「ドニエスク公の棋譜」
181話(ドニエスク公の棋譜)
あの異国の若者が去った後、私は口を開く。
「よいぞ」
武者隠しの戸棚が音もなく開いて、バルナークが出てくる。
剣聖とまで称された彼が、微かに苦笑していた。
「私も衰えたようです、御前」
「そうではない。あの者が人間離れしておるのだ」
刺客としてのバルナークの腕は、私が一番良く知っている。
この者はただの剣士ではない。猟犬の鼻さえごまかすほどの手練れの刺客だ。
他の護衛たちも微かな音と共に出てきたが、皆一様に恐怖の表情を浮かべていた。士気が著しく低下している。
とんだ置き土産だ。
私は彼らを手招きし、なるべく穏やかに言った。
「あれがミラルディア随一の猛将、四百人殺しのヴァイト卿だ。エレオラがミラルディアを征服できたのは、おそらくあの者の力だろう」
あれほどの武勇があれば、勲功と人望も絶大なものに違いない。
「バルナーク門下の剣士たちよ、お前たちがいなくては私は安心して眠ることもできない。あのヴァイト卿に太刀打ちできる可能性があるとすれば、お前たちだけなのだからな」
私の意図を汲んで、バルナークも弟子たちに告げる。
「お前たちは私が選び抜いた素質を持ち、私の厳しい修行に耐えた。そして過去に数多の武勲を立てている。誇りを持ちなさい」
主君と師匠に褒められたのが嬉しかったのだろう、彼らはようやく少し落ち着いた表情をみせた。
私は彼らをねぎらう。
「あれほどの猛者を相手に怯えることなく、任務を果たしてくれたことを嬉しく思う。今日の務めはもう大丈夫だ、宴席に行きなさい」
「はっ!」
敬礼したときの護衛たちは、いつもの堂々とした笑顔だった。
私はバルナークと二人だけになり、改めてイスに座り直す。
「親衛隊の猛者たちでさえ、ヴァイト卿には赤子同然か。四百人殺しというのも、あながち噂とは思えなくなってきたな」
「そうですな」
「バルナーク、凍寒節の大角鹿狩りを覚えているかね? 猟犬連れの刺客に追い回された、あれだ」
すると忠臣は厳しい表情を緩め、笑みを浮かべた。
「懐かしいですな。御前と私の二人だけで、十二人の刺客を討ち果たしましたから」
「私が斬ったのは二人で、残りはお前だろう。十人斬りのバルナークよ」
「今ならせいぜい八人斬りですな。残り四人は御前に斬っていただきませんと」
「無茶を言うな」
私とバルナークは顔を見合わせて笑う。
お互い歳を取ったものだ。
私は真顔になり、バルナークに訊ねる。
「あのヴァイト卿、シュメニフスキーの言っていた通り人狼だと思うかね?」
「はい、そうとしか思えません。人間がどれほど鍛えたところで、あの高みには到達できますまい」
即答だった。
だが私は、それに対して首を横に振る。
「武勇だけなら人狼とも思えるのだがな。それでは説明のつかないことがある」
「なんでしょうか、御前?」
「政治力だよ、剣聖」
私は引き出しから分厚い書類の束を取り出した。私の密偵たちが集めてきた情報をまとめた報告書だ。
「人狼は姿こそ人間だが、本質は魔族だ。人間との交渉には長けていない。彼が人狼だとすれば、ミラルディアやロルムンドでの実績に説明がつかんよ」
「では御前は、彼の正体をどのようにお考えですか?」
私は少し迷ったが、腹心である彼には告げておくことにした。
「……勇者ではないか、とな」
バルナークは驚いた顔をしたが、無理もない。
神にも等しい力を持つ、伝説的な存在である「勇者」。ロルムンドの長い歴史でも、最後に現れたのは帝国成立以前だ。
私も本気で信じている訳ではないが、ヴァイト卿が「勇者」だとすれば説明はつく。
私はバルナークに笑顔を向けた。
「なに、あくまでもひとつの可能性だ。ただロルムンドには、ドラウライトのような例もある」
「『大逃亡』の首謀者、伝説の奴隷剣士ですか」
ドラウライトの修めた剣術はサシマエル流、つまりはバルナークと同門ということになる。
「ロルムンド元老院の追撃隊一万を単騎で打ち破ったという強者が、実際にいたのだ。ミラルディアにいたとしても不思議ではあるまい」
「……それはそうですが」
私の手元には、ヴァイト卿が別の「勇者」を討ち果たしたという報告もある。信憑性は高くないが、ミラルディアでは広く信じられているようだ。
「少なくとも、彼がロルムンド国内で適度に騒乱を起こし、皆の耳目を集めているのは事実だ。宮廷内は、決闘好きなミラルディアの若き将軍の話題で持ちきりになっている」
「そうでしょうな。彼には華があります」
「エレオラは南征を成し遂げたこと、そしてあの男を部下にしていることで、彼女の名声はかつてないほどまでに高まっている。これ以上エレオラの名声が高まると危険だ」
「ではまさか……」
バルナークが不安そうな顔をしたが、私は首を横に振る。
「ヴァイト卿がいる限り、うかつな手出しは我々の破滅に直結するだろう。こちらからの手出しは厳禁だ。皆にも厳命するつもりでいる」
「それがよろしいでしょう。私も彼と戦場で相まみえるのでしたら、今度こそ生きては帰れぬと覚悟せねばなりますまい」
どんな修羅場でも顔色ひとつ変えたことのないバルナークが、ここまで緊張しているとは珍しい。
「しかし御前、こんな疑問を抱くのも不敬なのですが、エレオラ殿下はどうやってあの猛将を配下につけたのでしょう」
「方法だけなら、いくらでもあるのだがな」
私は報告書の束を引き出しにしまいながら、バルナークの疑問に答える。
「ヴァイト卿がどれほど強くても、ミラルディアに侵攻してくるロルムンドの軍勢全てを防げる訳ではない。同様に、彼一人でロルムンドを滅ぼすこともできないのだ」
個人の武勇には限界がある。守るべきものが大きければなおさらだ。
そこにロルムンドの軍事力や経済力をうまくちらつかせれば、交渉することは不可能ではない。
ただ、そういった駆け引きをエレオラがうまくできたとは思えない。
「問題は、エレオラがうまく彼に首輪をつけたかどうかだ。エレオラの手先として動いているだけなら何とでもなるだろうが、首輪が外れていた場合は……」
「どうなりますか、御前?」
「帝国が滅ぶかもしれんよ」
「まさか……」
そう、まさかだ。
しかし滅ばない国などない。元老院も北ロルムンド公国も滅んだ。
そのときドアがノックされ、長男のイヴァンが入室してきた。
顔色があまり良くない。
「父上」
「どうしたイヴァン、持病の発作か?」
「いえ、そちらは今日は大丈夫です。それよりもエレオラ殿とヴァイト卿が……」
長男のイヴァンは心配性だ。
用心深い子に育てようとあれこれ気を配ったのだが、そのせいで少し繊細に育ててしまったかもしれない。
私は息子を落ち着かせるように、なるべく穏やかに問いかける。
「どうかしたのかね?」
「エレオラ殿は以前とは打って変わって、積極的に人脈を作りに来ているようです。そこにヴァイト卿がミラルディアの領地をちらつかせるものですから……」
「愚かなことだ」
ミラルディアが属国化した場合、それを家臣に分配できるのは皇帝だけだ。
兄が死ねば次期皇帝は甥のアシュレイになるだろうが、あの子は少しばかり人が好すぎる。ヴァイト卿やエレオラの口添えがあれば、推挙された者を領主に任じてしまうだろう。
そして何より、人は信じたいことだけを信じる。
「ひょっとすると異国の領地をもらえるかもしれないという、わずかな希望にすがるか。そんな有様だから、いつまで経っても領地をもらえんのだ」
私はつぶやき、少しばかり考える。
「とはいえ、彼らの心が揺れているのは事実だな。いずれは手を打たねばなるまい」
イヴァンが勢い込んで口を開く。
「では父上、さっそく配下の者に手配させます」
「待て、イヴァンよ。エレオラとヴァイト卿に直接手出しをするのだけはよしなさい」
「なぜです、父上? 私とて何も、暗殺しようというのではありません。ただ警告を……」
愚かな企てだ。逆効果にしかならないだろう。ヴァイト卿の武勇伝がひとつ増えるだけだ。
下手をすると、ドニエスク派の印象を悪くするのに利用されるかもしれない。
「犬が氷虎に吠えたところで、食い殺されて終わりだ。今は静観するのだよ。アシュレイが帝位を継いでからでも遅くはない」
「それではロルムンドの領民たちが……!」
「その話は前にもしたはずだ。拙速はいかん。もうしばらく待ちなさい」
息子はしばらく黙っていたが、やがて頭を下げる。
「……はい、父上」
「その件についても、近々しっかり話し合おう。我が一族と、北ロルムンドの皆のためにもな」
どうやら当分は孫を抱いて楽隠居、という訳にもいかないようだ。
私は立ち上がり、窓の外を眺める。秋の夜は静かだが、窓ガラスを通して冷気が流れ込んでくるのがわかる。冬が近い。
私は自分と息子に言い聞かせるためにつぶやく。
「『寒波』が来るぞ、イヴァンよ。それもかつてないほどの恐ろしい『寒波』がな」