第290話 湯けむり厨房編~ベティアスタの場合
食事が終わり、各自が自室に戻る。部屋の前で侍女からタロの食事を受け取る。部屋の扉を開けると箱の中でタロがお座りしてキリっとした顔をしている。本当に現金に育った。可愛いけど。
『イノシシ、うまー!!ウサギ、ない……コリコリ、うまー!!』
あぁ、夕方のウサギ、記憶には有ったんだ。まぁ、失敗から学ぶ事も多いし、取り敢えず群れと言うかペアを確立してあげないと狩りは難しいと思う。
皿まで舐め終わったら、水をあげる。満足と言う顔で暖炉の前で丸まる。しかし、他の狼が来たら、この生活が維持出来るのかな。ぬくぬくと丸まっているタロを見ながら思う。
「どうしたの? ちょっと難しい顔しているけど」
「タロにも伴侶が出来たら、どうするんだろうなって。この生活のままじゃ無理だろうし」
そう言うと、リズがくすくすと笑う。
「ん? 何かおかしかった?」
「いや。ヒロも家に来た時、ガチガチだったなって思い出しただけだよ。タロもきっと大丈夫よ」
あれは、この世界が全く分からないからだと思うけど、まぁ、タロも一緒か。
タロを撫でてあげると、コロンと転がり、お腹を膝に当ててくる。いつものように、全身をわしゃわしゃと撫でる。ひゃーって感じで身を捩り、満足したら、また丸まる。
そんな感じで食休みを楽しんでいると、扉が叩かれる。応答すると、いつもと違う侍女が声をかけてくる。ベティアスタが来たらしい。
「すまんな。待ち切れず訪問した次第だ。早速頼めるか?」
どこかわくわくした顔でベティアスタが言う。
「リズ、食休みは大丈夫?」
「そこまでお腹いっぱい食べないから大丈夫よ」
じゃあと言う事で、厨房に向かう。樽に熱めのお湯をいっぱいに張る。もう一つ、いつも馬車に積載している樽にもお湯を張る。
「ん? いつもの樽もなの?」
「あ、そっちの樽で体を洗ってから浸かれば良いかなって。折角樽が複数有るし」
「あぁ、分かった。んじゃ、お世話は私がするね。じゃぁ、ベティアスタ様、ご説明致します」
リズが服を脱ごうとしたので、厨房の入り口に置かれている椅子に座って、もしもの時の為に待機する。細々とした声が霞んで聞こえる。
「ふむ……。浴場では脱ぐのに抵抗は無いが、厨房と考えると中々に恥ずかしいな。衝立が有っても日常を思い浮かべてしまう……」
「私もおりますよ。大丈夫です」
リズの力強い声と共に、微かな衣擦れの音が聞こえる。
「体を清めるのではなく、湯を被るのか……。あぁ、それでこの下の。良く出来ているな」
ざぱっと言う、水音が何度か続く。
「痒い所は有りませんか?」
「うむ。大丈夫だが。手慣れておるな?」
「仲間にも教えました。ヒロが教えてくれましたし」
「そうか。おぉ、そこが気持ち良い……。おぅ……。うむぅ……」
何度かの水音がまた続く。
「それが綺麗の元と言うやつか? 触った感じはムクロジに似ておるが……。ふむ、ほのかな脂の香りと、これは香油か。また大層だな」
「ヒロが作ったんですよ。村でも評判です」
「ふむ、ぬるぬるとくすぐったいが、心地良いな」
「ヒロが言うには、汚れ自体が体に溜まっているので何度か洗わないとこのようには泡立ちません。なので、ちょっとくすぐったいですが」
「我慢はする。ひゃっ……。耳の後ろまでか? ちょ、首は弱いので、そっとで……ひゃん……」
何と無く聞いているのが悪い気がしてきたので、ランタンの光で書類を読む。厨房全体に燭台は有るが、たった3人の為には勿体無い。倹約倹約。目が悪くならない程度の光量が有れば十分だ。
結局作物が収獲出来るまでは、ノーウェの村経由での輸送に頼るしかないか。流石に東の森での採取で村全体を満たすのは無理だ。タイムラグが有るのと、治安維持が心配だな。宿場と言っていたけど、早めに作ってくれないかな……。予算だけこっちが持って実効支配権だけ譲る形でも良いかも知れない。しかし、それだと予算の目的外使用になるのかな……。下手したら広義の収賄になるのか?聞いてみないと分からないか。
状況が分からない中で、あーでもないこーでもないと考えていると、ほのかに香油の香りが漂う。
「リズが髪の乾燥はアキヒロ殿に頼めとの事でな。よろしく頼む」
湯上りで上気した顔のベティアスタが立っていた。
「はい。いつも髪の手入れはどうされています?」
「香油を塗る程度だな」
「分かりました。では、同じように。いつもお使いになっている香油はお持ちですか?」
「これだな」
蓋を開けて香りを確かめて、手に適量を出して水を生み、混ぜる。ベティアスタの髪全体に馴染ませて、風魔術でブローをする。
「ふふ。魔術をこのように使うとはな。引退した魔術士が洗濯物の乾燥などで重宝されていると聞くが、私も洗濯物と一緒か」
「魔術も使いようかと考えます。生かすも殺すも使い手次第ですので」
「その発想が、アキヒロ殿の強みなのだろうな」
そんな話をしながら、髪の毛を乾かしていく。徐々に香油も馴染み、さらさらと絹布のように流れていく。
「はい、完了です。如何ですか?」
「うむ。おぉ、指の通りが違うな……。これはまた……。はは、一本一本がさらりと解ける。これは心地良い。熱い湯に浸かると言う体験も愉悦であったが、この髪もまた愉悦だな」
ベティアスタがにこやかに微笑む。蝋燭の光では分からないが、全体的なくすみが落ちて、淡い光に浮かび上がるかのようだ。
「応接の前室に姿見が有ったかと記憶しております。明日、日が昇ってからご確認されればと思います。お綺麗ですよ」
「自分では分からぬがな。良い経験だった。これの大きな物が『リザティア』には有るのだな?」
「はい。見渡す限りの湯の原です」
「それは楽しみだ。どちらにせよ、一度は東に戻らなくてはならぬでな。その際に寄る事にしよう」
「まだまだ出来上がりまでは時間がかかりますよ。また町が開く際にはご案内するよう致します」
「はは。それも楽しみよ。それならば先に実家に戻るかな? 今宵は愉快だった。ありがたく思う」
楽しそうにベティアスタが燭台を片手に、廊下を歩いていく。
「お疲れさま、リズ。ありがとう」
「ううん。楽しかったし。色々お話しも出来たから。どうする? ヒロ先に入る?」
「いや、後片付けをするから、先にリズが入ったら良いよ。濡れたままだと風邪をひくよ」
そう言いながら、樽を傾け湯を捨てる。再度お湯を生んで満たす。
「じゃあ、入っちゃうね。ありがとう、ヒロ」
「どういたしまして。先に部屋に戻っているよ。タロも洗わないと」
そう告げて部屋に戻る。音に気付いたのか、タロが暖炉前から立ち上がり寄ってくる。
「タロも久々のお風呂かな?」
『ぬくいの!?ぬくいの!!』
キャンキャンと高めの声で鳴く。それを撫でて宥めながら、ゆっくりとした時を過ごす。最近忙しい時間が続いたから、ゆっくりとお湯に浸かれるのはありがたいな。そう思いながら優しく、タロを撫で続けた。