第281話 事を託せる上司がいると言うのは幸せです、それがこちらの心情を汲んでくれるので有れば余計に
目を覚ました瞬間、掌に温もりを感じる。リズがいつの間にか両手で私の右手を包んでいた。そっと外して、窓を開ける。空は曙光でほのかに藍色に染まっている。曙光か……。今回の件が明るい兆しになってくれれば良いが……。雲は無い。農家の予測が当たったか。気温が低い為、雪は残っているが移動が困難な程の積雪では無い。昨日の晴天でかなり溶けた。今日もこのまま晴れるなら、道の状態はましになる筈だ。
2月13日の朝の光を浴びながら、背を伸ばし、左右に揺らす。はぁーっと吐き出した息は白く跡を残し、散っていく。湿度を考えると、気温は一桁台くらいか。
暖炉の世話をして、部屋の温度を上げる。動きに気付いたのか早めに寝たタロが目を覚ます。遊ぶの?と言う目でこちらを見ているが、遊ばない。朝ご飯までゆっくりしておきなさいと、皿に水を張る。ペロペロと舐めて、体勢を変えながら丸くなる。
部屋の温度が上がった辺りで、リズを起こす。揺らすと、ほのかに瞼を開ける。
「おはよう。リズ、起きた?」
「んにゃ? あー、ヒロ……。あぁ、朝? 起きた……」
そう言いながら、徐々に覚醒し、ベッドに上体を起こし、背を伸ばす。
「んんー。あぁ。昨日は早めに寝たからかな。少しすっきりした。ん。おはよう、ヒロ」
微笑みながら、ベッドから降り、身支度を始める。今日の予定を話しながら、用意を完了させた頃に、侍女が扉をノックする。誘導されて食堂に入り、席に着く。
ロスティーとノーウェはまだだ。ベティアスタや仲間は席に着いている。ベティアスタに政務の状況を聞きながら、2人を待つ。テラクスタ伯爵領の状況に関してはベティアスタが謙遜していた程、悪い感じはしない。十分な投資が流入すれば発展する余地は有る。あぁ……、それで現当主の甲斐性と言う話になるのか……。中々世の中上手くいかない物だな。弟も同じく政務官としているらしいので、そちらに期待するらしい。能力的には男爵としての能力は十分有るらしく、既に北側の町の運営に携わっているらしい。ノーウェ子爵領に一番近い町なので、期待されているのだろう。
雑談に花を咲かせていると、ロスティーとノーウェが現れる。
「おぉ、我が孫よ。湯たんぽと言うたか。あれは良いな。歳を取ると足先が冷えるが、ベッドの中まで温かいお蔭で寒い思いをせんで済んだ。これは早めに北に欲しい。ノーウェ、調整せよ」
「父上、朝の挨拶くらいまともにお願いします。商品の融通は調整します。おはよう、皆。元気かい?」
上機嫌のロスティーと苦笑気味のノーウェが話しながら席に着く。それに合わせて、朝食が運ばれる。
「後は、クッションと言うたか。最近寝る度に腰が痛うてな。腰の下に敷いたら、朝が楽でな。驚いたわ。これも量産したいが、問題は綿か?」
「はい。まだまだ綿が高いので、量産までは難しいですね。もう少し価格が下がってくれれば民も使えますが……」
「綿の栽培可能な北限は中央より若干北辺りまでか。開明派でも食料優先でそこまでは量産は出来ぬからな……。ふうむ……。惜しいのう」
ロスティーが虚空を睨みながら、考え込む。『リザティア』でも綿の生産は可能だが、手を出すかは決めかねている。この世界の綿って紡錘での手紡ぎなのだ。綿そのものを仕入れて、水車を使ったガラ紡で糸紡ぎまでをやってしまえば、加工品として輸出しても十分に元が取れる。そう考えると、綿の生産そのものに魅力を感じない。
「まぁ、その辺りは追々で良いでしょう。さぁ、朝ご飯を食べましょう。ロスティー様も早めに出られる予定ですよね?」
このままだと延々悩んでいそうなので、食事を促す。その後は雑談を楽しみながら、食事を進めて行く。リズも積極的に話に混じる。
食後は、買ってきた湯たんぽに沸騰寸前のお湯を注ぎ込んでいく。直接触れず、馬車内の温度を上げる為だ。入れる度に、厚手の手袋をした使用人が馬車に運び込む。
座席にはクッションも配備されている。車内に手をかざすと外の気温とかなり違う。うん、きちんと温度が上がっている。後はこの水を再度沸騰させながら使ってもらえば良い。
荷物の運び込みと、用意が済むとロスティーが現れる。
「では、良い知らせを待て。お前の策が成就するのは自明よ。どしっと構えよ」
ロスティーが背中を叩いてくる。
「お爺様……。よろしくお願い致します……」
兄殺しを頼むのだ。何を言って良いか分からない……。にこやかな顔を作っているつもりだが、どんな顔になっているかも分からない。
「ふふ。お前もよくよく悩むものよのう。気にするなとは言わん。お前の性格では気にするからな。故に、まぁ、儂に任せておけ。全てを済ませてくる」
ロスティーが優しい顔で、私の頭を撫でた後、馬車に乗り込む。横の窓を開けて、手を振る。それに合わせ残る皆が手を振る。
「では、行ってくる。10日程で戻る予定だ。健勝にな」
「行ってらっしゃいませ」
皆で手を振りながら唱和する。
馬車は新型らしい、緩やかな上下運動を見せながら、徐々にスピードを上げていく。すぐに視界から消える。
「無事に出たかな? さて、父上がいない間に色々と教えないと駄目かな」
ノーウェがお道化たように言う。
「先に、レイを見送ります。執務室ですよね? 後程伺います」
「あぁ、村への連絡かい? うちの伝令を使えば良いのに律儀だね」
ノーウェが苦笑いを浮かべながら、領主館の中に戻る。
リズとリナ、カビアで並んで待っていると、見慣れた馬車が裏手から回ってくる。
「これは、これは。男爵様。態々、お忙しい中お見送り頂きまして、ありがとうございます」
レイが、御者台から飛び降り、目前に立つ。
「寒い中手数をかける。村ではこれでゆっくり体を休めて帰って来て欲しい」
巾着を手渡す。
「このような……。いえ。お心尽くし、ありがたく頂戴致します。向こうの皆様にはご健勝の旨をお伝え致します。はは、無聊を託っていられるかも知れませんね」
レイが巾着を懐に仕舞いながら、眉根に皺を寄せながら、笑う。
「向こうにはロットがいるしね。斥候が3人もいるんだ。だらけるんならゴブリンでも相手に森に入っていると思うよ。体を動かす事の大切さは伝えたから」
「さようですね。では、参ります。リナさん、後の事は頼みます。男爵様をくれぐれも……」
「うむ。某の命に代えても」
レイとリナが真剣な顔で、話している。2人とも爺ちゃん絡みか……。まぁ、ありがたい事だ。
「では、行って参ります」
レイが御者台に飛び乗り、颯爽と馬車を回転させる。そのまま領主館を出て、町中を緩やかにスピードを上げながら進む。
「行っちゃったね」
リズが背後から呟く。
「うん。まぁ、頼り切りと言うのも駄目だしね。さて、私はノーウェ子爵様とお勉強かな。リズは?」
「私は貴族夫人の勉強だって。ちょっとドキドキしている」
「淑女教育かな。もっと魅力的になるんだろうね。無理はしない程度で頑張って欲しいかな。もっともっと魅力的なリズが見てみたい」
そう言うと、リズの頬が赤くなり、俯く。
「リナは?」
「某はレイ殿の穴埋めで御座るな。館の警護に入る形で御座る」
リナが気負いなく、淡々と言う。諜報員だし、得意分野か。
「カビア、残余の案件は?」
「特許関係は一旦昨日ので終了ですね。後は現地でどんどん新規の物が出来上がっていますので、それは追々です。徐々に各所の建物の完成報告が上がっておりますので、そちらの確認、完了承認ですね」
「ふむ、では書類は部屋に回しておいて。カビアも体調には気を付けて、無理はしないように。本番はここからもっと先、町が実際に回り始めるところが一番肝心だ。そこで全力を振るえるように」
そう言うとカビアが恭しく頭を下げる。
「じゃあ、今日も皆、頑張ろう。解散」
そう告げると、皆、それぞれが目的地に向かう。
朝日が世界を輝かせる。残雪がキラキラと瞬く。見ているだけなら綺麗なのになと思いながら、領主館の中、ノーウェの執務室に向かう。さて、お勉強の時間だ。