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杜坂東の事情 作者:おかつ
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第1話 後編

翌日の放課後。
銀河からのテキストチャットで、俺と銀河、そして真梨恵の3人が理科室に集まった。
「……榊先生、まだ泣いてるね」
真梨恵が、実験準備室のドアを見ながらそう呟く。
泣き声は俺にも聞こえてきた。おそらくあの失くしてしまったハイヒールを見つけない限り、ずっとあの実験準備室で泣き続けるだろう。
「ところで、あの件だが」
「あの件? ハイヒールの件か?」
「いや、それもだが……。昨日、『坂杜様』が言っていたこと」
銀河が言った『あの件』は、俺も昨日から気になっていたことだった。
――熊谷先生が、何かを『隠している』。
気になっていたのは真梨恵も同じなようで、真梨恵は「うーん」と5秒ほど唸った。
「熊谷先生、何を『隠してる』んだろうね? ……まさか、熊谷先生が犯人だったり?」
「いや、それはあり得ない。第一、犯人なら俺達に協力するとは言わないだろう」
「そっか、そう言われればそうだねー」
そう言って、真梨恵は再び「うーん」と唸った。
すると。

『……熊谷先生?』

実験準備室から聞こえていた泣き声が止み、代わりにそんな声が聞こえてきた。
俺を含め3人とも驚き、実験準備室のドアの方を見る。その後、実験準備室の中に入ると、真梨恵が白いモヤのようなもの(榊先生)に近づき聞いた。
「榊先生、もしかして知ってるの? 熊谷先生の事」
すると、榊先生はこう答えた。
『……熊谷先生はね。彼は……私の、婚約者だった人なの』
「!?」
知らなかった。真梨恵も俺も驚いたという事は、おそらく銀河も知らないだろう。
まさか、熊谷先生に婚約者がいたなんて。しかも、榊先生だなんて。
「だって、熊谷先生そんな事全然教えてくれなかったッスよ!?」
思わずそう俺が聞く。
『結婚の準備にある程度目途がついたら、彼の口から皆に伝えるはずだったの。……そんな矢先に、これだもの。でも彼、お葬式泣かなかったでしょう? そういう人なのよ彼は。でも、内心相当ショックを受けていたはずよ』
「確かに、熊谷先生、榊先生の葬式の時泣きはしてなかったけど……いつもの笑顔はなかったッスね」
俺がそう返すと、榊先生の『そうでしょうね』という声が聞こえてきた。
『実はこの赤いハイヒールもね、熊谷先生からプレゼントされた物なの』
「ハイヒールも?」
『そう。彼ったら、自分の誕生日はすぐ忘れる癖に、私の誕生日は毎年覚えてるのよ? しかも欲しいと思ってた物もちゃんと覚えてて。ハイヒールだってそう。私が死ぬ4年ほど前かしら。誕生日の2ヶ月も前に私が欲しいと言っていたハイヒールなのよ。それを誕生日にプレゼントしてくれるんだもの。私ビックリしちゃった。でも、嬉しかったの。……とても、とても嬉しかったのよ。……なのに、どうして』
そこまでで、榊先生の泣き声が再び聞こえてきた。
……よほど嬉しかったのだろう、欲しかったハイヒールをプレゼントしてくれたのが。だとしたら、尚更探し出してあげなければ。
――しかし、そんな考えは、再び聞こえてきた榊先生の言葉で消え去ってしまうのである。

『どうして……。どうして彼は……私を、殺したの?』

「!?」
俺は思わず驚き、真梨恵と顔を見合わせた。
――『殺した』? 『熊谷先生』が? 『榊先生』を? ……『殺した』?
「今、『殺した』って言った!?」
真梨恵がそう聞くと、榊先生の『えっ?』という声が聞こえてきた。
『もしかして貴方達……知らないの? ……えっ? 私、なんで死んだって聞いたの?』
「私、榊先生は『自殺』だって、聞いて。……そうだよね佐藤君?」
「お、おう……。……だって、俺と銀河が見つけた時、榊先生の右手にはカッターが……!」
『どうして?』
榊先生の声が、そう聞いた。
それに俺も真梨恵も答えられずにいると、先程までの榊先生の声ではない様な低い女性の声が聞こえてきた。しかも、ずっと、同じ言葉なのだ。

『どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして? どうして?』

その変わりように俺も真梨恵も動けずにいると、危険を察知したのか、先ほどまで黙っていた銀河が俺達2人の腕を引っ張った。
「逃げるぞ」
銀河のその一言で漸く動けるようになった俺達は、銀河の後を追うように走りだし、理科室から去って行った。


ひとまずホールまで来た所で俺達は一旦立ち止まった。
息切れしながら俺が「サンキュー、銀河」と言うと、銀河は「いや」と返事をした。
「それより、一体何があった? お前等の様子がいきなりおかしくなったからとりあえず逃げてきたが」
銀河のその質問に、真梨恵が榊先生の話していた事を伝えると、銀河は驚いたように俺を見た。
「本当なのか佐藤!?」
「ああ。俺もはっきり聞こえた」
「そんな、だってあの熊谷先生が、そんな」
銀河は、相当ショックを受けていたようだ。
無理もない。銀河は熊谷先生の事を心から尊敬していたのだから。
そしてそれは俺も同じだった。熊谷先生の事は尊敬していた。凄く。頼りになる先生だったんだ。……そんな、熊谷先生が。
「とにかく、真相を確かめるしかないよね?」
「そうだけどさ真梨恵。今日熊谷先生出張だから、会えるのは来週だぞ?」
「あっそうなんだー……。来週じゃ遅いもんね……。どうしよっか?」
そう話しながら3人とも頭を悩ませていると、俺の背後から声が聞こえてきた。

「だったら会いに行けば良いではないか」

「!?」
驚いて後ろを振り向くと、そこにいたのは『坂杜様』だった。
「びっくりしたぁー! お前いたのかよ!? っていうか何このデジャヴ!?」
「……いちいち騒がしい奴だな貴様は」
一つため息をついて『坂杜様』がそう言った。
その後、銀河が『坂杜様』に向かって聞いた。
「……ところで、会いに行くって誰にですか?」
「決まっておろう。『熊谷敏樹』にだ」
「……え?」
――『熊谷先生』に、会いに?
その考えはなかった。否、会いに行きたいのはやまやまだが、俺達は熊谷先生の家を知らない。
俺達全員、熊谷先生のプライベートの事を聞いた事がないのだ。会いに行くなんて。
「そんなの、会いに行こうと思って会いに行けないだろ」
「阿呆。私を誰だと思っているのだ」
「えっ!? 『坂杜様』、熊谷先生のおうち分かるの!?」
真梨恵がそう聞くと、『坂杜様』は「否」と返した。
「家までは知らんが、明日、熊谷敏樹は靴屋に行く」
「……靴屋に?」
「そうだ。市内の方にあるアーケード街に、やたらオシャレな靴屋が一軒あるだろう? そこに熊谷敏樹は現れる」
「一体、何をしに? 靴を買いに行くんですか?」
銀河が聞くと、『坂杜様』は「ああ」と返事をした。
「だが、自分の靴ではない」
「え? じゃあ、誰の靴を?」
真梨恵がそう聞くと、『坂杜様』は意外な名前を出した。

「『榊恵久美』のだ」

「……榊先生の?」
俺が聞き返すと、『坂杜様』は「そうだ」と返答した。
榊先生の、靴。
という事は、おそらく失くしてしまっていたあの赤いハイヒールの新しい物を買うのだろうか。
だが何故わざわざ買いなおす必要があるのだろうか? ……その理由も含めて話してくれるだろうか?
否、そもそも榊先生の事を話してくれるんだろうか? 真相を、話してくれるんだろうか?
不安になっていると、真梨恵が口を開いた。
「……ねえねえ。それさ、私達3人で行ったら逆効果なんじゃない?」
「……逆効果?」
俺がそう聞くと、真梨恵は「うん」と答えた。
「3人で行っちゃうとさ、なんか怪しがって話してくれない気がする」
「……だが、この場合誰が行くべきなんだ?」
銀河がそう聞くと、それに答えたのは『坂杜様』だった。
「それなら――佐藤が適任だろうな」
「……俺?」
俺がそう聞き返すと、『坂杜様』が「ああ」と返した。
続いて銀河が「……そうだな」と口を開く。
「考えて見れば、佐藤の方が、熊谷先生と関わる事が多い」
「私もそう思うよー。佐藤君と熊谷先生、部活もおんなじだったもんねー」
「けど、俺一人で行ったとして……、熊谷先生、ちゃんと話してくれんのかな?」
確かに、俺と熊谷先生は話す機会も多かった。俺がいるクラスの担任だし、男子バドミントン部の顧問だ。
だが、それでも、熊谷先生が俺にちゃんと『本当の事』を話してくれるかどうかわからない。何かと理由を付けてはぶらかすかもしれない。
……本当に、俺で大丈夫なんだろうか。
「そこは大丈夫だろう」
俺の疑問に答えたのは、『坂杜様』だった。
「熊谷敏樹。奴は案外佐藤の事を信頼しているようでな。他の教師に佐藤の事を話しているのをしょっちゅう見かけている」
「俺の、事を?」
「そうだ。だから貴様になら、きっと真実を話してくれるはずだ。確かにはぶらかされるかもしれんが。それ以上に……貴様は知りたいのだろう? 榊恵久美に関する真実を」
――知りたい。
そうだ。俺は、知りたいんだ。榊先生に関する真実を。熊谷先生が隠している理由を。知りたい。尊敬する先生だから。だからこそ、全てを。知りたい。
「……分かった。俺、行くわ」
「おっ、佐藤君がやる気になったー!」
「何かわかったらグループチャットに連絡してくれ。それ次第で先の事を考えるから」
「おう。……何も分からなかった時の事も、想定しておけよ?」
俺がそう言うと、銀河も真梨恵も頷いた。


――翌日。
俺は市内にあるアーケード街に到着すると、オシャレな靴屋に向かって歩いた。
改めてアーケード街を見渡すと、相変わらず人が多い。特にカップルや家族連れが多い気がする。
勿論一人で歩いている人もいる。俗にいう『痛バッグ』というものを持っている女子グループも。
(相変わらずすっげえなー、ここは)
そう思いながら歩いていると、いつの間にか目的地に到着していた。すると。
「……佐藤か?」
偶然にも、熊谷先生が店から出てきた。
……見慣れた顔なのに、何故か心臓がバクバクしている。
自分を落ち着かせるように軽く深呼吸をした後、俺は改めて熊谷先生の方を見た。
「……偶然っスね、熊谷先生」
「ああ。何か用事があって来たのか? ……あっ、ひょっとしてお前も靴を買いに来たとか?」
――熊谷先生に用事があって来たんですが。
……なんて言えるはずがない。
「あ、いえ。特に用事があるわけじゃないんスけど、なんとなーく歩きたい気分になって」
そう言って本来の目的をごまかす。
すると、熊谷先生から予想外の言葉が出てきた。
「そうか。……あっじゃあ、これからちょっと付き合ってくんないか?」
「付き合うって……なんでですか?」
「……『彼女』の事で、話したい……いや、話さなきゃいけない事があるんだ」
――『彼女』。つまり、『榊先生』の事で、『話さなきゃいけない事』。
予想もしていない展開に、先ほど落ち着かせていたはずの心臓が再び大きくなりはじめる。
落ちつけ。落ち着くんだ俺。真実を知りたいんだろ。何ビビってんだ。ビビんな。
「……はい」
自己暗示しながら、俺は一言、そう返事した。


熊谷先生に連れて来られたのは、俺一人じゃ絶対来ない様な御食事処だった。
「どうも。今日は2人で。あと、出来れば個室の方が良いんですが」
熊谷先生はここに何度も来ているようで、手慣れている。
店員が「かしこまりました、ご案内します」と歩き出すと、熊谷先生が店員の後ろを、俺がその後ろをついていった。
通されたのは個室。店員が「ごゆっくりどうぞ」と個室のドアを閉めると、熊谷先生が口を開いた。
「ここ、なかなか良いだろ? 俺の行きつけなんだ。何でもない時は個室使わないんだけどさ、なんか大事な話をする時は大抵個室を使うんだ」
「そうなんスね……。俺一人じゃ、絶対こういう所来ないと思います」
「あー、まあ、そうだろうな。まだ中学生だし流石に来ないかー」
そう言って熊谷先生は笑った。俺もつられて笑う。
……が、その後「さて」と熊谷先生は真顔になった。
「早速本題に入ろうか。……佐藤だって、知りたいんだろ? 『榊先生』の事」
「……はい」
俺がそう返事をしたのを確認したように、熊谷先生は頷いて、話し始めた。

「……彼女と出逢ったのは、今から5年前。あの事件が起きる2年前だ。榊先生は、市内の学校から転任してきた。凄く美人で……っていうのは、佐藤も見た事あるから知ってるか。俺が担任で榊先生が副担任になる事が多かったから、話す機会も多かった。その内に、彼女は俺に惹かれていったんだろうな。彼女は俺に『結婚を前提にお付き合いしてほしい』って言ってきた。両親に結婚を急かされていた事もあって、俺は彼女の告白をOKして、1年付き合った後、互いの両親の了承を得て、婚約したんだ。付き合って1年記念に、あの赤いハイヒールと共に婚約指輪を渡した時は、彼女物凄く喜んでいたよ。……だけど、俺は彼女に隠していた事があった」

「隠していた事?」
俺がそう聞くと、熊谷先生は「ああ」と返事をした。
その後、熊谷先生の口から、驚くべき真実が語られた。

「……俺は、『同性愛者』なんだ」

「『同性愛者』……!?」
「ああ。……本当は佐藤にも隠しておきたかったんだけど、真実を知るには、告げなければならない事だからね」
そう言って、熊谷先生は話を続けた。

「……それで、あの日。事件当日だね。その時俺は、赤いハイヒールを片方失くしたと謝って来た彼女に告げたんだ。自分は同性愛者だから、色々考えたんだけど、やっぱり君とは結婚できないってね。そしたら彼女、物凄く怒って。……まあ、当たり前なんだけど。だけど彼女はその後……、カッターナイフを取り出したんだ。それで、言ったんだ。『あんたを殺して、私も死んでやるー!』って。まあ、お決まりの台詞だよな。俺は必死に抵抗したんだ。そして、彼女の手からカッターナイフを奪った。その際彼女を突き飛ばして、彼女が棚にぶつかった拍子に、棚の上にあった、実験に使おうと思っていたおもりが彼女の頭に落ちて――彼女は気を失った。気を失っただけだった。だけど俺は、『彼女を殺してしまった』と勘違いしたんだ。それで、慌てて。そこですぐに自首すれば良かったんだけど、俺は――隠そうとした。彼女の手首を掴んで、カッターナイフで彼女の手首を切ったんだ。数回。その時、彼女が目を開けて俺の方を見ていた事に気が付いた。が、その時には遅すぎた。彼女は俺の事を見つめながら死んだ。……死んだんだ! 俺は! 彼女を、本当に殺してしまったんだ!!」

――熊谷先生がいきなりテーブルを思いっきり叩いた。
ダンッ! という物凄い音がして、俺は一瞬ビクッとした。
幸い、この個室は防音されているらしく騒がれる事はなかった。おそらくこうなる事を予想して、熊谷先生はこのお店の個室を選んだんだろう。

「……俺の想定通り、彼女は『自殺』という事になり、彼女の家族も、俺の家族も、彼女は『学校でのいじめを苦に自殺した』と思い込んでる。だけど、俺はずっと後悔してた。ずっと、ずっと。あの日以来、夢に彼女が出てくるんだ。『謝れ』『謝れ』って、何度も俺に言ってくるんだ。……謝りたかった。ずっと。けど、機会がなかった。……いや、違うな。機会なんて幾らでもあったんだ。俺が、ずっと逃げていただけだ。……けど、お前等が榊先生の失くした赤いハイヒールを捜しているって聞いて、改めて、『ちゃんと謝ろう』って、思えるようになった。この赤いハイヒールだって、謝罪の心算で買ったんだ。……勿論、今更謝ったって許してくれないだろう。分かってる。……けど、やっぱ、謝りたいんだ。ちゃんと、自分の口で。……ちゃんと」

そこまで話した後、熊谷先生は俺の方を見て言った。
「……悪いな、話が長くなった」
「あ、いえ。……あの」
「何だ? まだ何か聞きたい事でもあるのか?」
「いえ、そうじゃ、ないんスけど……」
――謝りたい。
熊谷先生は、はっきりそう言った。なら、俺がやるべき事は、ひとつしかない。
「……あの。俺、明後日の放課後に、真相を話しに行こうと思ってたんです。榊先生に。……けど、もし熊谷先生が本当に謝りたいんなら、明後日、実験準備室に来てください」
「……そこに、『いる』んだな。榊先生が」
熊谷先生の言葉に、俺は「はい」と頷いた。
その後、熊谷先生は「分かった」と返事をした。


――月曜日の、放課後。
「熊谷先生、ちゃんと来てくれるかなー?」
真梨恵が、そう言いながら理科室のドアの方を見る。
真梨恵や銀河、それに『坂杜様』には、俺から事前に真実を全て話してある。
流石に直接口から言える内容ではなかった為、真梨恵や銀河にはグループチャットで話し、『坂杜様』には他人に聞こえない様な所で全てを話した。
暫く待っていると、理科室のドアが開き、熊谷先生が入って来た。
「……来たようだな」
『坂杜様』がそう言った。
熊谷先生は実験準備室の方に歩いてくる。その後俺達の方を見た。手には、この間熊谷先生が買ったあの赤いハイヒールが入った袋を持っていた。
「なんだ、松伏と丑満時もいたのか」
「はい。……俺等も、榊先生の一件に関わった者ですから」
「……そうか」
熊谷先生はそういうと、実験準備室のドアノブに手をかけ、ドアを開けた。
その後、熊谷先生は暫く前方をまっすぐ見た後、口を開いた。
「……佐藤から聞いたんだが、丑満時って幽霊が見えるんだって?」
「うん、視えるよ。……大丈夫。榊先生、ちゃんとそこにいるよ」
熊谷先生からの問いに何かを察したのか、真梨恵はそう答えた。
真梨恵からの返答に、熊谷先生が「そうか」と返すと、熊谷先生は数歩進んで立ち止まった。
「……恵久美。聞こえるか? ……いや、俺の声なんてもう、聴きたくないだろうけどさ」
――『恵久美』。
恐らく、榊先生が生きていた時そう呼んでいたのだろう。
初めて聞く呼び方に俺が戸惑っていると、真梨恵が俺の服の袖を軽く引っ張ってきた。
「……どうした真梨恵?」
「……榊先生、熊谷先生の声に反応してる」
――ちゃんと、聞こえている。熊谷先生の声が、榊先生に。
だが、熊谷先生にはおそらく、榊先生がどんな反応をしているのか分からない。俺も分からないが。
熊谷先生は、続けた。

「……ずっと、あの日の事を謝りたいと思ってた。……恵久美の事を突き飛ばして、実験に使おうとしてたおもりが恵久美の頭に直撃して、お前が気を失った。その時、俺はてっきり『お前が死んでしまった』と思ったんだ。それで、俺はその時点で『お前を殺してしまった』って思いこんで。だから俺は、自殺に見せかけようとしてしまった。今思えば、最低な行為だった。俺は、最低だった。最後まで、お前にとっては凄く最低な奴だった。ずっと後悔してたんだ、あの日の事。毎晩、恵久美が夢に出てきて、『謝れ』って言ってきた。けど俺は、ずっと逃げてきた。けど、やっと、やっと謝れる。今更謝ったって、許してくれない事は分かってる。……けど謝りたいんだ。どうしても」

そこまで言うと、熊谷先生は袋の中から赤いハイヒールの入った箱を開け、ハイヒールを取り出した。

「……見えるか恵久美? あの時、俺がお前に、指輪と一緒にプレゼントしたハイヒールだ。実は、お前が失くしたって言っていたハイヒール、ずっと探してたんだ。だが、見つからなかった。どうしても。だから、新しい物を買ってきたんだ。別にこれで許してもらおうなんて思ってない。……ずっと。……ずっと、謝れなくて……すまなかった」

そう言って、熊谷先生は深く頭を下げた。
よく見ると、熊谷先生は涙を流していた。……あんな熊谷先生、初めて見た。
暫くの沈黙が続く。……と、聞こえてきたのは、『榊先生』の声だった。

『……ありがとう。……ありがとう、敏樹。……ちゃんと、謝ってくれて。……いいの、もう。ちゃんと、謝ってくれたから。……神や仏が許してくれなくったって、私が許すわ。……だから、もういいの。それ以上自分を責めないで。……貴方は、貴方の幸せを。……私、貴方の幸せを、心から……願っているわ。ありがとう。……さよなら。……ごめんなさい。……私、貴方を心から……愛していたわ』

――その声を最後に、榊先生の声は聞こえなくなった。それと同時に、俺にも見えていた白いモヤモヤとしたものが消えた。
「……いっちゃった」
真梨恵が、そう呟く。
その後、真梨恵は、頭を下げたままの熊谷先生に近づき言った。
「……あのね。榊先生、もう怒ってないよ」
熊谷先生は頭をあげ、真梨恵の方を見た。
「……ほんと、か?」
「うん。ちゃんと謝ってくれてありがとうって。それと、神様や仏様が許してくれなくても、榊先生が許してあげるって。だから、それ以上自分を責めなくてもいいよって、言ってた」
「……他には?」

「……ありがとうと、さよならと、ごめんなさい。……それから、熊谷先生の事、心から、愛してたって。熊谷先生の幸せを、心から、願ってるって」

その言葉を聞いた瞬間、熊谷先生は膝から崩れ落ち、泣いた。
俺達は、そんな熊谷先生の姿を、ただ見つめるしかなかった。


【第1話 後日談に続く】
+注意+
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