閑話2 忘れられた里にて
――魔人。罪人の牢獄ハルバロニスより、盟主ベリスティオに率いられて地上に解き放たれた者達。
生ける者を蝕む瘴気を纏い、超常の力を操り、他者の負の感情を食らって生きる長命の者達。そう言えば聞こえも良かろう。
なるほど。確かにそれは間違っていない。しかしそれは魔人という種族の一面でしかない。魔人になってからの事を考えれば――その特性は呪いであるとさえ彼は考えていた。
魔人にとって他者の負の感情こそが食事だ。相手を恐怖させ、絶望を食らっては舌鼓を打ち、敵意や殺意をぶつけ合って心を踊らせる。逆に言えば大抵の魔人にとっての娯楽というのはその程度のものだ。
だからこそ暴虐に快楽を見出して必要以上に残虐に振る舞うようになるか、戦いの中に価値や己の居場所を見出す、という者が多い。しかし……大抵の者はいずれそれらにも飽きて、長い長い人生の果てに人格も精神も擦り切れて摩耗していくのだ。
目に見える色は褪せ、香りは意味を失い……ただただ灰色の世界が何時までも、何処までも続くという地獄。魔人の生というのはかくも不毛なものだと、そう彼――オズグリーヴは考えている。
しかし、後から生まれた魔人達は生まれついてそうであるが故に、自分達が不幸であるという事すら知らないのだろう。だからオズグリーヴは魔人の生について他者に多くを語らない。自覚しなければ自分が呪われていると、不幸だと気付く事もないからだ。
そう。オズグリーヴはベリスティオとの契約で転じた、最古参の魔人の一人だ。そうして自身が不幸だと自覚しながらも今も尚生きているのは、彼が盟主と一つの約束を交わしたからである。
つまり――第二世代以降の魔人達の中で芽の出なかった者達を隠れ住まわせ、守ってやってほしいと。
オズグリーヴは最古参の魔人の一人にして、その中でも当時最年少だった人物だ。
盟主と契約したにも関わらず、未熟故に中々覚醒に至れずに他の者達に疎まれていた魔人でもあった。だからこそ覚醒に至った後も人格に極端な変容は無かったし、弱肉強食が当たり前の魔人達の中で、弱い者達の気持ちが分かるだろうと――ベリスティオに選ばれたのである。
純粋に仲間を守る為――ではない。そうした気持ちがベリスティオに無かったとは言わないが、人間達――七賢者との戦いが激化する中で、一つの保険を打ったのだ。弱き者達を戦場から離れた場所に隠れ住まわせれば、自分や仲間達が敗北し、全滅したとしても、後方で契約した者の肉体を乗っ取り、蘇る事ができるから。
もっとも――実際はどうだったのかと言えば、ベリスティオは封印されてしまい、そうした備えが役に立つ事も無かったのだが。
ともあれ、オズグリーヴを長とする忘れられた魔人達は、深い森の奥深く、他の種族が近付かない魔力溜まりを選んで隠れ里を造り上げた。
魔力溜まりに引き寄せられる魔物を狩り殺し、その負の感情を以って食い繋ぐ。
元々出生率の低い魔人達にとってはそれで食うに困る事は無かったし、自分達が魔人達の中で力に劣ると知っている彼らは情報収集を除いて、積極的に隠れ里の外に出る事もあまり無かった。贅沢さえ言わなければ生きるのに困ることはない。弱き者達の理想郷なのだ。ここは。
それでもたまに外の世界を目指す者もいるが――。そういう者には同種――力の劣る魔人と知り合ったら隠れ里の事を伝えて欲しいと伝言している。オズグリーヴは去る者は追わず、来る者は拒まない。
盟主はいなくなってしまったけれど、いつしかオズグリーヴの長い人生の中で、里の者達を守るのが生きる意味になったのだ。
ガルディニスが世俗的な権力を求めて人間性を保っていたように。擦り切れて朽ち果てない為に忘れられた魔人達の長として生きる。自由を求めてハルバロニスを出たはずが、新たなしがらみを生んだだけなのかも知れない。
しかし集落を維持する事が矜持となり、日々を自分らしく生きる力を与えてくれているのもまた事実なのだ。
そんなオズグリーヴの生き方は……魔人らしくはないだろう。だからこそオズグリーヴは同じく魔人らしくない魔人――ガルディニスと同様に、擦り切れはしなかった。
同様に野心を捨てて世俗を諦め、守りたい者達がいたからこそ、あの力強い魔人の青年、ヴァルロスの誘いに乗る事もなかった。オズグリーヴにしてみれば、自ら選んだ道なのだ。
それでも。それでもだ。この生き方は何時まで続くのかとオズグリーヴは――そして里にいる、自身が不幸であると気付いている者達は、事あるごとに自問している。
長命に飽いて里を出て帰って来なくなった者、或いは魔人の不毛な在り方に壊れてしまった者もいて。そしてそれらの者達はオズグリーヴ達が赤子の頃から知っている者達でもあるのだ。
だから――見知った者達がまた変質してしまうのではないか、いつしか自分も疲れて立ち止まり、壊れてしまうのではないか。そういう恐れがあった。
そんな折だ。オズグリーヴが夢を見たのは。
隠れ里の物見櫓に立つベリスティオの夢だ。見た事も無い程に穏やかに笑うベリスティオが森の彼方を指差し、一言だけ言葉を紡ぐ。
「お前達が求めるものは、我が指し示す先に」
ただ、それだけの夢。
単なる夢ではない、と思った。何か意味があるからこそ、ベリスティオが契約を通じて自分に夢を見せたのだと。そうオズグリーヴは感じた。
その夢の意味するところが分かったのは、それから暫く後の事である。
「魔人を普通の人間に戻す事ができる、らしい」
「ヴェルドガル王国の英雄だそうだ。魔人を近くに置き、その内の一人を実際に人間に戻したとか」
「人と共存の道を模索するのなら拒まないと喧伝しているらしいな。本当かどうかは……分からないが」
そんな情報を齎したのは、隠れ里の外に情報収集に出ていた者達だ。
「ヴェルドガル王国――」
報告を受けて、夢の意味が繋がったような気がした。
頭の中に地図を思い描く。そうして、確信と共に衝撃を受けた。ヴェルドガル王国の王都タームウィルズは、夢の中でベリスティオが指で示したその先にあるからだ。
もしも若い魔人達が持ってきたその情報が本当であれば、集落の者達にとっては福音なのかも知れない。魔人になる前のあの色鮮やかな世界を取り戻す事ができるのかも知れないと考えると、長らく忘れていた渇望のような強い感情と共に胸が高鳴るのを感じた。
自分自身だけではない。己が不幸である事を知らない子らに、違う世界を見せてやることができるのかも知れない。見知った者達が壊れる前に――新たな道を模索させてやる事ができるのかも知れない。
魅力的な話。だが、直感だけを信じて行動するにはオズグリーヴは老いている。故に慎重になるのだ。間違いであっても絶望しないように。隠れ里の者達が不必要に傷付く事がないように。
「それは……もっと詳しく、追って調べる必要があろうな。話が真実で、その者が信用に足るのかどうか」
「もし……本当の話で、その英雄も、魔人との共存を本気で望んでいる、としたら?」
「望むのであればこの里を出て、その者を頼るのも良いのかも知れぬな。我らは我らより賢く、力に勝る者達が倒れたという事実を知っている。であれば……魔人であり続ける事は絶対の価値とはならぬ……のかも知れん。共存の道があるというのならば、或いは――」
そう言って、オズグリーヴは天を仰いだ。本当であったなら、それはどんなに素晴らしい事か。
長く長く、外界から忘れられて久しい彼らに、変革を告げる新しい風が吹き始めようとしていた。