第479話 まだPDCAサイクルを回せる状況では無いです
ペット風呂に近付くと完全に思い出したのか、二匹が興奮気味にリードを軽く引き始める。
『まま、はやくなの』
『ぱぱ、いそぐ』
それでも、きちんと目標に向かって駆け出さないだけ大人になってきたのかな。少し小走りに建物に向かう。
足を拭って、中に入る。ふわっと香る温泉の香り。念の為、脱衣所で服を脱ぎ始めると、待ちきれないのか周囲を二匹でくるくる回り始める。
「こら、あまり走らない。床が爪で傷むよ」
声をかけると、お座り状態ではっはっと舌を出す。籠に服を入れて、布を片手に浴場に向かうと、たーっと駆け出す。この辺りは変わらないか。
浴槽近くまで走っていき、クンクンとお湯を嗅ぐ。キャンとウォフと鳴いて、早く入れろとせがんでくる。抱えてゆっくり浸けようとすると、じたばたと早く入りたそうにもがく。ぽちょんと浸けると、二匹共、温かさにうっとりした顔になる。浅い方をちょこちょこと歩きながら、徐々に深い方に、歩いていく。
『あまり深い方は危ないよ』
『へいきなの』
『だいじょうぶ!!』
『馴致』で注意をすると、自信有り気に答えると、一瞬浮かんだと思うと、犬かきで泳ぎ始める。海の時のプールもそうだったけど、もうきちんと泳げるか。
楽しそうに泳いでいる二匹を見守りながら、テディの事を思い浮かべる。重い責任は負わしている。周囲の宿屋関係に関しても最終的な責任はテディと商工会に有る。その中で、楽しそうに温泉宿の明日を語る姿を見ていると、本当に有り難いと思う。
正直、まだ細かい部分のPDCAサイクルを回そうとは思っていない。特にサービスに関わる部分はプランの段階で私自身が全貌を見えていない。現場の方が余程先が見えている。そう言う意味ではガチガチに計画を固めるよりも、現場に任せながら変化や商機を見出してもらう方が望ましい。OODAループなんて昔に流行ったなと思いながら、現実的にそうなっている事に苦笑が浮かぶ。オリエンテーションの部分を歴戦の勇士の勘と実績に任せて、ディシジョンの部分で最終決定の責任をこちらが持ち、アクションを起こす。それぞれのフィードバックを常にオブザーベーションしながら短い周期で改善と実施のループを回していく。そうすれば、螺旋のようにサービスの品質は向上するはずだ。
ただ、問題なのは信頼出来る相手でなければ、オリエンテーションの情報が信用出来ないと言う部分がある。若しくは、失敗する時もここが問題になる。なので、何処まで相手を信じられるかが肝になってくる概念でもある。幸いノーウェから譲ってもらった政務団も信用は出来るし、テディも信頼に値する。町の商家連中も、商工会が目を光らせているので十分に信用出来る。そう言う状況では、PDCAサイクルを保守的に回すよりも、現場の要望に柔軟に対応しながら、お客様の望む物を提供していけるOODAループを回している方が中期的に見た場合は良いのだろうとは思う。一定以上の規模の経済が生まれてくれば、そこを切り離して、確実に求められるものを提供するPDCAサイクルに当てはめれば良いだろう。
ちなみに、ネス達に関しては元々町として必要な物は決まっているので、計画的に作ってもらっている。ここは商工会が厳格に定めている。私の要望はあくまで横入りなのでネスが余剰のリソースを作って対応してくれているだけだ。こっちはもうPDCAに近い形で運用が回り始めている。ギルドの構造自体がサイクルを回す為の機構になっているので、そのまま任せている部分が大きい。建材用の釘や、調理道具から順に数量要件に合わせて量産されている。
ふと、そこまで考えていると、泳いで暑くなって来たのか、タロとヒメが湯船の縁の方までちゃぽちゃぽと歩いてきて、顎を乗せてぷかっと浮かぶ。
『ぬくいの……』
『ぬくい』
二匹共リラックスして、浮かんでいる。ただ、あまり長く浸かり過ぎても体温が上がってしまいそうだ。
『そろそろ上がる?』
『馴致』で聞いてみると、二匹が少し考えて、ぷかぷかしながらまた奥の方に漂っていく。脱力状態で微妙に進む事を覚えたか……。器用な。
まぁ、かなりぬるめだし、少し冷たい水をあげれば良いかなとは思う。それまでは好きにさせておこうと眺める事にした。
暫く大人しく浮かんでいたと思うと、ちゃぽちゃぽと泳いで、こちらの方に向かってくる。
『まんぞく』
二匹が縁に顎を乗せて、伝えて来る。ざぱっと湯船から上げて、布で拭う。タロがキャンキャンと鳴きながらくすぐったそうに身を捩る。ある程度拭い終わったら、ブローを浴びせると細目でしっかり立っている。涼しくて気持ち良いのか、逃げない。毛をわしゃわしゃしながら乾かし終わると、脱衣所の方に誘導する。同じくヒメも拭うが、こちらはぐっと我慢している。でも、くすぐったいのか、身は捩る。ブローまで済ませて、脱衣所の方に向かわせる。
湯船とは別のかけ湯を浴びて、体を拭い、脱衣所に戻る。皿を生んで、二匹に少し冷ための水を生んで渡すと、美味しそうにシャバシャバと勢い良く飲んでいく。下着を着けて、服を着こもうとすると二匹が皿の前で伏せてじっとこちらを見ている。もっとらしい。再び水を生むとまた嬉しそうに飲み始める。
服を着た辺りで満足したのか、二匹がくわっと欠伸をする。ちょっと湯疲れしたのかな。エントランスも開放しているはずなので、涼みながら少し寝ると言うのも良いだろう。
二匹に首輪とリードを付けると、のそっと立ち上がる。まだ遊ぶの? みたいな顔をしているのに苦笑が浮かぶ。二匹の頭を撫でて、本館の方に向かい始める。十分遊んで満足したのか、前回来た時に付けた匂いがまだ残っているのか、壁に体を擦り付けようとはせずに、素直についてくる。どちらかと言うとおねむな感じなのかな。
エントランスに辿り着き、大開放の真正面のソファーに腰を下ろす。柔らかな陽光と爽やかな春の風が心地良い。ふっと息を吐き、ソファーに背中を預けて、首をこきりと鳴らす。私の雰囲気が伝わったのか、タロもヒメも足元でくるりと丸くなり、寄り添うように眠り始める。余程眠たかったらしい。私も連日の疲れのせいか、欠伸を一つ。首を後に倒して目を瞑ると、すぅっと意識を失う感じがした。
「……ロ、ヒロ、起きて、ヒロ」
揺さぶられ、呼ばれる感覚に、意識が覚醒する。目を開けると、艶々で上機嫌のリズが立っている。
「あぁ……寝てたかな」
「うん。暖かいからって寝ていたら風邪引くよ?」
「んー。それは大丈夫そうかな。でも、気を付ける。ありがとう」
そう言いながら、立って周りを見渡すと、皆、さっぱりした顔になっている。にこにこしている中でも、ラディアがやはり一番感動している。
「失礼しました。見苦しい姿をお見せしました」
「いえ。町の事で、お疲れと思います。ふふ。可愛らしい寝顔でしたよ」
「それはお恥ずかしい。如何でした? 宿のサービスは?」
そう聞くと、ラディアが上気した顔で息を吸い込む。あ、これは長くなるかな……。ミスったかも。
「お湯に浸かる事は体験して気持ち良いと分かっていましたが、広いお風呂がこんなに解放感が有るとは思いませんでした。それに露天風呂ですか。少し恥ずかしい気もしましたが、外の景色を眺めながら浸かるお風呂は何とも表現出来ない程に心地良かったです」
言い切ると、再度息を吸い込む。
「それに、エステですか。ノーウェティスカでもオリーブオイルでの洗浄サービスは有りますが、それが美容にまで効果を発揮するとは。鏡を見た瞬間、感動しました。それにこの赤ちゃんのようなモチモチの肌。あぁ、もう、ここに住みたくなってきます」
まだ、続きそうなので、インターセプトする。
「ノーウェ子爵様も浴場の建設は始めていますし、もう少しの辛抱かと思いますよ」
「あら。ふふ。お恥ずかしい。少し興奮してしまいました。しかし、駐在武官が誰になるのか、まだ触れが出ていないので気になりますね」
「駐在武官ですか?」
そんな話は聞いていない。
「はい。もしもの際に軍事的な連携を取る為に、伝令を含めて男爵様に部隊をお預けします。基本的に寄親が寄子の世話の為に慣習的に送りますね」
あぁ……。慣習的な物なのか。法律で厳密に定まっていない物だから知らなかった。
「基本的に独立した味方が存在すると考えて頂ければ良いと思います。指揮権も男爵様が持ちますので」
と言っても、預かった兵士を危険に晒す訳にもいかないし、ちょっと面倒臭いな。
「何か有った際には、優先的に伝令として走る部隊が存在すると考えれば良いかと思います。駐留費用はノーウェ子爵様の負担ですので、あまりお気になさらず」
「分かりました。友好ともしもの際の助けを呼ぶ為の制度なのですね」
「はい。しかし、この町であれば、競争してでも来たがる人間は多いでしょう。私も立候補するつもりですし」
冗談とも本気ともつかない顔でラディアが言う。
「はは。気に入って頂いて幸いです。でも、出来れば良かった旨は戻られてから宣伝頂ければ幸いです」
「はい。それはそれとして宣伝します。こんなに幸せなのは生まれて初めてかも知れません。この喜びは皆に伝えたいですし、感じて欲しいです」
少しクールな印象が有ったラディアも一気に華やいだ印象に変わった。やはり肌の手入れ一つでも女性は大きく変わるなと本気で思う。
「では、戻りましょうか。皆も湯疲れしているでしょう。夕ご飯までは少し部屋でお休み頂いた方が良いかと思います」
そう言うと、皆が頷く。ソファーから立つと、皆も荷物を抱え直す。レイが目礼をして、足早に玄関を抜けていく。馬車を回してくれるのだろう。
「まぁ、何よりも喜んで頂けてなによりです。伝令の任で疲れた体が少しでも休まったのであれば、これ程嬉しい事は無いです」
「そう言って頂き、本当に嬉しく思います。このような厚いおもてなしを頂いて、本当に光栄に思います」
にこやかにラディアと雑談を交わす。暫くして頃合いかと玄関の方に歩き出すと、女性陣がラディアを囲んでお互いを褒め合う会が始まっていた。本当に好きだなと軽く苦笑を浮かべながら、馬車に向かう。少し眠って頭は随分はっきりした。少し疲れがたまっていたかと、これまでの動きを思い出し、日本で働いている時の方がもっと仕事をしている気もするなとは考える。ただ、責任が有る仕事を延々とこなすのはまた違う疲労が溜まるのだろうと思い直し、少し仕事の量も考えるかと頭の片隅で考えながら、玄関から出る。見送りにテディ達が並んでくれているのに、手を振り、馬車に乗り込む。
「また、機会が有れば是非来て頂ければ光栄です」
ラディアに伝える。
「その際は是非に。何としてでも来れるよう努力します」
そう返ってきた。あぁ、それ程までに執着してもらえるなら、当たる確率は高いかな。温泉宿の開店が楽しみだ。そう思いながら、緩やかに進む馬車の揺れに身を任せた。