第291話 久々のプカプカタロさん
「……ロ、ヒロ!、起きて……」
体が揺らされる感触に覚醒する。あれ?意識が飛んでいる。脇にタロが丸くなってくっついている。暖炉の前だからか、足元だけが暖かい。
「大丈夫? 寝ていたよ」
湯上りのリズが軽く濡れた髪で見下ろしてくる。
「あ……あぁ。ごめん、寝ていたか。なんだか、良い夢を見ていた気がする」
「良い夢?」
「リズと一緒に、タロとか沢山の子供に囲まれながら、過ごしてた」
「あは。それは未来なのかな。そうだと良いね。でも疲れているのかな?」
「そうだね。少し疲れていたのかも。さぁ、おいで。髪の毛、乾かしちゃおう。風邪ひいちゃう」
「ありがとう。お願いするね」
香油のボトルを受け取り、手で水と馴染ませ、髪の毛全体に馴染ませていく。
「ん。また、香りが変わった? 見た事が無いボトルだし、少しさっぱりした香りだ」
「凄い、覚えてくれていたんだ……嬉しい。先生が着けてらしたのを少し分けて頂いたの。良い香りだなって話で、試しにって感じだね」
確か淑女教育の担当は、30代後半くらいの品の良い女性だった記憶が有る。こう言う香りの趣味なのか……。
「リズのイメージだと、あまり甘い香りと言うより、さっぱりした香りの方が合うのかな? 少し新鮮だけど、良く合っているよ」
「あはは。んー。何だかくすぐったいね、そう言われるの。でも、褒めてもらえると、ちょっとだけ心が温かいかな……」
そんな話をしながら、髪の毛を乾かしていく。やはり寒い中汗をかかないとしても、お湯だけで清めていてはどこかぺたっとした感じでまとまった髪になっていた。
それが改めて、さらさらと流れるような髪になっている。アッシュブロンドの髪の一本一本が暖炉と蝋燭の明かりに照らされて、赤い金に輝いて指先を流れ落ちる。まるで流れるさらりとした蜂蜜のように官能的で、何かの欲求を掻き立てる。
「うん。こんなものかな。冷たい場所は無い? 風邪ひかないでね。起こしてくれてありがとう」
「大丈夫……かな。うん、濡れた感じはしないよ。あぁ、やっぱりさっぱりする。あはは、さらさらだ。でも、無理しないでね。寝ちゃうなんて初めてじゃないかな?」
「そうだね。寝るべき場所以外で寝たのは初めてかも知れない。教育もそうだけど、食事の際に出た話がちょっと意外で心が驚いちゃったのかな。規模も大きい話だったから。それで疲れたのかな」
「んー。あまり無理はしないでね。無理するべき時は有るかも知れないけど、それで体の調子をおかしくしちゃうのはまた違う話だと思うから」
「ありがとう。さて、私もお風呂入ってくるね。先に布団に入っていて。タロ、おいで」
私が起きた際に、一緒にタロも微睡みから覚めている。しっぽを振りながら寄り添ってくる。
「タロの世話有るでしょ。一緒に行くよ。湯気の近くなら温かいから」
「じゃあ、一緒にタロを先にお風呂入れちゃおうか」
そう言いながら、厨房に2人で向かう。
厨房でタライにお湯を入れて、そっとタロを足から慣らしていく。少し、じたばたとする。
『ぬくいの……はやく……』
さっさと浸かりたいのか……。両足をタライに入れるとそのまま伏せて、じっとお湯の温もりに体を預ける。
『ぬくいの……きもち……いい』
むふーと言う顔でタライの縁に顎を乗せて、体の力を抜き、四肢を弛緩させる。ぷかーと浮いている。本当に四足動物っぽくない。普通本能的に犬かきでもするのだが、本当に慣れちゃっている。深い場所でも浮かんだままでいそうだ。
全身の毛をもにゅもにゅと根の部分から、揉みだすように洗っていく。
『あふ……きもちいいの……まま……すき……』
リラックスしているのか、全身に抵抗は無く、されるがままにマッサージを受け入れる。先程まで微睡んでいたのがぶり返したのか、またくわっと欠伸をした後に、縁に顎を付けたまま、目を瞑る。
『うー……ねないの……もっと……ぬくい……の……ねな……い……』
あ、寝た。ざっと体は洗い終わっているので、そのままざぱっとお湯から上げて、布で全身を拭う。毛の中の温度を手で感じても、お湯と同じような温度だ。このサイズまで大きくなったらブローしても体温は持って行かれない。若干の湿り気を残し、後は風魔術で乾かす。
「あ、タロ寝ちゃったかぁ。私、抱いて部屋まで戻るよ。ヒロ、お風呂入っちゃえば?」
「分かった。後、よろしく頼むね。新しいお風呂、広そうだし、ちょっと楽しみ」
「うん、広いのも良いね。温泉宿のお風呂に入ると物足りないけど、それでもいつもより少し、手足を伸ばせるのは幸せだったよ。この樽良いね。ありがとう、ヒロ。態々用意してくれて」
「喜んでもらえて、幸いかな。さて、じゃあ、タロを頼むね」
そうお願いして、しっかりとタロを手渡す。でろーんと伸びたタロを腕の中で丸く抱きかかえて、リズが部屋に戻る。
厨房の中は、調理の残り火の熱と、先程までの入浴の熱が残り、まだほのかに暖かい。村の家のキッチンに比べて、隙間風も無い。あぁ、快適だ……。
服を脱ぎ、お湯を被り、しっかりと頭と体を洗い、樽に浸かる。何というか、昔祖父の兄弟の家で浸かった五右衛門風呂を思い出すサイズだ。もうここまで行くと湯船っぽい。腰を曲げるときちんと肩まで浸かれる。熱めのお湯に自然と声が零れる。
熱を体中で感じながら、今日の話を思い出していく。ローマ街道の件は正直、寝耳に水な部分は有った。有益で有るがまだ時期尚早だと私自身は考えていた。しかし、為政者は50年、100年先の利益を見る。その嗅覚が今この時点からの変革を求めると言う事は、一定の意味が有るのだろう。特に東の国周りは見えていない部分が多い。ここは専門家に任せても良いだろう。世に出してしまった技術だ。後は私が制御するのではなく、世の望む形で取り込まれていくのが自然だろう。
しかし、旅の最中も思ったが、この世界の道は酷い。余裕の無さがそうさせるのだろうが、保守が杜撰すぎる。獣道よりはまともだが、一回通すと後の事はあまり考えない。固めれば良いやと言う思想しか感じない。これを道と言い張って施工している建設ギルドは干されて当然だろう。
それにローマ街道がこの世界に無かったのも頷ける。あれは超大国家が余裕を持って社会を回す為に国の血管として全てを注ぎ込んだ傑作だ。メンテナンスをする限り何千年でも保ち続けるインフラなんて、現代の日本でもほぼ存在しない。ある種のオーバーテクノロジーな思想だ。敬服する。
それに風呂文化もか……。ローマ時代風の風呂文化も良いかと思ったが、敢えて日本式にしたのは、未来が想像しやすいのと、エンターテインメントに徹するには土台が分かりやすい方が良いと考えたからだ。
ベティアスタに風呂を教えたのも、ただの好意では無い。実家の伯爵領に戻っても風呂その物を喧伝するだろうし、将来東の国に輿入れしても向こうで風呂文化を広めてくれるかもと考えたからだ。
まずはワラニカ王国だけをターゲットにしていたが、東の国との交易が早まれば、東の国の外交官、お客様も押し寄せるだろう。そうやって都市の重要性を高めて軍事的な側面だけでは無く、価値として攻めにくい都市に変えて行きたい。文化圏が隔絶すると、簡単に攻め滅ぼされる。それはローマ帝国の末期を考えると容易に想像がつく。まず必要なのは価値観をお互いにすり合わせて、共有する事だ。
そんな事を考えると、少し逆上せてきた。樽から出て布を取り、体を拭う。ふぅ。領主館に入ってから久々の入浴なのでさっぱりした。やはり体は清めていても、お風呂のさっぱり感とは違う。根っからの日本人だなと苦笑が湧く。
後片付けをして部屋に戻ると、リズはベッドで布団に潜り、考え事をしていた。タロは箱の中で毛皮をかけられて、スヤァと寝ている。
「何か悩み事?」
「あ、ヒロ。おかえり。悩み事では無いよ。淑女教育を受けたけど、どう変わっていくのが良いのかなって」
リズが眉根に皺を少し寄せて、云々と唸っている。
「根本的な部分になるかもしれないけど、淑女教育って結局外面の部分、相手とどう接するのかの勉強と見て良いよ。どうしても快く相手と接するには意識を合わせた作法が必要になってくる。これは貴方と同じ文化圏の人間ですと言う表れだね。ここさえ押さえておけば後は特に問題は無いよ」
「日常生活は?」
「使用人に対しての接し方と言うのは上に立つ者として厳然として存在する。私自身、レイもカビアも有能な人材だと思うけど部下として接しているよね? あれと同じく約束事を守らないとお互いに居心地が悪くなる部分も存在する」
「なるほど……。ヒロとは?」
「はは。そこは気にしなくて良い。家族と他者は明確に分けて考えた方が良いよ。練習の為に使うのなら良いけど、堅っ苦しくなるだけだよ」
そう言いながら頭を撫で続ける。
「そっかぁ……。うん、分かった。何と無く将来が見えてきた」
「良かった。じゃあ、寝ようか?」
「うん」
リズの頷きを見て、蝋燭を吹き消す。今日も色々有ったが、良い一日だった。明日はロスティーが戻る予定だ。詳細を確認した上で、今後の対応の微調整も図れるだろう。さて、やる事は沢山だな。頑張ろう。
そう思いながら、目を瞑る。中途半端に寝たから眠れないかとも思ったが、すんなりと意識が薄くなっていく。霞みがかった思考で、リズの爽やかな香りに包まれ酔いしれていた。