第315話 恋に落ちる音ってどんな音色なんでしょうか?
テディに助け起こされながら、立ち上がる。詳細な契約は別途で結ぶとして、テディ側の要件はまとめてもらう。温泉宿をどのようなサービスで運用したいのかの部分だ。私のビジョンとテディの手段に齟齬が有れば現場は回らない。現代日本でも良く有る、経営戦略と現場主義の乖離だ。これは避けたい。なので、徹底的に詰めたい。その旨を相談すると快諾された。元々宿の運営をしていて自身で方針はまとめていたらしく、それを改めて要件定義して出してくれるようだ。本当に助かる。そう言うところもプロフェッショナルだ。
「儲かれば良い。そう言う形で話を貰う事は多いですが、お客様にどう満足して頂くか。そう言う視点でお話をする機会はほぼ有りませんでした。お客様が満足するからお金を支払って下さる。こんな単純な事を理解出来ないのが世の中なんです」
テディがほの苦い表情で言う。
「確かに、ある程度の約束事が守られれば、お客様は満足して下さいます。しかし、それ以上に私共の効率を上げ、余剰をお客様への対応向上に結び付けたいのです。しかし効率を上げた分をその時点で利益として上げてしまえと言うのがオーナーの方針です。中々難しいです」
マニュアル対応とマニュアル外対応か。この世界の人間、過酷な分、我慢強い。そう言う意味では満足の閾値が低い。故に、感動の閾値も低い。ここに今後の経営戦略への道が隠れているような気がする。
「はい。そこはどんどん再投資しちゃいましょう。他の宿屋の常識? そんな幻想ぶち壊して下さい。テディさんが望む、最高の感動をお客様に贈りましょう。利益は最低限確保出来れば良いです。他で回収しますから。貴方が考える最高のサービスをぶつけて下さい。私は、それを望みます」
空手形?今後、国賓級を迎える窓口になるんだ。そんじょそこらのサービスで満足していたら舐められる。予算はがっつり付けているんだ。最高のサービスを提供してもらう。これはテディに課する義務だ。全力全開でお客様を喜ばせる。そんな義務だ。
「……。その目は本気なんですね。宿ギルドでも噂は上がっていました。大規模な宿泊設備が東に出来ると。今後は東側の交易拠点、外交の入り口になると。ノーウェ子爵様の寄子ですから、その辺りも意識なさっているでしょう。分かりました。私も覚悟致します」
その瞳に決意の色を浮かべ、渋い顔で微笑む。その顔に日本で見た老舗旅館や古き良きホテルのオーナーが持つ、深いお客様への愛情とそれを提供する自負を感じた。
その後は一旦要件定義をまとめてもらい、精査していくと言う流れで話をまとめた。話の後、雑談をしている時に、お腹が鳴る。あぁ、もう昼もかなり過ぎている。色々回り過ぎた。
「ご昼食はまだでしたか。どうぞ、すぐに用意は出来ます。お席でお待ち下さい」
テディが席に誘導してくれる。殆ど待たずに、スープとパンを持って来てくれる。黒パンの酸味を楽しみながらミルクシチューを楽しむ。山羊の乳ももうそろそろ終わりかぁ。バターももう少し気温が上がれば使えない。溶ける。乳製品はチーズが残る程度かな。
メインは鳥のソテーだった。胡椒の香りが高い鳥を噛み締める。若干肉質が硬いが、逆に噛んだ時の快感と染み出す肉汁を純粋に楽しめる。付け合わせも根菜と葉野菜が添えられている。葉野菜も少し早いが出回り始めたのかな?南の方だと気温的にはいけるのか。
堪能し、食事代を支払う。遠慮されたが、現時点でオーナーでも無ければ雇用契約を結んでいる訳でも無い。受け取ってもらわなければこちらが困る。
後の予定はと思いだし、カビアの様子を確認しなければならないのを思い出した。妙に憔悴していたが何が有ったんだろう。いや、大量に仕事を振っているのは私だけど、それだけじゃ無いような気がした。
ロスティーもノーウェもいなくなり、閑散とした屋敷に再度訪問する。門衛に用向きを伝えると、執事を呼んでくれる。執事に連れられながら屋敷に向かう。庭ではレイがリナと一緒に訓練をしている。いや、一方的にリナが訓練されているか、あれは……。取り敢えず手を振ると手を振り返された。完全休養って言ったのに、頑張るなぁ。リナも色々思う所が有るのかな?
客間に誘導され、執事のノックに応答が返る。
「こんにちは、カビア。今、良いかな?」
「男爵様。お時間頂き恐縮です。はい、大丈夫です。汚い部屋ですが、申し訳無いです」
若干資料は散乱しているが、別に汚い程でも無い。テーブルを挟んだソファーにお互い腰かける。
「率直に聞くけど。昨日気付いたんだけど、何か憔悴していない? 仕事を振り過ぎた?」
そう聞くと、カビアの顔が微妙に歪む。
「いえ。仕事は問題有りません。処理し切れない程では無いですし、ノーウェ子爵様の政務団にも手伝って頂いておりますので」
きちんと仕事を外に出している分、私より偉いよね。でも、そうなると、何が原因だ?
「言いにくい事なら良いけど、何か悩みとか有る?」
カビアが、じっと黙る。ふーむ、何か有るのかなと待ってみる。
「少々お待ち下さい」
カビアがそう言うと、便箋の入った箱を漁り始める。その中から1通の手紙を取り出す。
「こちらをご確認頂けますか」
カビアが手渡してくる。カビア宛ての手紙だ。送り主は……ティアナ?
「私が読んで良いの?」
「特に読まれて困る内容では無いです」
そう言われたので、内容を確認する。純粋に、予定より日程が長くなっている事に体調を崩していないか心配する内容だ。
「えーと、何か困る事、有る?」
「男爵様のパーティーのメンバーから私宛に直接、しかも男爵様に話も行かず送られてくれば、困ります」
カビアが苦い顔をする。まぁ、そう言うものなのかな……。確かに、仲間に関しては将来的に領地の各部の幹部候補として考えている。下手したらカビアの上司になるかも知れない。まぁ、家宰の上司って何だって話だが。政務上の上役になる可能性は有る。
「言いにくいなら言わなくて良い。答えたくないなら答えなくて良い。女性からこう言う手紙を貰った事は?」
「有りません。どのように対処すれば良いかも分かりません」
学校からそのまま政務三昧か。出会いも無いよな……。
「ティアナと良く話をしていたけど、こんな手紙が送られてくる程、親密だった? 私が見ている限りはそんな感じはしなかったけど」
「はい。私もそう思います。なので、この手紙がどういう意味か分からず困っています」
うわぁ……恋に落ちる音が聴こえた。ティアナやっぱりじゃん。これ、そう言う意味だよね?誤解じゃないよね?落ちるから恋って言ったのに、見事に落ちた気がする。
どうしようも出来んな……。リズにちょっと相談しよう。外堀から埋めて認識させる方が良いのか?それとも放置?正しい選択肢が分からん……。
「最後に質問だけど、ティアナをどう思う?」
「博識ですし、ご自身で頑張っている方です。魅力的な方かと考えます」
良し。悪い印象は無い。カビア側はなんとでもなるような気がする。ロットの時と一緒だ。こっちは気にしない。問題はティアナだ。リズ、頼む……。
「分かった。手紙の件は気にしなくて良いんじゃないかな。予定が伸びたのはどう考えても私が悪いし、よく話す人間が苦労していたら、気になるだろうし」
「そう……ですか。分かりました。一旦は気にしないようにします。後、もしよろしければ。ついでで恐縮ですが、当初人員の件でご相談が有ります」
「あ、こっちも1件報告が有る。青空亭の店主、移籍に合意してくれた。これで温泉宿のマネジメントが任せられる」
「それは朗報です。そこが決まらないと温泉宿の運営に支障が出るところでした。では、そこは省いて、喫緊の問題になっているのが……」
そこからは、『リザティア』の移籍人員に関するミーティングになった。『リザティア』側は比較的普通の町と同じなので大きな問題は無いのだが、歓楽街側が規格外なので、かなり困るようだ。日本で考えれば当たり前のサービスもこちらでは概念すら無い。そこから擦り合わせを行っていく。
「お客様への対応の平準化ですか……。かなり概念の部分から見直す必要が有りますね」
「何処に行っても最低限同じようなサービスを受けられると言うのは大きいよ? その上で差異を出していくのは各店舗の努力次第かな。この方針が気に入らないなら出て行ってもらって構わないし」
「歓楽街はかなりの儲けが見込めます。難しいところですね。最低限とお伺いしている内容も聞けば当たり前の話ですが、これが守られているかと聞かれると、痛い商家も多いでしょう」
カビアが若干苦笑を浮かべながら言う。
「どうせ、客側の要求は青天井だよ。どこかで線を引かないといけない。なので、最低限はここまで。後は各店舗の努力次第って感じかな。逆に最低限が維持出来ない店舗は駄目だ。全体的な質が問われてしまう」
「箱の果実、一つ腐れば皆腐るですか……。分かりました。要件として盛り込んでしまいましょう。今ならまだまだ間に合います。徹底的に教育していきましょう」
ん?こっちの諺か?意味は分かるけど……。首を傾げていると、カビアが便箋と紙を用意し始める。今回の移籍先各所に要件を指示するつもりか。政務担当に手伝ってもらっても良いと思う。カーボンコピー案件っぽい。
「じゃあ、後は任せて大丈夫かな?」
「はい。こちらで手配します。男爵様はゆっくりお休み下さい」
そう言われて、窓から漏れた日を見ると、もう赤も大分濃くなっている。話過ぎた。
カビアに帰宅を告げ、使用人の先導で屋敷を出る。今日も完全休養の予定なのに、何と無く潰れてしまった。でも、まぁ、色々分かった事や収穫も有る。どうせ一歩一歩しか前に進めない。前に進めたんだから、良しとしよう。
2月ももう終わりの夕方。日も大分遅くまで照るようになってきた。春ももう少しだ。きっと何かが変わる。少しずつ暖かくなる空気を胸いっぱい吸い込み、家路を急ぐ。さぁ、リズとお話だ。