第215話 考えるって大切だと思います
ロットにお願いしていた鍋の担当を交代する。沸騰させない程度の温度で煮出した所為か、白濁せず澄んだスープに仕上がっている。鍋に近付き蓋を開けると濃厚な鴨独特の香りがする。
匙で突くと骨が脆く砕ける。これは一回濾すか……。やや油の球が浮いたスープを大きな端切れで受けながら甕にあける。自然に出汁が落ち終わるまで待つ。絞るような野暮はしない。
その間に葉野菜を一口大に刻んでいく。鴨肉も同様にだ。脂身の層と肉の層のコントラストが美しい。ネギもどきが残っていたのは嬉しい。鴨にはネギだ。
全ての用意を終えて、再度出汁を鍋に戻し、火にかける。ここからは時間との勝負だ。鴨は火を通し過ぎると固くなる。固くなったのも好きは好きだが、一番美味しい状態で食べたい。
さっさと作業を終わらせてもらって、皆をテーブルに座らせる。
「リーダーなんでそないに真剣なんですか?」
チャットが不思議そうに聞いてくる。
「鴨鍋は戦いだからだよ。本当に美味しい瞬間はすぐに過ぎていく。その刹那を捉えないといけない」
あぁ、アームロックが得意技のサラリーマンみたいな台詞を吐いた気がする。チャットもきょとんとしている。
出汁の味を確認し、塩を調整する。鴨肉からの脂の甘み、うまみを考慮し、塩辛過ぎない微妙な線を追う……。ここだ。
野菜から出る水分量も考慮し、ややしょっぱさを感じるところで止める。
「リーダー美味しそうな匂いがきついよ。僕、超お腹空いた……」
フィアが情けない声を上げる。
「もう少しで出来るよ」
そう言って、沸騰する間際の出汁に鴨肉を投入する。ふわっと上がってくる灰汁をざっと捨て、野菜を投入し、蓋を閉じる。材料が投入され冷えたスープのくつくつと言う細かい音が徐々に大きくなる。
ぐつぐつと煮え立った瞬間を狙い、鍋をテーブルの上の木材に置き、蓋を開ける。その瞬間立ち上る香気……。あぁ、まさしく鴨鍋だ。
「本日は予想外の収獲が有り、喜ばしい事です。ティアナが頑張ってくれた鍋です。では、食べましょう」
何時に無く挨拶を短めに急ぎ、材質不明の小鉢を作り出し、皆によそっていく。
スープを一口含む。まず来るのは煮出した鴨の濃厚な香り、そしてネギの青さ、そこから鴨肉の脂から上がる香り。絶妙の塩加減の中で各々の香りが混然一体となり、口の中を踊り鼻を抜ける。あぁ、鴨だ。
肉を匙で掬い、口に入れる。噛んだ瞬間、鴨の脂が溶け出し、出汁と一緒にその甘さを伝えてくる。噛み締める度に、あの鴨独特の香りが口に広がる。あぁ、鴨だ。鴨だ。
葉野菜はあくまでシャキシャキした感じを失わず、それにスープが絡む。何よりもネギだ。この香りと脂の甘さの中で青い香りを主張しながらも鴨を引き立てる。鴨葱って、正しいよね。
ふと周りを見ると、誰も何も言わず、ただ匙を動かしている。顔を見るとにやけているので美味しいのだろうが、反応が無い。
一旦、小鉢の中身を食べきった瞬間、歓声に変わる。
「リーダー、これ甘い。いや、塩だけど、なんだろう、甘いし、良い匂い!!」
フィアが興奮したように言う。
「鴨なんてパサついた印象しか無かったわ……。こんなに芳醇なのね……」
ティアナが眉根に皺を寄せ、やや呆然と言う。
「はぁ。何と言うか。感想を言おうにも、味が表現出来んで御座る。美味い。これまで食べた中で一番美味いかもしれぬ……」
リナが完全に呆然としながら呟く。
そこからは戦争だった。皆が匙を奪い合い、鴨鍋を掬い始める。おおぅ。美味しい物の前では皆、平等か。
「スープはなるべく残して、明日の朝が有るから!!」
私はこの暴徒を前にして、注意事項をお願いする事しか出来なかった。久々に鴨鍋食べたけど、3杯程度しか当たらなかった。結構な鴨肉入っているし、野菜も多かったのに……。
皆は何か、もう動けませんみたいな顔をして、だれている。まぁ、鍋をした後はこんな感じか。ロッサですら、ちょっと食べ過ぎて、動け無さそうだ。珍しい。
「戦いの意味が分かりました。美味しかったです」
チャットがそれだけ言うと、テーブルに突っ伏した。
と言う訳で後片付けだが、この材質不明な皿はどうしようか。正直、投げ捨てても良いんだが……。洗って置いていくか。誰か使うかもしれない。
そう考えながら、洗い物をしていく。寒空の下タライにお湯を張り、タワシもどきで洗うだけだが。最終的に、タライも洗って、中に皿を裏返して立てていく。明日の朝も使うか。
何とか衝撃から立ち直った皆に夜番を決めてもらう。取り敢えず、前番がロッサになったので、お願いする。竈を使って温まっているこっちの家屋を女性陣が、もう一つの方が男性陣が使う事にした。
新しい木の匂いがする部屋の中に毛布を敷いて、眠りにつく。1月15日はそんな感じで終わった。意識を手放し、闇に揺蕩う。
夜半だろうか、揺すられたので目覚める。中番が私だから、ロッサか。明かりも無いし、窓も閉めているのでほとんど周囲が分からない。柔らかい小さな手が私の手を取り、ゆっくりと引いてくれる。
外に出ると、星空が圧倒的な光量で迫ってくる。闇に慣れた目には眩しいくらいだ。
「リーダー、少しだけお時間良いですか?」
ロッサが珍しくそんな事を言ってくる。ドルの事かな?
「うん。でも、寝ないで大丈夫?」
「はい。少しなら大丈夫です。お話と言うか、相談でしょうか……」
そう言いながら、広場に置かれている、丸太の椅子に座る。これ、良い趣味しているよな。アスレチックのぴょんぴょん渡るやつの太い版だ。
「うん。何か有った?」
「はい。リーダーが前に仰っていた、何か有ったら相談しろと言う内容に該当すると思って相談します」
ロッサがそう言うと、息を吸い、吐き出す。
「今日ですが、狩りに出る前に、ドルさん……あ、ドルに言われました。好きだって。一緒に永遠を歩みたいって」
おぅ。直球な。変化球は無いか。流石、ドル。実直だ。
「そっかぁ。ロッサはそれを聞いてどう思ったの?」
「はい。今まで生きるので精いっぱいで、先の事なんて考えていませんでした。リーダーに会った時まではそうです。でも、今はそうじゃ無いです。未来を、幸せって何か、考えないといけないですし、考えられるだけの余裕も生まれました」
「うん。それは良かった」
「はい。その上で、きっと恋愛や結婚の話も有るんだろうと朧げに考えてはいました。でも、実感はしていませんでした。今日、ドルに言われてそれに初めて気づきました」
少し俯き気味になる。
「そっか。実感してどうだった?」
「少し、困りました。どうしたら良いんだろう。私が決めて良いのかどうかも分からないです」
「うん、難しい問題だね。でも、それは自分で決めないといけない問題だね」
「はい。考えて、考えて、でも答えは出ませんでした。ドルは本当に真摯に生きています。仕事も真面目です。人間として尊敬しています。では好きなのかと問われた場合に、答えが出せませんでした」
「そっかぁ。答えが出せないかぁ。自分の中に好きって意識がまだ生まれた事が無かったからかな?」
「そうだと思います。そんな余裕が無かった為、押し殺してきた気持ちなのかも知れません。でも、今日、ドルに言われて、初めて気づきました」
「うん。気付けたのは良い事だ」
「その上で、どうすれば良いのか、まだ分かりません。ただ、ドルと一緒に生活するのが嫌かと言うと、そうでは無いです。なので、少し考えたいと思います。将来の事を。私が、ドルと一緒に生きても良いのかを」
あぁ、この子、きちんと成長しているんだ。もう、あの頃の人形みたいな、世界に絶望して堕ちるだけの存在じゃない。
「うん。ドルも真剣だと思うから、きちんと考えてあげて。その上で判断したら良いよ。急がなくても、きっと答えは見つかる。ドルにはなんて答えたの?」
「はい。きちんと答えを考えるので、少し時間を下さいと答えました」
「そっか。うん。じゃあ、きちんと考えないと駄目だね。また何か分からない事、将来で考えたい事が有れば教えてくれるかな?」
「はい。その場合は聞きます。ありがとうございました。少しだけ、心が軽くなりました」
そう言うと、星空に照らされた銀の少女はにこりと微笑み、家屋に戻っていった。
あぁ、きちんと成長している。良かった。もう、あの人形はいない。それだけでも救いだ。うん。きちんと考えて答えを出せば良いよ。それが自由な人生の選択なのだから。
そう考えると、苦笑では無い、もう少し温かい微笑みが自然と浮かぶのを感じた。