第四節 失敗も乗り越える決戦の日
「さて、やるか」
家に帰ってきて、俺は勉強を始める。
美琴にも慎治にも教えてもらえない科目がある。
それが英語と政治経済だ。
英語は二人とも得意じゃない。
だから自分で頑張らなければならない。
政治経済は、俺が唯一得意とする科目だ。
まあ、これまでも祐奈にギリギリ並ぶことができた科目だ。
今回はまずここで確実に勝つようにしたい。
得意科目で勝てないなら、苦手科目では勝てるわけもない。
得意科目っていうのはまあ、好きな科目だ。
勉強もそう苦痛じゃない。
必死にやれば勝てるだろう。
「お兄ちゃん、頑張ろうね」
受験生の珠優に励まされる。
今日俺が遅めに帰ってきたときには既に勉強机に向かっていて、おそらく飯以外は寝るまで向かっていることだろう。
もちろん俺もそのつもりだ。
「ああ、頑張ろうな」
俺は珠優を励まし返した。
珠優は嬉しそうに、にこりと笑顔を見せてから、勉強机に顔を落とした。
眠く、なってきた。
「お兄ちゃん、お風呂、上がったけど……」
珠優がフローラルの香りと共に戻ってくる。
「ああ、俺はもう少しやるから先に寝てていい。悪いなこっちの明かりは消すから」
俺は部屋の電気を消し、勉強机の電気のみ点けた。
「目が悪くなるよ? 私は構わないから、明るくして勉強してね? 無理はしちゃ駄目だよ?」
珠優は心配そうにそう言って、のそのそと二段ベッドを登り、上から俺を覗く。
そしてそのまま布団の中に消えていった。
俺はもうひと頑張りしようと思った。
思ったすぐは集中できていたが、すぐに睡魔が襲って来る。
眠い。
集中も切れてきた。
こういう場合どうすればいいんだ?
効率ってのを考えると、集中出来ない今日はもうやめて、十分に睡眠を取ってから明日やればいい。
だけど、俺にはもう時間がない。
このまま続けた方がいいのか、寝た方がいいのか?
迷う。
どうすればいい?
…………。
「お兄ちゃん? お兄ちゃんってば!」
俺は珠優に体を揺すられて起きた。
ん? あれ?
目を開けると、目の前に勉強机がある。
電気も点いているが、それ以上に明るい光が窓の外から差し込んでいる。
朝か。
朝だな。
朝!?
「しまった!」
あのまま寝てしまった!
俺は勢いよく起き上がると、まずは風呂場へ向かう。
昨日風呂に入ってない。
さすがに風呂なしで学校に行くのは避けたい。
風呂は流されていたので、俺はシャワーで済ませることにした。
「お兄ちゃん、替えの下着と制服ここに置いておくから」
脱衣所を兼ねた洗面所から珠優の声。
あいつはどれだけ気が利くんだ。
「ああ、ありがとうな」
俺は礼だけ言うと、すぐにシャワーを止めて脱衣所に出る。
もう少し念入りに洗いたいが、時間もない。
脱衣所に出ると、珠優が歯を磨いていた。
俺が入ってくると驚いて口を開けたまま俺を見た。
「ほへん、ふふひはへへほはひほほほっへ」
何を言ってるかさっぱり分からなかったが、俺に背を向けてるって事は、俺の裸が恥ずかしいのか。
おいおい、子供の頃から見てるだろ? こんなの。
まあいい、俺はさっさと珠優の用意した服を着る。
時間は、よし、飯食う時間くらいありそうだな。
俺はダッシュで飯を食い、学校へとダッシュした。
急いだのでいつもより疲れた上に、寝不足でしかも変な体勢で眠ったため、体のあちこちが痛い。
これが直前なら耐えられるかもしれないが、一週間これを続けるのはきついな。
珠優も言ってたし、もう少しペースを落とすか。
「遅い! 何してんのよ全く!」
道端にはキレ気味の祐奈がいた。
ツーサイドアップの髪をはためかせて、腕を組んで立っている祐奈は、どうも俺にキレているようだ。
そういえば一緒に学校行くって言ってたな。
わざわざ待ってたのか。
いや、自分は待ってろとか言うくせに待たされると怒るのかよ。
「遅いって何だよ。俺だって早いときもあれば遅いときもあるだろ。今日はちょっと寝坊したんだよ」
「あんたの事情なんて知らないわよ。あたしを待たすんじゃないって言ってるの!」
平然とそう言い切る祐奈。
お前はどこのお姫様だよ。
「だいたい寝坊なんて何してたのよ。どうせ深夜番組でも見てたんでしょ?」
祐奈は俺の生活を決めつける。
こういう人の生活まで踏み込んで文句言ってくるのはちょっとうざったい。
それがさ、俺ともっと親しくて、いつも一緒に生活してたら別だけどさ、昔ならともかく、今はそこまでの仲じゃないんだよ。
ここまで言われる筋合いもない。
だが、いつもなら心でムカついているだけで反論せずに終わる。
何故ならこいつの言うとおり深夜番組を見てるからだ。
だけど昨日は違った。
「勉強してたんだよ、夜遅くまで」
言うべきかどうか迷ったが、俺は言うことにした。
「へえ……」
祐奈は意外そうに俺を見る。
「ちゃんと頑張ってるんだ。うんうん、中間ではいい成績が取れるといいわね」
軽く俺の背中を叩きながらそう言う祐奈。
こいつにとって、俺との賭けなんて、勝って当然過ぎてどうでもいいのか?
「ま、あたしには勝てないと思うけどね」
祐奈はいつもの馬鹿にした見下すような口調でそう言って笑った。
俺はそれに腹が立ったが、いちいち言い返すこともなく黙って歩いた。
下手に煽って本気を出されるより、余裕でいてもらった方がこっちとしても有利だ
「約束、忘れてないでしょうね?」
すると、祐奈は釘を刺すように言う。
「別に忘れてないけどさ」
こういう時演技力があれば真っ青な顔して懇願でもして油断させるんだろうが、俺にはそんなテクニックないので自然に答える。
「へー、結構余裕あるわね。何でも差し出すのよ? いいの?」
祐奈は俺の態度を余裕と取り、突っ込んでくる。
「別に、お前は何だかんだで高価なものとか、なくなると致命的な物をくれとか言わないだろうからな」
こいつは俺のことをよく分かってるし、俺もこいつのことをよく分かっている。
こいつはギリギリ俺が嫌がるような物を要求してくるはずだ。
それで、これが悔しがるのを見て満足、なんてのがいつものやりとりだ。
「…………!」
どうやら図星だったようで、俺をじろりと睨む。
俺が図星を突いた事に、かちんと来たみたいだ。
「そのつもりだったけどさ、うん。あんたが可哀想だからそのくらいで許してあげようと思ったのに、やっぱり気が変わった」
祐奈は怒ったときによくやる、腕組みと睨みながらの微笑みを俺に向ける。
「あたしの欲しいものは、あんたのエロ本! 全部もらって、学校に並べて『康太の趣味でーす』って張り紙貼っておいてあげるから!」
「!」
なんという非道な奴だ!
そんなことされたら社会的に死んでしまう!
「お、俺はエロ本なんて持ってないぞ! 部屋には珠優だっているんだからな」
「机の引き出しの中」
「!」
「本棚の本の奥、あと、枕の中」
「ちょ、ちょっと待て! なんでお前が知ってるんだよ!」
祐奈のピンポイントの指摘に俺は焦る。
少なくとも俺の部屋に三年は来てないはずだ。
その頃はエロ本なんて持ってなかったから、場所も知らないはず。
「あ、やっぱりそこらへんなのね。あんたの部屋とあんたの性格からすると、そのあたりかなって思ったけどさ」
祐奈がにっこりと笑う。
くそっ! はめられた!
「言っとくけど、今のうちに捨てるとかナシだから。あるのは分かったんだから、後でないって言ったら、もっとひどいこと要求するからね」
釘を刺す祐奈。
「……分かってるよ」
悔しいがこいつにかなわないことは長年の経験で分かっている。
だから、無駄な抵抗はしない。
負けたら素直に差し出そう。
多分適当にぱらぱらめくって俺を馬鹿にするだけで、学校で晒すなんてことはしないだろう。
それを言うとまたかちんと来るだろうから言わないけどな。
だが、勝負に勝つ望みを捨てたわけじゃない。
その抵抗だけは続けてやる。
勝ち目の薄い戦いかもしれないが、少なくとも一矢報いるくらいまでは行ってやる。
俺の目の前で鼻歌を歌っている祐奈。
いつまでもお前の方が上だと思うなよ。
▼
俺はそれからも必死に勉強した。
美琴のノートを写し、慎治が教える公式を覚え、英語と政経を自分で勉強した。
最初こそ寝てしまったが、それからは珠優が心配するほど遅くまで勉強した。
これだけの勉強を、俺は高校受験の時もした覚えがない。
自分の体力を計算して、ギリギリまで勉強し、ふらふらな状態でいよいよ試験当日を迎えた。
問題を解くだけの体力のみ残してあるので、毎日の最後の試験にはそのまま倒れそうだ。
中間は三日間だが、俺は必死に頑張った成果は出たと思う。
その分使った体力は半端じゃなかった。
三日目の最終科目を終えた俺は、そのまま机で寝てしまった。
放課後に部活が終わった祐奈に起こされるまで熟睡していたようだ。
「まったく、本当に寝てるとは思わなかったわ!」
ぷりぷりと怒る祐奈。
俺と祐奈は、そのままの流れで一緒に帰っている。
いや、俺だって思わなかったさ、まさか本当にあんなに熟睡してたとはな。
明日は休みだし、家でじっくりと寝ようかと思ってたんだがな。
こいつが教室に来なければ今でもまだ寝てたかもしれない。
ん? こいつはなんで教室に来たんだ?
「祐奈はどうして教室に来たんだ?」
「あんたがまだ寝てるかどうか確認に来てあげたのよ、まったく」
ため息と共に呆れた声で祐奈が言う。
それに関しては反論の余地もないし、どっちかというと感謝しなきゃならないんだろうな。
俺に関しては、プライベートにまで踏み込んで来てうっとおしいことも多々あるけど、こいつは基本、面倒見がいい。
美琴にしたって、いつも一人でいるから、こいつなりの厚意で誘ったわけだろうし。
そこに相手の意思が介在しないところが迷惑なところなんだがな。
「ま、これだけテストを必死に受けたのは初めてだな」
俺は伸びをしながら言う。
祐奈はそんな俺に暖かく笑いを見せる。
「ま、いつもそうだといいんだけどね」
大きな憎まれ口と、小さな労い。
いつも通りのように思えて、少しだけ違う。
そういえばこいつはずっと俺に勉強しろとか言ってたよな。
で、俺がこいつの挑発に乗って勉強したからこいつの意思通りになったんだよな、結局。
ま、でも、それでも構わない。
俺はその上を行って、こいつに勝ってやるんだからな。
その時の祐奈の顔を想像しただけで痛快だ。
こいつの余裕は、俺が必死に頑張っても自分には勝てないと思っているところにある。
だから、俺が頑張って成績が上がることをただ喜ばしく思っている。
だけど、今度のテスト、俺にはかなりの自信がある。
慎治や美琴に心から感謝するほど手応えがあった。
成績上位は間違いない。
いや、そんなことよりも、こいつ、高埜祐奈に勝つ自信がある。
だが、その事は今は言わないでおく。
下手に挑発して、負けた時のペナルティーがこれ以上重くなるのを避けたいしな。
いや、勝つ自信はあるさ、だけどな、絶対勝てるってわけじゃないだろ?
確実に勝つ自信がない以上、そうしておくほうがいい。
ま、こいつの事だから負けた後散々俺をからかって、最後に簡単なこと言って終わりなんだろうけどな。
俺はもう一度伸びをする。
春の終わりの暖かい風が、俺の肺に広がっていく。
「ここまで必死ってのは無理だけど、頑張るってのは悪くないな」
頑張れば頑張るだけ成績が上がる。
それを実感した今、こういうのもいいな、などと思ってしまう。
祐奈はそんな俺をやっぱり暖かく見つめていた。