第五話 休暇
一つの物件のリフォームが完了して、次の物件の作業を開始するまでに、いつもなら二、三日の休暇が入る。だけど、今回の休暇はなんと一週間もあるらしい。引き渡しの当日の朝、後……じゃなかった、陸也さんからそう伝えられた。旧後見邸のリフォームの進捗状況が少々遅れているらしいのだ。もうずいぶん前に外回りの工事は終了しているのだけれど、内装に手間取っているらしい。壁材や襖絵、照明器具などにこだわりがあって、それらの調達に時間がかかっているのだとか。
さすが金満後見家。
だから、仕上げ掃除に入るまでもう少し時間が必要なのだ。
一週間の休暇か。何をしようかな。
短大を卒業するまでの二年間、柚葉は都内にある善太郎の家で間借り住まいをしていた。就職してからの一年は、ほとんど絶え間なくどこかしらの改修作業をしていたので、柚葉が自宅に帰るのは週末くらいだった。
だから来客があるとか、友人と会うとか、何かしら用事がある時だけしか自宅に戻っていなかった。もっとも、自宅で待つ人のない柚葉にとって、それは大した問題ではなかった。
自宅に帰ったって、することは、部屋の掃除と仏壇の花の取り替えくらいだもんね。
両親を亡くして以来、何の用事もなしに家に戻るのは初めてだ。
久しぶりの自宅。あちらこちらの雨戸を開けて風を通す。各部屋の掃除もした。掃除は日頃の鍛錬のお陰で手慣れたものだ。夕飯には友人の佳乃が来るというので、彼女の好物である豆ご飯を炊くことにする。佳乃は柚葉の幼なじみで、幼稚園から高校までを同じ学舎で過ごした。互いに好みも苦手もよく分かっていて、遠慮せずに何でも言い合える仲……だった。両親が亡くなる前までは、確かにそうだった。今では少しだけ、佳乃のストレートな物言いに、身構えてしまう自分がいる。以前、柚葉の職場を、そんな零細企業で大丈夫かと佳乃が心配してくれたときもそうだった。
――大丈夫だよ。後見人さんの紹介だし、後見社長もすっごいいい人だし……。
本当は不安で仕方がなかった。サングラスをはずさないし、にこりともしない後見さんのことが、怖くて仕方がなかったくせに、佳乃の前では強がって見せた。
しかし、あの頃に比べたら、私も慣れたものだよねぇ。サングラスをはずさないのは相変わらずだけど、今ではあまり気にならない。仕事では信頼してさえいる。人間、何事も慣れるもんだ。
くすりと笑って、柚葉は台所へ向かった。
豆ご飯には、さわらの柚庵焼きとお吸い物をつけることにする。お吸い物には菜の花と豆腐、蒲鉾に干し椎茸を入れた。菜の花の緑が目に鮮やかだ。
予告の時間よりも一時間遅れて到着した友人は、柚葉の用意した豆ご飯に歓喜の声を上げた。「きゃー、豆ご飯じゃないの。今季初めてだわ。うわ、全部美味しそう! ゆず、すごーい」
四年制の大学に通っている友人は、婦人雑誌編集のアルバイトをしているのだそうだ。それで遅くなったのだと言う。卒業後もそのままここで働かないかと誘われているらしい。
「へぇ、すごいね」
何社も受けて失敗した私とはえらい差だな、と柚葉は自嘲する。
「ゆずは運が悪かっただけよ」
佳乃は顔をしかめた。
就職活動がうまくいかず、落ち込んでいる柚葉に、佳乃はいつもこう言って励ましてくれた。だから頑張れた。結局思っていたような結果は得られなかったけれども、彼女がいてくれて本当に良かったと思う。
でもさ、本当に運が悪かっただけなのかな。
柚葉は首を傾げる。
運だけの話なら、書類選考の段階で落ちていると思うのだ。結構いい線まで行って、感触も悪くなかったのに、最終段階で落とされるということが何度かあった。
考え込む柚葉の気をそらせるように、佳乃が話題を変える。
「ゆ、ゆずってば、毎日自分でご飯作ってるの? えらいじゃん」
「でしょお」
得意げに胸を張ると、佳乃は軽やかに笑った。 彼女の気遣わしげな顔がほころぶと柚葉はほっとする、と同時に少しだけ憂鬱になる。
こんな気持ちになるようになったのは、いつからだろう。いつの間にか佳乃は妹思いの姉のように、私は出来の悪い妹のように振る舞うようになった。同級生なのに。その役割分担こそが、柚葉を支えていた世界が崩れた証なのだという気がして、気持ちが沈んでいく。
ふと、佳乃の茶碗を持つ丸く切りそろえられた爪に目が留まる。
桜色でとてもきれい。きらきらと光を弾くラインストーン。
思わず見とれる。
掃除ばっかりしてる私とは、爪一つとっても、なんか違うなぁ。
すらりと背が高くて明るくて、ちょっと賑やかすぎてうるさい時もあるけれど、彼女の存在は場を明るくする。
分かってる。憂鬱になるのは、佳乃が悪いわけじゃない。そんな取るに足らないことで孤独や劣等感を感じてしまう自分の弱さが悪いのだ。
そんなことは分かってるよ。
さわらは香ばしく焼き上がっており、お吸い物も上出来だった。ふっくらと炊けた豆ご飯を、佳乃は何度も美味しいと言った。
作った甲斐があるというものだ。
なのに……なんでだろう。
柚葉の作ったご飯を無言無表情で黙々と食べる人の存在が懐かしい。このメニューなら、きっとおかわりをしているはずだ。
後見さんは和食が好きだから。
食事が終わった後、買ってきてくれたシュークリームを一緒に食べながら、佳乃が切り出した。「私、後見家のこと調べてみたんだけどさぁ」
就職先を心配した佳乃は、アトミハウジングのことを調べたらしい。
佳乃ってば、心配しすぎじゃない?
柚葉は少し顔を曇らせる。
「あそこは、なんかちょっと複雑な家の事情があるみたいなんだよね」
「……うん、それは後見さんも言ってた」
「あんたのボスって後見海斗?」
「ううん、後見陸也の方だよ」
長男の方か……と呟くと、佳乃は眉間にしわを寄せて黙り込んだ。
気になって、柚葉は続きを促す。
「なになに? どうしたの?」
「長男は謎が多いんだよね。長男とは名ばかりで、実際後も継がないし、そもそも中学くらいまでその存在を知る人が無かったらしいよ? 変じゃない?」
中学生までを知る人がいない?
怪訝そうに首をひねる柚葉に、佳乃は続けた。
「そうよ。社員を含めた誰もが海斗が長男だって思ってたみたい。それが突然こっちが長男だって陸也が現れたのが、海斗が中学に上がった年なんだって。その後数年間、後見家はごたごたしたみたいだから、もしかしたら陸也は先に生まれた妾腹の子なのかもしれないわねぇ」
「うーん、それは違うんじゃないかな……」
だって陸也さんは、腹違いの兄弟じゃないって言ってたし……。
「ねぇ、こんなこと言いたくないんだけど、後見家にはあまり関わらない方がいいんじゃない? もう何十年も前の話だけど、後見家には幽閉されたまま死んだ人がいて、その人の祟りで家族仲がうまくいかないって噂があるらしいよ? 現当主の奥さんは前妻も後妻も家に居つかないし、海斗夫妻も仲が悪くて後継ぎがいないとか、長男の嫁は絶対人前に出てこないとか、あまり良くない噂ばかり聞くんだよね……」
長男の嫁、ってことは、陸也さんは結婚してるのか。年齢的に結婚してるだろうなぁとは思っていたけど。
結婚してるのかぁ。そっか……結婚してるんだ。
やだ、どうしよう。私ってば動揺してる?
「よ、佳乃、よく調べたねぇ。さすが敏腕雑誌編集アルバイター」
動揺を笑ってごまかすと、なによそれ、と佳乃は苦笑した。その後、急に真顔になる。
「誤解しないでね。ただの野次馬根性じゃないのよ。私は、あなたが心配なの。早くに小父さんと小母さんを亡くして辛い思いしたんだから、柚葉には、絶対幸せになってほしいからさ」
「うん。佳乃……ありがと」
真剣な佳乃の口調に、胸の奥が温かくなる。一方で、動揺がいったん収まってしまうと、今度はずんと気分が沈んでいくのを止められなかった。 なんで?
結婚してるんだろうなぁって、薄々感じてたことじゃない。私ってば、なんでこんなにがっかりしてるのよ。
そもそも、あんな人、苦手なタイプじゃん。細かいし、口うるさいし、サングラス一度もはずさないし……。
後見さんが悪いんだ。
名前で呼ばせるとか、誤解するようなことさせるから。
やっぱり名前でなんて呼べないって言おう。そうだよ。私がそんな呼び方していたら、奥様だって良い気分じゃないよ。もし私が奥さんだったら、そんなの嫌だもん。職場の女性が自分の旦那を名前で呼んでるなんて……。
いやいや、私が奥さんだったらなんて、考えることさえ滑稽だけどさ。
頭をぶんぶんと振る。
「ねぇユズ、私、もう少し調べてみるから、あまり良くない会社だったら早いうちにやめちゃいなよ。ユズ一人くらい、うちの編集長に掛け合って、なんとかしてもらうからさ」
「……うん、そだね。その時はよろしく」
弱く笑む。
「そうだ、あなた、何か後見家に関する情報無い? 後見陸也の実の母親の旧姓とかさ。手がかりがあれば調べるのも楽になるんだけどなぁ」
「そういえば、今改修中の物件は、後見さんが中学生まで過ごした家だって言ってたけど……」
「それ、どこなの?」
都内某所の住所を言うと、佳乃はそれを手帳にメモした。