14, 自己崩壊
時々私は部屋に天窓がついていたらどうだったのだろうかと思うことがある。こうしてベッドに横たわって、ふと天井を見上げれば夜空が見渡せるというのは凄いロマンチックなことだ。都会では星は見えないとは思うが、永久に広がる暗闇を眺めているというのも趣がある。
宇宙理論というものがどのようなものなのかは知らないが、宇宙とは限りないものだという。それが果たして数値で表せない故なのか、それとも理論的に限界が来ないことが判明しているのかの判断は私にはつかない。地球を一周できるように、もしかしたら宇宙もそういう構造でぐるりと回ってこれるのかもしれない。
と、このような不確定要素をぐだぐだと考えていたって結論は出るはずがないのだが、今の私は少し現実逃避をしたい気分に陥っていた。
目の前で人が死んだ。
それ自体に何か感情を揺さぶられたわけではない。淡白とかそういう以前に、赤の他人が死んだところで同情するような精神を持ち合わせていないだけの話である。問題は、白椿さんにあった。
『不良が死んだのは、あたしに出会ってしまったから』
正直わけが分からなかった。あの予言めいた言葉はどこから出たのか、そしてその通りになってしまった現実。これが困惑せずに何をしろというのだろう。一本一本は太くて頑丈なのに、まるでゲームのコントローラーの紐が絡まってしまったように嫌らしい複雑難解な思考の乱れが脳内を埋め尽くしていた。
結局その後は終始不気味なほどに笑顔を絶やさなかった白椿さんと帰宅し、自室に篭もっている。母親が干したばかりであろう太陽の臭いがする。下の階からは両親が話す声が聞こえる。おかえりとただいまを言う仲。それはいくら親不孝な子供でも知っていることだ。
しかし白椿さんはどうであろうか。
彼女が拒絶しているのは、『他人』ではなく『他者』。両親が原因であんなことになってしまっているというのならば、勝手なことでありながらあまり睦まじい仲とは想像しがたい。本当の意味で、彼女は孤独かもしれなかった。
『出会いは最悪の因果』
彼女はそう言った。だから自分はその状況に不満など無いのだと。
ならば、その鉄のキープアウトのテープをいとも簡単に潜ってしまった私は、彼女に何を求められているというのか。
「……面倒くさい」
枕に顔を押し付けた。途中で息が出来なくなって、顔を上げた。視線の先には滅多に使わないテレビがあった。テレビはリビングに一台あれば十分じゃないかと思う派閥の人間で、正直ここに設置してからこの方、スイッチを入れた回数は両手の指で数えられるほどしかない。十四インチほどしかない小さなテレビは、何故か清掃が行き届いている。恐らくたまに母親が掃除をしてくれるからだろう。銀色の型に、埃一つ被っていないことに今更気付いて驚いた。
私はおもむろにテレビのスイッチを机の上から取った。そして、ヴーンとブラウン管に電力が通る音がし、映像が出てくる。十二チャンネル、バラエティ番組がやっていた。そこでは見たことも無い芸人が芸を疲労して、いるのかもわからない観客からの笑い声が飛んでいた。
そこで私は黒住の言葉を思い出した。
『人間の世界に娯楽というエンターテインメントが生まれたのは、まさに人が生きるための糧を供給したと言っても過言ではない』
それに間違いは無いと思うのだが、私はこういう番組を見ていても面白いと感じれないことが多い。昔はお笑いブームというものに乗っていた時期もあったが、いつの日からか、そういった娯楽に興味がなくなってしまったのは事実であった。そういった意味合いで見れば、私は黒住から見て『崩壊した人間』なのだろう。認めれない事実であるが、認めるしかない事実だ。
チャンネルを変える。娯楽が好きではないからと言って、別段ニュースなどの堅物が好みのわけでもない。NHKをつけて、ニュースアナウンサーがちょうど記事を読んでいるところに出くわした。
「今日未明、東京都内××区で連続殺人事件がありました。犯人は某所周辺の家宅に侵入し一家を殺害、その後その家宅の周辺住民までもを巻き込んだ、かなり猟奇的殺人だと思われます。周辺住民には避難勧告が出ており、恐怖に怯える夜を近くの小学校の体育館で過ごしています。警察は厳重警戒態勢を取っており、××区はゴーストタウンのような状況に……」
カメラで取られているのか、警官が三人一組辺りでその区をうろついている映像が流れていた。ニュースキャスターの比喩は的を射ていて、本当にゴーストタウンのような不気味な静けさがそこを包んでいるように思える。人がいるというのに、この虚無感は些か異常過ぎる。住人がいなくなるだけで、家というものはこれまでに空虚なものになるのかと私は目を見張った。
××区はここからそう近くは無いが、連続殺人犯ならばその行動範囲を増すということは容易に想定できる事態だ。私は自分がこんなところで暢気にテレビなんて見ていて良いのか心配に目を細めた。下には親がいる。それを失ったことを考えれば、これは区内だけでなく、東京都全域に避難勧告を出すべきだ。
――そう、思え。
「…………」
私の心情はそれとは裏腹に、酷く冷めたもので、映像に流れてくるゴーストタウンとは私の心の中ではないだろうかと思ってしまうくらいだった。死に対して恐怖が無いわけではないが、危険に直面しているわけではない現状に対しては人間はあまりに鈍感と思えるほどに興味を示さないものだ。いや、それは私の楽観かもしれない。実際、子を大切にする親がこういった事件を頭から野放しにするわけがない。それは当の子供にとっては過保護とも言える行動ではあるが、それが通常の人間の行動原理であることに間違いは無いはずである。
ならば、私が今こんなにも冷めているのは何故だろうと自分で自分に問いを投げかける。会話の無いキャッチボールはボールを投げた側が鬱になるほど無意味であるが、受け取る側も同様ならば均衡は取れる。
最近の自分はこういったことも踏まえて大分淡白で無機質になってしまったと思う。というのは、風邪がほとんど完治しているにも関らず食欲は依然として出なかった。これはほとんど夕食に限ったことでもあったが、それ以前に『食べる』ということが面倒くさく感じてしまっている節がある。
中学生などが良く疑問に思う『どうして数学は勉強する必要があるのだろう』。高校生にもなれば、むしろ現代文のほうが将来に役に立たないことを知るとは思うが、そういった結論の見えている事に対して、自分がそれに不満があるから疑問を持つ、というパターンが少なからず存在する。つまりは私もそういう状況で、『食べなければ死んでしまう人間の構造に疑問を持った』とでも言うべきなのだろうか、そういった複雑な事情では無いにしろ、これは自分でも過度のダイエットでもしようと思わなければ出来ないほどの食欲不振だった。
意図的ではないが、あまり思わしくないことであった。
ニュースが次のものに移る。特集でも組んでいるのかと思って期待していたが、それは裏切られたようだった。
「連続殺人事件、ね」
口に出してみたが、やはり実感は湧かない。こういうのは実際に身近な人間が被害に合わなければ危機に気付かないところが性質が悪い。私はスイッチを押して、テレビを消した。
『殺すぞ?』
静寂が訪れた瞬間、酷く重い声が頭の中で再生される。私の先ほどの感情など比べるのもおこがましいほど冷たい脅し。
あの白椿菊乃は、一体誰だったのだろうか。あれこそまさに殺人者のような、それも刑事物に登場するような殺人者じゃなく、もっと狂気の世界とファンタジーに溢れたような世界に登場する人のものさしで計れない存在だった。それで人が一人死んだのだというのだから、あながち馬鹿に出来たものではない。
テレビの画像を思い出した。ゴーストタウン、人が蔓延る無の空間。それは何故そのような感想を私にもたらしたのだろうか。
答えは簡単だった。
その街はとても孤独だった。温かな団欒も街角の会話も消え去り、その街にとっての仲間はどこにもいなかった。警察が包囲し、外部者を許さず、それでいてその中にそれを許しても必要だと思わない感情がある。そこは、とても静かだった。
そこに似合う人間がいたとしてら、私の記憶の中には一人しかない。
同属。類は友を呼ぶ。あの街には彼女が、彼女にはあの街が、互いに許容できる。
――ああそうだ、あそこで殺人を犯したとしたら、私には彼女以外有り得ないと思う。
と、その瞬間猛烈な吐き気が私を襲った。
「う、おぇ……」
突如やってきた胃袋の反感に抑えるタイミングすら与えられず、私はゴミ箱に向かって勢いよく吐しゃ物をぶちまけた。
(私は今、何を考えた?)
口の中に広がる不快な酸っぱさ。意図と反して出る涙。荒がる息。その全てを殺したくなるくらいに自分の愚考に吐き気を催した。氾濫した川のように襲い来る吐き気をかみ殺し、拳が砕けん勢いで壁を殴った。骨に衝撃が響き、肩まで痛みが走った。今だけ、その痛みが心地の良いものに思え、次の瞬間にはその程度で自分を許そうとしていることに再び怒りを覚えた。
「う……あ。ふざけないでよ、何が、何が優等生よ……」
灰田の天才が何なのかという問いに対して、私が口にした答え。辞書にあるような模範解答。それが私のやり方であり、絶対に崩れない『持論』であった。
「その私が、何も、何もしてない白椿さんを『殺人者』ですって? おかしくなるのも大概にしないさいよ私……」
可能性としては最も確率の低い答えだ。事件が起きた後日、一日の初めに出会った人間を『お前が犯人だろう』と真面目な顔して言っているのと何も変わらない。馬鹿らしさを超越して愚かだ。
「おかしい、おかしい。こんなの、私じゃない。何を考えてるの……」
ゴミ箱の中を見る。そこには吐いたものなど何も無く、自分がその気でいただけなことに気付く。それを見た直後、やりようのない腹立たしさが起こってゴミ箱を思わず横に殴り飛ばした。捨てられていたゴミが床にぶちまけられる。
その中の一つ、紙くずがころころと床を転がっていく。
音も立てず、その紙くずが拾われた。
「ああ、始まってしまったよ。最悪という名の変化が、形を持って、姿を持って現れてしまった。分かっているだろう、君も。『自分がおかしいと気付いたその事こそがおかしい』ことがあるということが」
「なっ…………」
男は音も無く私のテリトリーに足を踏み入れた。背後には扉があった。まるで、そこに彼が誘うような形で。顔を上げられない。無駄に長い髪の毛だけが視界に写る。
「そういえば君の名前を聞いていなかったね。僕の名前は灰田純一、灰色の世界の住民さ。それで、君の名前を聞かせてくれないか?」
言葉は暴力だった。意識を直接殴られ、一瞬にして昏倒する。
そういうことか、そういうことだったのか。
灰田純一はおかしい。とてもおかしい。
それは彼が、他でもない『存在の暴力』だったからだ。『自己の崩壊』とは、自分で自分自身を破壊するとは限らない。彼は着実に、本当に効率的に自己を壊していった。それをまるで灰田が灰田自信を傷つけるごとく、私を壊していった。
私が彼を嫌悪していたのは、自己防衛だったのだろう。彼に関ってはいけない。他でもない、自分自身が殺されてしまうから。
だから私は言ってやった。
「……不法侵入者に、教える名前なんて……無い、わよ……」
わけもわからないまま、私は身体を床に倒した。もはや立ち上がる力も、瞼を開く力も残っていない。不思議とそれに疑問は無かった。腑に落ちないだけで、それはそれで良いんじゃないかと思った。
「僕に答えるか否かは君の自由だ。けど、君は君の名前を決して忘れてはいけないよ。その名前は君以外には誰にも相応しくない名前であって、まさに君自身を象徴出来る最後の砦なのだから。全てを奪われても、絶対に名前だけは守り通すんだ。それが、君が救われる、君たちが救われるただ一つの方法」
彼の名前は灰田純一といった。それは彼以外には有り得ないし、彼以外認めるわけにはいかない。
「最後に、眠ってしまう前に問おう。
――君にとって、優等生とは何だい?」
その声に答えられるわけも無く、私の意識は闇の奥へと落ちていった。