティウス・ルシウスだ。ルシウスくらいは思い出せただろ」
確かに、ルシウス王家である。王都では毎日のように耳にしていた言葉だ。焦るとそんなことも思い出せなくなる。
「何にせよ日を置かずにまた会えたことは幸いだ。お主の戦いぶりはまこと見事であった、礼を言うぞ」
ナタリア姫は言葉だけでなく、行儀よくしつけられた子供のようにぺこりとお辞儀をする。
「ありがとう」
やけに素朴な態度だった。
ナタリアは王族とはいえ、田舎町で家族からもさほど大切にはされずに育った。物心ついた時にはすでに王宮をはなれており、高貴の身にありがちな驕りや特権意識とは無縁である。
カルもつられて、向かい合わせで頭を下げる。
「どういたしまして」
顔を上げると、ナタリア姫はにこにこしたままカルの全身をくわしく見つめていた。
まるで久しぶりに会った年寄りの身内みたいである。
「あのように激しい戦いだったのだ、体に支障は出ておらぬのか」
「頑丈だけが取り柄なんで」
「うむ。しかし、お主はその分酷使するからの。メッサリナ嬢の方はどうだ」
「リナも踊りだすくらい元気だ」
「はは、そうか。それはよかった」
ふと気づいたように、ナタリア姫は笑みを半分だけ収めた。
「リナと呼んでいるのだな」
「まあ、戦友だし」
戦闘の中で呼びあううちに名前は縮むものだ。カルの方はこれ以上省略のしようがない。単なる一文字になってしまう。
「魔法学園の生徒に身分は関係ないとは聞いていたが……うらやましいものだな」
この学園都市でおそらく血統として唯一、公式に特別扱いされているナタリア姫は陽射しがまぶしいように目を細めた。
その認識には多少訂正の余地を感じたが、何か告げ口するような気がしたのでやめておく。カルの方から尋ねたのは別のことだった。
「姫様は? 住み心地とか」
「うむ、満足しておるぞ。外が遠いのは少々難ではあるがな」
「まあ、確かに」
学園塔の中心部ということは、どの方角を向いても学園の最奥と言っていい。外へ出るにはいったい幾つの関門をくぐり、どれだけの道のりをたどらなければならないか。しかも、王女の場合は侍女やら護衛やらお付きの者をぞろぞろ引き連れていくことになる。一人で歩くよりもずっと時間はかかるだろう。
そう思うと、この豪勢な庭園がなんだかひどく寂しいものに見えてきた。
中庭はあくまで中庭であり、外ではない。
外の世界を模し、豪勢につくろっただけの偽物でしかないのだ。
カルはナタリア姫から尋ねられるままに、仲間のことや学園のこと、町のことやガイヴァントのことまで話した。
いくつか部外秘の話もあったような気はするが、まあ実害はないだろう。なにせ相手は王女様なのだから。
調子よく、ずいぶんと話し込んでしまった。経過した時間が気になってくる。
無制限に暇をしていい身ではない。お互いに。
そろそろお暇した方がいいかもしれない、そう思ってカルは草地の上であぐらを解いた。
「それじゃあそろそふあふあふあ~~~」
言葉に大あくびが割りこんできた。
始まったものを途中で止めることはできない。カルはさんざん間抜けな顔をさらし、かふっと顎を閉じる。
「眠いのか」
「いや、大丈夫」
言いながら、かくんと首が垂れる。
乱高下だ。意識喪失のふちを行ったり来たり。どうも覚醒側に分が悪い。
やわらかな草の手触りが輪をかけて眠りを誘う。
おいで、おいで、坊や。ほんの少し寝そべるだけでいいから。
そんなことをしたらそのまま虜にされるのは確実だ。
しかし、ちょっと変な笑いがこみ上げてきそうなくらい眠い。
「眠ればいいではないか」
「いや……二晩ほど寝てないから」
受け答えもおかしくなっている。
「なおのこと眠ればいいではないか。ここは昼寝には最適だぞ」
確かにそうだ。草はやわらかく、陽はほどよく差しこむ。せせらぎは子守歌だ。
寝ていいかな。寝ていいのかな。寝てもいいのかな。
王命が出たからいいか。いや、姫命だな。もしくは殿下命か。どうでもいいか。
「よし、特別に許すぞ」
ナタリア姫はそろえた膝をぱんぱんと叩く。
カルはそれを無視して横になった。
草のベッドが心地よい。天井のガラスにどういう仕組みがあるのか、陽射しは常に真上から降り注いでいて陽の傾きでは時刻がわからなかった。
膝枕が向こうからやって来た。
カルの頭がそっと持ち上げられ、人肌のぬくもりの上におろされる。
案外、悪くない。
正直なところ、膝枕というやつには疑問の目を向けていた。
膝で折り返された足というのは、どう考えても枕としては高すぎる。
しかし、それは同年代の女子が相手の場合だ。ナタリア姫くらいちんまりしていると、高さもちょうどいい。
小さな手のひらがカルの頬に添えられる。
まるで、そこにある体温の存在を確かめるように。
「……お主の戦いをずっと見ていた。馬車の中ではあったが、肌で感じることができたよ。光と熱と衝撃と……死がすぐそばまで迫ってくるのを」
そういえば姫と侍女たちをもみくちゃにしてしまったな。
ナタリア姫の言葉のシリアスさに比べて、カルは能天気なことを考えている。
「なんだか怖いのだ……」
「姫様が戦うようなことにはならないよ。怖いのは今回の旅でおしまいだ」
カルの頭上で、かすかに首を振る気配がした。
「怖いのはお主のことだ。あまりに命への執着がなさすぎて」
カルはまぶたを閉じたまま聞いている。
眠気で考える力が低下している。言葉をつむいで返事をするのも億劫になっていた。
ナタリア姫の声がさらに沈む。まるで、他人の傷口におそるおそる触れるように。
「事情は聞いている……家族の不幸も」
カルは紅毛の友人のことを思い浮かべながら、内心で舌打ちをした。カルという無名人の素性をわざわざ王女の耳に吹きこむなどという、そんなおせっかいなことをする者には他に思い当たらない。
「お主、死ぬつもりではあるまいな……?」
「そこまでやわじゃないさ。ただ……」
ただ?
その先が本音に限りなく近いような気がして、ためらいが生じる。
しかし、結局のところ口にしてしまったのは、やはり尋常をとおりこした眠気のせいで普段とは違う精神状態にあったからなのだろう。
「他の奴らより、俺みたいなのが先に死ぬべきなんだろう」
この世の誰とも血のつながりを持たない者が。
悲しむ人のより少ない者が。
誰も口には出さないが、それが世のことわりというものだろう。
誰も口に出さないだけで、それはどうしようもなく真実なのだ。
きっとそうなのだ。
ぽつりと、カルの顔に滴が落ちる。
「そうか……」
滴の数が増える。ナタリアの声は震えていた。
「お主も……私と同じなのだな……」
カルの言葉を、ナタリアは否定しなかった。
彼女もまた、同じ思いでいるからなのだろう。
何の後ろ盾もない王族がこんなご時世に表舞台へ出てくる危険を承知で、彼女はここに来たのだ。
自分を支えてくれた、守ってくれた、慈しんでくれた人々を自分よりも先に死なせないために。
誰よりも先に自分が死ぬために。
二人の境遇はよく似ていた。王族と庶民、立場は対極に位置しているが、その出会いはこの世に数少ない同族を見つけたに等しい。
「……私のことはクロエが止めてくれる。だが、お主にはそういう者はいないのだな。あのメッサリナ嬢でもお主は止まらぬのだろう。お主は強いから……それが私には怖くてしかたがない」
ナタリア姫はそこでいったん言葉を切った。
何か、息をのむような間が空く。
「今の私にはこれくらいしかしてやれぬが……」
ナタリア姫は覚悟を決めるように喉を鳴らし、カルの顔に覆いかぶさってくる。
『ちゅううう~~~キュポン!』
景気のいい音がして、カルは額を思いっきり吸われた。
ナタリア姫にとってはおそらくキスのつもりなのだろう。
しかし、吸引としか表現のしようがなく、カルの額にはバラ色の跡がくっきりと浮かび上がっていた。
「汝、カル・ナイトウォーダーを薔薇の騎士に任ずる。我が秘密の藩屏として、汝は正義と誇りと共に生きるのだ」
カルはまぶたを開いた。
騎士叙任の儀式としては正当な手順をまるっきりすっ飛ばしているが、ナタリア姫は至極真面目な様子だった。大きな瞳が、カルのことをじっと見つめている。
「危険の中で先頭に立とうとしているのはお互い様だから、もはや説教はせぬ。だが、命を粗末にする前にせめて思い出してくれ。お主が倒れればその次は私だということを」
ナタリアの瞳はもう濡れていなかった。
カルは本当に眠りこけてしまった。
そのことに気がついた時には、天井のガラス窓から降りそそぐ陽射しはすでに赤みを帯びはじめていた。
ナタリア姫はそこにいる。律儀に膝枕を続けてくれていたようだ。
すでに、目元に涙の跡は残っていない。
「同年代で似た者同士、何かと相通じるものがある。胸のうちを開いて助け合っていこうではないか」
同年代、という部分に疑問符をつけたいが、そこは口には出さずにおく。
「同年代であることだしな」
なぜかそこだけ二度繰り返してから、ナタリア姫は続ける。
「恥ずかしながら、今の私にはまだ大した力もない。お主の働きにむくいるすべを持たぬ。だからせめて、私をナタリーと呼ぶ権利を与えよう」
「ナタリー? ああ、愛称か」
「うひゃあ、くすぐったいのぉ」
そう呼ばれるのは久しぶりなのか、彼女は身をよじらせている。
「まあ、そういうわけだ。二人だけの時に限るが、ささやかながらそれをもって秘めた絆の証しとしたい。どうだ?」
代わりに差し出すことができるものは、今のところカルの側には何もない。
カルの名前にしても、これ以上縮めようがなかった。
「了解。姫様もお主とかじゃなくてカルでいいよ」
「うむ。承知した。しかし困るぞ、二人だけの時にはどう呼ぶか今申したばかりではないか」
姫様は、姫様という呼ばれ方ではご不満のようだ。
カルはこほんと咳払いをひとつする。
「わかった……。ナタリー」
「うひゃあ」
身もだえしているがやけに嬉しそうだ。
「お主……カルよ、いつまでも油を売っていてよいのか? 私の方もそろそろ誰ぞ探しに来るやもしれぬ」
「そうだな。それじゃあ」
カルの腰を上げさせておきながら、「あっ……」と、ナタリア姫はカルを呼び止める素振りを見せる。
ナタリア姫はカルの方に向けた手を、自分の胸元へと引き戻す。
まっすぐにカルを見つめているが、その瞳は不安そうに揺れていた。
「また……ナタリーと呼んでくれるか」
カルは察した。
おそらく、彼女をそう呼ぶ者はもういないのだろう。この世のどこにも。
「ああ、またな」
それは再会の約束であった。
余計なことを長々と話してしまったという後悔はあるものの、この中庭に通じる隠しルートを開拓しておかないとな、とも思うカルであった。
時の流れは速いもので、魔法学園がナタリア姫を迎え入れてから一週間ほどが経った。
カルにとっては代わり映えのしない日々の繰り返しである。
しかし、学園の上層部では何かと大変だったらしい。
ナタリア姫が学園都市へ到着したその翌日から正式なお目通りが始まり、それは四日間ぶっつづけで行われた。
なにせ、学園の重鎮やら、貴族とその子弟、町の顔役など、肩書きを持つ者たちの多くがさまざまな思惑、もしくは単なる興味でお目通りを希望したのだ。
単に予定の調整というだけでなく、待ち時間の対応、面会の順番、さらにはかち合うことを避けねばならない組み合わせなど、解決しなければならない問題はうずたかく積み上がり、さらには糸くずのようにもつれあっていた。
それらをつつがなくやり遂げた学園事務局は一気に株をあげることとなったが、その裏には王女の侍女であるクロエ・ハリスの活躍があったことはあまり知られていない。
一方、焦ったのは学園都市に間借りする国軍一派である。王女を迎えるにあたって功もなく、何か行動を起こして存在感を示さなければ今後も立つ瀬がないことは明らかだった。
ガイヴァント討伐の計画立案とその準備が急ピッチで進められたのには、そんな事情もあってのことだ。
建前上はナタリア姫のお声がかりという形で大規模な部隊が編成され、今日にも進発するとか何とか……。
「なるほどな、それでこんなにも騒がしいのか」
のんきに観兵場へ散歩に来ていたカルは辺りを見回す。事情はたまたま出くわしたティアから教えてもらった。
そこら中、人、人、人であふれかえっている。しかも見るからに学園の生徒とは違う連中だ。
兵の集合のために学園の観兵場が使われているのは、形だけでもナタリア姫の指揮ということになっているので、学園当局も使用を認めざるをえなかったのだろう。
「何の騒ぎだと思っていたんだ?」
「クーデターでも起きたのかと」
「それで散歩をやめない君もどうかしているぞ」
カルの悠長さを本気で心配してから、ティアも人波を見渡す。
国軍だけはあり、銃兵だけでも二千人に及ぶ。
騎兵の数は少ない。馬は自分より大きなものへは突撃したがらないので、ガイヴァントとの戦闘ではあまり役に立たない。せいぜい、偵察と連絡役くらいのものである。
主力は砲兵であった。
どうやら砲と名のつくものは片っ端から集められているようだ。というのも、国軍の装備で大型のガイヴァントに高い効果が見込まれるのはそれしかないからだ。
不足したのは砲車をひく馬である。街中の馬までかき集められたせいで、今朝はどの通りでも人が寄ってたかって荷車をひいたり押したりしている。それでも足りず、騎兵の軍馬まで砲車につなぐ始末であった。
同行する馬が増えると途端に兵站が困難になる。馬は人間の何倍もの量を飲みかつ食いするからだ。
そんなわけで、討伐隊は補給のための人足を含めると八千人という大所帯になっていた。
学園も無関心というわけにはいかない。討伐が成功すれば、国軍の発言力が一方的に増してしまう。
責任と成果を分かち合うため、学園からも卒業生を中心に教師──今の指導主事まで動員し、百人には満たないもののそれに近い人数を同行させる手はずになっている。
これほど大規模な編成がおこなわれるのは、学園都市においてはオーバー・ワン討伐の時以来のことであった。
「近隣の都市とも連携をとるらしいな。まずは都市の間に安全な三角地帯を作るのが目的らしい」
「今後はその三角形をさらに増やしていくということか」
協同する都市が増え、三角の地帯が増えれば増えるほど、その内部ではより高い安全が確保される。その分、危険な外部との境界線は減るということになる。
「まあ、そうしていきたいところだろうな。早い段階でどれだけの地域を確保できるかが勝負になるだろう。寄らば大樹の陰とも言うしな」
だが、一抹の不安もある。ビオラの言っていた陣取りゲームという言葉が、カルの頭にふとよみがえってくる。
もし、あの話が本当なら、一体に攻撃をくわえることで他のガイヴァントにも何らかの影響が及んだりはしないだろうか。敵は正面だけだと思っていたら、別の個体に背後を突かれるとか……。
その言い出しっぺのビオラだが、なぜかティアのかたわらでしれっとしている。
例の時代がかった魔法装束ではなく、学園の生徒としてごく当たり前の格好だ。
ビオラも遠慮や体裁というものを気にするようになったのか──と納得しかけてカルは考えなおす。彼女への油断は自分の尻に着火することとほぼ同じ意味である。
カルはとりあえずビオラの存在を形だけ無視して、話題を変えた。
「なるほどな。それで学園都市が手薄になるもんだから、生徒が片っ端からかり出されてるというわけか」
ちなみにカルも城門の警備を割り当てられている。ただし夜番だから、今は暇なのである。
「そうだな。我々も学園での待機を命じられているよ」
「我々……? てことは……」
カルの視線の先で、ビオラは涼しい顔をしている。
「ああ、ビオラもようやく戦闘資格をとったんだ。機会があれば気にかけてやってくれ」
ティオレという曖昧な立場をとり続けていたのに、どういう心境の変化だろうか。
ビオラは前にずいっと進み出てきて、カルにそつなく会釈をする。
「このたびはマスターサイドにランク付けされました。どうぞ御見知りおきを」
「え……まじ?」
マスターサイドはチームの副隊長格である。
おそらく、ティアがビオラの人見知りを心配して、信頼できるハウルマスターにその身柄を託したのだろう。
当然ながら、平メンバーに毛のはえた程度のカルよりも格上である。
「ふふ、上官ですね」
「いや、同じチームじゃないから関係ないし」
「アエミリウス氏族の政治力をお忘れですか? ふふふ」
「ぐぬぬぬ……」
カルがじりじりと追いつめられているさなか、やけに低い位置から声が聞こえてくる。
「何やら楽しそうだの」
幼女だった。上機嫌な幼女だ。
そこにいたのは、顔全部でご機嫌をあらわしたナタリア姫だった。
「殿下……!」
ティアとビオラは片膝を地につけ、頭を垂れる。カルだけがぼんやりとしている。
「そのままそのまま、今は忍びだ」
ナタリアは二人を立ち上がらせる。
結局、カルは膝をつかずじまいだった。
カルはナタリア姫の出で立ちを上からじろじろと見おろす。どう見てもピクニックに出かけるような動きやすい格好だ。少なくとも謁見にのぞむ服装とは思えない。
「謁見希望者が門前に市をなしてるって話だが、そっちは放っといていいのか?」
「おい、カル」
ティアがカルの裾を引く。
だが、カルのざっくばらんな態度にも、ナタリアには少しも気分を害した様子はない。
「よいよい、カルとは秘密の同志なのだ」
秘密の同志も、この瞬間に公然となってしまった。
ティアから飛んできた疑問含みの視線を、カルは気づかないふりをする。
「此度はこのナタリア・ファブリティウス・ルシウスが陣頭に立って士気を奮い立たせるのだ。だからして謁見の予定はまるまる延期なのだ」
連日の応対でよほどストレスがたまっていたらしい。
そこはやはり子供である、表情は正直だ。剥きたてのゆで卵みたいな顔をしている。
「それでこんなところをほっつき歩いてるわけか」
「まずはこの目で兵士の様子を見ておきたいと思ってな」
自由行動に大義名分を得たことが、上機嫌である理由なのだろう。
しかし、見たところ護衛の一人もついていない。
いくらお忍びでも、これは軽率である。
「お供もいないということは勝手に抜け出してきたんじゃないのか?」
その話になると、ナタリアの顔から急に余裕が消えた。
「いやいや、ちゃんと伝えてきたぞ。いやいやいや」
とてもわかりやすい。
カルはナタリアの頭を越えて、その先へふいっと視線を向ける。
「あ、クロエさん」
ぎくっ!? というのを全身で表したのはもちろんナタリアだった。
小動物の素早さで、カルの足の後ろへすでに身を隠している。
かまをかけられたことに気づいても、まだカルのズボンを握りしめたまま離さない。
「し、心臓に悪いことを言うな、ちびりそうになったぞ」
「どこまで怖がってるんだ……。言ってから出てきたというのは嘘なんだろ?」
「いや、そこは、置き手紙で、ちゃんと」
「それはちゃんとのうちには入らないだろ。あまりクロエさんに迷惑をかけるなよ」
「いや、まあ、クロエも何かと忙しそうだったし、声をかけるのもちょっと気がひけてな……」
王女一行が魔法学園に到着して以来、もっとも精力的に働いているのは彼女だろう。
いや、それ以前からか。グリーンホールで魔法学園からの使者を応対したのも彼女だった。リナともすでに面識があり、意思の疎通もできているようだったから、王女側の実務における代表は彼女と見て間違いはなさそうだ。
あくまで王女を立て、自分は舞台袖、もしくは下で暗躍し、さらに王女の家臣団を采配している。肩書きは王女の侍女でしかないのにこの活躍である。もし彼女がいなくなったら、王女の一行は途端に立ちゆかなくなるだろう。
「カルくん見つけたぁ~~~!」
背後で嬉しそうな声が聞こえた。と同時に、カルは左腕に結構な重量とやわらかさを感じた。
マルチナだ。腕にしがみついている。というより、ほとんどぶら下がる感じだ。
「寂しかったよぉ~~~、探したんだよぉ~~~」
「ああ、ここしばらく夜番で昼間は寝てたからな」
平服であるせいか、王女の存在にマルチナは気づいていない。猫みたいに目を細め、夢中になってカルの肩口に頬ずりしてくる。まるで自分の匂いをこすりつけているみたいだ。
「えーっと、まあいったん落ちつけ。こちらはだな……」
「あっ」
カルの説明にかぶせて小さく叫ぶと、マルチナはカルの腕からすごすごと離れていく。
「? どうしたんだ?」
恥ずかしそうに顔を伏せてしまう。首まで真っ赤だ。
今さら抱きついたことをどうにか思うようなマルチナではない。なんでこうも急にしぼんだのかはカルにもわからなかった。
「……ブラしてくるの忘れた」
そう呟くと、マルチナは小走りに逃げていく。
残された四人は、マルチナの消えていった先を半ば呆然と見送った。
「マルチナらしいというか……」
万感の思いをこめてティアが溜息をつく。
まるで嵐のように現れ、去っていった。ノーブラという印象だけを残して。
「いつもとあまり変わらなかったけどな、感触は」
カルはついそう呟いてしまう。途端に、六本の冷たい視線が突き刺さる。
「最低だな」
「最低ですね」
「最低だの」
「ちょ、なんでそうなる」
カルは異議を唱えようとしたが、勝ち目はなさそうなのでやめる。母は強しと言うが、群れた女も十分強い。
マルチナが姿を消した方向を見ながら首をかしげたのはナタリアであった。
「あの上も下も安産型の女は誰なのだ?」
「言いたいことはわかるが、上は安産とは言わないだろ。マルチナとは会わなかったのか?」
「マルチナというのか、あの娘は。人の顔と名前はおぼえるようにしているのだが、いかんせん一度に押し寄せられてはな。姓はなんという」
「マルチナ・マリ……何とか・マル……マル?」
ティアに視線で助けを求める。
「マルチナ・マリウス・マルケルス」
「そう、それ。あれでも公爵家の娘で魔法学園のソリストだ」
「マリウスならむろん知っておるぞ。我が名、ファブリティウスから立てられた一族であるな。父王クイントゥスよりさかのぼること七代、かの聖王マリウスの御代に王権の強化を目的として当時の親王パウルスが臣籍にくだり……」
カルの耳には念仏である。
「謁見の場まであのノリじゃなかったんだろ、さすがに。それで記憶とかみあわないんだろうな」
「なるほどな……。うむ、しっかりとおぼえておこう」
ナタリアは腕を組んでマルチナが去った方向をまだ見つめている。
その姿が何やら妙に対抗心を燃やしているようにも見えて、カルは今から頭が痛くなってきた。
「まあ、それはよい。お主には女心というものをたっぷり教えてやらねばな。幸い、時間はこれからいくらでもある」
「自ら出陣だからってきばるなよ。陣頭に立つのはここを出発する時くらいだからな。後は誰かがちゃんとやってくれるから、今みたいにちょろちょろ前へ出ていくんじゃ……」
ナタリアに太い釘を刺しながら、カルはふと違和感に気づいた。
「時間はいくらでも? どういうことだ?」
尋ねられたナタリアの方もきょとんとしている。
「何を言う、お主が守ってくれるのではないのか?」
「え?」
お互いに見つめあい、目を丸くする。認識に何か決定的な食い違いが存在しているようである。
ナタリアが様子をうかがうようにおそるおそる尋ねてくる。
「魔法学園の者も参加すると聞いておるぞ……? お主ほどの手練れが選ばれぬはずがあるまい……?」
「俺たちは行かないけど……」
「な、なにゆえ」
「そう言われても」
動揺しているナタリアの頭が真上から鷲掴みにされる。
その手はカルのものでもなければ、ティアでもビオラでもなかった。
ナタリア姫の侍女、クロエ・ハリスである。
「ク、クロエ……」
ナタリア姫の表情が動揺から驚愕、そして恐怖へと塗り替えられていく。
振り返ることすらままならない状態でありながら、ナタリア姫には背後にいるのが誰なのかわかったらしい。
「すみません、うちの殿下がご迷惑をおかけして」
表情だけは満点の笑みを浮かべながら、クロエの指に力がこめられる。
ぎしりという音をカルは聞いたような気がした。
「いーたーいーーーっ!?」
仕える王女が悲鳴をあげているというのに、微笑んだまま少しも表情が動かないところがそこはかとなく怖い。まあ、悲鳴をあげさせているのも本人なわけだが。
「いたたたっ!? あ、頭に穴があく!! 首が抜ける!!」
「まあ、おもしろい。殿下の首は抜けるのですね」
「誰も機能の話はしていない!!」
この状況で口答えしてしまうところが子供らしい浅はかさであった。
俺なら沈黙するかひたすら謝る……とカルはひそかに自分が無事であることの幸せを噛みしめる。
案の定、クロエの指にさらなる力がこめられるのが見ているだけでわかった。
「いたたたたたたっ!! 許してくれぇ~~~!!」
「さあ、帰りますよ殿下。ただでさえ時間がないのですから自重してくださいね」
口調と表情ほどには、ナタリア姫への仕打ちは優しくない。
頭をつかんだままでずるずると引きずっていく。
連れ戻す行為がすでにお仕置であった。いや、今しかそのための時間がないということでもあるのだろう。討伐隊の進発は今日なのだ。それを考えると、ナタリア姫へのこの仕打ちもわからないでもない。
しかし、王女という至高の座にありながら、その姿はまるっきり人さらいに連れ去られる子供である。
「ま、待ってくれ、後生だ、あと一言……お前たちが来ないのは本当なのか」
「ああ……生徒は留守番だ」
「しょ、しょんな~~~!!」
ナタリア姫は涙目で回収されていく。泣きっ面にぶすりと蜂の針。さんざんである。
二人の姿が見えなくなってから、ティアがぽつりと感想めいたことを口にした。
「もしかしてラスボス?」
「その可能性は否定しないが、今のところは母親と娘って感じだな」
「そんなことを聞かれたら今度は君が鉄の爪の餌食だろうな」
「……歳の離れた姉妹と訂正しておく」
クロエ女史のことだ、これまでの手際や有能さを思えば、ナタリア姫にみすみす脱走されるとも思えない。今回のことは、ナタリア姫のストレスを考えた上でのお目こぼしなのだろう。
その上でナタリア姫を連れ戻しに来たというのは、討伐隊がそろそろ動き始めるということを意味している。
「どこに向かうんだっけ?」
正確には、どれを相手にするか、である。
「カープラント・ボアですね。一番弱いですから」
ビオラの言葉には針が見え隠れしている。いや、隠れてない。隠す気もないようだ。
しかし、国軍の判断も妥当なところだろう。
まさか、オーバー・ワンを相手取るわけにもいかない。ホロウメアに到っては黒い霧に覆われた一帯のことで、まったくの正体不明、ガイヴァントであるかどうからもわからない。中に入って戻った者がまだ一人もいないという事実が存在しているだけだ。
学園都市周辺での三大ガイヴァントの一角で、なおかつ一番弱いというのはある意味で官吏的選択というか、消去法というか、ともかく無難な落としどころと言える。
秘密の同志を気づかうカルにとっても、ありがたい選択である。
「そういやリナは? しばらく会っていないんだが」
「急に話が飛んだな……」
「知り合いが勢揃いしそうな勢いだったからな。それはもう絵物語の最終回並に」
「そんなに見かけないか?」
ティアが記憶を探るように指を折る。リナと会った回数らしいが、そこまで厳密でなくてもいい。
「いや、何度かすれ違ったんだが、どうも避けられてるみたいで」
「何か思い当たることでもあるのか?」
「おぼえがないんだよな……」
こういう話題は得意ですと言わんばかりに、ビオラがずいと前に出てくる。
「女心はうつろいやすいもの。つまらないことですぐに傷ついたり冷めたりするものですからね」
「女のお前がそれを言うか」