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第三十話 トンネル事故の真相②

 五年前、八月十三日。

 昼下がり、陸也は東名高速をひた走っていた。 午前中いっぱい仕事に追われていたせいで、昼を車内でテイクアウトのハンバーガーで済ませた。誰も乗っていない助手席には、クシャッと丸まった包み紙。数本残ったポテトのパック。ストローがささったままの紙コップには、飲みかけのアイスコーヒーが半分ほど残っている。アクセルを踏みつつ片手でズズッとすする。少々胃もたれ気味だ。

 ポテトは余分だったかな。

 ジャンクフードは嫌いではないが、食べた後いつも後悔する。

 車内に充満する肉と脂のにおいを追い出すために窓を開けると、日盛りの車外から、真夏の太陽に焦がされた熱風が吹き込んできた。

 お盆初日だったが、週末の後なので帰省のピークが分散されているらしい。渋滞がまったくないわけではないが、東名は比較的スムーズに流れていた。

 スイッチを入れると、カーラジオから、連休の浮かれた雰囲気に合わせたノリのいい洋楽が流れてくる。

 目指しているのは御殿場。

 その日、陸也は婚約を取り交わすことになっていた。

 御殿場の継母の家に、後見家、四条家、両家がそろったところで、互いに婚姻届に記入する手筈になっている。御殿場だったのは、この結婚をセッティングしたのが継母(後見紫乃)だったからだ。保証人にもなってもらう予定だった。

 リゾートも兼ねていらっしゃいよと言い出したのも継母で、御殿場なら顔を出してもいいと父が言ったことでそれは決定した。

 継母とは別居中だったはずの陸也の父は、自宅には寄りつかないくせに、別居中である後妻が住む別荘にはたまに顔を出しているらしかった。継母は七年前、陸也の母が亡くなった後、まもなく後見家を出た。以来、一人で別荘暮らしをしている。母が亡くなった後になって、なぜ継母が家を出たのか、陸也は理由を知らない。

 父と継母は、傍目から見ても不思議な関係だった。夫婦というよりも姉弟のような。実際、父よりも一つ年上の継母は、後見家内では祖父に次ぐオピニオンリーダー的存在だった。自らは子を授からなかったにも関わらず、否、その故か、実母から離され後見家に引き取られた海斗と瑠璃をよく育てた。海斗などは、紫乃が実母だと思っていた時期もあるらしい。遺伝子検査で、陸也が間違いなく父の子であると判明した後、後見本家に陸也と母を呼び寄せたのも彼女だった。母は最期まで彼女を敬愛していたし、陸也自身も、さっぱりした気風のこの継母のことを慕っていた。だからこそ、受け入れた結婚でもあった。


 陸也が異変に気づいたのは、都夫良野トンネルに入って半分以上過ぎたところだった。前方から聞こえた雷鳴にも似た爆音。ほどなくして始まった渋滞。トンネルの中での立ち往生。

 やがて真っ黒い煙が充満し始め、トンネルの中はあっという間にパニックになった。トンネル内の煙と熱気は、人々をパニックに落とし込むには十分すぎるひどさだった。けたたましく鳴らされるクラクション。怒号。悲鳴。動きのとれなくなった車を捨てて逃げだす人々。トンネル内はたちどころに狂乱状態となった。

 車外に出た陸也は、ただちに車を捨てて逃げた方がよいと判断したものの、どちらの方向に逃げるべきか躊躇する。微妙な位置だったからだ。

 前進した方が外に出るのには近いが、それだと事故現場を通り抜ける必要があった。火災が起きているのならば、通り抜けられないかもしれない。逆に逃げた場合は、距離が問題だった。しかも煙は後方に流れている。この煙の中、長時間歩き続けられるか疑問だ。逡巡した挙げ句、陸也は前進することを選んだ。少しでも早く外に出る方を優先したのだ。

 スーツの袖を口に合て、身を低く屈め、慎重に進む。

 風は前方から吹いてくる。煙で目を長く開けていられない。熱風は顔をじりじりと焦がした。

 やはり後方に進むべきだったか。通り抜けられないかもしれない。

 そう思って立ち止まったとき、その声は聞こえてきた。

「パパぁ、パパ、目を開けてよぉ。死んじゃやだぁ。一人にしないでぇ……」

 事故現場の方向から聞こえてくる。

 生きている人がいる。

 それは、通り抜けられるのかもしれないという希望に変わった。

 陸也は、再び事故現場に向かって前進した。

 二百メートルほど先が事故現場だった。トラック三台、乗用車二台が玉突き事故を起こしている。うち、トラック二台が燃えており、一台の乗用車はもう原型もとどめないほど壊れていた。乗っている人はおそらく駄目だったろう。もう一台は、なんとか車同士の追突からは免れたものの、トンネルの右側壁にぶつけたらしく、運転席側が大破していた。

 先ほどから聞こえていた泣き声は、その車の助手席にいた女のものだったらしい。

 おそらく運転手は駄目だったのだろう。

 泣いている場合ではない。一刻も早く逃げなければ、助かった命さえ無駄になってしまう。

 まだ燃えていないトラックからは、何かしらの液体がドクドクと流れ出ていた。何かは分からないが、可燃性のものなら引火した時がやばい。

 陸也は眉間にしわを寄せる。

 ――あなた、ごめんなさい。許して……。

 母親の声が聞こえた気がした。

 亡骸にすがり、逃げることも忘れて泣くその女の姿が、自分の母親と重なる。不貞の濡れ衣を着せられてなお、最後まで夫に拘泥し続けた母に。「奥さん、行きましょう。ご主人はもう無理です。逃げなければ駄目ですよ。せっかく助かった命を無駄にするつもりですか!」

 気づけば、母親ほども年上であろうその女性を叱責し、強引に手を引いていた。

「駄目よ。パパを残して行けないわ。脚が挟まっているだけなのよ。お願い、力を貸して。パパを助けて!」

 脚が挟まっているだけ? まさか!

 それでも女性を納得させるためだけに、陸也は生存確認をした。

 首筋に手を当て脈を確認し、その口元に顔を寄せ呼吸を確認する。当然、生命反応は無い。そればかりか、脚は挟まっているだけなどという生やさしいものではなかった。下半身が押しつぶされているのだ。おそらく即死だっただろう。

「奥さん、ご主人はもう亡くなられてます」

 陸也がそう言った途端、女はパニックに陥った。まだ助けられると思うことで気持ちを保っていたのだろう。

「嘘よ! パパが死んだなんて嘘!」

 泣き叫んだ。

「現実を見てください。あなたが助かったのだって奇跡だったんですよ。それは、ご主人がとっさに、自分よりもあなたの命を優先したからではないのですか? なのにあなたは、その命を無駄にするつもりですか?」

 女は聞いているのかいないのか、夫の亡骸に泣きながらとりすがった。陸也は頭をフル回転させる。女の気持ちを死んだ夫から引き離せる何か、何かないか。

「しっかりしてください。ご家族はほかにいないのですか? 家であなたの帰りを待っているお子さんはいないのですか?」

 子どもの話を出したことが効を奏したらしい。女は反応した。我に返ったように顔を上げる。

「柚葉! そうだ、帰らなくちゃ。私が死んだら柚葉がひとりぼっちになってしまうわ!」

 涙でグショグショな瞳に光が戻る。

「そうですよ。さぁ、行きましょう」

 女性は頷いて立ち上がると、割れた後部座席の窓からキルトケットを二枚取り出した。

「あなたも使って」

 陸也はありがたくキルトケットを受け取った。

 女は北村葉子と名乗った。キルトケットをそれぞれ被って出口を目指す。事故の打撲からか、女の歩みはのろい。陸也は肩を貸して歩いた。

 途中でうずくまっている老女に会った。家族とはぐれてしまって、どっちに進んだらいいのかも分からないと途方に暮れていた。葉子は自分のキルトケットを渡し、一緒に行きましょうと励ました。そこで陸也は、キルトケットを葉子に返そうとしたのだが、彼女は受け取らなかった。

「いいの。それはあなたが使って」

 この時点では、まだ彼女は元気そうにみえた。しかし、出口まであと数百メートルというところで、葉子が歩けなくなった。苦しそうにうずくまる。煤で汚れた額には脂汗が滲んでいて、気分が悪いという。

「もう後少しですから、がんばりましょう」

 陸也の言葉に、葉子は苦しげに返す。

「ごめんなさい。私のことはいいから、先に行ってください」

 あともう少しなのに。

 陸也が葉子を背負おうとして手を引いた途端、彼女は激しく嘔吐した。

 路面に広がる鉄錆び色のどす黒い液体。血だった。

 ひぃぃ、と老女が悲鳴を上げる。

「北村さん、腹部を打ちましたか? どの辺が痛みますか?」

 陸也の問いに返答はなく、彼女は朦朧としているように見えた。一刻も早く治療を受けなければ助からないのかもしれない。

 陸也は葉子にキルトケットを巻き付け背負うと、老女には先に行って救急隊を呼んでほしいと頼んだ。

 

 陸也は言葉を切った。

「ここまでは、梶井さんが集めた情報どおりです。ここまでは確かにそのとおりでした」


 出口は数百メートル先、小さな光の半円を描いている。煙は一段と黒く立ちこめてきており、風上であるこちら側にも広がってきつつあった。いずれにしても急ぐ必要がありそうだ。なるべく身を低め、足下の誘導ライトを頼りに進む。

 小柄だとは言え、大人の女性を背負って歩くのはかなりな負担だ。しかも呼吸が辛いほどの煙と熱風。

 あと少し、あともう少しと、ゆるゆると歩を進める。

 その時、密やかな声が耳元で聞こえた。

「……あなた、私をおろして行って。重いでしょ?」

「気がついたんですか? もう少しですから、もう少し我慢してください、そうすれば、救急隊が……」

 陸也の声を葉子が遮る。

「あなた、覚えている? ユズのティンカーベル。幼稚園のお遊戯会で走り回って、とっても可愛かったの……」

「……」

 朦朧としていた葉子は、陸也のことを夫だと思っているらしかった。

「ユズは小さかったから、いつでも一番前にいて、すぐに見つけられたわよね。泣き虫で、私から離れなくって……」

 泣き虫で甘えん坊の娘。それが今彼女の気力をを保たせている源であることは疑いようもなく、陸也は少し声色を低めて返事を返した。

 彼女の夫の声が、自分よりも低いか高いかなど知りようもなかったのだが……。

「覚えて……るよ。ユズの為に絶対に生きて帰ろう。一人にしたら可哀想だよ?」

 陸也の返事に、葉子は何度も小さく頷いた。

「そうね、一人にしたら可哀想だわよね。あなた約束して。柚葉をひとりぼっちにしないって」

「約束するよ。君もだよ。約束して。ユズを一人にしないって」

「約束ね」

「約束だよ」

 互いに何度も確認する。

 その時、何かがショートするような音を聞いた気がした。時を同じくしてトンネル内にとどろく爆音。とっさに身を伏したものの、衝撃と爆風で陸也は気を失った。

 ――柚葉をお願いします。

 そう耳元で聞こえたようなのは、現実だったのか、幻聴か。

 気づいたときには、救急隊の担架に乗せられて運ばれているところだった。なぜか葉子に巻き付けたはずのキルトケットが、陸也の頭部をしっかりと覆っていた。


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