第70話 異世界に来たみたいだけど如何すれば良いんだろう?
いつもの日常が続いている。週末の本日は久々に実家の皆との旅行だ。両親と嫁に出た妹と姪2名の6人で山の宿に一泊旅行だ。
ふと何かを思い出そうとしたあの時から、時々焦燥感に駆られるようになった。
町で金髪の女の子を見ると、自然と目が追っている。ロリコンの気は無い。金髪美乳美女は大好きだが。それとも違う気がする。
心の何処かで求めている何かが有る。でもそれが何か分からない。
無暗な焦燥感はうつ病のサインと聞いた事が有る。一度心療内科にでも行ってみるか。まぁ、今のプロジェクトが済んでからだな。
久々に父親が運転し、宿に向かう。市街地から少し離れれば、もう自然だ。山の中で野生動物が闊歩している。冬の最中と言うのに元気だ。
そんな動物を見ていても、焦燥感や郷愁みたいな感情を感じる。本当に病気じゃないのか?
宿に着くと、その辺りの山で狩られた物だろう。剥製が展示されていた。大きな猪の剥製を見た瞬間、強い焦燥感に駆られた。何か忘れている?
でも、猪に関係する記憶等無い。流石にこんな危険な生物に近づかない。瓜坊を抱いた事はあるが。
そんな日常を送ると共に、どんどん焦燥感は強くなって来る。
「プロジェクト後と言わず、病院に行った方が良いのか?」
独り言が口から出る。もう無意識だ。
明日は、ミーティングが有る為、早めに就寝する。
寝ようとしながらも、横に温もりが無い事が無性に寂しい。もう離婚して2年だ。慣れたつもりだったが。
そのまま、眠りに任せながら、思考が溶けて行く。
6時半と同時に目覚まし時計とスマホがけたたましくベルを鳴らす。
今日は朝からミーティングがある為、何時もより30分早めにセットしていた。
「ね……眠い」
メタボ気味のお腹を揺らしながら、布団からもぞもぞと起き上がる。
2年前までは妻が起こしてくれたが、離婚した後は一人で全てを賄わなければならない。
まぁ、その生活も慣れたものだが。
「シャワーだけ浴びて、朝は会社で食べるか……」
もう年末間近だ。
冬の冷気を浴びながら、風呂場でガタガタ震えながらお湯が出るのを待つ。辛い。
「今日は電話システムの全社一斉更新の中間ミーティングか」
離婚から日が経ち、日に日に独り言が増える。もう何度も思っているが日々酷くなるのでなんとも言えない。
そうこうしている内に、徐々にシャワーがお湯に変わって来た。
脱いだ下着を脱衣籠に放り込み、熱い湯を浴びる。
布団から出てから冷え切った足先から痺れる様に熱気が伝わってくる。
「もう年末だってのに代り映えしない日々だな」
自嘲気味に微笑みながら、タオルで乱暴に体を拭う。
髪はスポーツ刈りに近い短髪なのでセットの必要も無い。
ただ、微妙に伸び始めてはいる。散髪に行くかは迷う時期だ。
下着、シャツを着てPCチェアーに座り込む。
リンゴマークのスマホで本日のニュースと株価をチェックする。
「隣国の所為で大分値下がり激しいな。がー、一旦塩漬けするか。まぁ、特に代り映えのしない日か」
朝の日課も終わりそろそろ家を出る時間も近づいてくる。
「さぁ、今日一日も頑張りますか」
『代り映えしないと思っていた日々』も、もう少しで大きく変化する事を私はまだ知らなかった。
スーツを着込み、通勤鞄を持ち、革靴を履き、アパートの扉を開けた瞬間。
そこは真っ白に輝く空間だった。
「え?」
狭い廊下から一階への階段と続くはずの空間は無く、ただただ真っ白な空間が扉の前に広がっていた。
ふと後ろを振り向くと、今閉めたばかりのアパートの扉すら無くなっていた。
「何これ?どうなっているの?分かる人説明してくれないかな」
半ば呆然としながら返答を求めない疑問を空間にぶつけてみる。
<状況認識及び応答を希望されました。スキル『識者』の付与を実施します。>
幼い中性的な声が明確に聞こえる。ただそこに甘さは無く、電子音声に近い硬い声だった。
「しきしゃ?」
しきしゃ……指揮者?識者?それが何を意味するのかはさっぱり分からない。
ただ、この現状を把握し説明して欲しいが為に疑問を発したが、返って来たのこれだった為、余計に混乱が増した。
「良く分からない。何が起きているかの現状確認を行いたいだけだ。君は誰だ?私は今どの様な状況におかれている?」
<現状確認の明示化を希望されました。スキル『識者』より派生させスキル『認識』を構築しました。スキル『認識』の付与を実施します。>
疑問を投げかけたのに、全く意味の無い答えが返ってきた。情報のやり取りが出来ないのかこの状況は。
出来の悪い人工無能と喋っている気がする。純粋にこちらの要求を提示した方が話が早い気がしてきた。
「私は現状の情報、得られる全てが欲しい。君にはそれが実行出来るのか?」
取り敢えずは有るだけの情報を得た上で、今後の判断をすれば良い。その上で現状を打開し、会社に行けば日常に戻れる。
そう思った私は、大きな意味での全てを求めた。
<実行する全ての情報及び経験の取得を希望されました。スキル『獲得』の付与を実施します。>
曲解も甚だしい答えが返ってきた。聞いているのに、答えが返ってこないこの不毛感。
このまま押し問答を繰り返しても、埒が明かないだろう事は明白だった。
「この真っ白な空間から出して欲しい。可能だろうか?」
最もシンプルかつ間違い様の無い疑問、要望を投げかけてみた。
<私はインターフェース。貴方を此方より彼方へ送るものです。>
此方?彼方?
私はアパートに戻り、会社に行ければそれで良いのだが。
<では、良き旅路を。>
インターフェースと名乗った存在が最後の言葉を残した途端、真っ白な空間は輝度を上げ、目を開く事も困難になってきた。
「おい。元の場所に戻してくれるだけで良いんだ。おいっ」
輝度は益々上がって行く。このままどうなるのか、全く分からない事にぞっとする。
ふとそんな中、どこかで聞き覚えのある言葉が聞こえた。
<告。帰還を祝福します。彰浩。>
<おかえりなさい。>
強い光に、瞑っていた瞳をそっと開ける。
記憶の整合性が取れた。あの焦燥感、求めていたもの、全てリズだ。リズ、リズ、リズ……。
ふと気づくと、白い空間の中、目の前にあの胡散臭い奴が立っていた。
「再抽選に選ばれました。おめでとうござい、まーす」
両手で、私の右手を握ってブンブンと振る。
「まぁ、再抽選と言いますが、クライアントにせっつかれまして。再当選の名目で再度のお呼び出しとなります」
話を聞くと、どうも私が帰還した後、クローン環境上で同じ様な呼び出し行為が繰り返されていたらしい。
数億回の試行と聞くから、壮絶な状況なのは想像に難くない。
「いやはや。あらゆる世界の方を対象にしましたが、初回のコンタクトの際にパニックを起こされるか、拒絶状態に陥るか、まともな方は極少数でした」
やや苦笑を浮かべながら、続ける。
「送り出しても、似た思考の方をお連れしたはずなのですが『俺つえー』とか叫びながら、素手で動物を倒そうと返り討ちになりそうなので緊急送還しましたし。森に籠って半月程で餓死寸前になったので緊急送還したり、大変でした」
大げさに肩を落とす。
「まぁ、視聴率もガタ落ちです。このまま続けるのであれば契約を打ち切るスポンサーも多数出ます。と言うか最後通牒貰っている所も有ります。研究機関もこのままでは研究にならないとお冠です」
流石に焦燥感を感じさせる顔になっていた。
「第4の提案ですが、飲みましょう。ただ、研究機関的には、十数年の動きは追いたいとの事です。そこはご了承下さい」
リズの事は頭から離れなかったが、これはビジネスの話だ。切り替えた頭で条件を詰めて行く。
・私と妻、及び子供に関してはプライベートネットワークを別途地球まで通して貰い、好きな時に地球に戻れるようにする。
・妻や子供が移動する場合は、一部記憶の改竄に関しては処置する。これは余計な文明の流入を防ぐ為だ。
・地球で私が死んだ場合は、やや過去に戻し、その事実を無くし、奇跡の生還を果たす形になる。
・この世界での死亡は、巻き戻せないので、気をつけなければならない。
・物質の持ち込みに関しては、程々には許容する。また持ち込んだ物質は、この世界の物質と自動的に変換される。
分量としては男爵になった際の初期ブースト分程度だろう。それ以上やそれ以外は警告される。
・検索エンジン等や図書館で知識を得る事は容認された。ただ、大規模掲示板やシンクタンクの開設など集合知を掻き集める行為は引き続き厳禁とする。
・今まで持ち込んだ機材に関しては、初期状態として扱い、補充も許す事とする
・私は自由に地球に帰り、調査をした後、また戻る事は自由とする。
「この契約が満了した際には、お渡しした金額はそのままでリズさんですか?彼女と子供さん達に知識と戸籍を用意します、地球での生活に関してはフォローしますので、天寿は全う出来るでしょう」
リズや子供の記憶を弄られるのは嫌だが、最終的に地球で共に暮らせるのであれば、もう、納得するしかない。知識の導入に関しても書き換えは最小限で、少しずつ勉強と慣れで修正するらしい。
他にも細かい諸条件は書かれている。書面にまとめられた内容を隅々まで確認して行く。少なくとも致命的な抜け漏れも隠された条項も無い。裏面も重ねが無いかも確認した。
日程の部分に関して、現日時を正確に確認した上で、このタイミングから15年で契約満了となる事も確認した。
最後に、契約書にサインを交わし、片方を受け取る。
「いやぁ、貴方が再抽選の当選者として戻られると発表した瞬間から、視聴率、爆発状態です。是非、頑張って下さい」
最後まで胡散臭い奴と握手を交わす。
「では、元の時間軸に戻します」
奴が呟いた瞬間、周囲が薄暗く、目前が明るい。
領主館の入り口の手前か……。
思った瞬間、目の辺りに熱さを感じた。
「俺……もう……本当に……また……」
言葉にならない何かが込み上げて来る。
「異世界に来たみたいだけど如何すれば良いんだろう?」
如何する?決まっている。リズだ。リズに謝らないと。彼女は分からないかもしれないけど、構うものか。
一緒に歩こうって言ってくれたのに、自己犠牲で逃げてごめんって。そして、男爵の件、相談しよう。
これから長い時間、明るい未来を、共に歩んで貰う為に。
入り口を抜けた瞬間、秋の空がどこまでもその青を主張していた。一瞬明るさに細めた瞳を開け直し、その青さを見つめていた。