出会い
豊饒の海に囲まれた海洋国トウア――平和と人権を大切にする民主主義国家だ。
旧市街にある住宅地は、石畳の路地に白い壁の家々が連なり、昔ながらの面影を残しているが、新市街には高層ビルが建ち並び、自動車も行き交い、時には渋滞を引き起こす。電気、ガス、水道、電車に地下鉄、高速道路、空港などインフラも整い、人々はそこそこ豊かに暮らしていた。
そのトウア国の西――広い海を隔てた大陸には、大国シベリカが構えている――。
人口減少によって労働力不足にあえぐトウア国は、そのシベリカから大量の労働者を受け入れており、今現在、シベリカ人は在トウア外国人の8割以上を占める。
トウア国の目下の課題は、外国人の権利をどこまで認めるのか――だ。
最近は「国民と外国人の垣根はないほうがいい。トウア国民と同等の権利を与えるべきだ。それこそが諸外国との友好を生み、世界平和へとつながる」という声が出始めている。
昔、西の大陸の国々が領土争いをしていた時代、広い海に守られていたトウア国は他国に侵略されたこともなく、幸運にも戦争を経験せずに生き残ることができた。今では大陸の国々もできるだけ戦争を回避しようという考えに落ち着いており、トウア人は今もなお平和を謳歌している。
そう、戦争は忌むべきもの――平和は誰もが望んでいた。
そんなトウア社会では平和教育と人権教育が盛んに行われており、ここトウア市内にある第一公立未成年養護施設付設学校も例外ではなかった。
「今日から私たちの仲間になるリサを紹介しましょう」
未成年養護施設付設学校高等部の17歳クラス担任教師であるサギー先生が転入生を教室に招き入れた。
その転入生は先生の横に並び、ほんの少しだけ頭を下げる。
「……よろしく」
リサの挨拶は自己紹介もなく、それだけだった。うつむき加減の無表情な顔に無造作に伸ばした長い髪。心浮き立つ春だというのに、何も飾りがついていない喪服のような黒いワンピース姿。冬を連れてきたかのように顔の白さが目立ち、それだけにその表情の硬さが強調され、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
一番後ろの窓際の席をあてがわれたリサは、25名のクラスメイトの注目を浴びながら、誰にも視線を合わせることなく席に着く。
予めサギー先生は、リサのことをクラスの皆にこう説明していた。
――リサはこの街で起きた銀行強盗事件の被害者であり、その時に兄を失ったと。その1年前には両親を交通事故で亡くしているので、この1年の間に家族を全員失ってしまったと。だから、リサのことをあたたかく見守ってあげましょうねと。
このトウア公立未成年養護施設は、保護者がいない未成年の子どもを預かり、生活の面倒をみてくれるところだ。ここに入った未成年者は宿舎で暮らしながら、施設に付設されている学校で学ぶことになっている。ちなみにトウア国の成人年齢は18歳とされており――18歳になった年の春には施設を出なければならない。
リサは今17歳。
――1年前に両親を亡くした時は、かろうじて成人年齢に達していた兄がリサの保護者となったが、その兄も亡くなってしまったため、成人保護者のいない未成年のリサはトウア国の法の定めにより養護施設行きとなった。そして、施設に付設されているこの学校へ転入したのだった。
養護施設の敷地内には、4棟の2階建て宿舎と、小中高等部の3階建て校舎が並ぶ。海が近くにあり、歩いて数分で浜辺に出ることができる。
施設の周辺は、青空に美しく映える白壁の家々が並んでおり、その景観に調和するようにと、宿舎と校舎の外観も白壁に統一され、そこに緑のツタが這い、なかなか趣きがあった。
今日も、リサが入った高等部17歳から18歳までの少年少女らが集まるクラスでは、サギー先生が『平和道徳教育』に勤しんでいた。
教職員らが組織している団体『平和と人権を守る教職員連合会』の副会長でもあるサギーが一番力を入れている授業だ。
平和は尊いものです。戦いを避け、話し合いで解決するには、まず己が武器を捨て、不戦の意思を示し、相手の警戒心を取り除かなくては真の信用は得られません」
サギー先生はよく見ればけっこうな美人なのに、服装はやぼったく、流行外れのメガネをかけ、堅物という言葉がぴったりな風貌だ。そんなサギーの説教はとくとくと続く。
「ルイ、あなたのお祖父さまは戦争を起こして戦犯となりましたが、お祖父さまはご自分のなさったことを命で償われました。あなたも『戦犯の子孫』として反省していることでしょう。そんなあなたにこそ平和と人権を説く仕事についてほしいと先生は願ってますよ」
先生から名指しされた『ルイ』という女の子は頷き、そのまま下を向いた。少しウエーブのかかった金髪が彼女の表情を隠す。
そこへ「武器は持つべき……」と、つぶやくような声がした。
教室内はシーンとしていたので、その声はサギー先生のところまで届いてしまったようだ。
「誰ですか。今、発言した人は?」
サギーは声がしたほうへ視線を移す。
「あの時、素手でなかったら兄さんは死なずにすんだかもしれない……」
リサはさっきまでの死んだような目から一転、挑戦的な眼光を放ち、サギー先生をにらみつけていた。
「あなたですか、リサ。お兄さまを亡くされたことは気の毒に思いますよ。しかし平和に対する冒涜発言は許されません」
サギーは苦笑しつつも、鋭い眼差しをリサに返す。
が、リサは臆することなく、なおも反発する。
「私は事実を言っただけです」
一瞬、サギーは表情をなくしたものの、うすい笑みを浮かべると、こう言い放った。
「たしか、あなたのお兄さまは犯人を捕まえようと立ち向かったというじゃありませんか。だから殺されてしまったのですよ。おとなしくしていれば殺されなかったのです。戦ったから命を落としたのです」
ガタン――椅子の脚が床を打つ音。続けて、床を蹴る足音が響く。サギーの言葉が終わるか終わらないうちにリサは席を立ち、先生めがけて突進していた。凍っていた感情が一瞬で溶けて気化したような激しさだった。
サギーの顔が笑みを貼り付けたまま固まる。
とその時、リサの手首を強くつかんだ者がいた。動きを封じられたリサは、反動で後ろへ少しよろける。
「今はガマンしたほうがいい」
立ち上がった少年はそう小声でリサにつぶやくと――
「リサのことをあたたかく見守ってあげましょうよ。先生もそう言いましたよね」
――その涼しげな眼差しをサギーに移す。
それを聞いたサギーも強張った表情を解き、少年へ目を向ける。
「え……ええ、そうですね、セイヤ。あなたの言うとおりです。さすが優しい不戦の民の子ですね」
そう言い繕うと、サギーはリサに向かって深々と頭を下げた。
「私も言い過ぎました。お兄さまのことは本当に残念でした」
しかし、それは口先だけ……形だけの謝罪に思えた。――頭を下げているサギーの表情は見えない。
リサは床に顔を落としながら「兄さんを侮辱するな……」と小さくつぶやく。
そのつぶやきが聞こえたのか聞こえなかったのか、セイヤと呼ばれた少年はリサから手を離し、静かに着席した。