第一節 勝利への道のり
それから休みを挟んで試験結果が徐々に帰ってくる授業が始まった。
学校によって色々あると思うが、うちはほとんどの学校と同じく、その教科の担当の先生が担当授業中にテストを返してその解説を行う方式だ。
最初の授業は英語。
これは俺の得意科目でもないし、誰にも教わっていないので勝つことは難しいが、ここで差をつけられない事が重要だと思っていた。
だが、俺はこの科目で絶望を味わう羽目になった。
いや、別に成績が物凄く悪かったわけじゃない。
いつもに比べればそれなりにいい点数だ。
だけど、祐奈と比較するとかなり見劣りするのも事実だ。
「康太~♪」
授業が終わり、弾んだ声で俺のところに来る祐奈。
それが、俺にとって不幸の笑顔だと分かってても可愛いなんて思ってしまうのが悔しいし情けないな。
「……何だよ」
俺は不機嫌そうに答える。
その表情で俺の点数がだいたい分かったのか、祐奈はより笑顔になる。
「何点だった?」
「……六十五点」
「うんうん、あんたにしては頑張ったわねえ。あたしは八十二点だけどね」
祐奈は俺の肩をぽんぽん、と優しく叩きながら、少し嫌味ったらしく言う。
くそっ、負けた……。
いや、英語で負けるのは想定内だったが、十七点もの差をつけられるのはまずい。
祐奈相手にこの差は取り返しがつかない。
負けは確定したようなものだ。
「でも、頑張ったのは本当みたいね。だから、エロ本は勘弁してあげるわ。ま、賭けは続けるけどね」
笑いながら言う、祐奈。
ああ、祐奈は優しいなあ、などと一瞬でも思った自分が悔しかったが、それほどまでに負けを確信していた。
やっぱり駄目だったんだ。
必死に頑張ってもこいつには勝てないんだ。
久々にやってみて、それが分かった。
それが分かっただけでもよかったのかも知れない。
これからはまた頑張らない人生を過ごそう。
そう結論づけた俺が迎えたのが生物の授業。
生物は慎治に教えてもらった科目だ。
だが、もはや十七点差を返せるわけもない。
ま、でも頑張った成果くらいは確認したい、そう思って答案を見ると、七十五点だった。
七十五点!?
俺は何度も何度も答案を見つめて、点数を確認した。
間違いない、七十五点だ。
七十五点なんて、生物で俺が取った今までの最高点を二十点以上上回っている。
「康太、生物何点だった? ちなみにあたしは七十五点」
授業後に来た祐奈は、あえて俺に敗北感を味わわせるため、先に自分の点を言った。
「──七十五点」
だが、その点数は俺と全く同じだったのだ。
これには祐奈も、俺でさえ想定外だ。
俺は静かに言う。
「そ、あたしは七十五点だったけどさ、あんたは何点?」
祐奈は俺がこいつの点を反芻したのかと勘違いして改めて聞いてきた。
「だから。七十五点」
俺は答案を祐奈に見せる。
「……! ホントだ!」
祐奈は信じられないものを見るように答案を見て、そして俺を見た。
「凄いじゃないの! あんた、生物苦手じゃなかったっけ?」
祐奈の心からの賞賛。
だが、それが高いところからの余裕に感じて、俺は素直に受け取れなかった。
「慎治にコツを教えてもらったんだよ」
だから、にこりともせずにそう言った。
「へえ、あんたは本当にやれば出来る奴なのね」
嬉しそうな祐奈。
俺だって心では踊りだしたいくらい嬉しいんだが、こいつが十七点上で笑ってると思うと、そういうわけには行かない。
さっき諦めたはずだったけど、俺はまだ諦めてはいなかった。
まだ、テスト返しは始まったばかりだ。
けど、少し、ほんの少しだけ、この点差を縮められるかも、なんて思い始めていた。
次の授業は数学IIだった。
これは慎治にコツを教えてもらった中で、生物より覚える項目の少なかった科目だ。
生物より自信がある。
今度こそ、今度こそ一矢報いたい。
「……何点?」
祐奈がため息混じりに聞いてくる。
「何だよ、点数悪かったのか?」
喜怒哀楽の表現がはっきりしてる祐奈はとてもわかりやすい。
「そうよ、だからあんたより上だって聞いて早く安心したいのよ、さっさと言いなさいよ、何点なのよ?」
上から目線もここまで来ると腹正しさを一周して微笑ましくさえ思えてしまう。
「七十点だったけどさ」
「……っ!」
祐奈は驚いたような、そして悔しそうな顔を俺にぶつける。
ほんっとうに分かりやすいな、こいつ。
「で、お前は何点だったんだよ?」
俺は逸る心を抑えつつ、そう促した。
「…………六十七点」
「……へえ」
勝った!
ついに勝った!
俺は表面上は大して表情を変えないようにしつつ、心の中では小躍りをしたいくらい喜んでいた。
だって、勝ったんだぞ?
俺が! 祐奈に! あの、祐奈にだ!
まあ、俺も祐奈も苦手科目だけどさ!
それでも勝ったんだよ!
俺はもうこの後全敗してもいいくらい嬉しかった。
「……何喜んでんのよ」
祐奈がそんな俺の表情や身体の微妙な動きから俺の心を読み、睨みつけてくる。
幼馴染には隠し事は出来ないもんだな。
「別にいいだろ?」
だが俺は、あくまでクールを装ってそう言い返した。
「いいけどね、歴史や古典であんたに負けるわけないからね」
ああ、結局表情を隠しても対抗心を燃え上がらせてしまった。
そういうのをなるべく刺激させないようにして、賭けを穏便に済ませたいのに。
まあ、それでも勝ったおかげで点差は十四点に縮まった。
さすがに後四教科で巻き返しは不可能だが、頑張ることによってこいつも「ま、あんたも頑張ったわね。今回の賭けはなかったことにするわ」とかなるかもしれない。
少しでも俺を完全に見下す態度をやめれば、それで十分だ。
消極的だけど、英語で既に負け戦と化したこの勝負を何としても穏便にまとめるには、これしか方法がない。
とりあえずテスト返し初日はこうして終わった。
▼
さて、日が変わり翌日。
今日は文系教科がまとめて返ってくる。
祐奈の得意科目もそっちだ。
ここで何とか点差が離されないようにしたい。
まずは現国。
これは試験範囲も限られていて、美琴の分かりやすいノートを見たので、ある程度の得点は稼げたと思う。
返ってきた点数は七十八点。
まあ、こんなもんかな。
ここまで来ると、高得点に慣れてきて、あまり感動もなくなってきた。
「康太あんたな──」
「七十八点。祐奈は?」
俺は祐奈の言葉に食いぎみで答える。
「……っ! ……七十二点」
そうか、勝ったか。
俺は無感動無関心を装い、ふう、と息を吐いた。
そうか、六点も勝ったか。
ん? 六点?
えーっと、昨日の点差が十四点だったから、これで八点差か。
残る科目は三科目。
すべて三点勝ちすれば勝てるわけか。
ちょっときついが望みはまだある。
まあ、実際のところ、祐奈の得意科目である歴史や古典で三点差をつけて勝つのは難しいが、この勝利で俺は美琴のノートに十分な信頼を置いた。
勝てる。
きっと勝てる。
そして、歴史、というか日本史。
これは祐奈の得意科目であるとともに、美琴の得意科目でもある。
俺はかなり自信がある。
勝てる、と思う。
俺の答案に書かれていた数字は、八十二。
おいおいおいおいおいおいおいおい!
行っちゃったよ、八十点台行っちゃったよ。
祐奈だってなかなか取れない点数じゃないかこれ。
「あたしは七十九点! あんたは?」
自信があったのか、祐奈は自分から点数を言った。
だが、その点は俺のよりも低かった。
「八十二点だ」
「…………っ!」
祐奈は、物凄い形相で俺を睨む。
得意科目で負けたのが、本当に悔しかったようだ。
その表情を見てると、何か心の奥でムズムズし始めている。
俺、こいつの悔しがる顔見てるだけで、興奮してきた。
俺ってずっとMかと思ってたが、実はSなのな。
屈辱の表情を見て興奮するなんて相当だな。
ここできっちりさっきの計算通り三点差をつけることが出来た。
これと同じように古典を乗り越えればいい。
行ける!
もうあと五点差だ。
そして、古典のテストが返ってくる。
俺の点は七十五点。
ま、こんなもんだろ。
祐奈と十分に戦える点だ。
「俺は七十五点だったが?」
今度は俺から祐奈の席に行ってやった。
祐奈はそんな俺を見て驚くが、すぐににやり、と笑う。
「あたしは八十二点だったけどね」
その瞬間、床が抜けたような気がした。
足元がぐらついた。
あれ? 俺何点だったっけ?
えっと、何だ……。
ここに来て七点もの差がつけられた。
通算で十二点差だ。
徐々に詰めてきた点差が一気に広がった。
「ま、あんたにしてはよくやったわよ。えらいえらい」
祐奈が俺の頭を撫でる。
悔しいが気持ちよく、俺は目を細めてしまった。
「ま、本当に頑張ったと思うわよ。心からそう思ってる」
祐奈の目は、たしかに俺を労っていた。
だが、あくまで上からの目線だ。
母親が自分の息子が頑張ったと喜ぶような、そんな目線だ。
同じ目線でなら、もっとこう、健闘をたたえ合うような、そんな感じになるだろう。
俺はそれにイラっと来た。
「お前はいつも上から目線だな」
いつもなら絶対に言わない、こんなことを言えば、後でどうなるか分かってるから、思ってても我慢する言葉を俺は口にした。
「お前は俺が絶対追いつかないと分かったから褒めてるんだよな! 俺と同じ立ち位置で勝負なんてしてない、お前は下々の俺がいっちょまえに頑張ったから褒めてやろうと思ってるだけだろ!」
怒鳴り声に近い、俺の言葉。
その声に、教室が一瞬しんとなる
祐奈ですら、一瞬驚いて俺の様子を窺い、それから徐々に怒りの表情に変わっていった。
「な、なによ! それがどうしたのよ! あんたにそんなこと言われる筋合いなんてないわよ!」
「図星を認めたな! お前はだから人の心が分からないって言われるんだよ!」
長い付き合いだ、こいつがどんな言葉に傷つくか分かってる
だからこそ俺はその言葉を選んだ。
俺の言葉はおそらく祐奈を傷つけ、怒らせることだろう。
だから普段には絶対言わないし思うこともあまりない。
だが、今、怒って自制を失っている俺は、その言葉を止めることが出来なかった。
こいつは自分勝手な性格を、人の心が分からない性分だと、自分でも結構気にしている事を俺は知っている。
その図星を突けるのは、おそらく俺くらいだ。
何故なら、大抵の奴は、こいつを自分勝手だとは思わず、強引だが仲間意識の強い、誰にでも気さくな奴だと思っているからだ。
「な、によ……」
祐奈は俺の言葉には咄嗟に返せなかった。
俺がいきなりこんなことを言うことにも驚いているだろうし、あと、傷ついているんだとも思う。
少し目が潤んだ祐奈を見て、俺は少し冷静になった。
だけど言ってしまったことはもう止められない。
おそらく、祐奈もそうだろう。
ここで泣き出すような奴じゃない。
「もう怒った! 許してあげようかと思ってたけど、もう許さない! テストで負けたら覚えておきなさいよ!」
そして、俺が祐奈につけた傷は、俺自身に返ってくることになった。
そのまま授業が始まったので喧嘩別れしたままだが、まあそれでいい。
この最終科目で点数が決まる。
最終科目は俺の唯一の得意科目である政治経済だ。
勝てる、とは思う。
苦手科目でさえ、祐奈に勝てたんだ、得意科目で勝てないわけがない。
だが、勝てるだけじゃ意味がない。
離れた点差は十二点だ。
つまり、祐奈に勝つには十三点差以上つけなければならない。
それがどんなに大変な事かは、これまでの勝負から分かっている。
俺は、このテストでは勝てるが、合計点では、おそらく負ける。
勝った者が、負けた者の持ち物、何でも一つ貰うことが出来るこの勝負。
さっき怒らせたので、祐奈はかなりの無茶を言ってくるだろう。
俺はそれを、甘んじて受け入れなければならないのか?
くそっ!
これは、今更どうしようもない。
既にテストは先週に終わっていて、あとは返ってくるだけだ。
ま、ここまでよく頑張ったさ。
誰か一人にでもそう褒めてもらえればもういいや。
おそらくそうでない人間の先頭である祐奈に何て言われようとな。
「授業始めるぞ」
政経の先生が入ってきて、授業が始まる。
最後のテストの返却だ。
俺は、ここで奇跡を起こさなければならない。
そう、奇跡さえ起こせば、なんとかなる。
ところで奇跡ってどう起こすんだっけ。
「康太、何点なのよ?」
授業が終わると、少し不機嫌そうに祐奈が席に来る。
まださっきの事を引きずってるのか。
ま、それはどうでもいい。
「点数を言えという時は、自分から言うのが礼儀だぜ?」
俺は妙に格好つけてそう言い返した。
「なによ、わけ分かんないわよ! まあいいわ。あたしは八十二点。どう? 勝てる?」
自信たっぷりの声。
自分が負けるとはかけらも思ってはいない、その声。
まあ、その気持ちも分からなくはない。
八十二点も取れば、まあ、安心だろう。
俺が八十二点以上の得点を取ることはもちろんあるだろうが、十二点差をひっくり返すには、九十点以上取らなければならない。
いや、九十点どころか、九十五点が必要だ。
そんな高得点を俺が取れるわけがない。
だから、こいつは負けるわけがない。
そう思うのは分かる。
分かるけど、それは浅はかだ。
「どうなのよ? さっさと言って負けを認めなさいよ!」
勝った気になってる祐奈が俺を急かす。
俺はゆっくりと答案を机の上に広げる。
「九十五点」
「……っ!?」
祐奈は信じられないものを見るように、俺の答案を見る。
何度見ても、そこに書かれている文字は変わらない。
俺の政経の得点は、九十五点だ。
「あ……え? ああ……」
うろたえる祐奈に俺は顔を上げ、一言言った。
「俺の、勝ちだな」
すると祐奈は、俺が一番見たかった表情をした。