第182話 慢心していないなんて考える時点で慢心しています
結局1時間が経過したが、痕跡は追えなかった。厳密には、追ってはいるのだが、あまりに臭いが入り混じり分からなくなった。
私でも感じる程、色々な臭いが混じる。木々の、獣の糞尿、腐敗物、堆積物、あらゆる臭いが周囲に濃厚に漂っている。
ロッサは恐縮しているが、元々テリトリーから逃げる為に得た特技だ。逆に頼るのが間違っていた。地図にポイントを記し、今日の探索は終了となった。
しかし、ここまで森の奥に入り込んだのは初めてだ。木々も見た事の無い種類が増えている。『認識』先生に聞いても、名前が無いか不明な発音の木々が多い。
どうも、人間が知らない木々か魔物が名付けた木々が増えている。魔素が濃い為、ダイアウルフのように変異している可能性も高い。
結局、人間にとってこの木々がどんな実を付けて、それが食べられるかどうかも分からないと言う訳だ。オーク達が収穫したであろう木の実も用途不明で破棄されるだろうな……。
魔物を狩るのは生存圏の拡大が目的だが、それ以上を求められないのがこの問題を深刻にしている。安全の確保以上の利益が無い。言い方は悪いが奪える物が無い。
モチベーションを保つのはきついだろうな。農地の拡大とその防衛は不可欠だが、そこに攻めてくる相手に対処すると言う問題が発生する。魔物側は魔物側の理屈で生きている。
コミュニケーションが取れれば交易と言う手段も有るが、そもそも意思疎通が出来ない相手だ。はぁぁ、領地の東の森を考えると今から溜息が出る。指揮個体みたいな定期イベントが無いと良いが。
そんな事を考えていると、休み休み3時間程で昨日のオークに遭遇したポイントまでは戻って来た。森の深い所から明確に抜けた安全圏までは後1時間ちょっとは歩かないといけない。
ただ、もう辺りは真っ暗だ。ランタンのか細い明かりだけが頼りだ。星明かりは有るが、それだけでは戦闘は無理だ。うーん。慢心は無いと思ったけど、慢心だな、こりゃ。慢心が無いと思った時点で慢心だ。肝に銘ずる。
テリトリー内の相手を殲滅すればある程度安心出来るが、殲滅出来なかった状態で夜になったらどうなるかは、今の状況がはっきり示している。
正直、『警戒』範囲でも何時襲われてもおかしく無い。方角は分かっても、最接近するまで姿形を確認出来ない。そのタイミングからの戦闘は危険だ。
動悸がかなり激しいが、内心は隠し何時もの冷静な微笑みの仮面を被る。
「ロット、周辺で接近して来そうな相手はいるかな?こちらに気付いていないようでも教えてもらえると、助かるけど」
「かなり前ですが熊らしき気配は捉えましたが、動きが無い為放置しました。狼、ダイアウルフの反応は有りません」
敵性生物は500m範疇にはいないか……。正直、昼と夜で森の感覚が違い過ぎて、この時点で迷いかけている。いや、地図と目印通り歩いているので道には迷っていないが、何時迷うかと言う恐怖心に襲われている。
この森に慣れたと言っても、十分に安全マージンを取っての行動だった。夜の森は、歩くと言う行為だけで危険を感じる。それを分かっていなかった。
はぁぁ。まだまだ未熟だな。野営を考えても安全圏まで戻ろう。冒険はしない。今は自分の命をベットするタイミングじゃない。
「ちょっと寝るのが遅くなるけど、一回深部から出ちゃおう。このままだと、ここで野営になる。だけど見張り一人じゃ危険だ。もう1時間ちょっと、頑張って行こう」
休憩中そう言うと、皆頷く。流石に頭が冷えたのか、皆の鼻息の荒さは収まっている。まぁ、成功をすれば人間は調子に乗るものだ。今回を教訓にしよう。教訓に出来るよう、1時間ちょっと頑張りますか。
そのまま1時間は皆、ほぼ無言で歩き続けた。ロットやティアナ、ドル辺りは夜の森の経験は有るらしい。ロッサはそもそも暗視がある程度可能なので、問題は無い。
リズとフィアとチャットがちょっとまずい。経験が無い分、過剰な警戒で疲労が蓄積されている。うーん。今晩は順番から外した方が良いな……。
私?足ガクガクで心も折れそうだ。超怖い。何、夜の森って。しかも疲れた。心身ともに重い。メタボでも歩くのには問題無いが程度が程度だ。でも後ちょっと頑張る。
危ない3人の気持ちを落ち着かせる為、積極的に話しかける。これ、黙っているとどんどんまずい状況になる。私の身体的疲労はきついが、気を紛らわせないと今後にも影響しそうだ。
結局、安全圏と見做している場所には問題無く到着した。3人に関しては到着を知ると同時に崩れていたが。他の皆にはテントの設営と、ランタンを持って斥候職と一緒に兎に角、薪を集めるよう指示を出す。
敵の接近が確認出来た場合は、逃げの一手でお願いしている。取り敢えず火を焚かないと、汗で濡れた体が冷える。森の中で体調不良者続出は危険すぎる。
3人には温かい白湯で体を温めてもらっている。『警戒』と並行して、周囲の薪を探す。星明かりだけでは地面は良く分からない。火魔術で炎を出し、探しては水魔術で消す地道な作業で続けて行く。
ある程度集まった段階で、小規模でも焚火を点ける。その時点である程度の視界が確保出来た。はぁぁ。一安心だ。これで一方的に襲われる事は無い。灯りに気付いたのか、他の薪組も帰って来る。
今晩分は十分確保出来たので、焚火の規模を大きくする。
もう時間も遅いので、塩漬け肉と携帯食のシチューもどきで夕ご飯は済ませる。あぁ、一般的にこれが野営の食事だが、本当に不味いな。塩辛い肉の塩分と肉のうまみ、携帯食の甘みが喧嘩して、何とも言えない味だ。
何時もは明るい夕ご飯の時間も疲労も有り、皆、言葉少なだ。モチベーションも考えて、努めて明るく声をかけるが、乗ってこないので浮くだけだ。
まぁ、皆も自分達の欲と慢心が招いた状況なので、何処にも当たりようが無い。当たるとすれば私だが、当たっても仕方無いのが分かっている。方針がダイアウルフ狩りなので、判断的には前進しか出来ない。
後退時期を誤ったかと聞かれればYesと答えるが、誤らない方法は有ったかと聞かれれば、結果論としか言えない。夜の森の恐怖までは流石に計算に入ってはいなかった。ここまで危険とは思ってもみなかった。
うーん、今日はリーダー失格だ。そう言う意味で経験値が足りないのは分かっているので皆、何も言わない。ただ、色々思う事は有るだろう。はぁぁ信用を積み上げるのは大変だけど、崩すのは簡単だな。
今日は中番買って出ますか。罰だ、罰。比較的疲労の少ないロッサを前番に、同じくロットを後番でお願いする。
テントは暗い状況で立てた為、微妙に毛布の下がでこぼこだ。あぁ、慣れない事をすると碌な事が無いと良く分かった。苦笑いで就寝する。
眠ってそう経ってはいないだろう。かなり揺すられているのに気付き、目を覚ます。疲労の所為か、大分深い眠りだった。
「雲がかなり出て来ました。このままだと間違い無く雨です」
ロッサの言葉を聞き、テントから顔を出す。あちゃあ、分厚い雲がどんどん星空を遮っている。んー。明日は狩りを中止で待機か、雨中戻るかだな。
この状況ならもう少しましな場所に移って待機しかないかな……。疲労で体力が落ちているのに、雨中の移動は酷だ。本当に、悪い事は重なる。
色々嘆きながら、12月29日はそうやって、終わっていった。あぁ、中番の途中から本格的に降り出した。その前に焚火と薪をなるべく木の下に移動させたので、消えてはいない。ただ、維持出来るかは雨足次第だ。
明けて、12月30日は朝から大雨だ。マントを頭から被り、外を見渡したが、視界が悪すぎる。熊も狼も何とかなるが、雨はきついな。
皆とも相談したが、結論としては、ここで待機だ。移動を考えるとテントを解体しなければならない。間違い無くテントの中も毛布も濡れる。
ただでさえ消耗している体力を回復させるのも難しくなる。と言う訳で、何とか確保していた薪は濡れずに済んでいるので、これを焚き続ける。
並行して、薪集めだがこれは私が志願した。他の皆も口には出さないが疲れている。
皆には順番に再度の睡眠を指示した。斥候組には申し訳無いが順番で『警戒』に集中してもらっている。
朝ご飯?携帯食だ。あぁ、モチベーションが下がる。良く普通の冒険者の皆さんはこれに耐えて暮らせる。凄い。
薪も一晩の雨で表面が水を含んでいる。生木との区別は付くが、焚火の中で蒸発させながらじゃないと燃えない。
しかも煙が凄い。テントの方に流れないように風を送り続ける。こりゃ雨が止むまでは私担当だな。
ぼーっとしていると、昼ご飯の時間になった。流石に少しでも寝て体力が回復したのか少し明るい雰囲気になって来た。
携帯食を食べながら、今回は散々だと笑えるようになった。前回の儲けが有るのでそう言う意味では余裕が有るのが良い方向に転んだ。
昼過ぎ辺りから徐々に雨足も収まり、夕方前に止んだ。これから進むと、何とか今晩早めの時間には村に戻れる。皆で相談したが、戻ろうと言う話にまとまった。
テントや荷物を片づけ、帰り道を進み始める。川まで出て、そのまま下って行く。余裕が有るので会話をしながら気を紛らわせて、先に進む。
森の浅い辺りに到着したのが日が沈んで、1時間程度経ってからだ。この辺りは狼程度なので、接近されても、何とかなる。そう言う意味では昨日程の恐怖では無い。
皆の疲労の蓄積も昨日程では無い。順調に歩を進めて行く。敵性の相手は兎に角、『警戒』の範囲に入った瞬間に迂回した。この状況で戦うと思わぬ怪我をしそうなので、大回りでも避けた。
そのまま進んで、馬車に到着したのが20時をかなり過ぎた辺りか。家に帰っても夕ご飯は無いな。皆で話して、青空亭で食事をすると言う事で話がまとまった。勿論私の奢りだ。今回はしょうがない。
「今回は私の判断ミスで、面倒事となりました。申し訳無いです。今後はその辺りも含めて判断しますので、今回はお許し下さい」
そう言うと、皆が苦笑になった。もう、誰かが責任を被らないといけないなら私が被ると言う話だ。皆も分かっているので、苦笑で迎えてくれた。
今回は酒もOKにした。明日から1月3日までは休み。行動は4日以降と言う形で年末年始の予定も決めた。完全休養なので酒を飲んでくれと言う話だ。私?タロの世話が有るので飲まない。
「今回は私達の方針ミスね。迷惑をかけたわ」
ティアナが珍しく殊勝に声をかけてくる。
「いや。方針は決まっていたんだから、後は撤退の指示をどこで出すかの判断だった。まだ行けるはもう危ないだ。それを忘れていたのは私だから、私の所為だよ」
苦笑しながら、答えておいた。そう言うと、皆の雰囲気も徐々に明るい感じに変わって行った。酒の力も借りて、場を盛り上げていく。
最終的には、ギクシャクが無くなり、まぁ、何時も通りの雰囲気に戻った。やはり、リーダーの責任は重いな。
そう思いながら、酔い潰れたリズを背負いながら重いなと思った。いや、本人じゃ無く装備も含めてだ。
家に着き、ドアを何とか叩く。何時ものようにアストがドアを薄く開けて確認してくる。
「酷いな。何か有ったか?」
「いや、今回の遠征が散々でしたので憂さ晴らしです」
「あぁ、雨か。確かに散々だな。早く入れ。風邪を引く」
そう言うと、アストは主寝室に向かい始めた。
ドアに施錠をし、部屋に向かう。タロの世話をしないといけない。ティーシアに甘え過ぎた。本当に今回の遠征は反省点ばかりだな。
そう思うと、自然と苦笑が零れてしまった。