0001.内戦の終わり
男は空を見上げた。
低い雲が垂れこめ、今にも降りだしそうだ。毛布の破れのような切れ間から、薄青い空が覗く。雲間から漏れる光が、冬の湖を斑に照らした。
半世紀前なら、漁で賑わうところだが、静かな湖面に船影はない。
遠雷。
いや、爆撃機の編隊。雲間に鳥よりも大きな影が差す。
初老の男は、緑色の眼で機影を追う。
先日、「国連の仲介で、間もなく和平協定が結ばれる」との報道があったが、相変わらず、空襲が続く。地上戦も終わらない。
和平案を有利に持って行きたいからか、弾薬を余らせることを勿体ないとでも思うのか、戦闘は却って激化した。
男の足下は、世界最大の塩湖ラキュス。
底の分厚い靴で湖水を踏みしめ、微風に揺れる湖面をゆっくりと進む。
足跡の代わりに波紋が広がり、静かに消えた。砂地を行くような足取りで、漣の立つ水面を歩く。男の影に驚いて、小魚の群が逃げた。
湖底には、無数の船舶や戦闘機が沈む。
残骸が網を食い破るので、陸の民で魔法を使えない者は漁に出られなくなった。
湖の民は【漁る伽藍鳥】学派の術で魚を獲るが、攻撃を避ける為、日のある内は出漁しなくなった。
風が立ち、男の短い髪をなぶる。
瞳と同じ緑の髪。男は湖の民の漁師だった。【操水】の術で湖面を歩き、迎撃地点へ向かう。
湖面に紛れる迷彩服には、薄青い糸で刺繍が施される。全て文字。耐火、防寒、衝撃吸収、魔除け……様々な防禦の術が「力ある言葉」で縫い取られる。
男の迷彩服は、単に敵味方を識別する為の軍服ではない。魔力を持つ者が着用すれば、籠められた術が効力を発揮する【鎧】だ。
緩やかに波打つラキュス湖を易々と歩く。
男の遥か上空を爆撃機の群が通り過ぎる。
もし、男に【索敵】の術が使えるなら、翼に描かれたキルクルス教の象徴「星の道」も見えただろう。
攻撃目標は、ネーニア島北部の都市。
湖の南西岸、アーテル地方の基地を飛び立ち、ラキュス湖南部に浮かぶ島々を爆撃する。
既に主要な都市の大半が焦土と化し、多くの民が灰にされた。
この半世紀で、チヌカルクル・ノチウ大陸本土に近いランテルナ島は、アーテル地方の「力なき民」……魔力を持たない陸の民の占有下となった。
ランテルナ島の北に浮かぶネーニア島は、湖の民と「力ある民」……魔力を持つ陸の民が、力なき民の勢力から防衛する。
銅山を有するネーニア島は、湖の民の生命線だ。
髪の緑は銅の色。湖の民は必須のミネラルとして、陸の民より多くの銅を必要とする。
ラキュス・ラクリマリス共和国の主要産業は、農林水産業、水運、銅山の鉱業。金額的には、鉱業に依存する。ネーニア島まで奪われる訳にはゆかなかった。
男が口を開く。
自然言語とは全く異なる言語で、塩湖ラキュスに命令を下す。
「優しき水よ、我が声に我が意に依り、起ち上がれ。
漂う力、流す者、分かつ者、清めの力、炎の敵よ。
起ち上がり、我が意に依りて、壁となれ」
この地方の言葉……湖南語に翻訳すると、このような意味になる。
力ある言葉の命令に従い、男の足下から湖水が起ち上がった。盛り上がった水塊が見る見る嵩を増し、巨大な壁となる。
町ひとつ呑むかのような水の山が、生物的な動きで伸び上がる。
男がその背に乗り、指示を出す。
水の壁を更に伸ばし、雲の上へ建てる。本人は、まだ雲の下。水の壁に取り込まれ、雲が消えた。
爆撃機の三隊目が間近に迫る。唐突に表れた巨大な壁を回避できず、そのまま呑まれる。
敵機一編隊十二機を呑み、水は球状になった。巨大な水滴の中でエンジンが停止し、プロペラが回転を止める。パイロットは脱出を試みるが、水流は中心に向かって対流し、機も人も水滴の中で翻弄された。
男が、敵機を呑んだ水塊をゆっくりと地上へ下ろす。
ネーニア島の北部でも、同様の手段で防空が成される筈だ。
男の手の中で、幾つもの結晶が力を出し切り、砕けた。
「仇は討ったぞ」
破片に囁き、掌を開く。
雲に穿った穴から光が降り、結晶の破片がきらめく。微細な破片は風に乗り、零れ落ちる涙のようにラキュス湖へと注いだ。
それから三カ月。
和平が成立し、ラキュス・ラクリマリス共和国は三分割された。
旧王家ラクリマリス家を戴き、神政復古したラクリマリス王国。
ネーニア島の南半分とネーニア島の南東に散らばるフナリス群島を保持する。
元の王家を含め、住民の六割が力ある民。力なき民は一割。湖の民は三割。ラクリマリス王家は銅山を死守し、経済的な優位を保った。
アーテル党を第一党とするアーテル共和国。
湖の南岸アーテル地方と、ランテルナ島を得た。
住民の大部分が、魔力を持たない陸の民……「力なき民」で、一神教のキルクルス教徒だ。
アーテル地方の民は、キルクルス教国として独立した。
旧ラキュス・ラクリマリス王国とそれに続く共和国は、多神教であるフラクシヌス教を国教とした。王家及び旧政府とは宗教的に対立した為、アーテルの民は、信仰を勝ち取った熱狂的な喜びに湧く。
残るひとつは、ネモラリス共和国。
ネーニア島北部と、東に浮かぶ森の島ネモラリスを領し、湖東地方への玄関口を押えた。
住人の七割がフラクシヌス教徒の湖の民。
三割の陸の民の大半は、魔力を持たない力なき民だ。その約半数を占めるキルクルス教徒は、摩擦を避ける為、リストヴァー自治区に移住させられた。
陸の民の内、多神教のフラクシヌス教徒や、力ある民は、自治区外での居住を許された。
多くの不満や不安を抱えながらも、半世紀に亘る内乱に終止符が打たれた。
三分割された各地域内で、小競り合いは散発したが、元の内乱に比べれば、取るに足りない規模だ。
和平合意の決定が覆されることはなく、平穏な日々が三十年、それと同時に、小さな不満も三十年、積み重ねられた。
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Copyright © 2016 髙津 央
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▲ラキュス湖南地方、和平成立後の地図。