戦乱の烽火
184話
帝都シュヴェーリンに、早くも冬がやってきた。
ロルムンドは全域が豪雪地帯なので、領主たちは「どこで冬を越すか」というのが毎年の悩みの種らしい。
領地に引きこもってしまうと宮廷での行事や会議に出席できなくなるし、かといって帝都にいると領地の経営に支障が出る。
「私は領地の経営を妹と母上に任せているから、気楽なものなのだがな。国境防衛の任もあるのでだいたいは領地を離れ、ノヴィエスク城で冬を越している」
エレオラはそう言って、ジェリクが修理したミラルディア風暖炉の前に陣取っている。
暖炉でパチパチとはぜている薪は栗の木だろう。初対面のときも使っていたし、どうやら栗の薪がお気に入りらしい。
俺たちは先ほど昼食を終え、主立ったメンバーで打ち合わせをしているところだ。
といってもジェリクたち人狼はソファにもたれてうとうとしているし、ラシィたち魔術師はロルムンドの魔術書を読みふけるのに夢中だ。
どいつもこいつも、俺に丸投げしとけば何とかなると思ってるだろ。
何とかしてみせるけどさ。
俺がエレオラに視線を戻すと、彼女は困ったように笑う。
「カストニエフ卿も、今年は帝都で冬を越されるようだ。心配性な伯父上だよ」
カストニエフ卿も弟の遺児がこれだけ危なっかしければ、心配性にもなるだろう。
俺も思わず笑ってしまうが、気になることを思い出したので話題を切り替えた。
「とこころでエレオラ殿は農業には詳しいか? 俺も故郷で芋掘りぐらいはしていたが、専門的な農業となるとまるでわからんのだ」
エレオラは首を横に振った。
「さすがに土いじりはしたことがないな。領地経営も妹任せなので、農業は詳しくない」
エレオラは学者肌だが、魔法を使った工学が専門だからなあ。
そのとき、魔術書を読んでいたラシィが顔を上げた。
「農業って、そんなに難しいんですか? 肥料いっぱいあげたら、何とかなりそうな気がするんですけど」
そう思うのが素人だ。いや、俺も素人だけど。
「堆肥が微生物に分解……あー、あれだ、土に馴染むのには時間がかかる。特に寒い土地ではなかなか馴染まないんだ。馴染まないのに無理に多く堆肥を入れると、逆に作物が弱る」
「へえ……」
前世の話だが、北海道と沖縄では畑に入れられる堆肥の量が三倍も違うらしい。寒冷地では堆肥がなかなか分解されないからだ。
だからロルムンドの農民たちも苦労が多いだろう。
ラシィが本で顔を隠して、しょげている。
「すみません、不勉強でした……」
「落ち込まなくていい。俺も農業はわからん」
ラシィは魔王軍が誇る優秀な魔術師の一人だが、農業は専門外だからな。
しょうがない。資料を確認するか。
俺はパーティのときに持参したハンカチを広げた。折れ線グラフを描くのに使ったハンカチだ。
意図してやった訳ではないが、結果的にこれが北ロルムンドの農業生産の記録になっているな。
お互い議論に熱中していたせいか、イヴァン皇子もハンカチについて指摘するのを忘れていたらしい。
いや、もしかすると黙認してくれたのかもしれない。
エレオラがそれを見て、不思議そうな顔をする。
「ヴァイト卿、それは何だ?」
「北ロルムンドの農業生産を図にしたものだ。この辺が年数の経過を、こちらは収穫量を表している」
すると彼女は興味を持った様子で、ハンカチを覗きこんできた。
「なるほど、収穫量の推移を一目で理解できるように図式化したものか。ミラルディアの学問は進んでいるな」
俺は首を横に振る。
「いや、これは魔王軍でしか使われていない。機密という訳ではないのだが、理解できる者が少なくてな」
折れ線グラフ自体は先王様が竜人族に伝えているので、魔王軍の技官なら全員が折れ線グラフを使える。
俺は数字に疎いので、これで報告書を作ってもらわないと目が滑って仕方がない。
とても助かっています。ありがとう先王様。
ただ、折れ線グラフを理解するにはそれなりの数学教育が前提になるらしく、あまり広くは普及していないのだった。
こうして考えてみると、前世の義務教育って結構高度だったんだなあ。
もう少しまじめにやっとけば良かった。
俺がそんな感慨に耽っている間に、エレオラは折れ線グラフをマスターしてしまったようだ。
手帳にスラスラと線を記しながら、満足げにうなずいている。
「なるほど、これはいい。さっそく私の論文にも取り入れてみよう。魔撃杖の出力表に使えそうだ」
そういえばこれ、イヴァン皇子にも見られてたな。
ロルムンド人たちに余計な知恵をつけさせてしまったかもしれない。
この世界の貴族、特にロルムンド貴族は学習能力が高い。基礎的な数学など、一定の学問を修めているからだ。
エレオラみたいなのは別格としても、ロルムンドには教育を受けた貴族たちが人口の一割もいるんだよな。
近代化が始まったら脅威になりそうだ。
これはミラルディアも負けていられないぞ。
エレオラは満足げにうなずいたが、ふと怪訝そうな表情になる。
「この図形、ここから急に傾斜が強くなっているな」
「ああ、それだな」
グラフは下降の一途をたどっているのだが、三十年ほど前の地点から傾斜が強くなっている。
これを書いたときには慌てていたので気づかなかったが、言われてみるとその通りだな。
顎に手を添えて考えていたエレオラが、ふと思い出したように口を開いた。
「そこはドニエスク公の治水事業が始まった時期だな。水害対策に効果があり、領民の生活向上に大きく役立っているが」
「それが流域に何か変化をもたらした可能性はあるな」
治水は農業と密接に関わっている。
ただ、それ以上に生態系などに大きく関わっているので、この世界の科学水準で河川をいじると思わぬ弊害が発生したりもする。
この世界ではまだ生態系や水の循環について、ほとんど何も解明されていない。
ただ俺の前世と同じかどうかもわからないので、俺もあまり余計なことは言わずに黙っている。
エレオラが残念そうに首を振った。
「河川の専門家がいれば相談できるのだが、私のほうにはいない。貴殿はどうだ?」
「いないな。さすがに竜人の技官たちを連れてくる訳にもいかなかった」
河川や地学の専門家は連れてきてないんだよなあ。カイトが少しわかるぐらいか。
ロルムンドでは、多くの川は南から北に向かって流れる。ミラルディアとの国境にあたる北壁山脈が水源になっているからだ。
ドニエスク公が行った治水事業は多岐にわたるので、どれが原因になっているかはわからない。
畑も生態系の一部だから、水質や流量、あるいは流域の変化などでずいぶんと影響を受けてしまう。
これも前世の話だが、たった二頭のビーバーが下流の生態系を変えてしまった例もあるらしい。ビーバーの作ったダムが濾過装置になって、下流の水質を改善したのだ。
そんなことも視野に入れると、調査すべき項目は膨大なものになるだろう。
俺は考え込み、それからつぶやいた。
「詳しい調査が必要だな。国家規模の事業になるぞ」
「しかしこれはドニエスク公の管轄だ。たとえ皇帝でも、北ロルムンドの領地で勝手な調査はできない」
ええい、面倒臭いな。
「しょうがない。ドニエスク公……いや、イヴァン皇子に相談してみよう」
「本気か?」
エレオラが驚いた顔をするので、俺は笑った。
「イヴァン皇子の悩みの種を、取り除いて差し上げようと思ってな」
エレオラにとっては何のメリットもないだろうが、ミラルディアにとっては重要なことだ。
ロルムンドの土地が豊かになれば、山脈越えまでして農地をぶんどろうなんてバカなことは考えなくなるだろう。
しばらくの間は、だが。
そのとき、エレオラの副官のボルシュが入室してきた。何か報告があるらしい。
いつもなら即座に口を開く彼が、珍しく室内の顔ぶれを何度もチェックしている。
どうやら重大な報告のようだ。
エレオラが小さくうなずく。
「問題ない。報告しろ」
「はっ」
ボルシュは敬礼し、そして簡潔に述べた。
「皇帝陛下が、崩御なされました」
とうとうこのときが来たか。