第273話 昔、教えに来てくれた老先生と剣を交えましたが、息も切らせられませんでした
練兵室と聞いていたが、基本的には何も無い土間の部屋だった。昔剣道をやっていた頃に、学校に道場が有ったが、それが四面分程度の広さだろうか。空気は冷えて、ピンと張っている。
一角では、ノーウェの軍人が訓練に励んでいる。腕立てや腹筋などはこの世界でも同じように有るものだなと思ってしまった。ストレッチの概念は皆に教えたが、その辺りの基礎訓練をどうしているかは聞いていないなと、今更ながらに気付いた。
リナとレイは体を温め終わったのか、木の塊が先に付いた棒を持ったリナと木片を持ったレイが向かい合って、隙を窺っている。リナは鎧を着こんでいるが、レイは平服のままなんだが、大丈夫なのか?あれ。
そう思った瞬間、リナが盾を前面に押し出しシールドバッシュを狙いながら、左手に回り込もうとする。レイはそれを完全に見てから大回りに躱し、リナの動きに合わせ、後ろに回り込む。リナが盾を振り払って前を確認した時には後ろから首筋に木片が当てられていた。あれが短剣なら勝負ありか……。レイ、怖いよ……。映画の暗殺者みたいな動きだった。
「凄いね、レイ。ああやって、動いているのをあまり見た事なかったけど」
「元々斥候団に所属していたから、実力も有るよね……。正直あの動きで回り込まれちゃったら、相手にするのはきついかも……。距離を取って魔術での対応になるけど、それも避けられかねない怖さを感じる……」
『術式制御』が無いからこっちの魔術の発動は確認出来ないだろうけど、視線や身構えた感覚でバレそうな気がする。曲射だろうが基本的には真っ直ぐ目標に向かうので、急制動で予測を外されると、当てられない。幾らシミュレーターとは言え無限に未来を予測出来る訳では無い。発動後はあくまで予測だ。予測以上に動かれれば外れる。
人類の最高峰って見ていたけど……。人間ってこんな世界に到達出来るのか……。凄いな……。忍者とかフィクションだと思っていたけど、何か本当に居た気がしてきた。
「んと、で、ヒロは何をしたいの?」
「槍とグレイブの動きを人相手に確認したいかな。ゆっくり目に動くから、盾で受けて欲しい。慣れたら、早くしていくよ」
そう言うとリズが頷いたので、槍の訓練の為なのか棒が有ったので、それを手に取る。ゆっくり目に、リズに向かって薙ぐ、リズがそれに対して盾を構える。その瞬間、世界の動きが若干遅くなった。あれ?これが脳内物質の調整か?盾からややずらして、リズの頭上を抜ける線をなぞる。知覚の遅延時間はそう長く無いし、そこまで遅くなった訳では無い。ただ、明らかにリズの動きが悪くなったように見えた。
「え? ヒロ、何かした? 途中から棒の動きが変わったけど」
リズが盾を棒の動きに合わせて上げるが、僅かに届かず、棒はそのままリズの頭上を抜けた。
「ちょっと分からない。もう少し試そうか……」
これが『殺人』の効果か?もしこれが高い人間がいたら、接近戦を挑むのはかなり厳しい……。スキルの習熟によってどう変わるのかによるけど、もしもっと世界が遅く見えるなら、好き放題に打ち込める……。
そのまま薙いだり、突いたりで仕様を確認していく。やっぱり、ほんの刹那だが、リズの動きが遅く感じる。スキルのオンオフも出来るようだ。と言うのも、10合程打ち込んだら、頭痛がし始めた。スキルを使わない事を意識して振ると、発動しないし、頭痛も少しずつ治まってきた。
あー、この感覚思い出した。小さな頃にブロック塀の上を歩いていて、頭から落ちて丸1日記憶喪失になった。その落ちる時に世界中がスローモーションになった。あの感覚だ……。それにスキル発動時、盾に当たる瞬間だが手応えが予想よりも少し重い。これが筋力アシストの効果か……。逆に外した時のリスクも上がる気がするが。
「んー。ヒロ。なんだか、気持ち悪い。動きが途中で変わる時と変わらない時が有る。何なの、それ?」
「いや。ちょっと思い浮かんだから試してみたんだけど、成功のようかな。受け辛い感じはする?」
「この動きで来そうって構えたら、ちょっとだけズレて来る感じかな。その度にあれ?って思う感じ。でも、そうじゃ無い時も有るし、気持ち悪いね……」
リズが若干首を傾げながら答える。これ、オンオフするだけで勝手にフェイントになるな……。使い方か。でも人類相手にしか発動しないんだったら、訓練は対人でしか出来ないか。ますます私には向かないか……。
「分かった。ありがとう。私は大体把握出来た。リズは、どうしたい?」
「むー。何か勝手に納得された。ちょっと嫌な感じ」
そう言うとリズがむくれる。
「ごめん、ごめん。前にオークと戦ってたよね。あの時に少し閃いて、試してみたかったんだ。大体把握出来たから。大丈夫。助かった。ありがとう」
「もう……。良いよ。体動かす機会が無かったから、体を動かしたいかな。あ、あれ、しよう! 背中合わせで、ぐいーってするやつとか」
そう言うと、リズが背中合わせになって、両手首を握られる。あれ?私が伸ばされる方?って痛い、いたたたた。
「ぎゃー、いきなり伸ばさない。声、声かけて、背中痛いぃぃ」
「ふ、ふ、ふ、ふ。散々気持ち悪いのに付き合ったんだから、ちょっとは痛い思いしたら良いよ?」
「ごめんー。謝るから、降ろしてー。最近背中伸ばしていないから……ぐぇぇぇ。駄目、床とか無理だから……って!?」
リズが無理矢理、床に手を着けるからそのままぐるんと世界が回る。
「いててて。こら、リズ。ちょっとやり過ぎ。危ないよ」
「懲りた? 最近ちょっと自分勝手だよ? 勝手に悲しい顔したり、勝手に辛そうな顔したり」
そう言うと、リズが私のほっぺを横に伸ばす。
「いひゃい、いひゃい」
「抱え過ぎってずっと言っているよ? ヒロは神様? 神様だって、ご自身が出来る事しか司らないんだよ? ほんっとうにヒロは!!」
そう言うとびよーんと頬を引く。あぁ、やっぱり怒っているか。うん、ごめん……。
「ひょめん、ひょめんって」
謝ると、リズが手を放す。
「本当に分かった? もう、子供みたいだよ? いつもいつも同じ事で怒られるのって。分かってる?」
リズが顔を近づけて、怒る。それに口付ける。
「分かった。うん、私はきっと何か有り得ない物を目標にしていたかも知れない。リズとの幸せな生活。それだけに邁進しないといけないのにね。公爵閣下の事もご本人が気にするなって言ってたしね。ちょっとだけ辛いけど、私には何も出来ない。出来ないからここにいるのにね。悲しむ資格も無いや……」
「んー。違う事でまた悩んでいる気もするけど、ヒロは人なの。誰が何を言おうが、人だし、私と一緒に歩む人なの。それ、忘れないで? このままじゃ、ヒロ、神様とかになるよ?」
眉根には皺が寄っているが、少しだけ優しい顔になる。
「ん? 神様ってなれるの?」
「そんな物語が有るよ。大昔のそのまた昔。まだ言葉も生まれる遥か前に。空に憧れた人が、空を愛し抜いた人生の果てに空に召されたって。きっとその人が天空を司る神様になったって言われているよ」
「天候を司る神様とは違うの?」
「天候を司る神様はお天気を司っているよ。天空を司る神様は空の色を司っているの」
あー。なんだ、空気を司る神か大気を司る神みたいな感じなのか?確かに惑星の生物を存続させるのに大気は必須だ。そりゃ司っている神もいるか……。でも、陽光の散乱、レイリー散乱で空の色が変わるとか誰が発見したんだ?神話と言う事は、直感的に紐づけているのか?
「ふーん……。まぁ、私は神様になんてならない。こうやって、リズを感じていたい」
そう言って、再度口付ける。
「ん。ずるい……。こらっ」
リズの力無い非難を浴びながら立ち上がる。
「少し素振りでもしようか。私も運動不足だ」
そう告げて、真剣に棒を槍に、グレイブに見立てて、振り続ける。『軽業』も意識し、曲芸じみた線を描き、円を描く。横ではリズが盾を構えながら槌を振るう。その後追撃を意識してか盾かガントレットを構える。仮想敵はフィアかな?
小一時間程動き回っていると、寒い中で汗が湯気となって上がる。
「はぁ、はぁ、休憩……。きつい……」
べたっとへたり込んで荒い息を吐く。リズは黙々と槌を振るっていたが、こちらに合わせたのか、近付いて来て座り込む。
「ちょっとだけ、体力少な目? ヒロはもう少し運動しないといけない気がする」
「はぁ、はぁ。はは、頭脳労働が専門だから、きついって」
そう言いながら苦笑が浮かぶ。
「もう、あんまりお腹が出ちゃうと嫌いになるよ?」
怒っていない顔でリズが言う。
「富貴の象徴じゃ無いの?」
「限度があーりーまーすー」
リズが私のお腹を突きながら言う。
「今は大丈夫だけど、あんまり油断していると、ぶくぶく膨れちゃうよ?」
「はい。頑張ります」
素直に頭を下げて立ち上がり整理運動を始める。呼吸を意識し、ゆっくりと全身を伸ばし、動かす。リズも教えた通り、ストレッチに近い緩やかな動きで全身を伸ばす。
「男爵様、部屋にお戻りですか?」
リナと一緒に訓練していたレイが近付いてくる。見ると、リナが床に座り込んで下を向いて肩を上下している。うわー、現役が潰れているのに、レイって呼吸も乱れていない……。どんな身体能力なんだ?かなり大きな動きとかしているのに……。
「最近鈍っていた勘を取り戻すのが目的だから。レイはどう?」
「私はもう現役を退いた身ですので。現状維持で十分です」
そう言っているが、馬の世話を見ていても、超人みたいだし……。隠れて訓練するタイプなのかな?
「私、中衛だからね。牽制か魔術が主体だから無理しても仕方無いよ」
「あ、ヒロ。それ言い訳だ。太るよ?」
リズが運動しながら指摘してくる。
「ははは。仲のよろしい事で。素晴らしい事かと思います。まぁ、根を詰め過ぎるのも体に毒です。程々に増やす事こそ肝心かと」
レイがそう言うと一礼し、練兵室を出て行く。すらっと背筋を伸ばしたままスタスタと歩いていく。訓練していた痕跡なんて何も感じない。逆に怖いわ……。
「あれは格が違うで御座るな。斥候団の相手は何度かは経験が有り申すが、あれ程の御仁は初めてで御座る。視線を無理矢理切られて、気付けば……で御座る」
やっと息が整ったのかリナが後ろに立ち、自分の首に手を置く。あぁ、あれ『隠身』を併用して回り込んでいるのか。妙に認識し辛いと思った。目の前で死角に入り込まれたら余計か……。
「見ていたけど、全然相手になっていなかったね。確かに、あれはきつい」
「何と言うか、落ちて来る葉に当てる気分に近う御座る。斥候団でも飛び切り上位で御座ったのであろう……」
リナが目を瞑り吐き出すように言う。まぁ、元諜報部隊員の矜持も有るか……。
「まぁ、目標が近くにいて何よりかな? さて、体を清めていたらお昼になりそうかな。戻ろう」
そう言って、皆で練兵室を後にする。さて、食事をしたら雪の状況を見て、色々遊びを教えようかな。悲しんでばかりはいられない。