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十二の夢 放たれた時間

 白のアリスが白兎の導きによりハートの12の城へ辿り着いた頃、黒のアリスもまた、同じ場所に立っていた。

 しかし、二人は出会うことなく……。

 灰色の空に浮かぶ白い雲。太陽は昼間の位置そのまま動かない。そしてその真下にそびえる大きな白い城。黒い薔薇の蔦と花が城の周りを覆っていて、二つの強い白と黒のコントラストに眼が眩んだ。それが、ワタシ達が目指していたハートの12の城。

「ここがハートの城なのね。すっごく大きい……。こんなの初めてみたわ」

 手を胸の前で組んで、その大きな威厳に満ちた城を食い入るように眺め、ワタシは感嘆の息を吐き出した。チェシャ猫さんが横で頷く。

 ワタシ達はお城の裏側に居た。月さんが魚人さん達に敢えて正面ではなく裏まで回って欲しいと頼んだからだ。彼等、魚人さん達とは先程別れを告げたばかり。

「こっちだよ、アリス」

 月さんがやや離れた場所の生垣の前でしゃがみ込みながらワタシを手招きした。ワタシはチェシャ猫さんと顔を見合わせてから、そこまで歩みを進める。

 月さんは生垣を両手で持ち上げていた。その下は薄暗いけれども、少し大きめの窪みがある。よくみると窪みは人一人が何とか通れそうな小さな穴だった。それは斜めに下へ下へと続いている。

「ここから城の中に入れるんだ。昔、女王様の怒りを買って地下牢に閉じ込められた時、ここから脱したこともある」

 くすくすと口を押さえて笑いながら、月さんは懐かしそうに話した。どうやら彼は何回もやんちゃっぷりを発揮して女王様に捕まっては逃げ出していたらしい。

「何故、此処から入る必要があるんだ? あんたの話だと地下牢へ通じてるみたいだが」

 チェシャ猫さんが訝しげに問うと、月さんは表情を引き締め穴の奥を睨みつける。

「多分、オレの探してる時間君は地下牢に閉じ込められていると思うんだ。アリスにもチェシャ猫にも地下牢に用はないかもしれない。けど、アリス!」

 そしてワタシの名を唐突に呼んだ。もちろん予想してなくてワタシの身体はびくっと反射的に揺れる。

「オレ、アリスに時間君と会って欲しいんだ」

「……大丈夫。ワタシ、元から月さんについて行くつもりよ? だってワタシも時間君に会ってみたいもの!」

 真剣に、けど何処か弱気な口調で告げる月さんに、ワタシは努めて明るく弾むような声音で返した。彼の頬が静かに緩む。それから子供特有の無邪気な笑顔を浮かべて「ありがとう」と、月さんは言った。

 チェシャ猫さんが小さく頭を振ってから月さんの隣に並ぶ。そして、しゃがんでいる彼を見下げながら口を開いた。

「それならそれで構わない。油を売ってないで、早く行こう」

「分かってるよ! じゃあ、先に行くからね!」

 月さんはチェシャ猫さんの言葉に小さく鼻を鳴らし、片口端だけ釣り上げた笑みを向ける。そして、するり、と簡単に穴の中へ滑り込んだ。

「アリス」

 チェシャ猫さんが月さんを見送った後、ワタシに振り返り手を差し伸べる。一瞬戸惑ったもののワタシは彼の手を取った。

「先に行ってくれ」

 チェシャ猫さんはワタシの手を引き、穴の前へ座らせると、視線を巡らせながらそう告げた。黒い尻尾と耳がピンと立ち、何かを警戒しているようだ。

 ワタシは「分かったわ」と返して、穴に足を入れた。そのままチェシャ猫さんの手を離し、片手で地面を押す。体はなんの抵抗も無くスルリ、と穴の中に吸い込まれた。

 一瞬にして暗闇に呑まれる。光は消え、暗闇の中をワタシは滑り落ちていた。まるで昔何回も滑ったあの丸い筒のような滑り台みたいだ。

 ツルツルと止まることなくワタシの体は勝手に何処かへ向かっていく。急に暗闇の中で淡い光が花咲いた。眩しくて目を細める。その淡い光で辺りの形がうっすらと浮かび上がった。

 そこには宙に浮く沢山の時計。変に細長く形の曲がった物、針が存在しないもの、逆に針が何本もある物、数字が間違っているもの……様々な時計が不規則な間隔で空中散歩をしているのだ。コチコチと無数の時計の動く音。まるで、そこは時間の流れが狂ってしまったような印象さえ覚える。

 ワタシは急に怖くなった。狂っている時間、それが今、とても近くにあるように感じたからだ。目を強く瞑る。早くこんなとこ通り過ぎたい。そう思った。

 すると、その願いが通じたのか瞼越しに光が遮られるのを感じる。それからドンっ! と鈍い衝撃。

「いたっ!」

 ワタシは小さな悲鳴を上げた。無防備に何の構えも無く打ったお尻の痛みは半端じゃない。無意識に涙が滲んでいた。

「大丈夫? アリス」

 掛けられる声。床に向いてた視線は黒い小さな子供の靴を捉えた。ワタシは顔を上げ、目尻に溜まった涙を拭い頷く。

「大丈夫よ。ちょっと打っちゃっただけだもの」

 そう答えながら打ったお尻を擦り立ち上がる。辺りをゆっくり見回した。薄暗いじめっとした細長い空間。その両脇に錆びた臭いを漂わせ灰色の鉄格子が順序良く並んでいた。鉄格子の向こう側はコンクリート壁で、小さな部屋にいくつも分けられている。

 13の塔の地下に似た雰囲気を醸し出していたが、此方の方がまだ湿気が少ない。

「それで、時間はどこにいるんだ?」

 真後ろからチェシャ猫さんの声が飛んできた。ワタシ越しに彼を見上げて月さんは肩を竦める。

「さあ? さっき時間君の歌が聞こえたから多分近くには居ると思うよ」

「歌?」

 ワタシが問いを口にすると、月さんは視線をワタシの瞳に落として首を傾けた。

「アリスは見なかったの? 沢山の時計が淡い光に包まれてただろう? そして時計は綺麗な音を刻んでいた。とても、寂しそうな歌声だったよ」

「えぇ! アレが歌だったの?」

 月さんが手で丸を作り時計を模しながら説明している途中で、ワタシは大きな声を上げた。あの滑ってきた変な空間が歌だったなんて正直理解しがたい。第一、歌って言うのは耳で聴くものだし、目で見るものじゃないもの。

「そうだよ。上手い歌は雰囲気を具現化できるのさ! オレだってもう少し練習すれば出来るようになるよ!」

「歌を歌ってハートの女王の怒りを買っているような奴には一生無理だな」

 希望に瞳を光らせて踏ん反る月さんに、チェシャ猫さんが鼻で笑いつつ横槍を入れた。月さんの表情がムッとしたものに変わる。この二人はまた、ワタシを挟んで喧嘩でも始めようと言うのかしら?

 その時、奥の方でカツーンと何かが鉄格子に当たったような音がした。ワタシはびっくりして跳ね上がる。

「い、今の音、なにかな?」

「きっと、時間君だ! オレ達が来たことに気がついたんだよ!」

 ワタシが怯えた声で呟く横で、月さんは表情をぱっと明るく輝かせ踵を返し走り出した。彼は鉄格子とコンクリートに区切られた無数の部屋の中の一つ、その前で足を止める。そして、鉄格子を両手で掴み、顔を押しあてながら食い入るように中を見つめた。

「見つかったみたいだな」

 チェシャ猫さんがワタシの真横を過ぎ、月さんの方に向かう。ワタシはその後に続いた。月さんはワタシ達が近づいていっても全く動かない。ワタシ達はそれぞれ月さんの両脇に立った。そして、鉄格子の中に視線を向ける。

ワタシの喉がこくりと音をたてた。

 それは居た。はじめ、壁の模様かとさえ思えけど、すぐ目の前に居たのだ。

 白と黒で真っ二つにされた笑い顔のピエロのお面。その少し下には同じく白と黒の二つの色で両面を染められたマント。それらは宙でふらふらと浮いていた。

「これ、が?」

「そうだよ。やっぱりハートの女王様に捕まってたんだ」

 ワタシの呟いたそれに、月さんが放心したままの声で小さく答える。チェシャ猫さんがワタシ達を振り返り、それから鉄格子に手を掛けた。

「なら、ぼうっとしてないで早く出してやろう」

 そう、一言述べると彼は腕を引く。鉄格子が歪んだ。バキッという鈍い音がする。天井からパラパラとコンクリートの破片が落ちてきた。月さんはワタシの手を引っ張って慌てて鉄格子から離れる。更に鈍い音が続いて、ついには鉄格子が天井と床から離された。

「まったく、チェシャ猫は相変わらず乱暴だ」

 月さんが憤慨した様子で言葉を漏らすと、チェシャ猫さんは外れた鉄格子をほっぽり出して無言のまま尻尾をくゆらせた。

「ま、まぁ、月さん。開いて時間君が出れるようになったんだからいいじゃない?」

 チェシャ猫さんがいつまでも黙ったままなので、ワタシは苦笑交じりにフォローを口にする。月さんは肩を竦めてみせただけで、それ以上言及はしなかった。

「アリス、アリス……アリス」

 電波のような高音がワタシの名を呼んでいるように聞こえる。いつの間にか、不思議な仮面はワタシの目の前まで来ていた。そして、首を傾げているみたいに左右へ交互に揺れている。笑っているピエロの仮面が目の前に居るのは正直不気味すぎて、顔を逸らしたい気分だった。

「どうしたんだい? 時間君」

 月さんがワタシの横から身を乗り出し背伸びして問う。何せ、仮面はワタシと同じ高さでふわふわと浮いてるんだもの。月さんにとって時間君の仮面と目を合わせるには高すぎる位置だわ。

「ねぇ、アリス。アリスは時間君の声が聞こえるかな?」

「え、えぇっと……ワタシ名前を呼んでいたのは分かるわ」

 急に話を振られ戸惑いながら正直に答えた。それを聞くとまた月さんは時間君に顔を向ける。そして少しの間黙って見つめていた。その行動の意味がよく分からなくてワタシは首を傾ける。キーキーというブランコを漕いだ時のような音が微かにしていた。どこから聞こえてくるのかはわからない。

「そうか、アリスには時間君の声が上手く聞こえてないのか。でも、駄目だよ、アリス。時間君の声は心を開かなくっちゃ聞こえない」

 月さんがまたワタシを振り返り、眉を寄せ少し口を尖らせ明らかに不服顔を作っての一言。ワタシは戸惑い落ち着き無く月さんと時間君を見比べた。心を開く、って言われてもどうしたらいいか分からない。

 そのまま押し黙っていたら急に目の前が暗くなった。触れる温もり。

「目を瞑って時間だけを感じるんだ。他は気にしちゃいけない」

 暗闇の中でチェシャ猫さんの声が耳元で聞こえた。ふっと、体の力が抜ける。チェシャ猫さんの口ぶりはちょっと粗野。けど、彼の声にはとても懐かしい感じがして安心できるものがある。

 ワタシはチェシャ猫さんに言われたとおり目を閉じて、意識を目の前に居るはずの時間君へ向けた。闇の中で残像が青白く浮かび上がる。それが徐々に集まって形をなして、あの白と黒の仮面が現れた。

 驚いて目を見開き、一歩後退する。ヒッという引きつった悲鳴にならない声が喉から漏れた。背中がチェシャ猫さんに当たったのでワタシは元の位置に戻る。もう一度、目を瞑った。

 そしたらまたさっきと同じようにして時間君の仮面が形作られる。今度は小さく深呼吸を繰り返し、跳ね上がる気持ちを落ち着けた。

― アリス。ヨカッタ。コレデ話ガ出来ル。 ―

 キーーンと言う機械音に似たそれが、辛うじて言葉になりながらワタシの耳を通過する。いや、耳というよりは直接頭の中に響いてきていた。

― アリス、アリス。女王様ニ会ウヨリ先ニ、月ノ思イヲ優先シテクレテ、アリガトウ。 ―

「え、えぇと……」

 聞き取りにくい声に理解が遅れてついつい反応が鈍くなる。月さんの気持ちを優先したことにお礼を言われたのだと理解した時には既に、次の言葉が紡ぎだされていた。

― アリス、アリス。言葉ヲ、口ニ出ス必要ハ、無イヨ。心ニ思ウダケデ、己ニ届ク。 ―

 それも、噛み砕くまで少し時間が掛かった。要するに口に出さないで思うだけで言葉が通じるらしい。まぁ、確かに目隠しをしたまま喋るのもおかしいわよね。

 そうなの。こんな感じでいいかしら? 月さんにはここまで道案内してもらったから、お礼も兼ねて月さんの用事を優先してあげたかったの。

― アリガトウ、アリス。オ礼ニ、一ツ、教エテアゲル。 ―

 心で思ったらすぐに答えが返ってきた。時間君の仮面はくるくると嬉しそうに回転している。

 なにを教えてくれるの?

 気になってすぐさま問い返す。すると彼は回転を止めてワタシの鼻の先まで仮面を近づけた。

― トテモ、重要ナ事。 ―

 それだけ発すると彼はまた仮面を元の位置に戻す。そして、その仮面に描かれた口がにんまりと動いた。少しびっくりしたけど、チェシャ猫さんのフードも動くんだもの。仮面の絵が動いてもあんまり不思議には思えなかった。

 それは何? 重要ってどういうこと?

― ソレハ此ノ世界ノ動キ。此ノ世界ニ全テノ色ガ戻ラナイ訳。全テノ色ヲ戻ス方法。 ―

 全てに色を戻す?

 その時間君の言葉にトクンっと胸が高鳴る。色が戻ると言うことは即ち、その色を封印してると言うワタシ達の記憶が開放されると言うこと。

 と、すれば、それはワタシとお姉ちゃんの記憶が全て戻る方法でもあるわけよね?

― ソウ、アリス。記憶ハ開放サレ、汝等ニ戻ル。 ―

 その方法って言うのは?

― アリス、何故今マデ、記憶ハ勝手ニ戻ラナカッタノカ……分カル? ―

 そう問われ、けれど分からなかったので答えに窮する。首を傾けたかったけれど、チェシャ猫さんに目を覆われてるので無闇に頭は動かせなかった。代わりに意思を表したくて手を唇に当てる。

― ソレハ、時間ガ、止メラレテ、イタカラ。記憶ハ時間。時間ハ記憶。時間ガ動カナケレバ、記憶モ動ケナイ。

 女王様ハ、ソレヲ知ッタカラ、己ヲ此処ニ閉ジ込メタ。 ―

 時間君が言ってることの半分近く、何を伝えたいのか分からなかった。

 時間は記憶? 記憶は時間? 時間が動かなきゃ記憶も動けない?

 疑問符ばかりが頭の中に浮かぶけれど、それを問う気にはなれなかった。

 とりあえず、唯一理解できた部分を確認の為、心の中で彼に向かい発する。

 貴方が閉じ込められてしまうと、時間も止まってしまうの?

― ソウダヨ、アリス。己ハ時間。時間ハ記憶。記憶ハ己。アリスノ記憶ハ全テ己。 ―

 え? えっと?

 よく分からなくてなんと返していいか分からず戸惑ってしまう。

 ワタシの記憶は、時間君そのもの、だと言いたいのかな?

― アリス。己ガ解放サレ、時間ガ動キ出シタ今、記憶ハ主ニ戻ルタメ、勝手ニ動ク。 ―

 ワタシの戸惑いを読み取ったのか、時間君は更に言葉を続けた。けれど、更によく分からなくなる。

 記憶が戻るために勝手に動くってどういうことなのかしら?

― アリス、分カラナイナラ、目ヲ開ケテ、月ヲ見ルトイイ。己ノ言葉ノ意味ガ分カルヨウニナル。 ―

 また、ワタシの気持ちを見透かしての発言。よくは分からなかったけど、言われたとおり実行することにした。

 まず、チェシャ猫さんの手をそっと押し上げる。そうすると彼は素直に手を引いた。視界が開け、あの薄暗い地下牢が目に入る。目の前にはさっきまで暗闇に浮いていた時間君の姿。その横に月さん。

「あっ……」

 小さく無意識に口から零れる驚きの声。

 思い出したのだ。

 月さんの姿が誰であるのか。

 帽さんの弟。正しくは帽さんが借りている姿の近所のお兄さんの弟。彼とはハムスターを見せてもらいに行ったとき良く一緒に遊んだから覚えてる。

 でも、驚いた理由はそれだけじゃない。黒が光の加減で少し茶色く見える髪。ふっくらとした頬は薄くだけど紅く色づいている。月さんに色が戻っていたのだ。けれど、それは一枚の白いフィルターを通したような半端な色合いだった。

「どうかした? アリス?」

 月さんが怪訝そうに首を傾げる。彼はどうやら自分の変化に気づいていないらしい。まぁ、月さん元から服は黒いし、白い手袋はしてるし、自分で見える範囲に変化はないのよね。

「色が半端に戻ってる」

 チェシャ猫さんがワタシの代わりに答えを返すと、月さんは片眉だけを跳ね上げて、疑ってるような表情を浮かべた。けれど、それもすぐ驚きのものと変わる。月さんは手袋を外して、自分の手を確認したのだ。薄い肌色が覗いた。

「本当だ! 色が戻ってる! けど……随分と半端だねぇ?」

 始めは弾んだ嬉しそうな声を上げるものの、最後は不服そうに呟きを付け足す。

「白のアリスの記憶がまだ残っているんだろう」

 それに、チェシャ猫さんが納得する答えを口にした。その可能性は大いにありうる。

「じゃあ、オレは後、白のアリスにさえ会えば全部の色が戻るってわけか」

 月さんの表情は気を取り直したように明るくなった。その周りをふよふよと時間君がゆっくりと回る。

「しかし、触っても無いのに何でまた色が戻ったんだ?」

 チェシャ猫さんが後ろから、訝る声色で誰にとも無く質問を発した。

「うん、と。時間君が、止まっていた時間は動き出したから記憶は勝手に戻ってくることが出来るだろう。みたいなことを言ってて。よく分からないって答えたら、時間君が月さんを見てみたら分かる。って。そうしたら、月さんに色が、ワタシに記憶が戻ったのよ」

 ワタシは目を瞑っていた間のことをしどろもどろに話す。うまく纏めようとすればするほどうまくいかなかった。

「成る程。それじゃあ、アリスが相手を目で確認するだけで記憶は放たれ、色も記憶も元ある場所に戻るようになった。と、いうことか」

「チガウ、チガウ、チガウ、チガウ!」

 時間君が回るスピードを速めてキンキン音を鳴らした。月さんが手袋を素早くはめ直して、時間君の仮面を両手で掴む。仮面を自分の真ん前に移動させてから、黙って仮面を見つめた。そして、少しの沈黙の後、時間君から手を離してワタシ達に振り返る。

「時間君が言うには、アリス。記憶を呼び戻す刺激がどの感覚にでも与えられれば、記憶は勝手に戻ってくる。例え、その記憶が一緒にいた人物が近くに居なくても色は返るし、記憶もアリス、あんたの元に帰る」

 月さんはゆっくりとした口調で時間君の代弁をしてくれた。黙っている間、さっきのワタシみたく心の中で会話してたみたい。月さんの言葉が終わると同時に背中で素早く動く気配と、小さな風が巻き起こった。

 驚いて反射的に振り返る。そこにあるはずのチェシャ猫さんの姿が消えていた。

「チェシャ猫さん? どうしたの?」

 ワタシは彼の姿を探し、四方八方を見回しながら名を呼んだ。すると後ろから答えるように微かな物音。急いで振り返ったけど、そこにもチェシャ猫さんの姿は無い。

「アリス、俺を探すな。まだ、俺の持つ記憶を取り戻させるわけにはいかない。アリス、理由は言えないが分かってくれ」

 姿を見せないままチェシャ猫さんは言う。その声は牢屋内に響いてどの方向から聞こえてきているのか判断できない。

「三月、お願いだ。俺の代わりにアリスを女王の下へ連れてってくれ」

「猫が兎に願い事なんて、珍しいにも程があるね。オレは、あんたの願いを叶えるつもりはないけど、アリスが望むならそうするつもりさ」

 時間君を放して肩を竦めながら、月さんは遠まわしな言い方で快諾する。

 チェシャ猫さんの声はそれ以降聞こえなくなった。代わりに何処かへ駆けて行く足音が少しの間木霊する。

「さあて、と。どうする? アリス」

 足音が遠ざかり聞こえなくなると、月さんはワタシに振り返り小首を傾げ問うてきた。そう訊かれても今のところ一つしか答えはない。だって、他にどうしたらいいか分からないもの。

 だから、答えようと口を開いた瞬間、大きな音が頭上から降ってきた。あの花火を打ち上げたようなお腹にドーンと響く、そんな音。月さんは上を見て、それからワタシ達が来た穴とは逆の方の通路奥を見遣る。

「チェシャ猫が牢屋の扉を開けっ放しで出て行ったみたいだね。外の音がよく聞こえる」

 月さんが難しい顔をして状況を分析している間にも、その音は断続的に鳴り響いた。地面が音に反響して揺れる。

「行こう、アリス! 外で何かあったのかもしれない」

 急にワタシの腕を掴んで月さんは走り出した。ワタシの腕を掴む手と反対の手には時間君の仮面とマントを抱えている。

 少し先に階段が見えた。その階段を一気に駆け上がる。しかし、ワタシは階段を上り始める前から息切れしていて、上りきった後はもう体力の限界だった。足がもつれてバランスを崩し、その場に倒れこむ。ワタシの腕を掴んでいた月さんも巻き添えだ。そう、月さんにしてみれば唐突に後ろに引っ張られた形になった。

「うわっ! あいたたた……。アリス、大丈夫?」

 月さんが後頭部をさすりながら起き上がり、ワタシの上から退く。そして、立ち上がるとワタシを心配そうに覗き込んできた。ワタシは鼻の辺りを押さえながら上体を起こす。

「だ、大丈夫よ。ちょっと鼻を打ったのと、月さんの頭がワタシの頭にぶつかったくらいで」

 そう告げて月さんを見た時、彼の後ろのモノに気をとられ凝視する。大きな窓から、昼の明るい白い空に花火が打ち上げられていた。黒と白と灰色の花火。それは意外にもキレイだった。

「アリス、本当に大丈夫?」

 ぼんやりとしていたワタシを見つめながら、心底心配そうに言う月さん。ワタシは急いで首を縦に振った。

「大丈夫よ。それより、あれ、何で花火なんて打ち上げてるのかしら?」

 立ち上がって服をはたいてから、月さんの後ろを指差す。彼は振り返り驚いたような表情を浮かべた。

「あれは……裁判が始まる合図だ! こいつは急いでいかなくちゃならない!」

 窓の縁に食いつくようにして花火を見つめていた月さんだったが、慌ててワタシの手を再度掴み、窓から勢いよく飛び出した。

 風を切り髪や服をたなびかせワタシ達は落下していく。

「ちょ、月さん! 飛び出して、地面に激突したら死んじゃうわ!」

 ワタシは近づく地面に恐怖を抱き、悲鳴に近い声を上げる。ちらり、と月さんが振り返った。握っているワタシの手を引き寄せて、落下しながらもワタシを抱えあげる。

「これっくらいの高さ、オレにとってはどうってことないよ。しっかり掴まっててよね!」

 片方の口端だけ釣り上げて余裕に満ち溢れた勝気な笑みを浮かべる月さん。もう地面はすぐそこだった。反射的に目を閉じる。エレベーターの下りに乗った時のような感覚があって、すぐに治まった。髪がパサパサと、元の位置に戻っていく。

「アリス、いつまで目を瞑ってるの?」

 月さんの笑いが混じった声。ワタシはゆっくりと目を開けた。初めに目に入ったのが月さんの笑い顔。次に、あの黒い薔薇を咲かせた蔦の垣根が視界へ飛び込んできた。それは細く何処かへ誘うように道を作っている。

 その生垣を眺めている間に月さんはワタシを地面へ下ろした。そして、また手を引く。

「さあ、急ごうアリス。裁判に出席しなけりゃ首が飛んじゃうよ!」

 そしてまた忙しなく走り出す。釣られて走りだしながらワタシは月さんに問い掛けた。

「ねぇ、月さん? 裁判ってなに? 首が飛ぶってどういうこと?」

「なんだい、アリス? フシ・ギノ国の作法は何一つ思い出してないの?」

 そしたら別の問いかけが返ってくる。ワタシは曖昧に苦笑いを浮かべ意思を伝える。

「ふぅん? まぁ、それなら仕方ないね。いいかい? アリス。裁判って言うのはフシ・ギノ国の住人に相応しくない人物が現れたときに行われるものさ。それには国中の皆が集まって、参加しなくちゃならない。そういう決まりがある」

 月さんは視線だけでワタシをちらりと見てから、また視線を戻し、嫌がることなく説明を開始してくれた。ワタシは黙ってそれを聞く。

「もし、破れば罰として首を跳ねられちゃうのさ。裁判で有罪を受け渡された被告と一緒にね。そして、裁判の始まる一時間前からずっと、あーやって花火を打ち上げてるのさ。花火は徐々に大きくなる。今の大きさだと始まるまで五分もないよ!」

 空の花火を見上げながら月さんは歩を早める。その間に段々と早くなる口調。それだけで月さんが焦っていることが十分過ぎるほど分かった。

 確かに行かなきゃ首を跳ねられちゃう行事に遅れたくないわよね。怖いもの。

 けど、五分でその裁判を行う場所までいけるのかしら?

 そんな疑問が首をもたげたのでワタシは訊いてみることにした。しかし、それを口にするより早く、目前の垣根が大きく開ける。そこに集まった人の多さに唖然とした。体が薄っぺたいトランプの兵隊。色んな動物が混じった生き物。見たことない白い顔。他にも変なのが沢山沢山並んでこちらを見ている。

 けど、彼等は紐で区切られた場所から内側に入ってこない。どうやらワタシ達は裁判が行われる舞台の上へ出てきてしまったようだった。そう判断したのは丸く半円に引かれた紐。その内側にはワタシと月さんの他に数えるほどの人数しか居なかったからだ。

 その中の一人に目が留まる。灰色のドレスに身を包んだ女の人。彼女を見た瞬間、頭の奥の何かが大きく揺れた。

 その途端、彼女のドレスが色を取り戻す。鮮やかな赤。

 けれど、ワタシはそれどころじゃない。彼女の顔から目が放せなくなった。

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