第487話 神々の湯
振り返ると、頭が見えた。あれ?
「久しいのじゃ。息災かのう?」
視線を下げると、ディアニーヌがジョッキと瓶を持って、立っている。あるぇ、絶対にシェルエが来ると思っていたけど。
「ふん。その顔は予想でも外したかのう。どうせシェルエとみたか? あやつは最近さぼりがちなので、監禁……ごほごほ、残業中なのじゃ」
監禁って言った。まぁ、そうでもしないと降りて来て遊び呆けそうな気がする。
「統治のフォローは儂の領分故な。今回は役得と言う訳じゃな」
そう言うと、ジョッキを傾ける。
「失礼ですが、それ、仕込み中のやつでは無いですか?」
「おう。少し失敬したのじゃ。地球でも言うではないか、天使の取り分と。儂、神じゃしの。ちょびっとくらい許すのじゃ」
「御使いでは無いですし、貯蔵中では無く、醸造中です。まだ若いでしょうに」
試験的に作り始めた上面発酵ビール、エールだ。ホップは予想通り薬師ギルドで健胃薬として乾燥状態の物が売られていたので、助かった。
「んく……。確かに、まだまだ甘いのじゃ。どれ」
ディアニーヌが瓶に手を翳すと、ほの明るい光に包まれる。
「限定空間の時の加速じゃな」
ふふんと鼻歌を歌いそうな顔で、事もなげに言う。
「時を……操れるのですか?」
「ん? いや、操れんぞ。この次元に住む限り、時の操作は無理じゃ。エントロピーは増大するものじゃしな。それを前提に加速は可能じゃが、過去に戻る事は出来んのじゃ」
「時間の矢……ですか?」
「うむ。そうじゃの。例えば、このエールを作る際に使った大麦と全く同じものをバックアップからコピーして作る事は可能じゃ。でもそれは別にエントロピーの増大を招いておるし、コピーした大麦が材料の大麦と完全に同一かは認識によって相違するのじゃ。分かるかのう?」
「全く同じ物でも、別の存在だと言う事ですか? 要は、過去に戻った訳では無く、あくまで未来の中の話だと言う事ですか……」
「ふむ。その辺りの理解で構わぬのじゃ。故にこの世のものは未来へと、先へと歩まねばならぬのじゃ。さて、ついでに少々冷やしたのじゃ」
ディアニーヌがとんとテーブルにジョッキを二つ置く。瓶からトクトクとジョッキにエールを注ぐ。
「まずは一区切りじゃのう。儂の宿題も達成してくれたのじゃ。温泉に乾杯なのじゃ」
ディアニーヌがジョッキを掲げる。それに合わせて私もジョッキを掲げ、かちりと当てる。
「乾杯です」
ジョッキを傾け、濃い茶色の液体を泡ごと口に含む。その瞬間、ほのかな甘みを帯びた複雑な香りと苦みにも似た深いコク、その後に果実のような香りが鼻を抜ける。
「ふむ。完成形がこれじゃが、成功じゃのう」
「そうですね。もう少し先と見ていましたが」
「ふふ。その辺りは許すのじゃ。地球でも言うじゃろ。とりあえず、生一丁と」
「確かに生ビールですけどね」
苦笑を浮かべながら席を勧める。ディアニーヌが腰かけ、料理に手を伸ばす。
「ふむ。様子は見ておったが、実際に味わうとまた格別じゃのう。この世界の物でようここまで洗練させたのじゃ」
「材料は地球と変わりませんから、こつこつと日本文化を浸透中です」
「あはははははは。日本の文化は世界一というやつじゃな。あらゆる文化を飲み込みながらも、日本文化に昇華させる。あれは感心するのじゃ」
「もう三千年以上続けておりますので」
「しかし自分が管理する世界を味わう事の何と甘美な事よ。なれどアキヒロには客として苦労をかけさせたのじゃ」
「いえ。良い出会いもありました。今は幸せです」
「そう言ってもらえれば助かるのじゃ。依然管理者側からは音信不通故、何も出来ん儂等を許して欲しいのじゃ」
苦笑を浮かべ頭を下げるディアニーヌを見ながら、真実が告げられない事に心がささくれる。
「いえ。お忙しい中努力して頂いているだけで有り難い事だと思っております。お顔をお上げ下さい」
「不甲斐無いのう、本当に。管理者と言うても、結局はただの舞台装置故な。これからも苦労をかけるとわかっておるのに何も出来ん」
「いつも手助けして頂いております。まぁあまり責めず、偶にはゆるりと休んでいかれては如何ですか?」
「そうじゃのう。温泉も入らねばならぬしのう。しかし、エンターテインメントか……。ようここまで発展させたのじゃ」
「記憶頼りの産物です。しかし、管理者としてこの状況は許容出来る話なのですか?」
「構わん。文化なぞ、どこかでブレイクスルーが発生するものじゃしのう。逆にもっと日本の技術を前面に出すと思っておったが、えらくこの世界に考慮しよるのじゃ。それがいじらしゅうてな。気を使いおって……」
「いえ。出来る事をこつこつとやっているだけですので」
「今日の様子を見る限り、大きく荒れる話では無い。公営ギャンブル以外は許さぬ腹じゃろうし、このまま前に進むが良いのじゃ。流石に停滞が続くと人も腐る故な」
「分かりました。不都合が有れば仰って下さい」
「うむ。しかし、客として接すると言うスタンスは変わらぬのじゃ。故に、不都合が有れば言うが良い。お主は少し、我慢が強すぎるのじゃ」
「性分でしょうか……。自分で出来る事は自分でこなす性質ですので」
「それが好ましいと言うのもあるがのう。まぁ、頼るべき時は頼るのじゃ」
「分かりました」
「ふむ。あぁ、それと。この世界の人類に手出しをし過ぎと言う意見じゃが」
「はい。そう言う印象は持っています」
「神々の中でもそう言う意見は有るのでな。影響が出ない形で、少しずつ自立を促す方向で考えるつもりなのじゃ」
「そう……ですか。人類にとっては少し大変かと思いますが、親離れは必要かと思います」
「親離れか……。子離れが出来ていないと言うのが適切かもしれんがのう」
そう言うと、ぱくぱくと料理を食べるのに集中し出した。私もワインばかり飲んでいたので、軽く摘まむ。夕ご飯は食べたので、軽くだ。
今後の町の方針や、国家の統治に関しての方針に関しての雑談を交わしながら、エールと食事を楽しむ。
「はは。楽しい時間を過ごしたのじゃ。では、軽く風呂に入ってくるのじゃ」
「楽しんで頂ければと思います」
「変わらぬのう……。お主は。詮無き事か。では、またなのじゃ」
そう言うと、ディアニーヌがふっと姿を消す。
皿を片付けると、瓶とジョッキが無い事に気付く。オーバーテクノロジーは流石に回収してくれたか。
「相変わらず、忙しそうだけど。ゆっくり休んでくれると良いな……」
ふっと、柔らかな笑いが浮かび、気持ち良い春の風を浴びながら、部屋への道を歩む。神様の入る湯かぁ。中々に壮大な話な事でと独り言つ。