対岸の火事
321話
最近の俺は毎朝、アイリアと同じベッドで目を覚ます。
だいぶ涼しくなっているので、アイリアとくっついて寝ると温かくて落ち着く。最初の頃は緊張していたが、意外とすぐに慣れてしまった。
アイリアの懐の中に頭を突っ込んで寝ると、温かくてすぐに安眠できてしまう。
しかし同じことはアイリアも考えているようで、アイリアは俺の懐に潜り込もうとしてくる。
双方が相手の懐に潜り込もうとしているうちに、何となく眠ってしまうというのがここ最近の日常だった。
昨夜は俺がアイリアの懐に潜り込むことに成功し、達成感とともに安らかに就寝したはずだ。
だが目を覚ますと、アイリアが俺の懐に潜り込んですうすう眠っている。
寝ている間に逆転されたようだ。
普段は真面目に、そして優しく執務に励むアイリアだが、今は完全に無防備な表情で眠っている。
起こすのは気の毒だな。
でも外が明るいから、そろそろ起きたほうがいいだろう。
どうせ侍女の誰かが起こしに来る。
起きたら夫婦で予定の打ち合わせをしつつ、朝食を摂る。
俺は魔王アイリア陛下の副官なので、彼女の仕事をサポートするのが仕事だ。
「昨日、新市街の酒場でベルーザ陸戦隊の兵士とロッツォ投槍隊の兵士が殴り合いになったようだ」
衛兵隊長のウェンゲンから届いた報告書を見て、俺はアイリアに伝える。
駐留部隊同士のトラブルだから、軽く見てはいけない。
政治的な問題や、都市間の対立に発展する可能性がある。
不和の芽は早いうちに摘み取っておかないとな。
「これは君が出るほどの件ではないから、俺が処理しておこう。うまく仲裁しておくよ」
「あまり怖がらせてはいけませんよ?」
新妻が心配そうな顔をしているので、俺は苦笑する。
「そんなに怖がらせたことがあったか?」
「あなたの武名はミラルディア全土に轟いていますから。あなたが思っているよりもずっとですよ?」
俺はちょっと考え、予定を変更した。
「そうか……ではリューンハイト衛兵隊を通して、双方の隊長に相談してみよう。当事者を呼び出すのはやめておく」
「そうですね。あなたからの呼び出しとなると、それだけで大問題とみなされますから」
そんなに?
動きづらいな……。
俺が動くとそれだけで政治的な意味合いを帯びてしまうようになったので、何をするにも誰かに頼まないといけない。
カイトを手放したのは失敗だったかもしれない。
でも他に副官作るとあいつに怒られるし、やはり広く薄くみんなに仕事を頼むしかなさそうだ。
「やっぱり、人材の育成が急務だな」
「そうですね。十七都市全ての動向に目を配ることはできませんし、やるべき計画も処理しなければいけない問題も、山のようにありますから」
魔王軍は単純な組織で規模も大したことなかったから、楽だったんだよなあ。
やっぱりこれからは、安心して仕事を任せられる人材が必要だ。
そのためにも人を大事にしよう。
「やるべきことだらけで、全然暇にならないな」
アイリアがクスッと笑う。
「でも、それが嬉しいのでしょう?」
まあね。
未来のことも大事だが、今のことも大事だ。
特に大事なのが、各勢力間でのトラブル処理だ。
人間と魔族、北部と南部、輝陽教と静月教。他にもいろいろある。
みんなそれぞれの立場があり、やむを得ない事情がある。
各勢力のトップとは気軽に相談ができる間柄だが、彼らも自分の率いている勢力には責任がある。
別に今に始まったことではないが、みんなもう少し喧嘩しないでくれないかな……。
ただし人間と魔族に関しては、太守出身の魔王が誕生したことでだいぶ楽になった。
アイリアには人間も魔族も従うからな。さすがは俺の嫁さんだ。
「アイリア、卵もう一個食べるか?」
「どうしたんですか、急に?」
「しっかり食べないと元気が出ないぞ」
俺はアイリアのマネージャーでもあり、同時にアイリアの代理でもある。公式行事が二つ同時に発生したら、片方は俺が行って代理を務めたりもする。
そして俺にはもうひとつ、大事な役目があった。
アイリアの防波堤だ。
午前中の執務で、俺が防波堤になる案件がやってきた。
「魔王陛下への要請か」
俺は海の向こうから届いた親書を読んで、眉をしかめる。
これを持ってきたのは海賊都市の太守ガーシュだ。
「ロッツォ経由だと握り潰されちまうってんで、俺んとこに泣きついてきやがったんだ」
ペトーレ爺さんは合理的で冷徹な商人だから、泣き落としは通用しない。
一方、ガーシュは親分肌で割と甘いから、交易関係で困るとみんなガーシュを通じて評議会に訴えてくる。
親書を送ってきたのは、南静海の向こうの大陸にある国だ。ミラルディア南部をイタリアやスペイン、南静海を地中海と考えれば、北アフリカ沿岸部の位置になる。
名前をクウォール王国という。
沿岸部にいくつも港を持っている海運国で、ミラルディアとは古くからの交易相手だそうだ。
あっちは各地に集落が散らばる部族社会が主流で、国と呼べる規模の勢力は少ない。
ちなみにあっちの大陸では、主に静月教を信仰している。まとまらないのも納得がいく。
「国王からの親書となると、軽くは扱えんな……」
これを持った使者を追い返すペトーレ爺さんも凄いが、海を隔てているから多少のことで攻め込まれる心配はない。やったところで損にしかならないからだ。
もちろんペトーレは、使者が困ってベルーザ市に駆け込むこともわかっている。面倒事をガーシュに押しつける算段だ。
実にあくどいジジイだ。
親書の内容は、クウォール国内の治安維持に力を貸して欲しいというものだった。
貿易の権益をめぐって国王と沿岸部の諸侯が対立し、いつ内乱が起きるかわからないのだという。
国王が財政に困って港に課税しまくったのが原因で、海運組合や諸侯に何の相談もしなかったのが問題をややこしくした。
財政難は離宮作りをがんばりすぎた結果らしい。
俺はそれを見て嘆息する。
「ここの王はバカだな。予算の範囲で金を使うことぐらい、ミラルディアの子供たちでさえできるぞ」
ガーシュが腕組みをする。
「まあな。ペトーレのジジイは、『自国の商人の権益を守らんヤツが、わしらの権益を守るはずがなかろう』とも言ってやがった」
あんたペトーレの物まね上手いな。
クウォール王に恩を売ってもいいが、この王に恩を売るだけ無駄な気がしてしょうがない。
クウォールの周辺には友好的な部族がいくつもいるが、どこも知らん顔らしい。
つまりはそういうことだ。みんなから見捨てられている。
「だいたい何で今頃になって親書をよこしてくるんだ。連邦誕生のときに使者を送ってくるべきだろ」
「まあな。つい最近までこっちから何言っても知らん顔してやがった」
ガーシュが不機嫌そうにうなずいたので、俺もうなずき返す。
「新魔王は人間、それもリューンハイト太守だ。性格は穏和だし、聡明で気配り上手で美人で……」
今なんの話してたっけ。
「話がそれたが、とにかく新魔王陛下なら頼みやすいと思ったんだろうな。図々しいヤツだ」
「お、おう」
ガーシュがうなずいたので、俺も重々しくうなずき返す。
「あと不思議なんだが、こいつはどうしてミラルディアをアテにしてるんだ?」
俺の問いにガーシュが肩をすくめる。
「どっかの副官がロルムンドとかいう国に行って、親ミラルディア派のお姫様を皇帝にしたって話を聞いたんだろうよ」
「それ、海の向こうまで知れ渡ってるのか?」
「そりゃあミラルディア人にとっちゃお国自慢だからな。太守から船乗りまで、みんな語りぐさにしてるぞ」
やめてくれないかな。
それはさておき、ミラルディアとの貿易を取り仕切る各港の海運組合は、もちろん反国王派だ。商人たちのボスは沿岸諸侯だ。
彼らはこちらのロッツォ市やベルーザ市と百年以上のつきあいがある。
もちろんペトーレ爺さんにとっても彼らは大事な商売相手なので、クウォール王が泣こうが喚こうが知らん顔という訳だ。
俺としても、どうせ肩入れするならこっちだろうなあ。
宮殿作りが好きな王様には泣いてもらおう。
「とはいえ一国の王からの親書だ、粗略には扱えん。魔王陛下にお見せした上で、次の評議会で検討しよう。使者には俺が書状でも手渡しておく」
「それなら俺もメンツが立つが、いいのかよ?」
「ぐだぐだ検討してるうちに、どうせ向こうで内乱でも起きるだろ。起きなかったら力を貸す必要もないし、どのみち困らん」
我ながら酷いと思ったが、治安維持に力を貸すのなら派兵することになる。それも一触即発の政情下で。
つまりミラルディア人の命を、他国のために危険に曝すのだ。
俺たち評議員には責任がある。
怖いからやだ。
その後もクウォール王からの親書は何回か来たので、「この季節は輸送船を確保できない」とか「軍を再編中なので待って欲しい」とかお茶を濁しておいた。
ちょっと誇張はしているが、別に嘘ではない。
ミラルディアから輸送船で兵を派遣するとしても、せいぜい百人か二百人が限度だ。輸送力がない。
ミラルディアの軍船は沿岸警備用なので、船体は頑丈でスピードもある。復原性も高いし、移乗しての白兵戦にも強い。
そのぶん搭載量が犠牲になっていて、大量の兵を長距離輸送するようにはできていない。
かといって商船を借り上げると、戦時の補償とかが面倒くさいしな。
ということで、俺は対岸の火事を見守ることにした。
政変が起きた場合に備え、ロッツォとベルーザには引き続き情報収集を命じておく。
そしてワの国も南静海に面する同盟国なので、観星衆のフミノを通じて連絡しておいた。
後は……そうだな。
ちょっとクウォール語の勉強もしておくか。
※次回「騎士たちの宴」の更新は9月2日(金)の予定です。