番外647 隠者の煙
瘴気結界を吸収し、内側に押し入ろうと圧力を加えながらも歓喜の笑みを見せる黒い魔獣。相対するは隠れ里の長、オズグリーヴだ。立ち昇る瘴気と共に、その身体が魔人としての力を十全に発揮するために変形していく。
オズグリーヴの身体の輪郭が曖昧になっていき、暗い灰色の――靄とも煙ともつかないものが体全体を覆う。
黒灰色のオーラをあちこちから立ち昇らせて、身に纏ったローブをはためかせる人型の影。オズグリーヴの変身した姿は、そんな印象だ。
元の顔の形もしっかりと判別できない、揺らぐ黒灰色の中に、青白く輝く二つのものは目だろうか。立ち昇っていく黒灰の靄を押さえるようにフードを被るオズグリーヴ。
「――さて。では始めようか」
歓喜の咆哮を上げる魔獣に向かってオズグリーヴが突っ込む。オズグリーヴの背後からたなびくように広がる黒灰色の靄――いや、煙か。
詳細は分からないが、あの煙がオズグリーヴの瘴気特性なのだろう。一旦広範囲に広がった煙が、オズグリーヴの手元に急激に収束していって、武器の形を作る。オズグリーヴの何倍もの大きさを持つ巨大な大鎌だが……やはり通常の瘴気武器とは違うという印象がある。
オズグリーヴは戦域を隠れ里から遠ざける為に、森の上に向かって飛ぶ。
魔獣は迷うことなく空中に飛び立つ。壊れかけた結界は……実際の所、もうかなり力を失ってしまっている。それよりはオズグリーヴの纏う瘴気の方が魅力的に感じるという事なのだろう。触腕に得体の知れない魔力を宿してオズグリーヴに突っ込んでいく。
紫色の魔力を纏った触腕が鞭のようにしなってオズグリーヴの手にする大鎌と激突。火花を弾けさせた。
オズグリーヴは出方を窺う為に距離を取っていたというのに――積極的に攻撃を仕掛けてくる、あの性質。やはりというべきか何というべきか。魔力溜まりと瘴気という環境で育った魔物という事を考えれば、凶暴な性質を有しているのは不思議でもなんでもない。奴もまた御多分に漏れず、というところか。
魔獣の姿は中空に。シールドも使っていないのに空中を足場にするように右に左に跳び回るような動きを見せながら、そのままオズグリーヴに一対の触腕を縦横に振るう。
伸縮自在の触腕は凄まじい速度だ。暴風のように荒れ狂う連撃に対し、オズグリーヴもまた大鎌を手に、重さを感じさせない速度で振るう。身体を軸に柄を回転させて刃と石突きを以って触腕を迎撃する。
無数に火花を散らす高速の攻防の中でタイミングをズラし、身を引いて――二つの触腕の軌道を大鎌の一閃で纏めて打ち払える軌道に誘導する。簡単にやってのけているように見えるが積み重ねられた技量に裏打ちされたものだ。
振り払われた大鎌によって二つの触腕が弾かれて互いに転身。お互い次の攻撃を見舞おうとする刹那、オズグリーヴの手にする武器が形を変えた。槍。槍だ。大鎌が長大な槍になって転身する身体の陰から猛烈な勢いで飛び出した。最短距離を突き抜けるように魔獣に迫る。
線から点へ。一瞬で変化したそれを――魔獣はその牙で受けに行った。避け切れないはずの一撃を、獣の反射神経と野生の本能で対応して見せる。眉間に突き込まれるはずだった槍の穂先を牙で受け止め――そして飲み干すように瘴気を取り込む。
一瞬後に槍の穂先が霧散。オズグリーヴの手元に戻って再び大鎌の形に収束する。
「瘴気を喰らう魔獣か。喰われる側というのは長く生きてきても初めての経験だが……中々厄介なものだな」
オズグリーヴの淡々とした声。だが、一瞬一瞬の交差なら干渉によって崩されたり、吸収される事はないようだ。そうして、再び互いに突っ込んでいく。オズグリーヴと魔獣の間にいくつもの火花が咲いた。
「シリウス号へ避難を! 甲板で確認が終わったら誘導される通りに船の奥へ! 転んで怪我をしないように、焦らずに!」
一方で俺達はと言えば――セラフィナの力を借りて隠れ里中に声を響かせ、住民達もそれに応じて避難を始めていた。
魔物が襲ってきた場合の想定もしている。全員の魔人化を解除してしまって最も隠れ里の防御力が低い時というのが厄介ではあるが、する事は変わらない。
子供はまだ飛行術を使えない面々が多い。親が付き添い、船の中へ進んでもらう。その際タラップの横でバロールが乗り込んだ者の顔を確認する事で、ウィズの記憶している住民の名簿と顔を一致させて、乗った面々に漏れがないか確認するわけだ。
乗り込んだ人数をカウントすると同時に、名前と名簿をバロールとウィズがリンクを通し、一括で突き合わせる事でまだ誰が避難していないかを確認する事ができる。
更に昨日の時点で住民達を班ごとに分けて番号を振ってある。緊急時、船のどの区画にどの班を避難させるか。その区画の担当は。誰が周辺の防御を担当するのか、というところまでは割り振ってある。
速度を上げるためにヒュージゴーレムの手の上に乗ってもらい、そのまま甲板へ乗せる。バロールが顔を確認。タラップも使って普通の搭乗も同時に進め、班が揃ったら船の中へ案内していく。
艦橋で周囲を監視しつつ船内とやり取りする面々。船内を案内し、艦橋と連絡をし合う面々。船外で住民達の防御に回る面々。それぞれ担当がある。みんなそれに従って各々役割を果たしていく。シリウス号側は……一先ず順調だ。
オズグリーヴと魔獣の戦いに変化があった。斬撃の応酬の中で、オズグリーヴが自身の周囲に煙を拡散させたのだ。それが集束し、それぞれ形を作る。それはオズグリーヴと全く同じ姿をした煙の人形達だ。身に纏うローブの色、質感まで再現した上で、一糸乱れず全く同じ構えを見せる。
本体と共に重なり合い、連携して魔獣に突っ込んでいく。魔獣は触腕や爪、牙、尾に紫色の魔力を纏って切り結ぶ。単なる分身ではない、というのはそこで分かった。分身一つ一つの動きも相当なもので、斬撃の威力も十分な重さを感じさせるものなのだ。
警戒すべきは魔獣の牙。しかし、魔獣本体のアギトが迫ると分身は煙に戻って四方に拡散。再び収束してオズグリーヴと同じ姿になる。
これだ。これがオズグリーヴの瘴気特性。収束させて武器や防具を作るというのは通常の瘴気でも可能な事。
しかし分離させて質感を変えるだとか、かなりの力を持った分身を作り出すというのはそうした特性を持つ者ならではだろう。直接制御なのか、それとも自律行動可能な分身なのかは判然としない。オズグリーヴ本体も分身に紛れるように、敢えて動きのレベルを抑えているからだ。重なり合って幻惑するようにして、力を隠蔽し飛び回りながら切り結ぶ。その動きはミラージュボディを使ったフェイントにも通じるものがある。
時間稼ぎをしているかと思えば突然本体が力を噴出させて重い一撃を叩き込む。変幻自在の動きだ。
「あの方に人から名付けられた二つ名は有りませんが……私達の間では軍煙と呼んでいます」
と、レドゲニオス。軍煙。軍煙のオズグリーヴか。人から名付けられた二つ名ではない、というのは、オズグリーヴが人を相手に大立ち回りをした事がない、という証左でもあるだろう。
「どうか、あの方をよろしくお願いします」
イグレットと共に、申し訳なさそうな表情で一礼すると、二人は班の者達と共に船の中へと案内されていった。自身の力が変化して慣れていないこの状況。加勢はしたいがそれ以上に足手纏いになりたくない、という事なのだろう。そういう……無力から来る苦悩というのは俺にも経験があるからよく分かる。オズグリーヴとの約束通り、避難が済んだら俺達も加勢に動かなければならない。
ともあれ、オズグリーヴの能力は相当に強力だ。立体的な波状攻撃も可能であるし、煙を周囲に拡散させて色や質感を変えるという事は、幻術のように作用させる事も可能という事だ。
空中戦をしているから見せていないが、地形と思っていたらいきなり槍衾が飛び出すだとか、そんな攻撃も有り得る。
煙という特性からいつぞやグレイスが戦ったザルバッシュのような、毒や幻覚を誘発する能力かもと思っていたが……俺が戦った中で近い能力というとルセリアージュだな。弾速と切れ味、攻撃の密度ではルセリアージュだろうが、応用力ではオズグリーヴという印象だ。何が飛び出してくるか分からない。かなり広い範囲に拡散できるようだし、里を覆い隠し、守る為に使える。高い制御能力を必要とする能力に見えるが……研鑽を積んできたオズグリーヴにとっては苦ではないのだろう。
それでも――魔獣は笑っていた。楽しそうに喉を鳴らしたかと思えば、その背が波打ち、黒い弾丸が撃ち上げられるようにばら撒かれた。鋭く尖った黒い塊が、空中で軌道を変えてオズグリーヴとその分身達に突っ込んでいく。弾幕を分身達が打ち払うが――それで終わりではない。くるくると回転した黒い弾丸それぞれが小さな魔獣の姿となったのだ。
こちらは完全な従属型の術式か。己の意志も生命反応も感じさせない一糸乱れぬ動きで広がって突っ込んで行った。但し、目標はオズグリーヴでもその分身でもない。向かったのは隠れ里の周囲に広がる深い森。その狙いは――。
「小賢しい……!」
「周囲の魔物の群れを里に引っ張ってくるつもりか……!」
離れた距離ではあったが、オズグリーヴと俺の声は殆ど同時だった。奴の意図を察したからだ。
要するに――魔獣によるモンスタートレイン。森の中の生命反応の群れの輝きに魔獣の放った魔力反応が突っ込んでいって、引っ掻き回したかと思えば魔力反応が反転。生命反応の群れをあちこちから引き連れて、里に向かって戻ってくる。
俺達が里の者達を避難させているから加勢できない事に気付いてのものか。奴はこちらを見て、口の端をにやりと歪ませる。従属の獣を更に展開し、オズグリーヴの分身達に応戦させる。
オズグリーヴの能力への対策でもあり、住民の避難が終われば多勢に無勢になるから、その前に乱戦の状況を作り出してしまおうという腹積もりなのだろう。
結界も、魔獣が侵食したせいで既に壊れかけだ。当てには出来まい。拙いのは魔獣が同じような方法を使えば周辺からどんどん乱入をさせる事ができるという事だ。魔獣は、周囲の魔物の群れの位置を感知できるらしい。となれば、あの従属術式もどこかの段階で止める必要があるだろう。
「主殿! 周囲から魔物共が突っ込んできます!」
艦橋のモニターで周囲を見たのであろうアルクスの警告。
「把握してる。外の結界は壊れかけているから、里の内側に結界と防御陣地を構築して魔物の群れを撃破していく!」
「マスター。私達にも出撃の許可を。避難の済んでいない者達を守りたいのだ。可能なら、彼らの思い出の品も」
ヴィアムスの声。アルクスもカドケウスの五感リンクを通して表情を見るに、気持ちは同じなようであった。思い出の品も、か。そうだな。避難を優先して荷物は持ち込めていないものがあるし。こんな事でそういった物が壊されたりするのも……はっきり言えば気に入らない。
「分かった。本体の召喚を許可する。但し、無茶はしないように」
「承知しました。私達にも本来の任務がありますからね」
「だが、ここで里の者達を守る為に戦えるのは嬉しい」
そんなアルクスとヴィアムスの言葉にアピラシアもこくこくと頷く。黄金の蜜蜂達がシリウス号から飛び出して、空中に幾何学模様の陣形を作る。
「私達はシリウス号と広場を中心に防御陣地を築きます!」
アシュレイが言って、マルレーンも真剣な表情で、召喚獣達と共にこくこくと頷く。
「局所結界を展開して、敵の侵攻方向を狭めるわ」
クラウディアも先だってグロウフォニカで貰ってきた結界の魔道具を用意しているようだ。
「避難が終われば俺も前に出る。囮というのなら魔獣には俺も美味そうに見えるのだろうからな」
と、全身に雷を纏いながらテスディロスが言った。
「シリウス号を中心に、防御陣地を築いての防衛戦、か」
「背後は任せて下さい」
イグナード王の身体が闘気を纏い、オーレリア女王が武器を構えた。
「直接の力を貸す事ができない身ではありますが……テオドール。私達の力を受け取って下さいね」
ティエーラが静かに言うとコルティエーラが明滅し、精霊王達も力強く頷いてくれた。
「里の方々に怪我はさせません」
「こういう戦いは……気合が入るわね」
グレイスも静かに闘気を立ち昇らせローズマリーもマジックスレイブを周囲に浮かせる。ローズマリーの言葉通り……みんな随分と気合が入っている様子だ。では――隠れ里の防衛戦を開始するとしよう。