番外編その二 夏、夏、夏!
暑さは人を駄目にする。
私はリビングのソファで伸びていた。体じゅうがだらけきって、起き上がるのも面倒くさい。気温は高いうえ湿度もある。暑いし、外は雨が降りそうだし、とにかくクーラーのきいた部屋から一歩も出たくない。
対して姉さんは本日もお元気かつご機嫌うるわしかった。朝からやってきて、騒いでいる。
「終わったぁ?」
私がソファで横になったまま声をかけると、向かいでノートパソコンをいじっていた姉さんが首を横に振った。まだらしい。
姉さんは、我が家のパソコンとプリンターを使って暑中見舞いを作成していた。
ああでもない、こうでもないと悩んでいる姉さんをよそに、私は携帯電話をいじる。
ちょうど聡さんからメールがきて、飛び起きた。
「姉さん! スイカ!」
彼のメールには、スイカを持って今から遊びにきてくれるとあった。というか、すでに近くまできているらしい。もうすぐ到着すると文章が続いている。
「なんだと?」姉さんがパソコンから顔を上げた。
「スイカ。聡さんが持ってきてくれるって! ね、スイカ割りしよう?」
ちょっと退屈していたのだ。スイカ割りなんて、言葉だけでもわくわくした響きがある。ただ食べるだけより、ずいぶんと盛り上がるだろう。
が、笑顔で提案した私に、姉さんはふんと鼻で笑い「やだ」とのたまった。いつもなら真っ先に食いついてくるというのにどうしたのか。
「雅。スイカというものはな、最もうまい食し方と楽しみ方があるのだ。やりよう次第である種の大トロだ。絶品なんだぞ。それはスイカ割りですらたどり着けない、スイカの極致だ。あたしはその方法で、スイカの何たるかを悟ったのだ。わかるか?」
「わからない」
姉さんの説法らしき発言を即座に切り捨て、私はインターホンに向かった。来客を告げる音が鳴ったのだ。確認すると、やっぱり聡さんだった。
玄関で出迎えると、彼の手にはスイカ。それも二玉あった。なんでも、実家の床にスイカが大量に転がってごろごろしていたらしい。スイカがごろごろするなんて、どんなお宅なのだろう。おこぼれをいただけるので、何も文句はないが。
「ひとつはお供えして、もうひとつは冷やして食べようか」
靴を脱いでリビングに入った聡さんは、そう言った。
両方ともありがたく受けとった私は、仏壇に一玉お供えして、手を合わせた。
「よし、会心の出来だ!」
姉さんの喜びの声がリビングからもれてくる。仏間をあとにして姉さんのところへ向かうと、姉さんは自身で作成した暑中見舞いを満面の笑みで見つめていた。目がきらきらしている。子供のようだ。
姉さんの様子につられて私と彼はそばからハガキをのぞきこんだ。
「何これ! ねえ、これ何!」私は叫んだ。
暑中見舞い用に使われた写真は、オムライスを掲げるように持っている横顔の私と、その近くにいる聡さんの姿だ。幸せいっぱいという雰囲気の一枚である。これはとっても素敵……ではなく、大問題だった。
「お、酔っ払い雅ちゃん、覚えてるのかぁ?」
姉さんが、ぐふふと奇妙な笑い声で話しかけてくる。
覚えている。忘れもしない。しらふに戻ったとき、何を馬鹿げたことに固執していたのか、悲しくて恥ずかしくなったものだ。姉さんは、それを私に再び思い出させるように口を開いた。
「この前あんたら二人して酔っ払ったときにオムライス作ってニヤニヤしながらケチャップでSMって描いて、キャッキャウフフしてたもんなぁ。恥ずかしいよな!」
写真にはしっかり二文字のアルファベットが写っていた。
私の顔は真っ赤だ。鏡はないが見ずともわかる。羞恥からか怒りからか。いや、きっと両方だ。興奮して、自然と涙ぐんでもきた。けれど姉さんへの抗議はしておかねばならない。
「盗撮するなんてひどいよ!」
「寝てたんじゃないんですか、画像くださいよ!」
私が糾弾したあと、彼は勢いよく本心を吐き出した。
え。
それしか、私の口は形作れなかった。聡さんは、あ、と息のような音をもらし、口に手をあてた。ごまかしの笑みをくれる。
腹が立った。
「本日はお日柄もよく」
彼の言葉に私はリビングのカレンダーを見て「仏滅ですが」と答えた。
「よい天候に恵まれ」
またもやごまかすような笑みを浮かべて続ける彼へ、今度はリビングの窓を指さし、教えてあげる。
「どしゃ降りです」
さきほどから雨が降り出した。熱された空気のなか、ざあざあと音を立てて大量の雨水が地面をたたいている。天候も悪化したが、こちらの気分も急降下だ。
「というわけで、雅さん。気分転換にお出かけなんていかがでしょう?」
どういうわけでそうなるのか、文脈を理解できなかった。
まあ聡さんにしてみれば、そんなことはどうでもいいのだろう。こちらをなだめるために誘ったようなものだ。ご機嫌取りである。
腹を立てたといってもそういうのは瞬間的なもので、べつに尾を引くわけではない。が、誤解されておくのも悪くはないので、何も言わないでおく。
「じゃあ、買いに行きたいものがあります」
出かけるには気分が乗らない天気だが、仏壇用のロウソクや線香を買いこんでおきたかった。私が言うと、彼は「はい、何でしょう」と表情を明るくした。
「あの、ストックがないので、ロウソクとか買いに行きたいんですけど」
「鞭も?」
「……は?」
彼が、ははとわざとらしく笑った。「ジョークですよ、ジャパニーズジョーク。さ、仏具屋さんに行きましょう!」
というわけで、仏具屋へ行くことになった。
姉さんが留守番をしてくれるというので、私は出かける準備をし、スイカを冷蔵庫に突っこむ。中の仕切り棚をはずさないと入らない大きさだった。帰ってくるころには、ほどよく冷えているだろう。
見送りに玄関まできてくれた姉さんへ、一応だが釘をさしておく。
「姉さん、写真は却下だから。あんな恥ずかしいの使ったら、姉さんだって困るでしょ」
暑中見舞いに、なぜあれを使おうと思ったのか。もっと暑中見舞いらしい規格というものがあるはずだ。それとも本当の暑中見舞いはほかのもので、あれはただ単に私を困らせるだけの手の込んだ嫌がらせなのかもしれない。一緒に写っていた聡さんは困っておらず、むしろ欲しがっていたので、嫌がらせになっていなかったが。
「へーへー、いってらっしゃい」
姉さんが面倒そうに手を振って、リビングへ戻っていく。
ちゃんと納得したのだろうか。
靴をはいて外へ出ると、彼は傘をさして待ってくれていた。私は右手に自分用のを持っていたが開くのをやめ、すっとこちらへ傾けてくれた彼の傘に入る。一本の傘に二人。自然と口もとがゆるむ。
彼の車に乗って雨のなか仏具店に到着すると、駐車場には車が一台しかとまっていなかった。そもそもこういうところが満杯になることはないだろう。おまけに雨が降っているなら、よけい客足も遠のく。つまり私たちは、じっくりゆっくり仏壇を見放題なわけだ。
「こうして見ると、宗派によって個性が出ますねぇ。金ぴかっていうの? 派手だなぁ」
店内で、金箔をほどこしてある仏壇を眺めながら彼が感想をつぶやいた。私もいっしょになってじっと見る。上部、奥行きとも細部まで細工がされていて、たいへん興味深い。と同時に、細工のすきまの掃除に手を抜いていたら、ほこりが積もりそうだとも思った。
店員さんも最初はついてきていたが、ごゆっくりご覧になってくださいと笑顔で離れていった。
「いやぁ、死んだら僕これがいいいな」彼がとある仏壇の前に立って言う。
彼が選んだのは、お値段三〇〇万円を超える仏壇だった。
「お客様、お目が高い」
何となく持ち上げるように言ってみると、彼はうれしそうに「接客プレイ?」ときいてくる。
彼の頭は夏の暑さにやられたのだろうか。いや、すいぶん前からやられていた感はあったし、それを承知で好意を抱いているのだが、今日はへんに飛ばしてくる。まさかご実家の床でごろごろしているスイカにけつまずいて頭を負傷したのか。
久しぶりに聡さんを気味悪いなぁという目で見ていたら、彼は微笑んだ。
「僕が先に死んだら、毎日仏壇に手を合わせて『大好き』って言ってくれたらそれでいいです」
いっぱい並んだ仏壇の前で、私たちは何をしているのだろう。
にこにこ笑う聡さんから遠ざかり、私はひとりロウソクと線香の売り場へ行った。
彼はすぐに追いついて横から声をかけてくる。
「どれにするの?」
「いつものもいいけど、せっかくきたから……どうしようかな」
最後のほうは、なかば独り言だった。よく買っているものも売ってはいた。しかしたまには違う製品もよいだろう。香りは沈香か白檀か。迷うところだ。
私がそう話すと、彼はその二種類どちらも手にとった。そしてあっという間に支払いを済ませてしまう。
「雅さん。はい、どうぞ」
そう言って彼は、線香の入った袋を差し出してきた。私がいつも買うものより高価な線香だ。気持ちはうれしいが、それよりも恋人に線香を買ってもらうって、どうなのだろうか。これはある意味で、プレゼントと言えるのか。しかもおしゃれなイメージ漂うお香ではない、仏壇用の線香なのだが。
「あ……ありがとう」
お礼以外の言葉が思い浮かばなくて、私はぎこちなく笑って受けとった。仏壇のない家にそんなプレゼントしたら、渡された本人へのきつい嫌味である。
でも線香は毎日のものだから、こうしていろいろと試せるのはありがたい。
「あ、墓石用クリーナーをこのあいだ見かけて、買ったんだ。今度使ってよう」
彼は言い、一歩先を歩きながら私へ振り返った。
お店の自動ドアが開く。店員さんの声に見送られ、外へ出て車に乗った。
私たちは夕飯の食材を買ってから帰宅した。今日は、私と姉さんと聡さんの三人分を作らねばならない。スイカも待っている。うきうきした気分で彼と連れ立ってスーパーの袋を持ち、自宅玄関のドアを開けた。
「うう、痛い。たまらん」
瞬間、そんな言葉が飛び込んできて私と聡さんは目をみはった。玄関からリビングに続く廊下で、姉さんが倒れてうめいている。
「姉さん!」
駆け寄って抱き起こそうとしたが、聡さんが制止した。彼はしゃがみ、私もそれにならう。二人して姉さんを囲うようにして膝をつき、姉さんの様子から状況をうかがった。最悪、救急車を呼ばなければいけないかもしれない。想像するだけで、気が動転しそうだ。
だがそのような心配は必要なかった。
「胃が痛い。マイストマックが非常ベルだ。ぜったい食べきれると思ったのに」
姉さんがつらそうに腹部をおさえてつぶやく。
一気に緊張が消えうせた。
私は聡さんの顔を見た。彼もこちらに視線をやっていた。目が合って数秒たがいに沈黙していたが、安堵と妙な解放感が訪れる。
「びっくりさせないでよ」
私は深く息を吐き出して、床にへたりこんだ。食べ過ぎただけのようだ。あせったのも馬鹿らしい。気が抜ける。
聡さんもどこか呆れたふうに笑っていた。
二人して「大丈夫か」と声をかけると、姉さんはふらふらと立ち上がり、客間のベッドで横になると言って歩き出した。手を貸さなくても大丈夫なようなので、聡さんと見送る。
しかし、食べ過ぎてしんどくなるのなら、いい加減、学習してほしい。そう思いながら彼とキッチンへ向かうと、姉さんの体調変化の理由がすぐさま見つかった。スイカである。
シンクの三角コーナーから、スイカの皮があふれ出ている。大量だった。が、驚くべきはその形である。三角コーナーに入りきらなかった皮が、輪切りでシンクに放置されていた。冷蔵庫を開け、どれくらい残っているのか確認する。
「レモンの輪切りじゃないんだから」
彼は笑い声をあげて、冷蔵庫をのぞきこんできた。その言葉、ごもっともである。
姉さんは大玉であるスイカを、みごと輪切りにして食べたということか。シンクの皮から考えるに、どうやら数センチほどの厚さでスライスしていたらしい。それをいくつも食べたのだろう、だからあのような事態になっていたのだ。
「へんな食べ方するから、これ、もうほぼ端しか残ってないじゃない」
スイカの上部と下部とでも言えばよいのか、私が冷蔵庫のスイカを指さすと、彼が名案を口にした。
「ちょうど皮が受け皿になるから、スプーンで食べようか」
なるほど。上下で二人ぶんあるし、ある意味ちょうどよい。
さっそく食べようと思ったが、そのまえに私は、彼に買ってもらった線香を仏壇へ仕舞いに行った。
と、お供えが増えていることに気がつく。我が家でも一番の大皿の上に、輪切りのスイカが乗っていた。姉さんのしわざなのは一目瞭然だ。赤く水気たっぷりの果実が、ラップをかけられ鎮座している。
ふと私は、姉さんのスイカの極致なる話を思いだした。スイカには、最もうまい食し方と楽しみ方があるらしい。これがまさしくそうなのではなかろうか。輪切りのなかでも、スイカの胴の部分なのか、供えられているそれは直径がある。
ああ、これは大トロの部分だ、と理解した。
最もうまい食し方で切られている。そして、最もうまい部分を仏壇にあげている。
私はじっとスイカを見つめた。生前の祖母、それから姉さんと私の三人で、夏はよくスイカを食べていたのを思いだす。このスイカが、この切り方が、姉さんなりの気持ちの示し方なのだろう。
私は思わず笑い声をもらした。とてもうれしい。
スイカを見たまま仏壇の前で膝をつく。すると、お供えに隠れるようにして置かれていたものに気がついた。なんだろう、そう思い、手にとってみる。
忌まわしきオムライスの写真だった。
なぜお供えした。
指先に力をこめ、すぐさま写真を破る。背後から「あっ、もったいない!」と未練がましく叫ぶ声が聞こえたが、かまわず破ってゴミ箱に捨てた。
ふうとひと息ついてから、私は後ろへ振り向いた。残念そうな表情でゴミ箱を見つめている聡さんがいた。
「さ、スイカ食べよう?」
笑顔で声をかけた私は、ゴミ箱への思いを引きずる様子の聡さんをともなって、仏間をあとにした。