第190話 サービスの良い宿に泊まると、最初のチップだけでは申し訳無くなる瞬間が有ります
1月2日の朝、窓を開けると晴れの中、村にはうっすらと雪が積もっていた。この時期に積もる程の雪が降るのは珍しいらしい。
昨日は二人とも疲労と一緒にいる事の幸せに溺れ、そのまま眠ってしまった。タライのお湯は、冷めている。
リズは布団に包まったままにして、さっと身支度を整えお湯を貰いに行こうとドアを開けると、湯気の上がるタライが二つ置かれていた。
どうも、夜のタライを外に出していなかったのに気付き、夜明けに合わせて置いてくれたのだろう。そのサービス精神に頭が下がった。
タライを部屋に持ち込み、昨日の残滓を拭う。リズはそのままゆっくりと用意をしてもらい、私はささっと用意を済ませて、階下に急ぐ。
「おはようございます。何かご用件はございますか?」
サービスを誇るでも無い、自然体での対応に、プロフェッショナルを感じた。
「いえ、昨日はご迷惑をおかけしました。朝も、お湯の用意まで、申し訳無いです」
「いえいえ。お使いになると思い、私共が勝手に用意した物です。代金等はお気になさらず」
にこりと微笑み、答える主人。あぁこの人、サービスが何か本当に分かっている。この余裕の無い世界で、このサービスを維持出来るのだ。傑物だ。
「失礼ですが、私こう言う者です」
木札の名刺を差し出す。
「これは?……失礼致しました。男爵様でしたか。とんだご無礼を致しました。何かご不満な点でも御座いましたでしょうか?」
「いえ。貴方のサービス精神に感服しました。もしよろしければ、将来の話をさせて下さい」
「将来……ですか?」
出来れば、今後新領地に建てる温泉宿に関して、サービス・マネジメントをお願いしたい旨を顛末を含めて説明した。
温泉とは何か、温泉宿の意味、温泉街の有り方、それらを説明した上で、サービス業務部門の統括マネージャーとして雇いたいとお願いした。勿論時期もまだまだ先だと明示している。
「また、急な話ですね……。私もこのような話は初めてですので。この店も知人から管理を任されたので経営しているだけです。なので、そのような大それたお話はピンと来ません」
「はい。実際のサービス開始はまだ先の話です。お返事は先で結構です。出来れば貴方が欲しい。貴方のそのお客様に対する心遣いと情熱。それは何物にも代え難い財産です」
真剣な目で、主人の目を見つめる。主人も見つめ返す瞳に熱がこもり出す。あぁ、真剣に考えてくれている人の目だ。
「分かりました。私も、そろそろ自分の店と言う物を考えていました。それだけ大きなお話を頂けるのであれば、考えてみたく思います。少し返答に関してはお待ち頂けますか?」
良し!!明確に反対されなかった。感触も良い。正直急ぎ過ぎたと思う事も有るが、それでも感動した。ここまでのサービスをこの世界の住人が提供してくれるなら、もっと改善も可能だ。
「はい。それで結構です。是非、良いお返事を頂ける事を期待しております」
そう言って、硬貨を包んだ端切れを手渡す。主人が端切れを開けると、今回の宿泊費より額面の大きな硬貨が包まれている。
主人が一瞬驚き、唖然とした顔で聞いてくる。
「もう、お支払いは頂いております。これは何でしょうか?」
「私も経営者の端くれです。今回のサービスに感服した分と足が出た分の埋め合わせです。私の幸せな時間にこのように多大な労力を払って頂いたのをお金で渡す事に忸怩たる思いですが、それでも私の気持ちを表すのに足るのは対価と考えます。本当に嬉しかったです。ありがとうございます」
「……そう仰って頂けて、光栄です。いつもそうですが貴方は……。いえ、ありがとうございます。これを励みに、より精進致します」
そう言って、苦笑いをしながらも対価を受け取ってくれた。
二人揃って、笑顔で談笑をする。痺れを切らしたのかリズが荷物を持って、降りてきた。
「ヒロ、遅いよ。何しているの?」
「御主人に今回の色々に関して、感謝していたところだよ。リズも嬉しくなかった?」
「ん。嬉しかった。そうだね。うん。店主さん、ありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそ。お客様の笑顔を見れて幸せです」
そう言うと、深々と一礼して来る。それを見て慌てたのはリズだった。必死に元に戻ってもらおうと何か言っている。私はその姿が微笑ましく、おかしくて、笑ってしまった。
そんな和やかな雰囲気の中、朝ご飯を食べ、宿を出る。
「お二人の今日が、幸せな一日でありますように。本日はご利用、まことにありがとうございました」
また深々と頭を下げる店主に見送られながら、家に向かう。
「うーん……」
「どうしたの?」
「まだ、何か挟まっているような違和感がする……」
「あー。うん、ごめん。それはもう少し続くかも」
「うん。しょうがないよね。でも幸せだったから、それで良い」
そう言うとにこりと笑う。
「ありがとう。こっちが代われたら良いけど、無理だから。だからごめんとしか言えない」
「ん。良いよ。これはこれで幸せだから。そう言う証なんだって思えるから。だから、あまり気にしないでね」
そう言うと、頭を撫でられた。本当に、女の子って受け入れてくれる。申し訳無さと、ありがたさに涙が出そうだ。
家に着き、ドアを叩く。アストが顔を出し、そのまま中に通される。ティーシアはリズの些細な変化に気付いたのか、何時ものニヤニヤ笑いでは無く、慈母の微笑みを浮かべる。
「リズ、アキヒロさんに迷惑かけなかったかしら?」
「それ、心外!!何も無いよ!!」
そう言いながら、二人が仲良く言い争っている。アストは何も言わず、猟の支度を始めている。男親的に何か有りそうだが、婚約の時点でもう噛み砕いたのだろうか。
「ティーシアさん、タロは大丈夫でしたか?」
「んー。何か夜中もパタンパタンしてたわよ。そろそろ立つ練習なのかしら。お乳は欲しがる分はあげているわ。大丈夫よ」
箱は部屋に戻してくれているらしい。
リズはティーシアに任せて、部屋に戻る。
タロはもう起きていて、箱の中を飽きずにずりずりしている。
『お腹空いていない?』
『まま?まま!!おなか、ちょっと、すいた』
まだ、授乳には早いか。箱に近づくと、懸命に四肢に力を籠める。ぷるぷると震えながら、立ち上がった。と思った瞬間バランスを崩し、ころころと転がる。きゃっきゃ思っている。
驚いた、かなり立ち上がれるようになっている。
『まま、たつ、あるく』
昨日の歩く感覚が気に入ったようだ。足の裏に何かを感じるのが楽しいのだろう。
昨日と同じく抱え上げて、足の裏が地面に付くくらいで浮かしてあげる。喜んで脚をばたばたと動かす。
『あるく、まえ、たのしい』
脚を動かす度に円周を描き、歩かせて行く。足の裏の感触が新鮮なのか、飽きる事無く歩く真似を続ける。
『まま、たのしい!!』
そんなタロの姿を見て、この世界で走り続けてきた疲れが少し、溶けて流れた気分になった。