第352話 為政者の道と旅立ち、そして離れて初めて気付く感情
アラームの震えを感じて目を覚ます。まだ、日の光は無く、部屋の中はスマホの画面の明かりだけだ。窓を開けると、昨日よりも薄い雲が夜空の星を薄く覆っている。太陽は果ての方からほんの少しだけ明かりの極一部が見え始めた程度だ。星の光を打ち消す程も上がっていない。三月十六日はちょっと曇りだけど、雨は大丈夫そうなので安心した。もし雨なら、出発をずらしたかも知れない。
ちょっと早いけど、タロとヒメの食事を用意しようかとキッチンに向かうと、既にティーシアが朝ご飯の用意を始めていた。早いよ……。奥様方は何時起きなんだ?
「おはようございます」
「あら、おはよう。今日は随分早いのね。出発の準備かしら。あぁ、少し待ってね。タロちゃんとヒメちゃんの分ね。用意するわ」
ティーシアがそう言いながら、イノシシ肉とモツを切り出してくれる。今日は少し多目だ。お昼がどうなるか読めない分、少し調整してくれたらしい。
「はい。でも、皆いなくなるとちょっとだけ寂しいわね」
ティーシアが頬に手を当てながら言う。
「お義兄さんが戻るまでですよ。春と仰っていたのなら、もう戻ってくるでしょう」
「そうね。石鹸作りはきっちり引き継がないと駄目だものね。あの子ったら、向こうにいつまでもご迷惑おかけして……」
「はは。じゃあ、頂いていきます。ありがとうございます」
何と無く、何かに巻き込まれそうな気がしたので、そそくさとその場を離れる。リズが中途半端だった分がお嫁さんに行かない事を願う。まぁ、でも長男のお嫁さんだし、可愛いかな。子供とか出来たら、村で過ごしてもらったり考えないといけないかな。
部屋に戻り、二匹を起こす。いつもよりちょっと早めなので、タロが寝ぼけている。お座りと言うより、おしゅわりって感じにふらふらしている。ヒメはぴしっと座っている。食事を差し出すとタロもぴしっとした。現金なところも可愛い。親バカなのか?まぁ、良いや。待て良しで二匹共食べ始める。今日はちょっと多目と言う事で、食事時間が長く続き、しっぽの振りが激しい。
『おおいの!!』
『たくさん』
『馴致』で思考が漏れてくる。お昼駄目だったらごめんね。そう思いながら、少し早いが、リズを起こす。そろそろ太陽も上がってきた。起こしても良い筈。色々試してきたが、さてどうするか……。布団を剥いてみたが、もうそこまで寒くない。特に気にせず、口を半開きにして、少しだけ涎を垂らしながら、寝っている。ふむ。緩やかにデザインされた部屋着の中でそこそこ主張している、双丘にそっと手を置いて、ふにふにとしてみる。
「こらー!! ヒロー!!」
ばっと起きて、胸を押さえて、リズが叫ぶ。私を確認する前に叫んでいたけど、濡れ衣の場合、悲しい。と言うか、その場合は事案か。
「あのねぇ。時と場合を弁えようよ……。今日、出発の日だよね。どうして、こういう事するかな?」
「そこに胸が有るから?」
「いつでも有るよね?」
「魅力的だから?」
「嬉しいけど、理由になっていないよね?」
「……リズ、大好き」
「もう……。はいはい。起きます、起きます。お母さん、怒るんでしょ? でも、まだ大分暗いけど……」
「いつもより、早いかな。私がいつも起きるよりちょっと遅めくらい」
リズが、愕然とした顔をした後、急いで準備を始める。ふむ。特に朝起きている時間の話なんてした事が無いし。まぁ、世の奥様はこれより早い時間に起きていると思って頂ければ幸いかな。
「私も、このくらいに起きないと駄目なのかな」
「ティーシアさん、もっと早いけど」
「うわぁ……。無理……」
若干しょんぼりしながら、歯磨きまで済ませて、リズがキッチンに向かう。
私は食べ終わった二匹の皿に水を生み、ゆっくりと二匹の頭を撫でる。水を飲み終わると、食休みの予定だが遊んでやっても良いと言う顔で、しっぽを振り出す。くしゅくしゅと顔と頭を撫でて、窓を開け、書類の処理を始める。二匹もその様子を確認して、寄り添うように丸くなる。くわっと言う欠伸が聞こえたので、もう少し寝直すのかな。
引き続き、処理出来る物とカビア案件を分けていると、少しずつ窓からの光が増して読みやすくなってくる。そろそろ良いかと蝋燭を吹き消す。燭台は部屋に紐づいているので、このまま置いていく。荷物はまとめているので最後に書類周りを詰め直したら、完了かな。木のフォルダ、便利だけど書類箱の容量を無駄に取るのが難点だなぁ……。あんまり薄いと反ったり割れたりする。加減が難しい。そんな事を考えながら、決裁可能な書類に署名と略式紋章、紋章を押していく。封蝋も火魔術で溶かせるので良いのだが。火魔術も上げないと駄目かなぁ。
ざっと一仕事終わったと思ったタイミングで、食事の声が聞こえてくる。いつもより早いがアストももう席に着いている。どうも見送りに来てくれるようだ。
「体には気を付けろ。私達もアテンに引継ぎが終われば伝える。石鹸の仕込みが一番かかるだろうから、それが終わってからと言う事になるな」
と言う事は二十日程度はかかると。ひと月程度を見ておけば良いかな。そう思いながら、食事を進めて行く。ティーシアは細々とリズに指示をしているがリズは顔が固まっている。あれは……聞いている振りな気がする……。後で困るかも知れないぞぉ……。けしっと軽く脛を蹴っておく。流石に出発の日なんだから、きちんと聞くべき事は聞いた方が良い。リズがはっとした顔でこちらを向くが、アストとの話に集中する。
食事を終えて部屋に戻ると、リズから睨まれたが、聞き流す方が悪いので、頭を撫でておく。釈然としないがまぁ良いかと言う顔をした後に、荷物の最終チェックとまとめに入る。部屋着も取り敢えず、そのまま持って行く。領主館と言っても、たかが男爵だ。常にベルベットのガウンを着て生活をしないといけない訳でも無いだろう。勿体無い。
元々荷物も出来上がっているので、特に問題は無かった。荷物を担ぎ、タロとヒメが入った箱を抱える。二匹はちょっと中で楽しそうに揺られている。
ノーウェに移動させる訳にもいかないので、集合はノーウェの屋敷となっている。向かうと宿組と途中で合流する。珍しくフィアの家族も来ている。いつでも来る事が出来ると言う話でも、やはり別れは別れだ。屋敷前でレイが馬車を用意してくれているので、その周辺に荷物を置いて中身の最終確認と皆の体調確認をする。荷物も体調も問題無い。積み込みをする間に、リズとフィアには家族といってきますの話をさせる。フィアは最近帰っていなかったので、その辺りも含めて報告をしているようだ。大きく驚いているのはオークション代の話でもしたのかな。
荷物の積み込みも済み、そろそろ出発出来るかと言う頃に、ノーウェが顔を出す。
「おはようございます。ノーウェ様。本日はお見送り頂き、感謝致します」
「おはよう。皆も道中よろしくね。まぁ、傭兵ギルドが盗賊狩りまで引き受けるようになったから、特に心配もしていないけどね」
どうも話を聞くと各ギルドで、予算を融通し合って、この街道に関して不定期に傭兵ギルドが単独で警邏をしているらしい。しかも、盗賊と見られる集団は問答無用でしょっ引かれる。私が初めて『リザティア』に行った頃はまだ隙を突いて狙う輩もいたが、今となっては不可能だ。下手したら、国で一番安全な街道かも知れない。
「何はともあれ、子の巣立ちだ。親として、これ程の栄誉も誇らしい事も無い。息災に。何か有ったら、頼ると良いよ。その為の親なんだから」
ノーウェがいつものにやにや笑いでは無く、優しい微笑みを浮かべて告げてくる。
「ありがとうございます。危急の際には必ず。鳩の件もありがとうございます」
実は、調教済みのノーウェの町と『リザティア』を結ぶ鳩に関しては、建設後、そのまま所有権を移譲してもらえる話になった。これが一からだと死ぬ程面倒だったが、調教師含めてそのまま現地で接収して良い旨を受けている。ただ、建設が完了するまでは数の制限が有るが、それでも通信手段が有るのは助かる。
「それも予算の内だから気にしなくて良いよ。あぁ、後はそろそろ馬車も手狭そうでしょ。次の試作型が制式化するから。それが出来次第送るよ。板バネを新型にして、従来道路でも二トン半は積載出来る。縦に長いから十四人は乗れるよ。荷物の積載スペースも広げた。活用してね」
はぁぁ、そんなところまで読まれているか。本当に、この人は……。この人が上司で本当に良かった。
「流石にレイ程の手練れは無理だけど、諜報の早期引退者で信用出来る人間は用意した。また着いたらよろしくしてあげてよ。十日はかからないとは見ている」
んー。と言う事は海に行っている間の可能性も有るな。その辺りは領主館の人間と調整しておこう。
「じゃあ、これから君は本当に為政者としての道を一歩踏み出す事となる。正式には陛下の伝える言葉だけど、君は子爵に上がった時でも良いだろう。そう時間がかかるとも思わないからね」
そして、さりげないプレッシャーをかけてくる。
「為政とは人の道に非ず。人に先駆け、道を拓く事也。為政者たる者よ。焦らず、驕らず、ただ前に進め。その背にこそ、汝の民は有るのだから」
ノーウェが厳かに、訓示する。私は跪き、深々と頭を下げる。ノーウェが腰の細身の剣を抜き、肩に当ててくる。これよりは同じ為政者として、切磋琢磨する同士たらん。その思いの儀式だ。
「じゃあ、行っておいで、我が子よ。私はここにいる。いつでも君を迎えよう。だからこそ、君は出来る事を出来るだけやるが良いよ。その責は私が負うのだから」
ノーウェが微笑み、両手で肩を叩かれる。はは。ロスティーに続きか……。頼っても良いと言われたからって早々頼れない。足掻いて足掻いて、前に進む。その上で必要なら利用しつくす。そう、私のリズ、私の仲間達、私の家族達、そして私の民の為に。
立ち上がり、ノーウェと固く握手を交わす。荷物の積み込みも終わり、皆も乗り込み終わった。
馬車の後ろの幌を開放し、見送ってくれる皆に手を振る。
「行ってきます!! 皆さん、ありがとうございました!!」
どこまでも届けと、大声を張り上げる。ふわっとした春霞の中、少しずつ懐かしい景色が遠ざかっていく。いつまでも色々な思い出が脳裏をよぎりながら、振る手を止めてくれない。そっとリズが手を握る。
「もう、見えないよ。ヒロ、頑張ったね」
ふと気付くと、ぽろっと涙が零れた。はは、別に生まれ故郷でも、骨を埋めると決めた場所でも無い。
でもそこから離れると、きちんと認識した瞬間、ほんの少し、ぽろりと何かが零れた。
さよなら、トルカ村。この世界で初めて私を受け入れてくれた村。また会う日まで。