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聖愛と俗愛について 作者:庚 真守

ヴァチカンの姫君

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小さな魔女と拳銃

 ギリシャへ出発の時間まで、ルクレツィアは何度も繰り返し、サクラに手を出すなと念を押した。
 女というのは、なんでも恋愛に結びつけずにはいられないのだろうか。
 からかい半分に言った『もっとも美しい女性(ベリッシマ)』がまずかったのかもしれない。
 あの頭の固いルクレツィアでさえ、こんな発想をするのだから、女というのは夢見がちな生き物なのか。
 対象者へ恋愛感情を抱くなど、警護する立場の人間からすれば信じがたい話だ。
“貴方が生きているこの世界は、コンピュータによって作られた仮想現実だ”と言われたほうがまだ、現実味がある。
 あまりに馬鹿馬鹿しいので、おざなりな返事をしているといきなりこめかみに拳銃を突きつけられた。
 おそらく、女性がもつならS&W M39のデベルカスタムか。あるいはM3913レディ・スミス。
 ルクレツィアの眼は据わっている。彼女が冗談を言わないことを忘れていた。
 とっさにシリンダーをわしづかみにする。ダブルアクションリボルバーなので、トリガーとハンマーを動かせなくなるのだ。
 このまま闇から闇へと葬り去られるのではないかと、レオーネは焦った。
 ローマには地下墓地(カタコンベ)が多い。迷路のような地下の洞穴に放り込んでしまえば、簡単には見つからないだろう。
 扱いが面倒な相手は、どうやらサクラだけではなくこのルクレツィアも同じらしい。
 シビアに見えて彼女の脳内は、ロマンス映画と現実の区別がつかないようだ。
 もしかしたらこの娘の影響なのか。
 そうだとするなら、サクラは恐るべき魔女なのかもしれない。

 気づかれないように、レオーネはため息をもらした。



 女日照りのヴァチカン勤めをしているからと言って、まさか司祭と同じような間違いを犯すはずもない。
 もっとも、スイス衛兵と修道士は違う。結婚も恋愛も自由だ。
 ただ、長年ヴァチカンで寝食をしていると外界との繋がりがほぼ皆無になってしまう。
 観光客が熱心に記念撮影する門衛は、新米の兵士たちであり、本来スイス衛兵は教皇の近衛兵なのだ。
 本来ならば、ルクレツィアがサクラの護衛をする予定だった。彼女は片言ながら日本語ができる。
 だが、広報部である彼女はすでにパパラッツィと呼ばれる有名人のゴシップを撮るフリーランスのカメラマンに顔を知られている。彼らは“やぶ蚊”と渾名されるだけあって、なかなかしつこい。

 サクラの実父であるヴァチカンの司祭は、観光客であった日本人女性と劇的な恋に堕ちたそうだ。ハニートラップではないかと、レオーネなら疑うところだ。
 だが、司祭をたぶらかした女というのは、残念ながら某国の女スパイではなかった。
 そんなドラマや映画みたいなことが、現実にあるのかどうかは、恋愛に疎い男には理解できない。あまりにも通俗的すぎる。
 残念ながら、そのメロドラマは絵空事ではなく現実だった。

 司祭は棄教さえしようとしたが、それを周囲が許さなかった。彼がヴァチカン内の資金運営を掌る司祭の一人であり、また自身の母国であるシチリアにおいても某組織と強いコネクションで結ばれていたためでもある。
 そのうち、女は交通事故であっけなく死んだ。
 作為的に行われたものか、どうかは儀仗兵の知るところではない。
 だが、司祭は女を忘れられなかった。
 カトリックであるから正式な結婚もできず、認知すらされない二人の間に出来た子供を溺愛する。
 司祭は自身の莫大な資産を子供のためだけにつぎ込み、遠く離れた日本へもたびたび訪れた。
 それがこのサクラだ。
 司祭は、やがて枢機卿となり、今や時期教皇との噂も高い。
 現在の教皇が高齢であり、いずれは教皇選挙(コンクラーベ)が行われるだろう。
 この時期に隠し子の存在は、枢機卿にとって醜聞となる。それを隠蔽するために、サクラは物心つく前から日本の修道院に放り込まれていたのだという。
 もしルネッサンス期であれば、庶子とはいえ彼女の存在も大切に扱われたはずだ。
 史上最悪の教皇と呼ばれたアレクサンデル6世にも多くの子供たちがいた。



「では、これから終世祈願をたてて正式な修道女になるんだね」
 日本語で声をかけてもサクラは、口を利こうとはしなかった。
 レオーネに、この任務が任されたのも日本語に精通しているためだ。
 いささか、その無口さにレオーネはうんざりする。
 いつ話しかけても、よそよそしく、決して視線を合わせようともしない。
 女性の寝室に平気で出入りするような、男を信用しないのは当然かもしれない。
 あるいは、教皇庁へのささやかな抵抗なのだろうか。





 アテネへは日本から直行便が出ておらず、レオーネとサクラはエミレーツ航空を利用した。
 まずは羽田から国内線で関空へ、関空、ドバイで乗り継ぎ、そしてアテネへというルートになる。
 ルクレツィアは自家用機を勧めたが、サクラはそれを断ったのだ。
 周囲の大人たちの都合で、翻弄される次期教皇の私生児。
 日本の修道院ならば、安全かと思われていたのだが、どうやらそこも、パパラッツィに嗅ぎつけられたらしい。
 かといって、ローマに連れてくるわけにも行かず、サクラの身柄は正教会に預けられる。
 相互に同じ教理を分かち合う共同体でもあり、まずは世間から彼女の存在を隠すことが一大事であった。

 よほど、飛行機が怖いのか、発着の時には隣のレオーネにも判るほどサクラは震えている。
 かわいそうになって手を握ってやると、今度は悲鳴を上げられた。
 対象者の手を握るなど本来ならするべきことではないのだ。それでも、つい立場を超えてしまったのは、あまりに彼女が哀れな気がしたからだ。
 いとけないというのだろうか。
 まるで、孵化したばかりの雛を見ているような……どうにも、ほっとけない気持ちにさせられる。
 ルクレツィアがこの場にいたら、間違いなく射殺されているところだ。
 もしかしたら、彼女も今のレオーネと同じく何とも表現しがたいかわいそうだとか、いたいたしいだとか、そんな複雑な気持ちがしたのかもしれない。
「ご……ごめんなさい……」
 震える声で、サクラはそう言った。
「いや。俺のほうこそ、ずいぶん失礼なことをしてしまったね」
 もごもごと口の中で何か言ったようだが、よく聞き取れなかった。
 どんな美声も、聞こえなくては仕方がない。



 乗り継ぎ時間も入れると、羽田からアテネまで約24時間。
 さすがにサクラは、疲労しきった顔で空港に降りた。
 冬のギリシャはオフシーズンで、観光客の姿は少ない。
「そうだ。サクラ、正教会に行く前にちょっと寄り道しないか?」
 レオーネはサクラの顔を覗き込んだ。
 相変わらずサクラは怯える小鳥のように、身を縮めて泣きそうな顔のままうなずく。
 なんで、こんな顔するんだろう。
 そんなに俺が怖いか?
 これでも、子供や年寄りたちの受けはよかったはずなんだが……。


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