第378話 森の状況と海の優先
色々しても結構早めに寝たので、起きたのはまだかなり暗い時間帯だった。窓を開けると曙光が地平を柔らかく照らし、今日一日を始めようとする、まさにその瞬間だった。
少しだけもやっとした感じはあるが、空は青く晴れのようだ。三月二十一日は春らしい、どこかふわっとした柔らかな空気の中始まった。
色々とカピカピしているので、土魔術で作った石のタライを引っ張り出して来てお湯を生み、体をゆっくり清める。チャプチャプ程度の湯音ではタロもヒメもリズも起きない。全身に残った残滓を落とし、窓の外に流す。そのまま土に染み込んでいく様子を見ながら、昨日のレポートを思い出す。ぷにぷにしたリズのほっぺに負けて後回しにしてしまった書類。
でも先にタロとヒメの食事かな。昨日は散歩もしたし泳ぎもした。きっとお腹がぺこぺこだろう。濡れてぺたっとなりながらもぱちゃぱちゃと泳ぐ二匹を思い出し、少しだけ優しい笑みが零れる。
厨房に向かうと、仕込みは始まっており、アレクトリアが声を上げながら、料理人の人達がその指示に従い動き回っている。幾ら迎賓館を温泉宿が兼ねると言っても領主館の料理のレベルはあげないといけないので、アレクトリアが奮闘してくれている形だ。ありがたいけど、過労で倒れないと良いけど。
「あ、おはようございます。男爵様。お早いですね」
アレクトリアがこちらに気付いたのか駆け寄ってくる。
「おはよう、アレクトリア。朝から大変だね。ありがとう。助かる。でも、程々にしないと体壊すよ」
「いえ。もう楽しくて、楽しくて。休んでなんていられません。それにきちんと夜は寝ていますので元気です」
盛り上がらない力こぶを見せながら、明るく笑う。ワーカーホリックの気は有るけど、自己管理が出来ているなら良いかな。目元を見ても隈などは無い。元気いっぱいだ。若いって良いなぁ。
「昨日、温泉宿で食べたけどやっぱりアレクトリアがいないと明確に味が落ちちゃうね。ちょっと課題かも」
「そうですか……。引継ぎは順次しておりますが、やはり影響はまだ出ますね。領主館の方が一段落着いたら、現場と言うより、新規の料理研究と引継ぎに動く事にします」
温泉宿のオープニングスタッフはロスティー、ノーウェ領の人間だから、そうそう簡単には引き抜けない。あの辺りはコアメンバーとして見てしまっても良いか。今後人を増やす時に注意しないと地球の料理店みたいに、味だけ盗まれる恐れも出てくる。ただ、どんどん料理のトレンドを更新して行けば追いつけないんだけどね。その辺りはもう少し後で考えても良いかな。
「うん。根を詰め過ぎるのも良い事では無いから。時間は有限とは言え、まだ若いんだし、前に進んでいるなら少しずつでも良いよ」
「ありがとうございます。あ、タロちゃんとヒメちゃんのご飯ですね。少々お待ち下さい」
にこやかに目礼し去ろうとするアレクトリアの背に声をかける。
「昨日運動して早めに寝たから、少し多めに用意してもらっても良いかな?」
「はーい。分かりました。少し調整しますー」
元気な返事と共に、厨房の奥へ足早に駆けていく。周囲の料理人達も皆真剣だが、機嫌良く仕事をこなしてくれている。あの明るさはそれだけで得難い資質なんだろうなとは思う。陣頭指揮を取る人間が元気で明るいだけで、職場環境が改善される事も有る。素直な人間が多い現場では特にその傾向が強い。そう言う意味では相乗で良い環境が出来ているのが嬉しい。
後はいなくなった後にどうフォローするかだけど、褒めて伸ばすしかないだろう。領主館の厨房に立つというだけで自負心、自尊心は生まれる。それが良い風に働くのは、環境が良い時だけなので、怒らず長所を褒めて、短所を補っていってもらうしかないかな。経験上、あまり頭ごなしに指摘するとこういう場合、腐るパターンの方が多い感じは持っている。
今後の事を考えていると、アレクトリアが肉の部分は普通くらいでモツをちょっと多めの鳥肉を持って来てくれる。鳥頭の水煮も付いている。
「あれ? 水煮は毎日作ってくれているのかな? 薪の分を考えると申し訳無いのだけど」
「あ、大丈夫です。他の煮込み料理の傍らで煮ていますから。お気になさらず。タロちゃんとヒメちゃんが大きくなる方が嬉しいです」
そう言いながら、背後から太めの大腿骨を取り出して、笑う。本当に良い子だ。
「ありがとう。じゃあ、貰っていくね」
食事を受け取り、部屋に戻る。薄暗い中で皆、まだ夢の中だ。タロとヒメの皿に貰ってきた食事を分けて乗せる。
二匹の前に置いて、頭を撫でると、二匹共ふっと目覚める。
『まま、とり!!』
『ぱぱ、たべる』
はっはっと何も言わずともお座りして、待つ。あぁ、学んだなぁと少しだけ感傷に浸り、形式的に待て良しで食事を始める。
がつがつと食べる姿を見ながら、昨日の楽しそうな姿を思い出す。森は良いとして海には……。連れて行かないと駄目か。タロもそうだけど、ヒメにも海は見せたいかな。
そんな事を考えながら、窓を開けて薄暗さを払しょくする。大分太陽も昇ってきた。
二匹が食べている傍らで、昨日のレポートに目を通す。依頼者はロスティー名義か、受け取りが私。中身は……おいおい、森の調査結果かよ。先を読まれていると言うか、ありがたいけど。予算は……名目上、現地調査費用から捻出されている。でも、町に関わる予算の消化状況を見たけど、この規模の調査をした形跡は残っていなかった。別枠でロスティーが出した可能性が高い……か。内容を見てもひと月、ふた月の話では無い。大分初期から、調査はしていたっぽい。となると、ロスティーはその頃からもう、私を信用して動いてくれていたと。はぁぁ、自分の人間の小ささが嫌になる。
内容的には森の植生や可食動物の分布、移動の経路など細かい内容が記載されている。これがギルドが持っていた森の詳細地図かな……。ざっと見ていたが流石に測量までは無理にしても概要は把握可能だった。そして……オークの集落か……。地図の比率が合っていれば、前の百人規模の集落が一つある感じだ。ただ、分離して増えている感じでは無い。
んー。やっぱり目的が分からない。増えるなら、集落の規模を拡大するか、集落そのものを増やす必要が有る。子育てをしていたし、女子供もいた。となると、手狭になる筈だ。なのに何故だろう。それなりの期間が経っている筈なのにそう言う動きが見えないのがおかしい……。
冒険者ギルドに六等級クラスのパーティー複数を集めてもらって、長期的に監視体制を作って、動向を追ってみないと目的が分からない……か……。
ざっと方針を考えたところで、二匹が食べ終わったので、水を生み出す。飲み終わってほっとしたのか、お互い順番にグルーミングが始まる。
さて、そろそろリズを起こさないと。どうやって起こそうかなと思ったが、寝顔を見て、そんな気分も霧散した。朝日に照らされたその顔はまるで女神のように輝いていた。あぁ、私の奥様は本当に綺麗だ。そう感じると、起こすよりも何よりも、ただ、触れたいと言う欲求に突き動かされる。そっと頬を掌で撫でると、肌が吸い付いてくる。昨日のエステがまだ影響を残しているかな。無心ですりすりしていると、薄くリズの目が開く。
「ヒロ?」
「おはよう、リズ。朝だよ」
「ん。あー、体、凄く楽。パックって言うの? それを待っている間にマッサージもしてくれたんだけど、凄く楽になった」
「そっかぁ。良かったよ。お湯用意するから、体、清める? それとも、お風呂用意しちゃおうか、女性陣は入りたい気もするから」
そう言うと、ぼっと顔を赤くするが、俯きもじもじしながら呟く。
「もう、すぐそう言う話にする。でも、その可能性高いよね。ヒロ、頼めるかな? 皆には私から伝えるから」
「分かった。お風呂の準備はしておくから、伝えておいて。後、森の件だけど必要が無くなった。海の方を優先しよう。詳しくは朝ご飯の時にでも話すよ」
そう告げて、リズに下着と部屋着を渡す。それを着たリズが新しい下着を取りに行こうとするので、私は風呂場に向かう。
さて、冒険者ギルドに調整を依頼して、今日中に出発の用意。で、明日からは海かな……。皆が森に行っている間に町を見ようと思っていたが、今のままだとまだ早い。海に行っている間に、ネスもテディも来るだろう。商工会との方針の擦り合わせはある程度順調だから、そっちに一旦任せよう。まずは原資になる製塩を優先してしまった方が良い。
そんな事を思いながら、風呂場の扉を開けて、浴槽にお湯を生む。新しい浴場は何だか銭湯みたいな香りがして、少しだけ懐かしい思いを感じた。