ややこの御石
昔、ある村にひとりの娘がおった。
娘の名は、お蝶。その名の通り、蝶のように美しい娘であった。彼女は美しいだけでなく、畑仕事が好きで、朝から晩までくるくるとよく働く。
村の若者たちはみな、美しく、働き者のお蝶を我が嫁にしたいと願った。だが、当の本人にはその気が無いのか、それとも添い交わした男でもいるのか、とにかく彼女は、降るように舞い込む縁談を全て断っておった。
「お蝶や、お前には誰かいい人がいるのかい?」
そんな母親の問いかけにも、お蝶はかぶりを振るばかり。じっと黙りこくって、下を向いておった。
しばらくうつむいておったが、やがてキッと顔を上げてこう言った。
「お嫁には、行きたくない……」
と。
母親が問い返そうとも、お蝶は貝のように口を噤んでしまい、ツイと向こうに行ってしまった。
「畑の、草取りをせにゃいかんから」
と、捨て台詞を残して。
お蝶は、一心不乱に草取りをしていた。心の中の不安を振り払うように。
(お嫁なんか、イヤじゃ……)
母への当てつけのように、引き抜いた雑草を地べたに叩きつけ、ため息をついてしゃがみこんだ。泥だらけになるのも構わず、顔を両手で覆う。
(……どうすればいいんじゃろ……村の婆さのところにでも、行ってみようか)
お蝶はふらっと立ち上がると、村はずれにある、村一番の物知りの占い婆の家を目指した。
お婆は炉端に座り、ただ黙ってお蝶の話を聞いておった。時折、
「時期はずれじゃがな、まあ、おあがり」
と、沸き立ての甘酒を勧めながら。
「だいたいの話はわかった。お蝶、お前は嫁に行くのが嫌なんだな」
お蝶はだまってうなずいた。
「わたし、畑仕事好きだ」
あたたかな甘酒を啜りながら、ぽつりと呟く。とろりと優しい甘さが喉をゆっくり滑ってゆくのが心地よい。
お婆は笑いながら、
「それよ。お前は働き者だ。その手を見りゃあ、骨惜しみせず働く娘っこだってことは、ようくわかる」
お蝶は自分の手に、目をやった。およそ若い娘に似合わぬ、日に焼けて節の立った手だ。
無理もない。と思った。毎日畑に出れば、日に焼けることは当たり前だ。鍬使いをするから、節くれだった指になって当たり前だ。
「わたし、この手を恥ずかしいと思ったことなんてないです」
「そうだろう。それは働くのが好きっていう手だ。嫁に行くのが嫌なわけは、何か別にあるんだろ……」
お蝶は、あきらめたように小さな声で、ポツリ、ポツリと話し出した。
「……お嫁に行けば、子供を産まなきゃならないでしょう。子供が出来たら、畑の事を放り出して、乳をやったり、おしめをかえたり……。産まれる前だって、思うように体も動けなくなる。ずいぶん我が儘勝手じゃと、婆さは思うかもしれません。けど……けど、わたしは子供を育てるよりも、畑仕事をしていたい」
お婆はだまって聞いておったが、ややあって口を開くと、
「お蝶。おらには見えるよ。お前にふたりの子供ができるのが。大丈夫だ。お前はちゃんと、優しい母になれる」
「イヤじゃ! 子供なんか産みたくない」
「やれやれ……。しばらく待っておれや」
頑なな態度を崩さぬお蝶に呆れつつも、お婆は奥の部屋から何やら取り出し、お蝶に手渡した。
滑らかな円い石が二つ。一つは黒く、一つは白い。
「碁石、ですか?」
「いいや、違う。これはややこの御石と言ってな。今お前に渡した物は、お前が産むはずの赤子の魂だ。肌身はなさず持っておけ」
「ややこの……みいし……」
お蝶は口の中で反芻した。手のひらにぽつんと置かれた石はどう見ても碁石のようにしか見えない。
「もう一度言うぞ。これはお前が産むはずの、ややこの魂を閉じ込めたもの……。けして無くすでないぞ。お前が本当に、自分の子供が欲しくなったときに返しに来い」
お蝶は、素直にうなずいた。
握り締めていたせいか、手のひらの御石は、ほんのりと温かく感じた。
それから程なくして、お蝶は普段から憎からず思っている男の嫁となった。
両親は、とりわけ母親は、嫁入りをあれほど嫌がっていたのにどうしたことかと訝しんだが、それでも喜びのほうが大きかったらしい。涙をながして、我が事のように喜んでくれた。
先方の両親との仲も、夫婦仲も睦まじい。これ以上、なにも望むものは無いように思えた。
たったひとつ、子供がいないことを除けば……。
最初の内こそ、お蝶は子供なぞいらぬと思っていた。だが不思議なもので、人の妻になってみると子供が欲しい、愛しいという気持ちが日に日につのってくるのであった。あれほど大好きだった畑仕事をしていても、村の子ども達が遊んでいるのを見かけたり、年かさの女房が赤子に乳をやっているのを見ると、たまらなく切ない気持ちが沸き起こってくる。
(何をばかな。わたしは子供なんて、欲しくない)
お蝶はそう自分に言い聞かせ、あの『ややこの御石』を手にとって眺めた。あの日からいつも小さな袋に入れ、首に下げているのだ。
(本当に子供が欲しいと思ったときに返せと言ってたっけ……)
返しに行こう。近いうちに、返しに行こう。
お蝶はそんな思いを巡らせながら、手のひらの御石を見つめた。
その顔を、人が見たならばこう思うだろう。産まれたばかりの赤子を愛しむ母の顔だと……。
「お前は時々、お守り袋の中を覗いて微笑んでいるけど、その袋には何が入っているんだい?」
そうたずねる夫に、お蝶はピタリと正座をして話し始めた。
軽蔑されてもいい。すべて話そうと、心を決めた上での行動であった。
夫は眉一つ動かさず、口をはさみもせずに、じっと聞いていた。聞き終わると、ふわりと笑った。
優しい、笑みであった。
「話してくれて、ありがとう。そうか。子供の魂が入っていたんだね。……お蝶。これは返しにいこう。近いうち、いや明日にでも」
「でも……」
躊躇うお蝶に、夫は静かに言った。
「本当は、お蝶だって子供が欲しいんだろ? でなきゃ、そうやって長い間傷つけも無くしもしないで大事に持っていることはできないよ。さ、返す前に御石を清めておいで」
お蝶の胸中に、熱いものが溢れた。それはいつかの甘酒のように、とろりと甘く心地よい気持ちだった。
「そうですね。井戸水くんできます」
「暗いから、気をつけるんだよ」
お蝶は、いそいそと水をくむ。心は晴れ晴れとしていた。
(ああ、わたしは今までなんてちっぽけなことで悩んでいたんだろう)
つるべは重たく、持つ手に力が入る。そのとき、
プツン……
どこかに引っ掛けでもしたのだろうか。紐が切れて首からはずれ、程なくして無情な水音が、小さく響いた。
井戸は深く、底は見えない。
お蝶はしばし呆けたように座り込んでいたが、やがて狂ったように泣き出した。
「御石が……。ややこ……。ややこ! わたしのややこ!」
泣き叫ぶ声に、夫が飛んできた。お蝶はその胸にすがりつき、泣いた。
「殺してしまった……。わたしのややこ……。ごめんなさい、ごめんなさい……」
ああ、これは罰なんだ。
子供を産むということを疎んだ罰があたったんだ……。
絶望のなか、お蝶は気を失った。
それから、幾日か過ぎた。お蝶はあれからずっと、寝付いたままであった。ろくろく食べも眠りもしないものだから、たった数日のあいだにすっかりやせ細っていた。家の者が粥をすすめても、弱々しく首をふるばかり。
ただ、小さな声で途切れ途切れの子守歌を歌っていた。
「お蝶、『ややこの御石』は、占い婆からもらったんだろう? なら、婆のところに行って来なきゃ駄目だ。婆に、ちゃんと話すんだ。俺もいっしょに、ついててやるから」
「……わたしはもう、母になんてなれないわ」
パシン……
乾いた音が響く。それと共に、鋭い痛み。お蝶は思わず頬を押さえた。
「逃げるな。お蝶! 確かにお前は、子供を授かることを嫌がった。けど、今は違うだろう」
夫は涙ぐんでいた。
「な、行こう。すぐの方がいい」
お蝶は、こっくりと頷いた。
占い婆は、二つの座布団を敷いて待っておった。まるで、二人で来るのを見越したように。
囲炉裏では、とろとろと甘酒が沸いている。
「待っておったよ。お蝶。やっぱり子供が欲しくなったのじゃろ」
「婆さ……実はわたし……わたし、あの『ややこの御石』を井戸に落としてしまって……」
それだけ言うと、お蝶は顔を覆って泣き出した。
「産まれてくる前に……わたしはややこを殺してしまったんだ! わたしの、ややこを……」
慟哭の叫びをあげるお蝶に、占い婆は優しく声をかけた。
「顔を上げや。お蝶」
「きっと、わたしは罰があたったんです。子供を授かることを厭うたから……。あんな事、願ったからっ! わたしは母になる資格なんか、はじめから無かったんです……」
「そう自分を責めるものではないよ。……やれやれ、ここまで効くとはなあ」
占い婆は、苦笑しながら言った。
「実はな、あれはただの碁石だ。七夕の井戸替えのときに出てくるじゃろ」
「碁石……?」
「なんて、人騒がせな! お蝶は寝込んだんだぞ」
婆は、甘酒をかき混ぜながら話し続ける。
「お蝶。お前は、あの石を井戸に落としたとき……どう思うた? きっと、我が身を裂かれるような気持ちだったじゃろう」
お前の、そのやつれた顔を見りゃわかる……。そう、婆は言った。まだ見ぬ我が子を想って泣けること。それこそ、母になれる証だと。
「お前はきっと優しい母になれるよ。……堪忍な、お蝶。お前を騙す形をとって」
お蝶は首を振る。その顔には今や、何の憂いの影もない。
「いいえ……。いいえ、婆さは騙してなんかいない。あの石はやっぱり『ややこの御石』だったんです。ここにややこの魂がある。そう思えば、とても優しい気持ちになれたんです。わたしを母にしてくれた御石だったんです」
「そうか……。さ、甘酒も沸いた頃だ。たんとおあがり」
お蝶は素直に湯呑みを受け取った。ゆっくりと口をつける。
優しい甘さが、じわりとしみた。