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無職転生 - 異世界行ったら本気だす -  作者: 理不尽な孫の手
第15章 青年期 召喚編
168/286

第百五十四話「終わりと始まり」

 未来からきた。

 老人はそう言った。

 正直、意味がわからない。

 確かに、老人は俺に似ていない事もない。


「未来……未来の俺ってことか?」

「そう。俺は、今から大体50年後の、お前だ」


 老人はハッキリとそう言った。

 いきなりそんな事を言われても、信じていいかどうかわからない。

 だが、こいつは俺の名前を知っている。

 さらに言えば、俺は記憶を持って転生をして、この世界にきた。

 ならタイムスリップがあってもおかしくない気もする。


「悪いが、お前に過去転移魔術の理論を説明している暇はない」

「説明している暇はないって……」

「ハリウッド映画みたいな言葉で悪いが、本当に時間が無い。聞いてくれ」


 ハリウッド映画なんてセリフがスムーズに出てくる。

 ということは、この老人は間違いなく、前世に関わりがある。

 ……本当に俺なのだろうか。


 このギラついた目。

 瞳の奥には、薄暗いものがある。

 端的に言えば、日常的に人を殺している奴の目だった。

 人ひとりの命を、なんとも思っていないような冷たい目だ。

 俺が将来、こんな風になるってことか?

 そんな馬鹿な。


 どうにも信じがたいが、でも、老人の表情は本気だ。

 一応、仮にだが、この老人が50年後の俺として、話を聞いてみるか。


「地下室には何もない」


 老人はぽつりと言った。


「俺は地下室にいって、何もないと思った。そして後日、ヒトガミから何もなかったんならいいよという言葉を聞いて、安心することになる」


 老人は不愉快そうに顔をしかめた。


「でも、それは間違いだ。今なら説明できる」


 何かを思い出すかのように額に指を当てる。

 左手の人差し指。

 ん?

 腕がある?


「いいか、多分だが、地下室にはネズミがいる。

 病気になったネズミだ。

 特徴としては、紫色の魔石みたいな歯をしているはずだ。

 そのネズミがどこからきて、いつ入ってきたのかは知らない。

 恐らく、魔大陸か、空中城塞にいたヤツが、荷物にまぎれてくっついてきたんだろう。それはいい」


 老人は手を開き、グッと握りしめた。


「ネズミはお前に驚き、逃げる。台所へとな。そして、昨日の飯の食い残しを漁って、翌日には死に、アイシャによって処分される」

「……」

「その食い残しは、翌日にはアイシャの手で野良猫に分け与えられ、無くなる」


 左手、義手ではないな。

 本当に俺なのだろうか。

 それとも、これから50年の間に相応の治療魔術で治したのだろうか。


「だが、その前に、小腹の空いたロキシーが降りてきて、その食い残しを、少し摘む。その結果、そのネズミの持っていた病気に感染する」

「ロキシーが病気に?」


 ロキシーという言葉で、俺は老人の話に意識を集中した。


「魔石病だ」


 魔石病。

 どこかで聞いたことがある気がする。

 そうだ、確か、神級の解毒魔術でしか治らないとかいう病気だ。

 身体が次第に魔石と化していく難病。


「最初は気づかない。なにせ、魔石病は滅多に罹らないからな。あの病原菌は体の中に宿る、もう一つの生命にしか、感染しない」

「もう一つの生命?」

「そう、胎児だ。あの病気は妊婦にしか罹らないんだ、俺も後になって研究して、愕然としたよ」

「え? いや、でも、ロキシーはまだ」

「妊娠してるはずだ。けど、それはいい、やることやってんだ、当然だろ」


 ロキシーが妊娠。

 なんだろう、凄く嬉しいのに、この説明だと全然嬉しくない。


「魔石病は、ネズミをキャリアにしている。なぜか一部のネズミには耐性があるんだ。キャリアはひと目でわかる。歯が紫色の結晶になっているからな。そして、ネズミが齧ったものに、病原菌は付着する。経口感染だけで、しかも病原菌はそう長生きはしない。せいぜい半日かそこらで死滅する、しかも感染力も弱く、罹患するのは妊婦の中にいる、胎児だけだ」

「……」

「病原菌は胎児の中で育ち、そのまま胎児を作り替えて、母体を魔石化させる」


 ……そんな病気に、ロキシーが罹るってのか。


「もし、これから何も考えずに地下室にいき、ネズミを外に出せば、お前は翌日、アイシャから「朝から変なネズミの死体みちゃったよ」という愚痴を聞き、二週間後ぐらいに、『魔石病に罹った猫が発見された』という情報を得ることになり、そのすぐ後にロキシーが熱を出す。そして、それらが繋がるのは、さらに30年後だ」

「……ロキシーは、どうなるんだ?」

「死ぬ」


 容赦のない一言に、俺は言葉を失った。


「ロキシーは熱を出し、寝こむようになる……。足先から結晶化が始まった事で魔石病だとわかるが……」

「治らなかったのか? 治そうとはしたんだろ?」


 老人は悲しい顔をして、俯いた。


「俺はなんとかして助けようとミリス神聖国まで行き、神級解毒魔術の詠唱を手に入れてくることに成功するが……途中で色々あって、時間が掛かってしまった。帰ってきた時にはすでに遅く、ロキシーは身体の半分を結晶化させて、死んでいた」


 しかし、すぐに顔を上げ、凄まじい眼光を俺に送った。


「人神の言葉に惑わされるな。

 前世の知識があるお前なら、そのぐらいわかるだろう。

 あいつこそが諸悪の根源、ラスボスだ」

「でも、なんでその、ロキシーを?」

「わからない、未だにな。だが、何かを目的として動いていたのは確かなはずだ。あいつが、最後に、自分で、そう言ったんだ……『君が馬鹿なおかげで、僕の思い通りに事が進んだよ』ってな……くそっ」


 ヒトガミが、そんな事を、自分で言ったのか。

 しかし、うーむ……?


「……ヒトガミの目的については、もしかすると、オルステッドかラプラスあたりなら、何か知っているのかもしれないが……俺は50年間、どちらにも会えなかった。恐らく、お前も探しても会えない可能性が高いだろう」

「ナナホシはオルステッドの居場所を知らなかったのか?」


 ナナホシの名前を出すと、老人は悲しそうな顔をした。

 知らなかったのか。

 それとも、ナナホシももしかして……。


「俺は聞けなかったが、確かに今の時代なら、あいつに聞くのもアリかもしれないな。オルステッドの居場所がわからなくても、あいつも、こういう事は色々考えてるみたいだし、もしかするとなにかいい案を出してくれるかもしれない」

「……ナナホシは、どうなったんだ?」

「…………」


 老人は答えない。

 ただ、悲しそうな顔をするだけだった。

 しかし、ややあってぽつりと言った。


「最後の最後で、失敗するんだ。それで、落ち込んで、俺は、フォローに失敗して……それで……」


 ナナホシは、帰れなかったのだ。

 それで、絶望して、もしかして、自分で、自分を……。


「わかった。もう、いい」

「ああ、俺も言いたくない」


 老人は顔を上げて、気を取り直したように、言葉を続けた。


「いいか。お前も今から10年後ぐらいに知ることになるが……人神(ヒトガミ)は、この世界ではヒトガミとは呼ばれていない」

「……どういう意味だ?」

「人の神、そう書いてジンシンだ。ジンシンの名を知らない奴はいないが、ヒトガミという単語は、奴に会った者しか知らない。どういうつもりでそんな事をしているかは知らないが……どうせ、知っている奴をもてあそぶためだろう」


 ……なるほど。

 道理で、ヒトガミという単語に過剰反応するわけだ。

 あいつに会い、騙された者だけが、知る名前ということか。


「奴は一見すると俺のためになるような事ばかりを口にしてきた」


 老人が再度、拳を握った。

 その瞳には、ただ憎悪の光だけが灯っている。

 凄まじい殺気が溢れるが、だが、なぜか怖いとは思わなかった。


「確かに今この瞬間まで嘘はついてこなかった。俺にわかるような嘘はな」


 拳がブルブルと震えた。

 拳の周囲に、何かが見える。

 バチバチとまとわりつく、紫電のようなものが。


「それもこれも、この1回のため、疑り深いお前が、何の躊躇もなく従うこの瞬間のためにだ!」


 飛び散る火花に、俺は呆然としつつも身構えた。


「騙されるな! 漫画で読んだだろ? 信じる、信じないを口にするやつは、必ず嘘をつくんだ」

「そりゃ、わかるけど……」


 老人が絞りだすような声で言った。


「わかっていない。

 ロキシーの次は、次はシルフィだぞ。

 ロキシーを失って傷心のお前は、シルフィの事がしばらく考えられなくなる。

 シルフィは傷ついて、鬱になる。

 そこを、奴はルークを操って付け入る」

「ルークを?」

「ああ、後になって、お前は、当時ルークと付き合ってた女から、「朝起きたらルークが神のお告げを聞いたとか言い出して焦った」なんて話を聞くことになる」

「それで……どうなるんだ?」

「ルークがアリエルに進言し、シルフィは俺を捨てて、アスラ王国に行ってしまう。

 ペルギウスの取り込みに失敗したアリエルと共にだ!

 アリエルは劣勢の中、一か八かで内乱を起こし……そして敗北する。

 シルフィは、戦死だ」


 戦死……。

 死ぬのか。


「お前は、あのふたりを、失うんだよ」


 老人は頭を振りつつ、ギリギリと歯ぎしりをした。


「ああ、種明かしの時のヤツの声が今でも耳に残っている。お疲れさんと肩を叩かれた時の感触が、甲高い笑い声が……ぐっそ、ぢくしょぉ!!」


 老人がドンと机を叩いた。

 その瞬間、周囲に紫電が飛び散り、真昼のような明るさを作る。

 光はすぐに消えたが、机の上に焦げ跡が残った。


 老人はふぅと息を吐いた。


「もう一度言う、ヤツを信用するな。後悔することになるぞ」


 老人はそこまで言って、ふと、腹を抑えた。

 ふと見ると、その顔色は、さきほどよりも若干ながら、悪くなっているように見える。


「もう時間がないな……。

 でも、こう言っても、何をしていいかわからないだろう」


 老人は土気色の顔をしていた。

 目の下に、紫色のクマができている。

 老人は大きく息をすって、苦しそうな息を吐いた。

 なんだか、今にも死にそうな感じだ。

 病気でも患っているのだろうか。


「まずは、そうだな、エリスの事だ」


 エリスと聞いて、俺は自分の眉根が寄るのを感じた。


「あいつに、今すぐに手紙を書いてやってほしい。

 まぁちょっと浮気したけど、お前のことは愛してるって」

「愛してない。俺はあいつのせいで不能になったんだぞ」

「許してやれよ。それが男の器ってもんだろ?」

「……」


 老人は自嘲げに笑った。


「っても、俺は許せなくて、何年もあいつと対立することになったんだけどな」

「対立?」

「何度も何度も、エリスに殺されかけたよ。あいつは俺をどこまでも追ってきて、見かける度に全力での戦闘になった。けど、まぁ、手加減してたんだな。あいつがその気になれば、いくらでも俺を殺す方法はあったのに。あいつは俺を殺せるタイミングでは絶対に仕掛けてこなかった。それどころか、俺が別の事でピンチになると、影ながら助けてくれたもんだ。まるでベ○ータみたいな奴だな」


 ベジ○タって……。


「もっとも、あいつは野菜の国の王子様とは違う。

 エリスは俺のそばにいたいだけだったんだ。

 あいつは、ずっと俺のことが好きだったんだ。

 俺の事が好きで、俺のために一生懸命で……。

 でも、口下手で、どうしていいかわからないから、結局殴るしか出来なかっただけでな」


 そんな事を言われても。

 俺には妻も子もいる身だ。

 そりゃ、エリスの事が好きだった時期もあったけど。

 でも、それは……過去の事だ。


「でも、俺にはシルフィとロキシーが……」

「問題ないさ。シルフィはそういう所には寛容だし、

 ロキシーは自分が俺と釣り合ってないと思ってるから、許してくれる。

 エリスだって、事前に説明しておけば、納得はするさ。

 ああ、でも殴られるのは覚悟しておけよ。そういう女だからな」

「んなこといったって……」

「好きって言ってくれる女をみんな囲う。いいじゃねえか、何がいけないんだ。男の甲斐性だろうが」

「人ごとだと思って、勝手な事を言うなよ」

「俺は誰も手元に残っていないから、言ってるんだよ」


 そう言う老人の言葉には、妙な重みがあった。

 でもなぁ……。


「シルフィやロキシーには、責任もあるし……」

「責任ってんなら、エリスに対する責任だってあるんだよ。

 あいつはお前のためにずーっと頑張ってたんだ。

 ちょっと口下手で通じてなかっただけで、ずっとな。

 責任を取ってやらなきゃ、あいつの努力はなんだったんだ。

 ……そうギレーヌに責められることになるぞ。エリスの亡骸の前でな」


 エリスの、亡骸?


「エリスも、死ぬのか……?」

「ああ、俺を庇ってな。あれは確か……アトーフェと再戦した時だったか。本気の魔王様が思いの外強くてな、油断したよ」


 老人は、懐かしむようにそう言って、口の端を歪めた。

 アトーフェ相手に油断できるとか、どんだけ強いんだ、未来の俺は。

 本当に俺なんだろうか、疑わしくなってきた。


「いいか、絶対に手紙を送れ。後悔したくなかったらな……今ならまだギリギリ間に合うはずだ」

「あ、ああ、まあ、そう言うなら、送るけど。でも、どこに送るんだよ」

「剣の聖地だよ。薄々感づいてただろ」


 剣の聖地か。

 シャリーアから、そう遠くない。

 やはりというかなんというか、そこで修行をしていたのか。

 剣の修行……か。


「わかった」

「突き放すような事は書くなよ。エリスが自暴自棄になったら、お前、殺されるぞ」

「わかってるよ」


 エリスがどういう人物かは知っているつもりだ。

 ……知っているつもり『だった』か。


 もし、この老人が言う事が本当だとしたら。

 彼女は俺を捨てたつもりでは無く、俺にはそれがわからなかった。

 考えてみれば、口下手な彼女が、手紙をうまく書けるわけもないのだ。

 そうして、すれ違って、不幸を生むのか。


「ふぅ」


 老人は重苦しい息を吐いた。

 そして、ハッとした顔で、顔を上げる。


「それと、重要なことをいい忘れていたが、ヒトガミには敵対するな」

「敵対するなって、騙してたんだろ?」

「ああ、でも、ヒトガミには勝てない。

 俺では勝つことができない。

 俺では、ヒトガミの所には、辿りつけないんだ」


 老人は、悔しそうに言った。

 ヒトガミの所に辿りつけない。

 という事は、やはり、あの場所はこの世界のどこかにあるのか?


「それがわかった時は、震えたよ。

 俺はロキシーやシルフィの仇を取ることすらできないんだ。

 あいつを倒すために、こんなに頑張ったのにさぁ、届かないんだぜ?

 重力だって操れるようになったのに、俺の手の届く範囲に奴はこないんだ」


 そう言って、老人は机の上にあるインク壺を指差す。

 インク壺がふわりと浮き上がり、すぐにコトリと落ちた。

 机の上に、インクがポタリと飛んだ。


「宙に浮く事もできるし、遠方の相手に通信する事もできる。腕だって生やせる。それどころか、時間すら飛び越えて、過去に飛べるようにまでなった……まあ、この魔術は失敗だがな」


 失敗。

 何が失敗なのだろうか。

 この男は、現に今、この場にいるのに。


「お前もうすうす感づいていただろうが、この世界の魔術ってのは万能だ。そこに気づけば、大体なんだって出来る」


 老人はそう言いつつ、左手を持ち上げる。

 自慢気な動作とは裏腹に、老人の顔色は土気色を通り越して真っ白だった。

 目の下にはどす黒いクマができ、唇は青色に染まっている。


「だが、こんな力、もうなんの意味もない。

 遅すぎたんだよ。

 俺が強くなった時、守りたい奴は誰一人として残っていなかった」


 老人の目は相変わらずギラついているが、その瞳には既に力が無かった。

 息は荒く、細い。


「いいか、もう一度言うぞ。

 俺はヒトガミが憎い。

 けど、奴には勝てない。勝つ方法が無い。

 俺では、ヤツのところにたどり着く術が無い。

 ヒトガミの居る場所に到達するために必要なものが、俺が生きている時代には無いんだ。

 だから、奴とは戦うな。

 あいつの目的が何かは知らないが、媚びへつらってでもいい、あいつと敵対するな。

 いいように、やられるだけだ。

 それなら、今の、誰も死んでいないうちに……」


 老人の手が、急に力を失い、落ちた。

 顎が上がり、視線が天井を向いた。


「お前がやるべき事は、三つだ。

 ナナホシに相談しろ。

 エリスに手紙を送れ。

 ヒトガミを疑え、でも敵対はするな。以上だ」

「……」


 返事が出来ない。

 いきなりそんな事を言われても、言葉が出るわけがない。

 ただ、老人が、必死に、俺に何かを伝えようとしている事だけは、なんとなく察した。


「も、もっと、具体的なアドバイスとか、無いんですか?」

「懐かしいな、そういや、この頃の俺はたるんでいたなぁ……まあ、もちろん、俺としても、もっと細かく、色々と、教えてやりたい所だが……時間切れだ」

「時間は無いとか、時間切れって、さっきからなんなんだ、深夜アニメでも始まるのか?」

「いいや……終わるんだよ。ていうか、あんまり他人に甘えるなよ。こっちの世界に来た頃、最初の頃は、そんな誰かに頼ってばっかりじゃなかっただろう……」


 老人は、まるで孫でも見るような目で、俺を見た。

 そう言われると、確かに最近は誰かに頼りっきりな気もする。


「それに……こうして、俺が来た事で、歴史は変わったはずだ。今、何かを言っても、そうなるとは限らない……そして、過去転移がこういう形になった以上、俺の歩んできた、歴史は変わらない…………」


 次の瞬間。

 老人の目が、ブレるように焦点を失った。

 両手をだらりを下げて、顎をあげて、辛そうにあえいだ。


「お前は……俺とは違う人生を送るだろう。今までどおり、成功もすれば、失敗もするし、反省もするし、後悔もするだろう」


 老人は身動ぎをして、椅子から落ちた。


「おい、大丈夫か!?」


 慌てて駆け寄って抱き起こして……ぞっとした。

 老人の体は、ガッチリした見た目からは考えられないぐらい、軽かった。

 40キロも無いかもしれない。

 なんだこれ、なんなんだ。


「俺が……未来から来たからって、失敗に取り返しがつくとは、思うなよ。

 この魔術は失敗だ…………人生に、やり直しは、ないんだ……」


 老人はうつろな視線を彷徨わせつつ、震える手でローブの中に手を入れた。


「日記を起点に、飛んだから……持ってきたんだ…………俺が経験したことが、書いてある…………お前は……後悔しないように、頑張ってくれ……あんな奴に、笑われて、俺みたいに……ならないでくれ……」


 老人はギラついた目をうるませながら、毛羽立ったローブの懐から、分厚いファイルのようなものを取り出した。

 これまた古ぼけているが、しかし、見覚えがあった。

 俺が先ほど作ったばかりの、日記帳だ。

 日記帳は俺が受け取る前に手から滑り落ち、ごとりと床に落ちた。


 しかし、俺が目を奪われたのは、そこではなかった。

 日記帳を取り出す時に、ちらりと見えた、ローブの内側は、何やら凹んでいた。

 まるで、服の下に何もないかのような……。


「なんだよ、それ、その身体……?」

「ハッ、未完成……だったのさ…………俺の過去転移では……体全てを……持って来ることが……できなかった……」

「えっ、だって、腕も生やせるって、さっき……」

「もう、魔力が無いんだ……悪いな……せめて、クリフが生きていれば、過去転移も、うまく…………もうちょっと、ここで、情報を……」

「……ごめん、もういいから、喋るなよ」

「……お前に……後悔を……ヒトガミの、思い通りに……なんでこんな所で……言うべきことは……過去にきたんだから、せめて、ひと目……」


 老人の目はすでにどこも見ていなかった。

 言葉は意味をなさず、曖昧な単語が流れ出るだけだった。

 目の下はいつしかドス黒い色に染まり、顔には死相が出ていた。

 死ぬ寸前の、いや、これは死人の顔だ。


「あ」


 しかし、ふとその目が、焦点を結んだ。

 俺の後ろ、肩越しになにかを見た。

 そちらに、ぶるぶると震える手を伸ばす。


「ああ、シルフィ、ロキシー……くそう、相変わらず可愛い、なぁ……」


 老人の目から、一筋だけ涙がこぼれ――光が失われた。

 身体から力が抜けて、コトリと首が落ちた。



 ……死んだ。




 振り返る。

 扉は開いていない。

 結構大きな音を立てたから、誰か起きてきたのかと思ったが……。

 老人は、死ぬ間際、なんの幻を見たのだろうか。


 そう思ったら、二階からトントンと誰かが降りてくる音が聞こえた。


「!」


 俺は慌てて部屋の外に出た。

 すると、杖とロウソクを持ったシルフィとロキシーが、二階から降りてきた所だった。


「ルディ、何か声と物音が聞こえたけど、誰かいるの?」

「泥棒ですか?」


 二人は俺の姿を見て安堵した声を出しつつも、しかし警戒色は緩めず、警戒している。

 二人に老人のことを話すべきだろうか。

 ………………いや。


「いや、ごめん。ちょっと寝ぼけてさ。変な夢みて、魔術使っちゃったんだ。起こしちゃったみたいだね、ごめん」

「夢で寝ぼけて魔術って……叫び声みたいなのも聞こえたけど、大丈夫なの? えっと、辛いなら、一緒に寝ようか? ほら、辛いことを忘れるなら、人肌が一番っておばあちゃんも言ってたし……」

「いや、いいよ、なんかエッチな事しちゃいそうだし。シルフィもまだ本調子じゃないだろ?」


 シルフィの魅力的な提案を断ると、ロキシーが難しい顔をした。


「どうしても辛いなら、わたしは構いませんが……いや、でも最近もしかしてと思う所もあるので、できれば触るだけぐらいに抑えてもらえると……」

「いや、いいって、今日は」


 ロキシーの言葉に、ふと、老人の言葉が思い出された。

 老人はロキシーが妊娠していると言った。

 ロキシーが思う所とは、その事だろうか。


「……本当に大丈夫だから、二人は部屋に戻って。

 俺も、部屋を片付けたら、寝るからさ」

「ルディがそう言うなら、そうするけど……大丈夫じゃなかったら、言ってよね?」

「一応、夫婦なのですから、遠慮はしないでください。ではおやすみなさい」


 シルフィとロキシーは心配そうに言って、二階に上がっていった。

 それを見届けて、俺は研究室の方に向き直った。


 とにかく、まずは老人の言葉を確かめる方が、先だろう。

 老人が何者なのか、よくわからない。

 本当に未来から来た俺なのか、それとも別の何かなのか。

 死ぬほどの危険をおかして、やってきた。

 その行動に信憑性はあるが、唐突すぎて信じきれないのも確かだ。


「……」


 ただ思った。

 俺はあの二人を失いたくない。



 そして、老人のように後悔して死にたくもない、と。



---



 その後。

 俺は二人を寝室に戻し、今晩は絶対に部屋の外に出ないようにと厳命した。

 2階にある家族全員の部屋を周り、土魔術で外側から鍵を掛けた。

 1階のすべての部屋を周り、誰もいないのを確認した。


 それから研究室に戻り、老人の身ぐるみをはいだ。


「……っ!」


 彼の体には、腹がなかった。


 肋骨から下の部分には大穴が開き、骨と、皮だけが見えていた。

 内臓が、ほとんど無いのだ。


 だが、腹を除けば、立派な身体だった。

 六十代後半とは思えないほど筋肉があり、身体の至るところに歴戦の傷跡が残っていた。

 胸には溶接したような傷跡、ホクロは俺と寸分違わぬ位置にあった。

 身体を見る限り、俺と同じだ。

 違いがあるとすれば、左手がある事ぐらいだろうか。

 自分で生やしたとか言ってたな……治癒魔術も、相応の腕前という事だろうか。


 老人は、日記帳以外には、特に何も持っていなかった。

 装飾品もなければ、杖もない。

 ローブの下にはシャツとズボンとパンツだけだった。


 ローブの懐にも、ズボンのポケットにも、何も入っていなかった。

 俺だったら、シルフィやロキシーが死んだら、その遺品ぐらいは持ち歩くと思うのだが。

 でも、50年か。

 無くしてしまったのかもしれない。


 俺はそれらを部屋の隅にまとめ、老人を傍らに落ちていた毛布で包んだ。

 死体を抱いて、台所にある裏口へと向かう。


「……」


 台所には、昨晩の料理の食べ残しが皿の上に盛ってあった。

 これを、ネズミが食べるというのだろうか。

 だとするなら、処分しておくとしよう。


 裏庭から外へと出て、近所にある空き地までやってきた。

 そこに穴を掘り、老人の死体を入れて、火を付けた。

 魔術の火はあっという間に老人を燃え焦がし、骨へと変えた。

 人の肉が焼ける異臭が漂う。

 自分の死体の臭いだ。


「うっ……」


 そう考えると吐き気がしてきて、空き地の隅に吐いた。


 死体を燃やした後、魔術で壷を作り、老人の骨を入れる。

 この骨は、パウロと同じ場所に埋めてやろう。

 老人が本当に俺なら、それが一番嬉しいはずだ。



 骨を拾った後、穴を埋めてから家に戻った。

 裏口から中へと入り、研究室へと直行する。

 骨壷を彼の遺品の傍に置き、自分の杖を手に取る。


 向かう先は地下室だ。

 すでに、魔眼は開いている。

 老人は行くなと言った。

 ネズミが出てきて、食い残しをあさり、ロキシーの中にいる胎児が、ネズミの持つ病気に感染するから、と。


 だから、俺は確かめなければならない。

 ネズミが本当にいるのかを。

 そうしなければ、俺は老人を信用することが出来なかった。

 それに、本当にいるのであれば、放置しておく事も出来まい。


「……」


 地下室への階段は暗かった。

 俺は懐から光の精霊のスクロールを取り出し、周囲を照らした。

 階段を降りて行き、深呼吸をして扉に手を掛ける、


「……ん?」


 すると、階段の隅。

 わずかに溜まった埃の中に、気になるものを見つけた。

 足跡だ。

 ネズミの足跡。

 その足跡は地下室へと続き、出てくる足跡は無い。


 俺は地下室への扉を……開けなかった。

 扉の中央付近に魔術でこぶし大の穴をあけて、そこに杖を差し込んだ。


 そのまま、杖に魔力を送り込む。

 イメージは氷、範囲は部屋全体。

 地下室には魔力付与品(マジックアイテム)や、アイシャが家庭菜園で使う肥料などがおいてあるが、構うつもりはない。


「……フロストノヴァ」


 ぽつりとつぶやいて、一瞬で凍らせた。

 念のため、もう一度。


「フロスト、ノヴァ」


 部屋の隅々まで、完全に冷気を行き渡らせる。

 穴の中から光の精霊を侵入させて明るくし、穴を覗いて部屋の中が完全に凍りついているのを確認。


 扉を開けた。

 凍りついた扉を開き、中に入って即座に閉じた。


「……」


 ネズミはすぐに見つかった。

 神棚への隠し扉の近くで、真っ白に凍りついて、死んでいた。

 半開きになった口からは、紫色に透き通る歯が見えた。

 まるで、魔石のような歯である。

 俺は二匹目がいないかを、部屋の隅々までよく探した上で、土魔術で箱を作り、ネズミの死体を棒で挟んで、その中に入れて完全密封した。

 この死体は、焼却処分をするのが妥当だろうか。

 それとも、魔術ギルドあたりに預けて、研究してもらうのが妥当だろうか。

 後者だな。

 老人の言った魔石病の情報と合わせて報告すれば、本当かどうか確かめる術にもなる。

 もっとも、凍りついた死体から病原菌が取れるかどうかは分からないが。



 地下室から出て、鍵を閉めた。

 更に、穴を開けた部分を塞いだ。

 魔石病の細菌は空気感染しないし、感染力も弱いらしいが、何が起こるかわからない。

 しばらく、この地下室は開かずの扉となるだろう。


 俺は研究室へと戻ってきた。

 目が冴えて、寝られる気がしなかった。


 まずは、何をすべきだろうか。

 今できることは、なんだろうか。

 この、古ぼけた日記帳を読むべきだろうか。

 これを読めば、これから先、何が起こるかわかるかもしれない。

 だが、歴史は変わると言っていた。

 あるゲーム風に言うなら、ここは別の世界線。

 未来から俺が来て変化した世界だ。

 この日記を読んで予習をしても、その通りの事は、起こらない可能性も高い。


 ふと、インク壷と、机についた黒い染みが見えた。

 老人が魔力のこもった拳で叩いた跡。


 老人の言った、三つの事を思い出した。

 その中に、今この場で出来ることはあった。

 俺は椅子に座った。


「……」


 まず、エリスへの手紙を書くことにした。


第15章 青年期 召喚編 - 終 -


次章

第16章 青年期 人神編

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― 新着の感想 ―
物語が大きく動き出した。((o(´∀`)o))ワクワク
ターニングポイント3でヒトガミが言っていた「後悔」が現実になったのが老デウスだったわけだ。あとからやってくる後悔。ベガリット大陸に行ってこのタイミングで罠を仕掛け、ルディの大切な人達を根こそぎ奪う。も…
[良い点] 10里眼位はできるのでしょう
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