第398話 人魚達の幸せと新たな覚悟
「水分補給はこまめにして下さい。喉が渇いていないと思っても、無理にでも飲んで下さい」
汗だくになりながら荒焚きの薪をくべ、火かき棒で均していく。火傷は神術で治せるけど、脱水症状は神様にどう申告したら良いのか分からない。となると、水と塩分を頻繁に補給するしかない。でも岩塩なので、ミネラル分が不足する。なので、若干の海水を含みながら作業を続ける。病原性好塩菌がいたら怖いけど、荒焚きした後の海水なら大丈夫だろう。ただ、灰汁は大分感じなくなったが、にがりが濃くなって口に含むと顔が歪む。苦い。でも摂取しないと脱水症状になる。この辺りはマニュアルにきちんと記載しておこう。
掌の筋肉痛も、燃え上がる炎が忘れさせる。明々と燃え滾る炎はどこか人間の高揚を誘う。服を汗だくにしながら、それが熱気で乾燥してまた汗を吸う世界の中で、延々鍋の様子を見る。部屋中に広がる蒸気でもやがかり、鍋の中で赤く沸々と沸き上がる海水と相まって、地獄の底のようだ。カビアには悪いが、マニュアル起こしの為、昨日と同じく横に付いてもらっている。委細漏らさず、鍋の変化を克明に記し、誰が作っても同じ質の塩が出来るようになってもらう。焚きの作業に関しては、荒焚きの時はそこまで難しく無い。塩作りを見学に行った時は、本焚きの際こそ注意しなければならないと言われた。変化を具に観察し、一定のタイミングで止めなければならない。そうしなければ必要以上ににがりが残る。塩が不味くなる。明日の本焚きは朝から地獄だし、並列で釜二つを焚くとなると、死ねそうだな。
でも窓は開けられない。湯の温度が調整出来ない。この地獄の底で頑張るしかない。
「男爵……いえ、領主様。大丈夫ですか? このような些末事まで為されて……。お体の調子を心配致します」
村長も、これからの塩作りの音頭を取ってもらう為に、全体を網羅して見てもらっている。作業には携わっていないが、室温と湿気で汗だくなのに変わりは無い。
「塩作りは、私しか分かりませんから。初めの方はしょうがないです。村長こそ、事務作業も有るかと思いますが、付きっ切りで申し訳無い」
「いえ。元々製塩が目的の村です。事務方としての働きはそこまでは有りません。諜報関係との調整や、今後の農業計画の方が重点になっていますね」
砂糖の生産か……。ここで成功出来れば塩と砂糖、両方がこの村で生産出来る。そうなれば、この村は金を生産するのと同義になる。塩は生きる為に必須だし、砂糖は快楽に依存させる。それが両輪となって『リザティア』を前進させる駆動装置になる。それにサトウキビと言えばラム酒だ。何としてでも成功させる。美味しいラム酒の為にも……。夏のこの村でキンキンに冷えたダイキリを呑みたい。
「そう言えば、サトウキビの苗は入手出来ましたか?」
「はい。元々の株の根から出て来た芽を植えると言う栽培法のようで、大量の芽を買い取りました。お話を頂いた通り、畑の方は五十センチは掘り返しましたし、畝ですか? 土も盛ってそこに植えつけました」
約一ヘクタール分を砂糖畑として用意した。川からも水は引いているので少人数でも管理は出来る。日本で作れば約五十トンは砂糖が生産できる計算だが、圧搾装置の精度の問題でそこまでは絞りだせないだろう。ただ、植え付け時期としてはぎりぎり間に合った。このままいけば春植え扱いで、一月か二月辺りには収獲可能だろう。
五十トンと言えば多そうだけど、日本の一家庭で年間消費する砂糖の量は約十キロ程度だ。最大量を生産しても、五千世帯にしか配布出来ない。商業利用を考えればもっと配布量は減る。なので、今年は商業利用と、来年への増産への過程と割り切る。『リザティア』に住んでいる人達には加工品を買って楽しんでもらおう。
「はい。それで結構です。夏前に肥料を撒く必要が有りますので、その時期にはまた来ます」
「分かりました。しかし、塩もそうですが、砂糖の栽培まで……。前にご一緒した際も博識な事は垣間見えましたが、本当に何でも御存知なんですね……」
「何でもは知りません。郷里で色々勉強したので、その知識ですよ」
転勤族の子供と言う事で沖縄にも住んだ事は有る。その時は学生で、冬が深くなると皆休む理由が良く分からなかったが、今なら分かる。収穫の手伝いに駆り出されていたのだろう。機械化したと言っても手作業が必要な部分は多々と有る。そう言う意味では猫の手も借りたいだろうし。ちなみにその時期は授業が進まず自習の時間が多かった。転勤して初めての冬はそれに驚いた。沖縄生活時代にサトウキビの育て方も聞いたので、ある程度は把握している。
「出来れば、現状生産している場所でどのような栽培方法を取っているのかは知りたいですね」
「はい。それも書面で買い取りました。保守派の貴族ですが、開明派とも親しいのでその辺りは話が早かったです。海側は麦の生産が悪い為、過酷になりがちです。開明派の貴族が砂糖と引き換えに麦を多量に融通しているのも有って、非常に好意的です。また、砂糖の生産量そのものも管理出来る上限が有りますので、この話そのものに肯定的です」
新たに薪を放り込みながら、話を聞く。どこも手が回る範囲で一杯一杯なんだろう。砂糖なんて脳内の快楽中枢を刺激するものだ。有れば有るだけ欲しくなる。生産してくれるなら、広めたいと言うのも分かる。今後も好意的な関係を築けるように謝礼に関しては大分気を遣った。そう言う意味では非常に好意的にこちらを見てくれている。保守派の中にそう言う勢力が出来るのは安心だ。出来れば内通まで出来る程度に関係は深めたい。海と塩は切っても切れない縁だ。テラクスタ伯爵領への交易はノーウェ絡みで実施するのは確定として、あちらにも流してあげたい。そうなると交易船が欲しくなる。テラクスタ伯爵側と早めに調整を進める方が良さそうか……。
そろそろ昼と言う事で、順番で昼ご飯をと言う話になった。私は人魚さん達への炊きだしの手伝いの為に入り江の方に向かう事にした。それなりの時間離れるので、荒焚きに関しては二人で交代しながら様子を見てもらうようにお願いした。
入り江に向かうと、鉄板と網の前に長蛇の列が出来ている。鍋の方はフリッターかな?揚げ上がったところで人がわっと押し寄せている。
「どんな調子かな?」
網で貝や魚を焼いているフィアに声をかけてみる。
「昨日より忙しい。話を聞いて、遠くから来ている人もいるし、交代したと言っても人数は減らないから超大変。死にそう!!」
忙しすぎて、こちらの顔も見れないままに叫ぶ。
「大変かと思うけど、偶の楽しみだから、頑張ってあげて欲しいかな」
「喜んでもらえるのは超嬉しいから、頑張る。忙しいから話しかけないでー」
あまりの忙しさに、邪魔になってしまった。しょうがなく、フリッターを揚げているリズの方にとぼとぼ向かう。
「リズ、大丈夫? 辛く無い?」
「うん。下拵えも人魚さんに手伝ってもらえたし、大丈夫。子供達もタロやヒメ、虎と遊んでいるから昨日程じゃ無いよ」
イカやエビを刻んだ物をタネにして、油で揚げている。ちょっとかき揚げっぽい。でも衣がぼてっとしているからフリッターかな。
「そっか。塩作りを抜けてお昼に来たけど、私にも当たりそう?」
「うん。材料は多めに用意しているから大丈夫。もう少しで揚がるから待ってて」
リズがにこやかに返してくれる。あの地獄の底から、爽やかな笑顔に包まれて極楽のようだ。本当に私の奥様は世界一だ。
食材が傷まないようにと、氷を補充していると、見知った顔がいたので声をかける。
「おぉ、ガディミナさん、ポリミリアさん。お久しぶりです」
海鮮焼きの列に並んでいた二人に声をかける。
「おぉ、領主様だ。おひさー!!」
ポリミリアが明るく声をかけてくれる。その後頭部をひっ叩きながら、ガディミナが口を開く。
「領主様。今回もこのようなご対応頂きましてありがとうございます。昨日の件も先程伺いました。本当にご迷惑ばかりおかけしております」
「いえいえ。迷惑と思っていないですし、人魚さん達が楽しんでもらえるなら本望です。あ、油物が多かったですが、昨日の晩は大丈夫でした? 腹痛とか」
「私も朝戻って来たばかりですが、その辺りは報告を受けていないので大丈夫でしょう。もう、延々天ぷらですか? その話を聞かされてお腹が空きました」
ガディミナが苦笑を浮かべながら、答える。
「ちなみに遠出と言うのは?」
「通常であれば、冬場は海を渡り、南の大陸側で過ごします。今年は領主様のご厚情でこの入り江をお借り出来ましたので、その必要が無くなりました。ただ、同胞は南に出ておりますので、北に戻って来始めております。その調整ですね。入り江自体が広大ですので、まだまだ人員は増やせますし」
「えーと……。最終的にどの程度になりますか……?」
「万は下りません。ただ、自給自足は出来ますので、ご心配なさらず。帰る場所が有る。それだけで人は安心して生きていけますので」
うわぁ……。それもこの地方だけの人魚さんだろう……。言い方は悪いがどうしても難民問題、それもセンシティブな問題を思い出す。安住の地か……。そう思ってもらえるのなら嬉しい。
それに一万以上の海の覇者が民にいてくれるのは助かる。海戦の時にはどう考えても最終兵器だ。
「また、他地方の人魚にも伝令は走らせています。この地は人魚達の安住の地として、広まっていく事でしょう。これにより、人魚は領主様への危害の一切を排除すべく動きます」
安住の地を守る為に戦う……か。そんなつもりで声をかけた訳じゃ無いのに。
「そんなにかたっ苦しく無くて良いよ。一緒に幸せに生活出来れば良い。寝る場所が必要なら、うちに来れば良いよ。どうせ土地なんて切り取り放題なんだから。管理する場所が増えるだけだし」
そう言うと、ガディミナが目を潤ませたかと思うと、ぽろりと涙を零す。
「貴方は……。いえ、貴方だからこそなのでしょう。我ら人魚は今後一切の忠誠を領主様に捧げます。現在各地の人魚とも協働しておりますが、その部分に関しては異存は有りません。人間と結ばれなければ生きられない私達だからこそ、結ばれる人間は選びたい。貴方は、領主様はその器にふさわしいと考えます」
あぁ……。日本に住んでいたら分からない。故郷を知らない民の気持ちなんて。それでも、この地を、人魚の楽園に出来るのなら、して欲しい。その自由は与える。ただ、その為に命を張ると言われる。そんなつもりは無いのにだ。為政なんて重い物だ。また背負った。万を超える命。良いよ、もう。覚悟は決めたんだし、たかが万程度、背負えない訳が無い。
「うん。良いよ。ここを君達の楽園にして。ゆっくりと安心して眠られる揺り籠にして。その上で、敢えて命じる。幸せになって欲しい。永年に渡り、語り継がれる程に幸せに」
ふと気付くと、ベルヘミアがいつの間にか現れてガディミナを背後から抱きしめている。
「拝命致しました。今後私達人魚は幸せになります。その対価として、領主様を幸せに致します。これが私達の覚悟です」
互いが互いに幸せになるように望む……か。神様が聞いたら喜んでくれそうだな。
「うん、手狭になったら教えてね。他の場所も領地として申請するから。馬車でつなぐ事も出来るだろうし」
「その時は改めてご依頼致します。本当に、ありがとうございます」
気付くと見渡す限りの人魚達がこちらを向き、深々と頭を下げている。あぁ、もう。こう言う大仰なのは好きじゃないのに。
「ほら、せっかく作っているのに冷めちゃうよ。さっさと食べないと、私が食べるよ。昼ご飯の為に来たんだから」
「わぁ、領主様に食べつくされるー!!」
ポリミリアが明るく叫ぶと、人魚達から笑いが漏れる。うん、これがきっと幸せなんだろう。笑い声に包まれながら、リズの揚げ物の列に並び直した。