第370話 バジルソースは好きです、自分で生バジルを買ってきて作ります
薄い雲はどこかに去り、春特有のどこか絵の具で塗ったような青い空がどこまでも続いている。周りに高層建築なんて無い。大都市に慣れた、摩天楼の中で生きてきた身としても、たった四階の屋上なのに、空の近さを感じられる十分な高さだった。
「超綺麗……」
口を開けたままのフィアが、呆然と呟く。
「高い……わね。それにこの開放感……。表現する語彙が無いわ」
ティアナが空を見上げ、そして、柵まで歩き、下の景色を眺めて、ほっと溜息を吐きながら、呟く。
他の皆も、圧倒されたようにトレイを抱えたまま、唖然と言って良い顔をしている。
「空が近い……。これがヒロの求めた世界?」
リズが右手の袖をぎゅっと握ったまま、空を見上げる。
「そうだね。故郷はもっと高い建物が乱立して空なんてほんの少ししか見えなかった。なんて贅沢な景色なんだろうね」
私もほぅと溜息を吐く。あの小さく四角く切り取られたような、窓みたいな空の都会を思い出し、あぁ、この世界は景色ですら豊潤なんだなと少しだけ嬉しく思う。
「さぁ、折角の料理だし、冷めない内に食べちゃおう」
抜けるような青空の下、暖かな風に吹かれながら、テーブルに座る。ほのかに湯気が上がるガレットとハーブティー。
林檎に近い香りのお茶を口に含む。これ、カモミールティーなのかな?なんとなく、昔飲んだカモミールティーに近い気がする。近縁種なのかもしれない。
ガレットをナイフで開くと、温野菜の上に厚切りのハムが乗り、チーズが蕩け上面にやや焦げ目が付いている。その上に目玉焼きの固焼きが蓋になって、緑色のソースがガレットの生地と卵の黄色と白に映える。
一口大に切り、頬張る。瞬間バジルの鮮烈な香りが鼻を抜ける。この時期だと収獲には少し早い気がするけど、あの刺々しいまでの香りでは無く、若い柔らかな香りが鼻の奥をくすぐる。その後に来るのは、しっかりした塩気と何とも言えない発酵系の調味料の香り……。これナンプラーに近いか?でも、潮の香りがしない。川魚の塩漬けを発酵させたものかもしれない。何とも言えない、あの川魚独特の苔の香りを感じる。塩が高いのに、贅沢な事だ。ただ、岩塩の為、うまみ成分がほんの少し物足りないのが残念な印象かな。これ、海塩で作ったら、きっともっと美味しくなる。バジルソースのアンチョビ感が好きな身としては、この魚醤の香りはそれに似た満足感をくれる。個人的には固焼きの目玉焼きはあまり好きでは無いが、野菜から出た水分とソースのお蔭で、黄身の部分もしっとりとしており、ハムから出た脂とも合わさって、渇きを感じず食べられる。何より、チーズだ。これ、シェーブルチーズだろうな。微かに感じるヤギの臭みも慣れれば味のアクセントだ。よくある蕩けるチーズみたいにパラパラふりかける感じでは無く、ぼてっと塗られている。これが油分、水分を絶妙に閉じ込めながら味の調和を生んでいる。ハムもイノシシの強い脂と臭いは有るがチーズで上手くコーティングされて、熟成したうまみだけを放出してくる。ここまでくるとくどさが出そうだが、底の野菜の水分と甘み、それにあっさりしたガレット生地のさっぱりした蕎麦の香りで全てが混然一体となっている。作りは簡単だけど、味は複雑だ。
これ、中々食べられるものじゃない。値段もそこまで高く無い。デパートで食べる軽食と考えれば安いくらいだ。経費で考えるとぎりぎりな感じがする。これは人気が出る……。
「は……はふ、はふい……。でも、美味しい。チーズ、久々。超美味しい!!」
フィアが口をパクパクしながら、満面の笑みで叫ぶ。聞くと、シェーブルチーズはヤギや羊を育てている畜産農家で極々少量が生産されているが、ほとんど他に出回る事はないらしい。家で消費してしまうそうだ。美味い物は他人にはあげないか。フィアもリズと同じ幼馴染に少しだけ分けてもらって食べた事しか無いらしい。まぁ、地球でも何千年と作られてきたチーズだ。この世界に有ってもおかしくない。何と言うか、日本で言うところの自家製味噌とかと同じ感覚なんだろうな、シェーブルチーズって。
「これ……バジルよね? でも、ソースのこの味と香りの元が分からないわ……。でも、美味しい……。何だか悔しいわね」
ティアナが若干悔しそうに、でも嬉しそうに食べる。ティアナが知らないと言う事は、この魚醤はオリジナルなのかな?秘伝のタレみたいな感じなのかもしれない。
他の皆も、絶賛しながら、食べ進めていく。たかが軽食のつもりだったが、予想以上の味に巡り合えた。フェンの嗅覚には脱帽だ。よくこんな店、引っこ抜いて来る。絶対に王都で泣いている人間がいるぞ。
若干脂と塩で荒れた口をカモミールティーの甘い香りとさっぱりした後味で洗い流す。
「美味しかった……。ここ、どうかな?」
ほっとした瞬間に素直に美味しいと口に出た。それ程に美味しい。中々単純な料理を美味しくするのは難しい。それをここまで昇華しているんだ。現代日本でもやっていけるレベルの味だ。
「完敗よ。こんな味、王都でもそうそうは無いわ。どこから探し出してきたのかしら」
ティアナがぼそっと呟く。たかが単純な軽食に翻弄されたのが若干悔しいらしい。でも笑顔の余韻が残っている辺りに可愛げを感じる。
「私も同意見ですね。これは、中々食べられないです。こんな店が普通に入る町なんですね。ますます楽しみになってきました」
ロットも野菜が充実したガレットに満足したらしい。商家の息子と言う事で舌が肥えているにも関わらず、大絶賛だ。と言う事は私の好みでは無く、本当に美味しいのだろう。
他の皆も異口同音美味さをアピールしてくる。いや、私に言われても困るが。店に言ってくれ。
そんな感じでお茶を楽しみながら、若干の食休みを挟む。
湿度の低い爽やかな風が抜けていく。もう、寒いと言う感覚は無い。ただただ穏やかな昼下がり。平和だな。そんな事を考えながら仲間達の歓談に付き合う。