枢機卿の私生児
女は、部屋の中央で、やや前かがみになって立っていた。
扉をノックする音にさえ気づかなかったようだ。
膝丈のスカートの裾を持ち上げていたが、レオーネがわざとらしい咳払いをしたことで、ようやく気づいたらしい。
あわてて捲りあげたスカートを放して、頭を起こす。
勢いよく起き上がるので、そのまま後ろにひっくり返るのではないかとさえ思った。
背は低く痩せている。
西洋人とも東洋人とも見分けのつかない不思議な面差し。ほっそりとした頬。肌は象牙色。美しくもないが醜くもない。
黒いスカートに胴着。白のブラウスという地味な服装のせいか学生のようだ。髪を黒いベールに包み込んで、顔をむき出しにしている。
女ともいえぬ小娘――サクラ・マッダレーナ・コレッリ・緒方。
挨拶のために、レオーネが近づきかけたとき、サクラは右手を振り上げた。
細い指先。小さな掌。
黒い袖から覗く白い手がまるで花のようだった。容貌は平凡だが手の美しさは目を惹く。
その手が、レオーネの頬を打った。
派手な音がしたが華奢な手で殴打されたところで、痛みなどないに等しい。
平手をくれた相手は、ますますいきり立つように、両手の拳を握り締めて震えていた。
娘の頬が、紅潮している。
睨み付ける黒い眸は、おそろしく意志が強そうだった。
前もって見せられていた写真は、おとなしくて従順なお嬢様のようにしか見えなかった(当然だ。写真はその内面まで写したりはしない)
これは、まるで手に負えない駻馬だ。
「これは失礼を……」
レオーネは鷹揚に答える。
なぜ殴られたのかは不明だが、どうやらこの娘はかなり怒っている。
あいにくと、女の心の機微など理解するほどのスキルを持ち合わせていないのだ。
世界一小さいと言われる軍隊。ヴァチカンの儀仗兵であるレオーネには、世俗の女性との接点がまるでなかった。
「で、出て行ってください!」
うわずった金切り声でサクラは叫ぶ。片言のイタリア語だ。
確かこの娘は、日本語しか話せないはずだが……。
「じょ、じょじょ……」
あまりに興奮するものだから、サクラの顔はますます赤く染まる。
とうとうサクラは言葉に詰まった。唇を震わせ涙目のままこちらを睨む。
「いきなり女性の部屋に入った非礼はお詫びします。一応はノックをしたのですが」
レオーネが言いかけると、廊下から軍馬の駆けるような足音が聞こえてきた。
あの足音には聞き覚えがある。いささかうんざりした気分でレオーネは、こめかみを押さえた。
待つほどもなく開いたままにしておいたドアから、ヴァチカン職員が入ってきた。
教皇庁広報部に所属するルクレツィア・パヴァロッティである。
長い金髪は結い上げて、ダークスーツにサングラス。目立たないようにしているのだろうが、その美貌はサングラス越しにも見て取れた。
ジャケットの肩が張っているのは、ショルダーホルスターをつけているようだ。小娘一人の護衛にしては、ものものしい。
「スクーザ。サクラ!」
蒼白になった娘の顔を見るまでもなく、ルクレツィアは今の状況を察したらしい。大きく両手を広げてサクラのもとへ駆け寄って行った。
「レオーネ。ちょっと席を外してもらえないかしら」
娘をかばうようにして、ルクレツィアが言う。
スクーザは、友人に対して言う言葉だ。一般的な『すいません』は、スクーズィになる。
彼女が彼女の警護についたのは、レオーネよりわずか数時間ほど前でしかない。今日が初対面のはずだが……。
「なぜだ」
用心深くレオーネは言った。
「なぜですって? レオーネ。ここはヴァチカン宮殿じゃないのよ」
ルクレツィアが眉根をひそめる。レオーネは、あたりを見回した。
岩、貝などをかたどった曲線状の装飾文様やS字状曲線、優美で繊細なロココ趣味の家具と調度品が並ぶ。
中央にはレースのとばりを下ろした寝台があり、いかにも少女好みの寝室だ。
レオーネは、首をすくめて見せた。
「確かに女性の寝室にいきなり踏み込んだ非礼は詫びよう。だが、俺は彼女の護衛だ。理由もなく離れるわけにはいかん」
「だからって、着替えの時まで一緒にいるつもりなの」
「……着替え? もう済ませているじゃないか」
「まだ、途中よ。出ていくつもりがないなら、本気でぶつわよ」
ルクレツィアは、拳を差し上げた。
先ほどの柔らかな手と違って、彼女の渾身のアッパーなら奥歯を砕かれかねない。
「あと、どれくらいかかる」
「それほどでもないわ。貴方がジャマをしなければね」
ここまで言われてしまえば、どうしようもない。レオーネは、踵を返した。
いきなり警護対象者の心証を悪くしてしまったのは、自身の落ち度だ。
レオーネは、こんな任務を与えた上層部と神を恨みたい気分になって、あわてて十字を切った。
「ルクレツィアさん。わたし……」
サクラの片言のイタリア語は、先ほどまでの興奮したものとはまるで違った。
驚くほど優しく甘い。耳をそばだてずにはいられぬほどに心地よい響きがあった。
ふいにサクラが、足をもつれさせる。
すかさずルクレツィアが抱きとめた。
視線を下ろしたところで、娘の膝丈のスカートから覗く足もとから、黒いタイツがだぶついているのが見えた。
着替えなど終わっているものと思っていたのだが、本当に途中だったらしい。
先ほどまでの噛み付きそうな勢いなど忘れさせるように、女たちの笑う声が背後で聞えた。
驚いてレオーネがもう一度、振り返ると二人は、まるで小鳥のように囀っている。
ルクレツィアは気難しい女だ。
いくら仕事とはいえ愛想笑いなどしない彼女が、なぜかこの娘とは気が合うらしい。
レオーネが観光客受けする派手な衣装でヴァチカンの門衛をしていたころから、ルクレツィアを知っているが、こんなふうに笑っているのを見たのも初めてだった。
いつも無表情で、美しいが人形のような女だと思っていた。
表向きはレオーネの仕事も華やかな儀仗兵だが、彼女と同様、裏では教皇や枢機卿の私的生活から、イタリアの国家警察にも介入する。
そうでなければ広報部が拳銃など携帯しているはずもない。
ルクレツィアはクリスチャンでありながら、どこか厭世的な考えの持ち主でもあった。
あらためて入室を許されたレオーネだが、警護するべき対象者はルクレツィアの後ろに隠れていた。
「サクラ。こちらはレオーネよ」
ルクレツィアに促されて、ようやく娘はおずおずとレオーネに顔を見せた。
先ほどまでの強気な様子とは、まるで別人のようだ。
サクラはレオーネと目が合うと、頭を下げた。
不慣れながら、レオーネもサクラを真似て日本式の礼をする。
顔を上げるとサクラは、たどたどしくイタリア語で挨拶を始めた。
「あ、あの……先ほどは失礼、いたしました。すいません」
やはり声音は美しい。
この凡庸な顔立ちから、音楽的とも言えるほどの声がこぼれるのが不思議だった。
「レオーネ・ヴァザーリです。どうぞ、レオーネとお呼びください」
腰をかがめながら、これでもかというほどの愛想笑いをしてみせた。
女性に向けてというより、子供を相手にする時のように、できるだけ目線を近づけようとしたが失敗したらしい。
サクラは、ますます俯いてしまった。
「よ、呼び捨てなんて……」
レオーネの方を見ようともせずに、サクラは言う。
よほど嫌われたらしい。
「……あの……さっきは、……本当に、ご、ごめんなさい。わたし、思わず……」
まるで悪魔に挨拶をしろと言われたような怯え方だ。
人見知りにしても限度があるだろう。
女とも子供とも、どちらつかずの不安定な存在。
世俗に染まってはいないだけに、頑固で堅苦しい。
初対面の男を張り飛ばすほど気丈だと思えば、妙に引っ込み思案であったり。
こんな扱いにくい相手の護衛とは、神の試練はなかなかに厳しいものがある。
レオーネは、こわばりそうになる頬を巧みな顔面操作で優しく微笑んで見せた。
ヴァチカンのスイス衛兵は容姿の整っていることも採用基準の一つであったはずだが、この娘には通用しないらしい。
「サクラ。彼は市国警備員よ。だから、何も心配はいらないわ」
「ヴァ、ヴァチカン市国のスイス衛兵隊って法王様を守っている方ですよね……そ、そんな……わたしは……」
ルクレツィアは、なだめるようにサクラの肩に手を置いた。彼女の方は震えて今にも泣き出しそうだ。
化粧をしていないせいか。幼い顔立ちが、ますます子供じみて見えてきた。
今回の任務は、公にはできないこの娘をギリシャに連れて行くことなのだが……。
少し考えてから、レオーネは言葉遣いを変えた。
「呼び捨てでかまわない。俺も君をサクラと呼ばせてもらうから」
「で、でも」
なおも言い募ろうとするサクラを、ルクレツィアが遮った。
「サクラ。ギリシャまでのことですもの。それもいいのではありませんか」
ルクレツィアに押し切られて、サクラは口ごもる。
それにしてもたわいない。
二人が並んで立つルクレツィアは体格もよく、顔立ちも華やかだ。比べてしまうと娘がいかにも、幼く見える。
しかし、彼女には高貴なる青い血が流れているのだ。
時代が変わればサクラは、姫君と呼ばれていたかもしれない。
もっとも彼女は、私生児である。それも時期教皇となるべき、枢機卿の隠し子だ。
「貴女をこの護衛兵がお連れしましょう。ソレッラ・サクラ」
レオーネがおどけてみせると、サクラはますます顔を赤くして、もじもじとした。
「あの、あたし……まだ修道女ソレッラじゃありません」
生真面目に否定するのが、おかしくてレオーネは、吹き出しそうになるのをこらえた。
彼女は見習い修練女だ。修道服を簡略化した黒い膝丈の衣装に、ウィンプル代わりのベール。
「それはいい。貴女はベリッシマだから」
レオーネの言葉にサクラは、すぐには意味が判らなかったらしい。
一瞬、とまどったように眉根を寄せていたが、しばらくして顔を真っ赤にした。顔だけではなく耳や首筋にいたるまでが、茹でたようになる。
冗談が過ぎただろうか。また怒らせてしまったのかもしれない。
殴られるのを覚悟したが、二度目の平手はこなかった。
ルクレツィアだけが、まるで悪魔のような眼で睨んでいる。