後編
大学のキャンパスに入ると、高校とはまったく違う雰囲気で花の背筋は自然と伸びる。新入生はこちらへどうぞ~と笑顔で案内してくれる大学の人に従って、大きなホールへと向かった。式典などを行う建物らしい。
いくつかの学部が集まって行われる入学式。なかは学科ごとに椅子に座るようで、腕章をつけた人たちが真新しいスーツ相手に、教育学部、文理学部は奥へ進んでください~食品生物学部は手前です~入口に案内表が貼ってあります~! などと声を張り上げている。
純太とは学部からして違う。式が終われば科ごとにオリエンテーションになるから、彼とはここでお別れだ。
人の渦のなかで、純太が花を振り返った。
「おれ、あっちだから」
「うん」
花の学科はホールの中央あたり。純太はもっと奥だった。それじゃあ、と手を振る花に、純太はまだ言葉を足した。大きな背をかがめて、花の顔を覗き込む。
「さっそく、デートしよ。おれが部活に顔出したあとになっちゃうけど、時間ある?」
花は目を丸めた。デ、デート? わたしと、純ちゃんが??
「きょ、今日?」
「明日のがいいか?」
首をかしげる純太に、花はびっくりしたまま首を振る。
「う、ううん。今日がいい」
すると、純太がにっこり笑う。頬にえくぼができて、それに花の胸がきゅんとした。勝手に頬が赤くなる。この顔に、花はとっても弱い。純太は気にした様子もなく二度うなずいてみせた。
「よし。じゃあ、帰り待ってて。ひとりで大丈夫か?」
「うん。図書館に行ってる」
純太が水泳部に入ることは決まっている。初日から練習はないが、顔合わせなどをするそうだ。きっと明日から、厳しい練習があるんだろうなあ。ぼんやりと、泳ぐ純太を思い描いていた花に、純太はまだ続けた。
「誰かに声かけられても、彼氏と待ち合わせしてるって断れよ? 変なのについていくなよ?」
「そんなの、あるわけないじゃない」
なに言ってるの。呆れた顔で見上げると、思いのほか純太は真剣だった。
「いいから! 約束。断ってもしつこいとか、無理やり引っ張られたとか、危ないときは連絡しろ」
「わ、わかったよ」
今まで誰かに声をかけられるなんてことはなかったし、いくら大学生になったからって、突然変わることもないはずだ。純太が今までとは打って変わって過保護なことを言うから、花は驚きながらもうなずいた。
それから、またあとでねと手を振って、お互いに人の流れにまぎれていく。さあ、ここからは知らない人のなかにひとりだ。花はドキドキする胸をなだめるように、ゆっくりと息を吐きだした。
式はつつがなく、高校とは雰囲気が違うんだなあ、人数多いなあ、と思わせながら終わった。これでも三回に分けて入学式をするため、入学生全員ではない。
終わったあとは案内に従って、学科ごと教室へと移動した。学生番号順に席へ着くと、白髪頭のおじいさんがあいさつする。単位の取り方やら必要な教材、講義の選び方などの説明を受けて解散。明日から二週間をかけて選択科目を決めるのだそうだ。前後に座った女の子とは、教授が休憩をはさむたびに雑談できたし、明日からどの講義を受けるか選ぶのも、大変だけど楽しそうで花は新しい環境にわくわくした。
あまり積極的な性格ではないが、花はひとまずほっとした。純太から、大丈夫だったかとメールが入っていたので、心配性だなあと思いながら返事をする。約束どおり図書館に向かった。
たくさんの蔵書に圧倒されつつ、うろうろと本棚をながめて時間をつぶす。近所の図書館とは似ているようでまったく違う。しんとした空気に、人のさざめき、ペンと紙がこすれる音。
難しそうなタイトルばかり並んでいるので、読む気にはならなかった。知らない分野の棚から出て、花は閲覧席に腰かける。純太はどれくらい時間がかかるのだろうか。今日もらった資料をぱらぱらめくり、スマホの画面をながめながら、時間の進みが遅いなあと思う。知らない場所だから、心なしか落ち着かない。慣れない格好でたくさんの人に混ざっているというのもある。
部活の顔合わせと入部手続が終わったと連絡があったのは、花が一時間近くそわそわしたころだった。その間、花は誰かに話しかけられることもなかったし、ゆったりした時間をすごした。本当に純太は心配しすぎだなあと思う。
その純太が迎えに来てくれると言うので、図書館の入り口で待つことにした。スマホをながめては、通りの先をうかがう。ふっと影がさしたのに顔をあげると、知らない男子生徒が花の横に立った。
「新入生?」
「は、はい」
スーツではなく、ジャケットにジーンズと私服だ。上級生なのだろう。驚いた花に、相手はにこにこして首をかしげる。
「サークルとか、もう決めた? よかったら、見学とかどうかな。なんなら校内も案内するけど」
ひとりでぼんやり立っていたから、気をつかってくれたのかもしれない。
そう思った花に、相手は校舎が立ち並ぶ奥を指さす。
「俺、写真部なんだけど。入部してくれる子探してて。よかったら見学だけでもどう?」
人当たりのよさそうな笑顔でうかがってくるのに、花は鞄の肩ひもをぎゅっと握る。
「あ、あの。わたし、人と待ち合わせしていて」
「その子も新入生? 一緒に来てくれてかまわないよ?」
「あいにくですけど。おれはもう入る部を決めているんで」
ぐいっと腕をひかれたのに驚いて見上げると、不機嫌な純太の顔があった。彼は、花がなにかを言う間にその先を続ける。
「こいつも、その気はないから失礼します」
素っ気なく言って踵を返す。花の腕をぐいぐい引っ張って、足早にその場を去った。不機嫌な背中を戸惑って見あげる花は、小走りにそれへついていく。足がもつれそうになるのを必死に動かした。
「だから言っただろ、気をつけろって」
渋い顔で純太がそう言ったころには、花の息はすっかりあがっていた。
「た、ただの勧誘だっただけだよ」
「選んで勧誘してんだよ。ちゃんと断れって言っただろ」
眉を寄せた純太に、花は責められる覚えはないと唇をとがらせる。
「断ったよ、待ち合わせしてますって」
「あんな言い方じゃ、断ったうちに入らないよ。――まあ、いいや。今日はもう言われることないだろうし」
がしがしと頭を混ぜて、純太はすぐそこにある校門を見てから花を見下ろす。いつの間にか上着は脱いだらしくワイシャツ姿だ。折りたたんだスーツを、無造作に鞄の取っ手に挟んでいた。
純太は大きな手を、花の前に差し出す。
「それよか、デート。ほら、手」
「えっ」
ずいと向けられた手。花は目を真ん丸にして、頬を染めた。純太はなんてことなく言葉を足す。
「デートなんだから、手ぐらいつなぐだろ。練習」
ほら。花の手に触れそうなくらい近くに伸ばされた、大きな手。
手と、じっと見つめる純太とを見比べて、花は眉を八の字にさげた。顔がこれでもかというくらい熱い。練習。これは、練習。純太にとって、特別な意味なんてない、花の練習なんだ。
唇を噛みしめてから、花は手を伸ばす。純太の手は、大きくて硬くてゴツゴツしていて、花よりも熱かった。手をつなぐなんて。それも純太と。幼いころでも、こんなことはあっただろうか。
ぎゅっと指を回され、花は赤くなる。純太がどんな顔をしているのか気になったが、うかがう余裕なんてこれっぽっちもなかった。
行こう。純太の声に、こくんと小さくうなずくだけで精一杯だ。
それから、駅に入っているお店をぶらぶらした。
お昼ごはんを食べて、CDショップと、本屋と、雑貨屋と、服屋。手をつないだまま、入学式の学長の話が長かっただとか、オリエンテーションの様子とか、純太の水泳部の様子とか、他愛のない話をしながらゆっくり回れば、すぐに夕方だ。
電車に乗って、家の前でバイバイと手を振って、帰宅。
部屋に鞄を置いてスーツをハンガーにかけると、花のスマホがブルブル震えた。見ると、純太からのメッセージだった。明日、寝坊したらおいてくからな。そんなひと言。素っ気ないはずなのに、花は耳まで赤くなってしまう。
これじゃあ、本当に純太と付き合っているみたいだ。
純ちゃんこそ、ちゃんと起きてね。今日はありがとう。そんな言葉を返すのに、五回も書き直してしまった。ようやく送って、花は大きなため息をつく。こんな練習、身が持たない。
ひと月が経つころには、大学にも、純太との生活にも慣れてきた。
時間が合えば登下校を一緒にして、会えなかった日はメールのやり取り。土曜日は、純太の部活が終わったあとにデート。映画と水族館と買い物に行った。なんだかもう、本当に付き合っているみたいだ。
「おう。今帰ってきたんだけど。おまえが前に見たいって言ってたDVD借りてきたぞ」
五月半ばの日曜日。昼をすませたあとで、純太から電話があった。
「あの、女の人がスパイのやつ?」
「そう。CD借りに寄ったらあったからついでに。――今から見ようぜ」
「今から?」
「そ。なんか予定あった?」
相変わらず強引である。花はうれしくなってしまう自分に呆れながら首を振った。
「ううん、大丈夫」
「じゃあ、早く。鍵開いてるから来いよ。おまえの部屋テレビねーだろ」
「う、うん」
純太の部屋にいくのか。
小さいころにはよく行き来をしたけれど、中学生になったころからは用事があれば玄関ですませていた。ものすごく、久しぶりである。
かあっと顔が赤くなるけれど、幸い、今は電話だ。純太に見られる心配もない。それじゃあ急いで化粧をして、と支度する流れを思い浮かべた花を、電話の向こうが思い切り急かした。
ごぉ、よん、さん、にい、なんてカウントしだす純太に、そんなに今すぐなのかと半泣きになりながら電話を切る。髪に櫛を入れ、小さなバッグをつかむ。純ちゃんのところに行ってきます! と母親の顔も見ずに靴を引っかけて飛び出した。
「あがれよ。今、誰もいないから」
チャイムを押すと、純太が顔を出した。黒いブイネックTシャツにジーンズとラフな格好だ。今日は会う予定ではなかったから、花は着替えてはいたもののすっぴんで、どうしようと焦りながらうつむいた。今の花は、純太のお好みではないのである。
おじゃましますと小さく言って靴をそろえていると、純太はどんどん二階へあがっていく。花は顔が見えないようにうしろをついていった。
ベッドに、机。小さなローテーブルの前には座椅子。勉強椅子に洋服がかけてあったり、乱雑に雑誌が積まれていたりもしていたが、こざっぱりとした部屋だった。
テーブルにはペットボトルのお茶と、グラスがふたつ。花はそこに持ってきた煎餅とマドレーヌを置いた。家から適当に失敬したものだ。
液晶テレビをつけてDVDもセットした純太が、座椅子にどすんと腰かけた。彼はそこで体育座りみたいに膝を立てると、横に座ろうとした花に手を伸ばす。
「ん」
呼ぶ声に、花は首をかしげた。なんだろう。
「椅子、一個しかねーから。おいで」
立てた膝の間を示す。花は真っ赤になって固まった。それって、その足の間ってことで、密着度がものすごく、高いんじゃないか。
「花。早く」
「う、うん」
練習だろ、なんて添えられてしまえば逆らえなかった。背中が純太にくっつかないように身を丸めたけれど、純太が容赦なく腕を回してぎゅっとした。ひゃあっ! 思わず声をあげた花に、純太がくつくつ咽喉で笑う。その笑う振動さえ、伝わってくるほどの近さ。
「付き合ってるんだから、これくらいあたりまえだろ」
それは、そうなんだけど。そうなんだけど……!
花は耳まで赤くして顔をうつむかせる。DVDが始まっているけれど、鑑賞する余裕なんてない。
今まで出かけているときには手をつないでいたけれど、それ以外のことはなかった。家だからだろうか。今はふたりっきりで。そう、誰もいない、ふたりっきりだった。花はますます顔があげられない。
「嫌か?」
耳に、純太がささやく。吐息が肌をかすめるのに、びくりと肩が跳ねた。心臓がばくばくしている。純太にそれがわかってしまうんじゃ、なんて思うと余計に落ち着かない。
「い、嫌じゃない、よ」
かろうじてそれだけ言うと、ぎゅっと純太の力が強くなる。首元に純太が覆いかぶさってきて、花の体は固まった。
「花」
かすれた、低い声。
おそるおそる顔をあげると、強く、鋭い視線が花を捕まえてしまった。くいと純太の指が花の顎をひねる。息をつく間もなく、熱いものが唇に触れた。
「……嫌か?」
今、唇が、当たった。――純太と、キスをした?
ぼっと全身が熱くなる。さっきと同じ純太の言葉は、比べものにならないくらい花を揺さぶった。花、と純太がじれったそうにうながすから、渋々花は口を開く。嫌か、嫌じゃないか。そんなの、決まっている。
「い、嫌じゃない」
「じゃあもう一回」
えっ、と花の口からこぼれた声ごと、純太は唇で受け止めてしまった。花のなにも塗っていない、ぽってりした唇。
下唇を甘噛みして、舌先でなぞって、それからぜんぶを覆うみたいにふさがれる。ちゅっと音を立てて離れた唇が、熱かった。唇も、顔も、体も、なにもかもが熱かった。
のぼせてしまいそうだ。花は沸騰しているんじゃないかと思うくらい熱い頭でそう思う。
横抱きにされて、純太の膝の上に乗って、花は黒いTシャツをつかんだ。純太がそんな花を自分にもたれさせて見つめる。
「もう一回。今度は花からやってみて。……練習、だろ?」
涙が、こぼれるかと思った。
まっすぐ向けられる視線に、とけてしまいそうなのに。込みあげてくるものを、どうしたらいいのかわからなかった。泣きそうな、化粧もしていない地味な顔で、花は純太を見つめる。震える唇を必死に動かした。
「……練習じゃないもん。わたしにとっては、ぜんぶ本番だもん」
純太のことが好きだから。なにをするにしても、花にとってはそれがすべてだ。純太には違っても。あくまでも、花の練習に付き合ってくれている純太には、なんてことないものであっても。
しぼり出した声に、純太は大きく目を見開いた。ああ、ちっとも思っていなかったんだろうな。花の好きな相手が自分だなんて。やっぱり魔法は効かなかったんだ。まして、今の花は、魔法はかかていないのだから。
「花」
純太が呼ぶ。それに花はこたえられなかった。顔をうつむかせて、体を縮める。純太を困らせるとわかっていて、けれどもついに言ってしまった。純太のことだ、花の言葉の意味に気づいただろう。その証拠に、純太はまた、花と名を呼ぶ。
「花、好きだ」
びくっと、肩が跳ねた。
純太の腕のなかで隠しようもない動揺に、相手はため息を挟んでから続ける。
「おまえが好きなやついるなんて言って、勇気出して変わるくらい本気だって知って。めちゃめちゃ焦ったんだよ、おれ。かっこ悪いのわかってるけど、練習なんて言い包めて、付き合わせちゃうくらいに」
のろのろとあがった花の顔を、一心に見つめる純太の目はとてもとても真剣で。
「一番大事にさせて。純ちゃんって呼んで、横で笑ってて。男慣れしてなくて、なにするにも真っ赤になっていいから」
もっと早く言えばよかったな。照れくさそうに笑って、純太は花のさらさらの髪をなでた。
純太は、ずるい。強引なくせに、どうすれば花がよろこんでうなずくのかなんて、お見通しなんだ。
念を押すように、花、と呼ばれてしまえば。抗う術などなかった。
DVDはすっかり中盤を越えてしまって、あとで見直そうと純太がさっき停めた。静かな昼さがり。花の心境などお構いなしに、日曜日の午後はいつもと変わらず平和な時間が流れている。
「おれ、男慣れしてる方がいいなんて言ったか?」
くったりした花を胸に抱きながら、純太がそういえばと口を開いた。花は、気まずくて眉をさげた。けれども、言わないわけにもいかない。だって、あのときはっきりと純太はうなずいたのだから。
「部室で話してるの聞こえちゃったの。卒業前に、みんなで集まってたでしょ」
「あー」
心当たりはあったのだろう。純太は嫌そうに眉を寄せた。
「……あれかあ。あれは、まあ、言ったには言ったけど。あいつらみんな、おれがおまえのこと好きなのわかってて、からかってたんだよ」
そっぽを向いて頭をまぜる純太に、今度は花が目を丸くした。そう、だったのか。じゃあ、ぜんぶ、初めから花の勘違いだったのか。張り詰めていたものがほぐれて、花は大きく息をつく。
耳まで真っ赤になっている純太が、そんな花に気づいて困ったように笑った。きゅっとできた頬のえくぼに、胸がいっぱいになってしまう。
もう一回、キスしよう。
熱っぽい目に捕まって、花はこくんとうなずく。純ちゃん、と呼んだ声も丸ごとのみ込まれていく勢いに、おいていかれないよう必死にしがみついた。