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第3章

「レイコさんと同居だなんて、なんて命知らずな……」というようなことを、美島くんも真鍋くんも浅倉くんも言っていたけれど、今のところ水道の蛇口も、テーブルも玄関のドアも無事だった。

 同居をはじめてまだ一週間しか経ってはいなかったけど、あたしは最初からこの同居生活で、レイコには何も求めていなかった。ゴミは交替で捨てましょうとか、お風呂洗いは順番にとか、食事の仕度や掃除は……なんていう細々したことは一切決めなかった。「こういうことは初めが肝心なのよ」とレイコは言ったけど、それはふたりがともに働いている場合だと、あたしはそう主張した。何しろ最初の口約どおり、彼女は引っ越しの翌々日には新しいアルバイト先を見つけていたから。

「あたしは今働いてるってわけでもないし、貯金が暫くの間の持つ、悠々自適なプー子ちゃんなわけ。そんでもってレイコは一日八時間も立ちっぱなしの、明朗快活なウェイトレスさんなわけでしょ?べつにあたし、毎日ごはん作ったりとかお風呂掃除したりしても『なんであたしばっかり』とか、そんなふうには全然思わないよ。どうせひとりでカレー作ったりしてもあまるだけだし、ひとりもふたりも大して違わないもん。だからべつに、気にしなくていいよ」

 それでもレイコとしては気になるのか、お風呂掃除とゴミ捨ては彼女が担当することになった。美島くんや真鍋くんに引っ越しを手伝ってもらって以来、劇団リリックの人たちが噂を聞きつけて夕ごはんを食べにきたりもしたけど――あたしはべつにそのことを迷惑だとは全然思わなかった。OL時代の五年間に貯めたお金は三百万ちょっと。放っておけばそれは減る一方ではある。それでもあたしは闇川ヨミさんの予言もあるせいか、なんとかなるだろうと思っていた。それより何より生活が一段階引き上げられて、これから先はきっといいことばかりが人生にはあるに違いないという、根拠のない楽しさがあった。やはりあたしは闇川ヨミさんの言うとおり会社を辞めてよかったのだと、改めてそう思う。このまま永遠に続くかのように思われる、ベランダからの美しい夕景色を毎日眺めながら。


 劇団リリックの人々は、団長の石田さんをはじめ、揃いもそろって変人ばかりだった。そしてみな共通して貧乏だった。なので、うまく良い同居人を見つけたレイコのことを、口々に羨ましいとみんなは言った。

「毎日こんなに美味しいごはんが食べられて、いざとなったらお金も貸してくれて、変な仲間を呼んでもこれっぽっちも怒らないだなんて、松山さん!あなたは天使のような人だ、いや神さまだ!」

 石田さんはうちにくるたびに大体これと似たようなことを酔ったついでみたいに言う。それとしょっちゅう冗談で「松山さんみたいな人と結婚したい」とか「松山さんみたいな人と結婚できる男は幸せものだ」と言ったりするけど、あたしは全然本気にしていない。

 何故かといえば警備員の仕事をしている石田さんは、警察官のような格好のままふらりと仕事帰りに寄っては、インターホンの前で犬の鳴き真似をしていたから。ようするに、ごはんを食べさせてくれる人なら誰でもよいしょしまくるという、そういうちょっとお調子者っぽいところのある人なのだ。

 そしてそれと正反対なのがシンくんこと、浅倉真一郎くん。彼は何か用事がないかぎりは、うちにくることは決してなかったけど――それでも週に三日くらい、遠慮しながらもごはんを食べていくようになった。ちなみに団長の石田さんとは同じ高校の同級生らしい。ふたりはあたしやレイコよりも四つ年上の二十七歳だった。


「駄目ですよ、キヨミさん。平吉の奴は図々しいから、一度いいっていったら、ずるずる骨までしゃぶるようにたかってくる奴なんだから。注意しないと」

 シンくんは今日もぶつぶつ言いながら、うちのベランダで鉢植えをのせるための台を作ってくれている。彼がノコギリを挽く、不思議に滑らかな音が耳に心地好い。秋の夕暮れのベランダには、今ふたりっきりだった。

「ごはんくらい、べつにいいのよ。それにヘイキチくんもああ見えて、一応気を使ってくれてるんだから。レイコが遅番で夕方に出勤する時とかは、絶対にこないの。はっきり聞いたわけじゃないけど、ちゃんとレイコからそういうことも聞いてるみたい。それでみんなが集まる時とか、レイコのいる時しかうちにはこないの」

「俺から言わせたら、そんなのあたり前ですよ」と、シンくんは何故かむくれたように言った。「大体、キヨミさんはちょっとどころじゃなくかなり、人が好すぎると思います。べつに変な意味で言うんじゃないけど、今だってそうでしょう。知りあって間もない男を簡単に部屋に入れたりして」

「えっ!?」と、あたしはびっくりして言った。「だってそれは、シンくんがプランターをのせる台を作ってくれるっていうから……」

「それはただの口実です。ヘイキチの奴が変な時にやってきて、キヨミさんを口説いたりしたら困るなと思ったから」

 彼は電動ノコギリを脇に置くと、丸みを帯びた細く長い板を三枚、組み立てていった。そのあとは一言も口を聞くこともなく、ただひたすら黙々と。


 考えてみると、シンくんがうちにやってくる口実には、幾つかバリエーションがあったように思う。レイコが以前住んでいたアパートの大家に家財道具をすべて処分されてしまったため、シンくんの働いているアンティークショップの在庫商品を幾つか、ただでもらえるということになった。アンティークショップといっても、古くて珍しい家具の他に、シンくんと店の店長のふたりで作ったオリジナル家具を売っているという、そういうインテリアショップのような店である。

 彼は昔、某家具メーカーで家具職人として働いていたが、ただ決められたとおりにパーツを組み立てるだけの仕事に三年くらいで飽き足らないものを感じるようになったという。そんな時、札幌駅の近くで小さなオリジナルの家具を販売している今の店長に出会い、自分を雇ってくださいと、必死に頭を下げて頼んだのだそうだ。店長もまだ若く、店が全然軌道に乗っていなかった頃の話で、正直人を雇う余裕なんて全然なかったらしい。それでもシンくんの真剣な眼差しに職人魂のようなものを感じた店長は、赤字覚悟でシンくんのことを雇い、今では彼は店になくてはならない片腕のような存在になっていると、レイコからはそう聞いた。


「だからね、ヘイキチみたいなお調子者と違って、シンみたいのはいちいち口実作らないとここへは来れないわけなのよ」

 シンくんと石田さんがジンギスカンを食べて帰ったあと、レイコはテレビを見るとはなしに見ながら、ビールを飲んでいた。シンくんの作ってくれた美しい赤茶色のテーブルに片腕をつきつつ。

「あたしからしたら、はっきり言ってシンもあんたも馬鹿みたいよ。いちいち人をダシにして新品のテーブル持ってきたり、タンス持ってきたり……店であまったからだって?かーっ、馬鹿じゃないの?こんな丹精こめて作ったようなのばっか持ってきて。品物見ればわかるじゃないよ。『これは僕が心をこめて作りました』って張り紙がしてあるようなものだもの。キヨミ、それであんた一体どうするつもりなわけ?このままいったらあいつ、サイドボードが余ったとか食器戸棚が余ったとか言って、うちの家具全部とり替えるつもりなんじゃないの?」

「まさか……」と、苦笑いしたあたしのことを、レイコは軽く睨んだ。

「あんたさあ、いいかげん人の心弄ぶのやめにしなさいよ。そりゃああたしも最初は、ただでいい家具もらえてラッキーとか正直思ったわよ。でも本当はあんただってとっくの昔に気づいてるんでしょ?シンみたいな奴がここまでするっていうのは、凄いエネルギーのいることなんだから。まあね、もしキヨミが本当はヘイキチのことが好きで、シンの気持ちは有難い反面迷惑してるとか、それならそれで仕方がないよ。でもね、シンが今日そこまであんたに言ったってことは、そのうち返事をもらえるだろうって期待して待ってるっていうことなんだから。『はっきり否定しなかったっていうことは、きっとキヨミさんも……』とか、そんなふうにね」

「う、うん……」

 あたしはホットプレートを片付けながら、少し複雑な気持ちになった。それならそれで、何故彼ははっきり「つきあってください」とか、ストレートに言わないのだろう。あたしはむしろそういう言葉をこの一か月間、待っていたようなものなのに。

「まあ、いいけどね、あたしはね。キヨミがシンのことを好きでもヘイキチのことを好きでもどっちでも。だけど、いいかげんアタマにくるのよ。ヘイキチもシンのことがなければあんたにプロポーズしてるでしょうよ。でもシンの店で作った特注のカーテンだのあいつがくれたテーブルだのを見て、きっと思い留まってるのよ。あいつはまあもしキヨミが実はシンのことが好きだって言ったとしても、今までどおり何もなかったみたいにここへごはん食べにくるでしょうよ。でもシンは違うのよね。さんざん期待させられたけど裏切られたって、そんなふうに感じてもう二度とここへは来ないでしょうね」

 レイコはテーブルに両手をついて立ち上がると、隣の自分の部屋へ「おやすみ!」と言って引きこもってしまった。喧嘩、というほどのものではないかもしれないけど、初めて喧嘩らしき、気まずい思いをした夜だった。


 浅倉真一郎くんのことを好きなのかと言われたら、確かに好きなのだろうと、自分でもそう思う。一度、カーテンを注文するために彼の店を訪れたことがあるけれど、彼はとても真剣に<家具>というものと向きあっていた。店の裏手にシンくんと店長がふたりで使っている木工室のようなところがあり、引き戸を開けると、そこは木のよい香りで満ちていた。そしてその匂いとともに、自分はこの人のことが好きなのだと、はっきりとそう感じた。

 でも、それだけだった。

 確かにシンくんのことは好きだ。でもそれ以上強く背中を押す激情のようなものは自分にはない。ヘイキチくんにもそういうものは一切感じない。たぶん、自分は怖いのかもしれないな、とは思う。

 お母さんにとって自分が居心地の好いアンティークの一部ではないかと錯覚したことが時々あったように――彼とつきあって、仮にもし結婚したとしても――結婚して三年か五年もすれば自分は、彼にとって出来映えの気に入っている家具のひとつにすぎなくなってしまうのではないかと、そんな感じのすることが。


 次の日、意外にもレイコは、シンくんの作ってくれた赤茶色のテーブルに両手をついて、朝一番にあたしにあやまっていた。

「実はきのう仕事でヘマばっかりしちゃってさあ、すごいイライラしてたのよ。でもよくよく考えてみたら、これはシンとキヨミの問題なのであって、あたしが余計な口だしすべきことじゃないと思って反省したわ。もしキヨミがシンのことをこっぴどく振ったとしても――それはそれでいいんじゃないかって気もするのよね。あいつにとってはまあ、いい女の人生経験ってことになるかもしれないし」

 サラダにするため、鶏のささみを裂きながら、またレタスをちぎったりしながら、あたしはテーブルの上で新聞を広げるレイコのことを、対面キッチンのカウンター越しに見つめた。

「……ねえレイコ、一言聞いてもいい?」

「ん?」と、レイコが新聞をめくりながら、水音のするほうを振り返る。あたしは蛇口をひねって止めた。

「いつも思うんだけど、なんだかあたしたちって、新婚の夫婦みたいじゃない?」

 ブッ、とレイコが吹きだす。

「なあによ、それー!まあキヨミの言いたいことも、わからないではないけどさ。して、その心は?」

「つまりね、たぶんあたし、シンくんのことよりもヘイキチくんのことよりもずっと、レイコのことのほうが好きなんだと思うの。それがシンくんともっと深い恋愛関係になれない理由なんじゃないかって、きのうの夜、ふとそう思ったもんだから」

「んー……」レイコは照れくさそうに、ぼりぼりと長い髪をかいている。

「まああたしもね、シンやヘイキチの気持ちはなんか凄いよくわかんのよ。キヨミ料理うまいし、うまい料理は男心を殺すっていうの?それだけじゃなくてさ、キヨミ、今まで男とはつきあったことないとか初対面ではっきり言っちゃったじゃない?あれもねー、変な意味で言うんじゃないけど、あいつらにとってはポイント高かったと思うの。料理は美味しいし、性格は素直だし、変な手垢のついてない、今時珍しいお嬢さんって感じでさ。正直いってあたしも、自分の可愛い娘を野犬や狼から守る父親みたいな気分よ」

 今度はあたしのほうがぷっと吹きだす番だった。

「なあに、それ。うまく言えないけど、あたしはシンくんもヘイキチさんも、もしかしたらレイコも――ちょっと誤解してるんじゃないかって思ってるわ。前に言ったでしょ?変な夢ばっかり見て、有名な占い師の人に見てもらったことがあるって。ようするにあたしは、凄くずる賢くて計算高い女なのよ。だからそういう損得計算でこれから先もずっと生きていったとしたら……精神病とか、そういう病気になったりしても自業自得だっていう、そういうことだったんじゃないかって、今は本当にそう思うの。だからレイコはあたしの命の恩人っていうか、命よりも大切な魂の恩人なのよ」

「魂の恩人ってあんた……」

 大袈裟ねえ、とレイコがけらけらといつもの笑い方で笑いだす。

「あたしから言わせたら、あんたのがよっぽどお人好しよ。あたしだったらたぶん、そんな占い師の言うこと絶対信じないもん。それですぐ占い師の言ってたとおり毎日納豆食べたりだとか、変な連中に文句も言わずに腹いっぱい食べさせたりだとか……絶対しないわね。キヨミは自覚してないかもしれないけど、そういうあんたの実行力のほうがよっぽど偉大なんじゃないかって、あたしはそう思うわ」

 あたしは赤茶色の食卓テーブルの上に朝食の品を並べながら首を傾げた。ササミのサラダにスクランブルエッグとベーコンとクロワッサン、これがレイコの朝食で、あたしのはごはんとお味噌汁と有機丸大豆の納豆。

「そうかなあ」と、あたしは食卓に着きながら言った。レイコがテレビのスイッチを押し、小さな音でNHKのニュースをかける。いつもの朝の風景だった。

「そうよお。まあ、自覚のないとこがキヨミのいいとこっていうか、可愛いとこなんだろうけどね。で、まさかとは思うけどあんた、実は自分はレズビアンですとか言って、シンとヘイキチのこと、振るつもりじゃないでしょうね?」

「レイコにその気がないんじゃ、仕方ないじゃない」

 わざと拗ねたように言うと、レイコはコーヒーを吹きだしそうになっている。

「あっはっはっは……やーっぱ、面白いわよねえ、キヨミって。まさかとは思うけどさあ、あんた、誤解してたりしないでしょうね?実はあたしがヘイキチにホの字だとか、シンに対して心密かに思いを寄せているとか、そんな気持ち悪いこと」

「気持ち悪いって……」フォローの仕様がなくて、あたしは目の前のレイコのことをじっと見つめた。

「ほら、あたしたちってつきあいが長いじゃない?ヘイキチともシンとも、知りあって五年っていう仲だし、劇団の舞台稽古とかさ、そういうのを通して自分たちのいいとこもみっともないとこも全部、知り尽くしちゃってるわけ。だからなんていうのかなあ、本人たちには悪いけど、正直いって最初のうちは抱腹絶倒ものだったわ。あいつら、キヨミの前でいい格好しようとしたりさ、あたしの目の前で平気でそういうことするじゃない?まあそれだけ心を許してるってことなのかもしれないけど……だから右に転ぼうが左に転ぼうが、あたしとあいつらが恋愛関係になるなんてこと、絶対にありえないわけ。それでもほんのちょっとだけ妬かなかったと言えば、嘘になるかもしれないけどね」

 レイコはパセリを口に放りこむと、どうしようかなあ、というふうに首を傾げ、喜怒哀楽の四面相を五秒くらいのうちにやったのち、芝居がかった調子で、テーブルに肘をついていた。

「『お嬢さん、あっしに惚れちゃあいけないぜ……いや、あたいが女だからとかそういうことじゃあなく、屁こきのヘイキチはともかくとしても、シンの気持ちには真剣に答えてやりゃにゃあならん。それが人の道ってもんですぜ』」

「よっ!日本一!」

 思わずあたしが掛け声をかけると、レイコはどっと疲れたように肩を落としていた。彼女の格好は今パジャマ姿だったけど、襟を立てたレインコートとその後ろに広がる港とが、背後にだぶって見える。

「レイコ、今霧笛が後ろでボーッと鳴ってるよ」

「マドロスさんかよ、あたしゃ」

 あたしたちは顔を見合わせて笑うと、いつものように楽しい朝食のひと時を満喫した。眩しい緑の観葉植物と、ミニバラやカランコエやシクラメン、君子ランやジャスミン、ベゴニアやガーベラ、ポインセチアやデンドロビウムやシンビジューム、オレンジュームや胡蝶蘭……などの鉢植えに囲まれた部屋で。


 中島公園前から地下鉄南北線に乗り、札幌駅で降りると、あたしはシンくんの勤めるアンティークショップ『バランタイン』まで歩いていった。駅北口から地上に出、北大に向かう途中、古本屋と小さな喫茶店のある通りにバランタインはある。

 店の見た目は家具ショップだというのにとても小さい。店の表にはそれでも、人の目を引く美しいアンティークの家具が展示され、店内には十数点の家具やシャンデリアの他に、お洒落な外国輸入雑貨がところ狭しと並べられている。

 正直、何も知らない人がこの店を見たら、年金暮らしの隠居老人が趣味でやっている骨董品屋だと思うかもしれない。けれどもレイコに聞いた話によると、バランタインの主な収入源は特別注文で承る高級家具、とのことだった。

「ああ見えてあの店、シンのお陰で結構儲かってるらしいわよ。デパートからも出店しないかっていう話もきてるらしいけど、店長がまだ若いくせに頑固なのよね……まあ『こんな収入の不安定そうな男と結婚してどうすんのかしら自分』みたいな心配だけはしなくても大丈夫よ」

 そんなこと、気にしてないと言うとレイコは、「金持ってんどー」と言って千昌夫の物真似をしていた。何故かというと、シンくんの額の真ん中らへんには、ぽつりと黒い小さなほくろがあるからだった。普段は厚い前髪に隠れていて見えないけれど。

「あいつは将来、高級家具メーカーで一儲けするか、人が好くて騙されて借金背負いこむかのどっちかでしょうね。まあどっちにしても夢があるじゃない?バランタインなんて家具、今は誰も知らないけど、いつか誰もが憧れる理想の家具メーカーに成長するかもしれないし……捕まえとくなら今のうちかもよ」

 何言ってるのよ、もうと言ってあたしはレイコの背中を冗談ぽく叩いていたけど――でもある部分、レイコの指摘は彼女のわからないところで当たっていた。前までのあたしだったらそう、結婚を考える時に一番気になったのは相手の職業とか年収とか、そんなことばかりだっただろう。でも今は違う。かといって大切なのはフィーリングよね、とかそういうわけでもなくて――うまく言えないけど、とにかくシンくんには何か、そういうあたしの欠落を埋めるための何かが備わっているような、そんな感じがしたのだ。

「ごめんください」

 店の裏手にまわり、古くさい木戸を横に引くと、おがくずなどが散らばっているのがまず目に入る。壁には幾つもの種類の木材が立てかけられ、木を削った時の心地好い匂いが満ちていた。あたしは思わず深呼吸した。

「……キヨミさん。どうしたんですか、急に」

 彼は首に巻いていたタオルで額のあたりを拭くと、慌てたように床を掃除しはじめた。はっきり言って掘っ立て小屋みたいな木工部屋。下は埃っぽい土が剥きだしで、壁と天井はトタン板にトタン屋根だった。にも関わらず部屋の隅にはスウェーデン製の立派な薪ストーブがあったりして、よくわからないといった感じがする。

「何か俺に用事でも?」

 そんなに気を使わなくてもいいのになあと思いつつ、あたしは箒と塵とりを手に掃除を続けるシンくんの姿をじっと見つめた。大きな平均台のようなものに支えられた板の上に、シンくんが今カンナで削っていた木材がある。隣には作りかけのテーブルや椅子やチェストなどがあり、それらのまだ未完の品物は、そのままでも十分買う値打ちのあるもののように見えた。

「完璧主義なのね、シンくんて」と、あたしは彼と一緒になっておがくずなどを拾い集めながら言った。「だからうちにも、いちいち用事がないと来られないのね」

「え?」とシンくんは振り向き、何度か哀しそうな眼差しで、あたしのほうを見つめた。見捨てられた犬みたいな目つきだった。

「前にきた時も思ったんだけど、うちにあるテーブルもタンスもベッドも、ここでこうしてシンくんが作ってくれたんでしょう?もし仮に余りものだったとしても……お店にだしたら二十万とか三十万とか、そういう値段よね、きっと」

 シンくんはそれには答えず、そんなことしなくていいです、と言ってあたしの手からおがくずを払った。シンくんとあたしでは、身長差が二十センチくらいある。彼に屈みこまれた時、正直ちょっとドキっとしたけど――彼はいつものように目を合わせることもなく、スタスタ歩いて作りかけの椅子をあたしの元まで持ってきた。

「ようするに、迷惑だっていうことですか」

 彼はコンソールの上に無造作に腰掛けると、手元の工具をいじりながら作業服の袖なんかで、意味もなくそれらを磨いている。

「べつに迷惑っていうわけじゃないけど……あたしはそんなに高価なものばかりもらったら、レイコみたいには能天気に喜べないもの。だからごはんくらいって思ったんだけど」

「けど?」

 シンくんは初めて、椅子に座るあたしと、はっきり視線と視線を交わらせた。

「その度に色々お礼してもらったりしたら心苦しいなって思っただけ。元手のほうは圧倒的にシンくんのほうが高くついてると思うから」

「それはそうですよ」と、シンくんはなんでもないことのように優しく笑った。幾分、ほっとしたような表情で。「自分で言うのもなんだけど、俺は不器用だから、そういうふうにしか表現できないです。だからもしキヨミさんがそういうの、鬱陶しいなと思ったら正直、つきあったりしてもうまくいかないだろうなって勝手にそんなふうに思ったりして」

「それはつまり、これまでに誰かに、そう言われたことがあるってこと?」

「いや、べつに」と言って彼は顔を背けた。でもなんとなく、女の匂いが影でした。シンくんはこれまで、ふたりくらい女の人とつきあったことがあると、レイコからは聞いていた。

「ヘイキチはお調子者だけど、いい奴です。要領もいいから、人にも好かれる。俺も、あいつのことは好きです。性格正反対だけど、なんとなく気も合うし」

「そうね」と、あたしもふと和んでそう言った。「あたしとレイコも同じだから、なんとなくわかるような気がする。だから逆に気が合うのかもしれないし。でもこんなこと言ったらあれだけど――ヘイキチくんやレイコの性格を<陽>としたら、あたしたちの性格ってどっちかっていうと<陰>だと思わない?だからそういう人間同士がつきあっても、うまくいくのかなって」

「どうでしょうね」と、シンくんは笑いながら言った。なんとなく、昔飼っていた犬のモロを思わせる、優しい微笑みだった。「ヘイキチとレイコさんがつきあったら、まあまずうまくいかないと思うけど……俺はキヨミさんのことは絶対に大切にします。料理がうまくていいカミさんになりそうだからとか、そういうことじゃなくて、俺、キヨミさんの昔の部屋に最初にいった時から好きだった。植物の鉢植えがいっぱいあって、俺にとっての木が、キヨミさんにとっては植物なんだなって、そう思ったから」

「あのね、変なこと聞いてもいい?」あたしは舞い上がりそうになる心を必死に抑えながら、一番大切なことを彼に聞かなくちゃと思った。「シンくんが大切にしてくれるって言ってくれたのは凄く嬉しい。でも、あたしは家具でも植物でもないし、シンくんが家具作りに命をかけたり魂をこめて作ったりしてるのはよくわかるんだけど――それと同じように大切にしてくれたとしても、あたし困ると思うの。何も言わなくてもあうんの呼吸でとか、そういうのはあんまり求められたくない。言ってる意味、わかる?」

「わかります。とてもよく」そんなことは当たり前だというように、シンくんは笑った。窓からの金色の陽に透ける笑顔。木工部屋のすべてを西陽が満たして、なんだか部屋全体が魔法にかかったみたいな感じだった。

「俺は無口なほうだけど、でも人としゃべるのはすごく好きだから大丈夫。家具作りに求めるようなことを、キヨミさんには求めない……って言ったら変かもしれないけど、俺にとってはそもそもそのふたつはまったく別のものです。それに同じだったら、死ぬまで自己愛の世界に生きるしかないわけだし」

 シンくんが、あたしが思っていた以上にわかってくれていて、あたしは何故かほっとした。そしてこの後も、彼を見くびっていたと言うべきか、色々な局面で彼には驚かされた。見た目と話し方と内面が全然違う人なんて――はっきり言って初めてだった。これで彼がもしもう少しナルシスティックな人物だったとしたら、稀代の大俳優になっていたと、あたしはそう断言しよう。


「あいつね、初めて彼女とつきあった時『背後霊みたいに気持ちがずっしり重い』って言われて振られたんだって」

 真っ暗な闇の中、くすくすというレイコの忍び笑いが響き渡る。あたしとシンくんは、つきあいはじめてたったの二か月で、半分同棲するような感じになっていて、三か月たった今では、彼のアパートに泊まることのほうが多くなっていた。でも今日は、レイコが明日、東京へ門出することが決まっていたために――女ふたりでひとつの布団に眠り、心ゆくまで語りあう予定だった。

「シンは物とか作ってるせいか、ひとつひとつの物事に意味を求めすぎる嫌いがあるのよね。そうすると、自分の持つ雰囲気とかもさ、自然濃いものにならざるをえないわけじゃない?いくら本人がナチュラル志向を目指してたとしてもさ」

「でもシンくんは……とても素敵よ」と、あたしはいつものように思いきりのろけた。「才能のある人はたぶんみんなそうなの。じゃないと長く物を作ったりするエネルギーは生まれてこないでしょ?そういう意味ではレイコだって一緒よ」

「あたしー?」と、レイコは布団の中で大爆笑している。「シンとあたしは全然違うってば。月とスッポン、水と油くらい違うわよ。まあ家具作家も俳優も、広い意味で芸術家といえば芸術家かもしれないけど……あたしにはシンみたいな<濃さ>はないもの。あいつはまあ俳優にたとえたらアル・パチーノとかロバート・デ・ニーロだわね。でもあたしが目指してるのはジュリア・ロバーツとかキャサリン・ゼタ・ジョーンズだもん」

「頑張ってね、レイコ」あたしは布団の中に手を忍ばせると、彼女の手をぎゅっと握った。「劇団四季のオーディションに受かるなんて凄いよ。レイコはやっぱり特別なんだよ。高校生の時からずっとそう思ってたけど……あたし、そのうちレイコが絶対、テレビとかに映るって信じてるんだ」

「なによ、大袈裟な……」と言いながらも、薄暗闇の中、レイコの瞳は潤んでいた。いつもどおりに振る舞いながらも、本当は心細いのだとわかっていた。直接には何もしてあげられないけれど、繋いだ手と手の間から、強い、霊的ともいえるほどのエネルギーが伝わればいいと、そう思った。

「あたし、レイコと出会ってから人生変わったよ。高校生活も、レイコのお陰で楽しかったし……何より、シンくんに出会えた。それまではね、ずっと凝り固まった世界で暮らしてたの。石みたいに硬くて揺るぎようのない世界。でもそんな世界、本当は大きな地震がやってきたりしたら、すぐにぺしゃんこになっちゃうようなちっぽけな世界なの。あたし、レイコがあの時間違って電話をかけてくれなかったら、あのまま彫像みたいに硬い人生を送っていたかもしれない。だから、ありがとう」

「キヨミのことを直接変えたのはシンだよ、やっぱり」と、レイコは照れたように鼻をすすった。「だから、あたしがキヨミに何かしたってわけじゃないんだよ、全然。むしろ何か月もただで美味しいごはん食べさせてもらってさ、あたしのほうこそ凄く感謝してる。これからはなんでもシンを頼っていけばいいんだよ。あいつはああ見えて芯のところがしっかりしてるから、ちょっとやそっとじゃぽきりと折れたりしない。最近ちょっと見かけなくなった、珍しく男らしいタイプかもしれないね」

「うん、わかってる」

 あたしが照れたように笑うと、レイコも体を震わせながら笑いだした。そしてだんだんお互いの振動の伝わりが大きくなってくると、最後には大笑いになった。

「のろけちゃってえ、このおっ!」

 ばしっ!とレイコがあたしの肩を思いっきり叩く。

「シンの奴、ああ見えて意外に手、早かったよね。正式につきあいはじめて一週間くらいでキスしてさあ。一か月もしないうちにあんた、あいつの家に入り浸るようになったもんね。そんなにあいつのセックスって気持ちいい?」

 うん、とってもと答えるわけにもいかず、あたしはただ照れたように笑うしかなかった。

「その……気持ちがこもってるっていうかね、いちいち凄く丁寧なの。あたし、他の男の人はどんななのかとか全然知らないけど、べつに知りたいとも思わないなあ、なんて」

 やれやれというようにレイコは軽く溜息を着いている。何故か少し幸せそうな、甘い溜息。

「ようするに、あいつはセックスのほうもいちいち内容が濃いわけなのね」

 ――あたしはそれからもシンくんのことばかりを話してレイコのことを辟易させたあと、夜中の二時頃だっただろうか。どちらからともなく、眠りの世界へとあたしたちは飲みこまれていった。

 その夜、とても不思議な夢をあたしは見た。

 舞台の上でチーターの模様の水着を着たレイコが、人間の言葉ではない、動物にしか通じない言葉で何かを叫んでいる。すると後ろのジャングルから、猿の格好のヘイキチくんや、ゴリラの着ぐるみの真鍋くん、ライオンの格好の美島くんや、その他犬や猫など、動物の姿をした劇団のみんながでてくる。あたしはたくさんのお客さんと一緒に観客席にいた。拍手をしている。そして劇を楽しみながらも、ある人物の姿を目で探していた。自分の最愛の人である、浅倉真一郎くんの姿を。

 けれども彼はいつまでたっても舞台には現れず、痺れをきらしたあたしは、舞台裏へとまわった。もしかしたら彼に何かあったのかもしれないと、焦りに似た心配を覚えたためだった。そっと黒い幕を持ち上げると、何故かそこは深い密林のような場所で――甘い南国のフルーツの香りがした。そしてその匂いを一度かいでしまうと、あたしは劇団リリックのことも、舞台の上のことも何もかも、すっかり忘れてしまった。この甘い香りの源になっている果実がどうしても食べたかった。匂いをかいだだけで口の中がつばでいっぱいになっているのがわかる。

 でもなつめ椰子やココナツの実は、あんまり高いところに実っているため、あたしには登っていってそれをとることは不可能だった。哀しみながら足許の石を蹴っていると、遠くで海のさざ波の音がした。ここから海は見えないけれども、テレパシーのような何かによって、あたしには船に乗って誰かがやってきたのがわかる。

「ごめんね、遅くなって」

 上半身裸の、原始人みたいな格好をした浅黒い肌の彼は――シンくんだった。何故か前髪をオールバックにしていて、額のほくろがいやでも目につく。

 あたしが言葉もなくしくしく泣いていると、彼は手に持っていた槍で椰子の実をとってくれた。地上に落下するのと同時に、椰子の実はぱっくりと真ん中から綺麗に割れていた。そこからずっと待ち望んでいた甘い香りが漂ってくる。


   (暗転)


 気がつくと、あたりは真っ暗闇だった。何もない本当の真の闇。

 虚空というのか真空というのか……その闇を裂いて、真っ黒い蒸気機関車がどこか遠くから線路の上を走ってくる。


 シュッシュッボッボッ!

 シュッシュッボッボッ!

 ポォ―――――ッ!


 夢の中で、あたしの意識は蒸気機関車そのものと完全に溶け合っていた。果たしてどこを目指しているのか、終点まで遠いのか、途中の駅で停まる予定なのかどうかもわからない。あたしにわかっているのはただ、自分が今途方もなくエネルギッシュだということだけだった。


 シュッシュッボッボッ!

 シュッシュッボッボッ!

 ポォ―――――ッ!


 蒸気機関車は闇の中を怖れることもなく進み続け、恐ろしい断崖絶壁のような場所をひた走り、大きな闇の川にかかる長い鉄橋の上を勢いよく滑らかに走っていった。


 シュッシュッボッボッ!

 シュッシュッボッボッ!

 ポォ―――――ッ!


 目が覚めた時、ベランダからは月光が、隣からはレイコの歯ぎしりがしていた。あたしは薄暗闇の中目を凝らし、そして思いを巡らせた。自分は多分今きっと、精神的な大きな川を渡って何かを乗り越えたのではないかと。目を閉じると、闇の川の艶やかなうねりがまざまざと思い浮かぶ……世界全体、宇宙全体を通したら、あたしの人生の変化など、ほんのとるに足らない本当にちっぽけな変化かもしれない。でもそれでも――こんな小さな変化にも耳を澄ますようにして生きていきたいと思った。もし仮にあたしがどんなに幸せであったとしても、それに<気づく>ことができなかったら――石の像は深い闇の中、今度こそあたしの魂の心を探りあて、本当にその中身を貪り尽くしてしまうだろうと、そんな気がした。




 終わり






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