第百五十四話「終わりと始まり」
未来からきた。
老人はそう言った。
正直、意味がわからない。
確かに、老人は俺に似ていない事もない。
「未来……未来の俺ってことか?」
「そう。俺は、今から大体50年後の、お前だ」
老人はハッキリとそう言った。
いきなりそんな事を言われても、信じていいかどうかわからない。
だが、こいつは俺の名前を知っている。
さらに言えば、俺は記憶を持って転生をして、この世界にきた。
ならタイムスリップがあってもおかしくない気もする。
「悪いが、お前に過去転移魔術の理論を説明している暇はない」
「説明している暇はないって……」
「ハリウッド映画みたいな言葉で悪いが、本当に時間が無い。聞いてくれ」
ハリウッド映画なんてセリフがスムーズに出てくる。
ということは、この老人は間違いなく、前世に関わりがある。
……本当に俺なのだろうか。
このギラついた目。
瞳の奥には、薄暗いものがある。
端的に言えば、日常的に人を殺している奴の目だった。
人ひとりの命を、なんとも思っていないような冷たい目だ。
俺が将来、こんな風になるってことか?
そんな馬鹿な。
どうにも信じがたいが、でも、老人の表情は本気だ。
一応、仮にだが、この老人が50年後の俺として、話を聞いてみるか。
「地下室には何もない」
老人はぽつりと言った。
「俺は地下室にいって、何もないと思った。そして後日、ヒトガミから何もなかったんならいいよという言葉を聞いて、安心することになる」
老人は不愉快そうに顔をしかめた。
「でも、それは間違いだ。今なら説明できる」
何かを思い出すかのように額に指を当てる。
左手の人差し指。
ん?
腕がある?
「いいか、多分だが、地下室にはネズミがいる。
病気になったネズミだ。
特徴としては、紫色の魔石みたいな歯をしているはずだ。
そのネズミがどこからきて、いつ入ってきたのかは知らない。
恐らく、魔大陸か、空中城塞にいたヤツが、荷物にまぎれてくっついてきたんだろう。それはいい」
老人は手を開き、グッと握りしめた。
「ネズミはお前に驚き、逃げる。台所へとな。そして、昨日の飯の食い残しを漁って、翌日には死に、アイシャによって処分される」
「……」
「その食い残しは、翌日にはアイシャの手で野良猫に分け与えられ、無くなる」
左手、義手ではないな。
本当に俺なのだろうか。
それとも、これから50年の間に相応の治療魔術で治したのだろうか。
「だが、その前に、小腹の空いたロキシーが降りてきて、その食い残しを、少し摘む。その結果、そのネズミの持っていた病気に感染する」
「ロキシーが病気に?」
ロキシーという言葉で、俺は老人の話に意識を集中した。
「魔石病だ」
魔石病。
どこかで聞いたことがある気がする。
そうだ、確か、神級の解毒魔術でしか治らないとかいう病気だ。
身体が次第に魔石と化していく難病。
「最初は気づかない。なにせ、魔石病は滅多に罹らないからな。あの病原菌は体の中に宿る、もう一つの生命にしか、感染しない」
「もう一つの生命?」
「そう、胎児だ。あの病気は妊婦にしか罹らないんだ、俺も後になって研究して、愕然としたよ」
「え? いや、でも、ロキシーはまだ」
「妊娠してるはずだ。けど、それはいい、やることやってんだ、当然だろ」
ロキシーが妊娠。
なんだろう、凄く嬉しいのに、この説明だと全然嬉しくない。
「魔石病は、ネズミをキャリアにしている。なぜか一部のネズミには耐性があるんだ。キャリアはひと目でわかる。歯が紫色の結晶になっているからな。そして、ネズミが齧ったものに、病原菌は付着する。経口感染だけで、しかも病原菌はそう長生きはしない。せいぜい半日かそこらで死滅する、しかも感染力も弱く、罹患するのは妊婦の中にいる、胎児だけだ」
「……」
「病原菌は胎児の中で育ち、そのまま胎児を作り替えて、母体を魔石化させる」
……そんな病気に、ロキシーが罹るってのか。
「もし、これから何も考えずに地下室にいき、ネズミを外に出せば、お前は翌日、アイシャから「朝から変なネズミの死体みちゃったよ」という愚痴を聞き、二週間後ぐらいに、『魔石病に罹った猫が発見された』という情報を得ることになり、そのすぐ後にロキシーが熱を出す。そして、それらが繋がるのは、さらに30年後だ」
「……ロキシーは、どうなるんだ?」
「死ぬ」
容赦のない一言に、俺は言葉を失った。
「ロキシーは熱を出し、寝こむようになる……。足先から結晶化が始まった事で魔石病だとわかるが……」
「治らなかったのか? 治そうとはしたんだろ?」
老人は悲しい顔をして、俯いた。
「俺はなんとかして助けようとミリス神聖国まで行き、神級解毒魔術の詠唱を手に入れてくることに成功するが……途中で色々あって、時間が掛かってしまった。帰ってきた時にはすでに遅く、ロキシーは身体の半分を結晶化させて、死んでいた」
しかし、すぐに顔を上げ、凄まじい眼光を俺に送った。
「人神の言葉に惑わされるな。
前世の知識があるお前なら、そのぐらいわかるだろう。
あいつこそが諸悪の根源、ラスボスだ」
「でも、なんでその、ロキシーを?」
「わからない、未だにな。だが、何かを目的として動いていたのは確かなはずだ。あいつが、最後に、自分で、そう言ったんだ……『君が馬鹿なおかげで、僕の思い通りに事が進んだよ』ってな……くそっ」
ヒトガミが、そんな事を、自分で言ったのか。
しかし、うーむ……?
「……ヒトガミの目的については、もしかすると、オルステッドかラプラスあたりなら、何か知っているのかもしれないが……俺は50年間、どちらにも会えなかった。恐らく、お前も探しても会えない可能性が高いだろう」
「ナナホシはオルステッドの居場所を知らなかったのか?」
ナナホシの名前を出すと、老人は悲しそうな顔をした。
知らなかったのか。
それとも、ナナホシももしかして……。
「俺は聞けなかったが、確かに今の時代なら、あいつに聞くのもアリかもしれないな。オルステッドの居場所がわからなくても、あいつも、こういう事は色々考えてるみたいだし、もしかするとなにかいい案を出してくれるかもしれない」
「……ナナホシは、どうなったんだ?」
「…………」
老人は答えない。
ただ、悲しそうな顔をするだけだった。
しかし、ややあってぽつりと言った。
「最後の最後で、失敗するんだ。それで、落ち込んで、俺は、フォローに失敗して……それで……」
ナナホシは、帰れなかったのだ。
それで、絶望して、もしかして、自分で、自分を……。
「わかった。もう、いい」
「ああ、俺も言いたくない」
老人は顔を上げて、気を取り直したように、言葉を続けた。
「いいか。お前も今から10年後ぐらいに知ることになるが……人神は、この世界ではヒトガミとは呼ばれていない」
「……どういう意味だ?」
「人の神、そう書いてジンシンだ。ジンシンの名を知らない奴はいないが、ヒトガミという単語は、奴に会った者しか知らない。どういうつもりでそんな事をしているかは知らないが……どうせ、知っている奴をもてあそぶためだろう」
……なるほど。
道理で、ヒトガミという単語に過剰反応するわけだ。
あいつに会い、騙された者だけが、知る名前ということか。
「奴は一見すると俺のためになるような事ばかりを口にしてきた」
老人が再度、拳を握った。
その瞳には、ただ憎悪の光だけが灯っている。
凄まじい殺気が溢れるが、だが、なぜか怖いとは思わなかった。
「確かに今この瞬間まで嘘はついてこなかった。俺にわかるような嘘はな」
拳がブルブルと震えた。
拳の周囲に、何かが見える。
バチバチとまとわりつく、紫電のようなものが。
「それもこれも、この1回のため、疑り深いお前が、何の躊躇もなく従うこの瞬間のためにだ!」
飛び散る火花に、俺は呆然としつつも身構えた。
「騙されるな! 漫画で読んだだろ? 信じる、信じないを口にするやつは、必ず嘘をつくんだ」
「そりゃ、わかるけど……」
老人が絞りだすような声で言った。
「わかっていない。
ロキシーの次は、次はシルフィだぞ。
ロキシーを失って傷心のお前は、シルフィの事がしばらく考えられなくなる。
シルフィは傷ついて、鬱になる。
そこを、奴はルークを操って付け入る」
「ルークを?」
「ああ、後になって、お前は、当時ルークと付き合ってた女から、「朝起きたらルークが神のお告げを聞いたとか言い出して焦った」なんて話を聞くことになる」
「それで……どうなるんだ?」
「ルークがアリエルに進言し、シルフィは俺を捨てて、アスラ王国に行ってしまう。
ペルギウスの取り込みに失敗したアリエルと共にだ!
アリエルは劣勢の中、一か八かで内乱を起こし……そして敗北する。
シルフィは、戦死だ」
戦死……。
死ぬのか。
「お前は、あのふたりを、失うんだよ」
老人は頭を振りつつ、ギリギリと歯ぎしりをした。
「ああ、種明かしの時のヤツの声が今でも耳に残っている。お疲れさんと肩を叩かれた時の感触が、甲高い笑い声が……ぐっそ、ぢくしょぉ!!」
老人がドンと机を叩いた。
その瞬間、周囲に紫電が飛び散り、真昼のような明るさを作る。
光はすぐに消えたが、机の上に焦げ跡が残った。
老人はふぅと息を吐いた。
「もう一度言う、ヤツを信用するな。後悔することになるぞ」
老人はそこまで言って、ふと、腹を抑えた。
ふと見ると、その顔色は、さきほどよりも若干ながら、悪くなっているように見える。
「もう時間がないな……。
でも、こう言っても、何をしていいかわからないだろう」
老人は土気色の顔をしていた。
目の下に、紫色のクマができている。
老人は大きく息をすって、苦しそうな息を吐いた。
なんだか、今にも死にそうな感じだ。
病気でも患っているのだろうか。
「まずは、そうだな、エリスの事だ」
エリスと聞いて、俺は自分の眉根が寄るのを感じた。
「あいつに、今すぐに手紙を書いてやってほしい。
まぁちょっと浮気したけど、お前のことは愛してるって」
「愛してない。俺はあいつのせいで不能になったんだぞ」
「許してやれよ。それが男の器ってもんだろ?」
「……」
老人は自嘲げに笑った。
「っても、俺は許せなくて、何年もあいつと対立することになったんだけどな」
「対立?」
「何度も何度も、エリスに殺されかけたよ。あいつは俺をどこまでも追ってきて、見かける度に全力での戦闘になった。けど、まぁ、手加減してたんだな。あいつがその気になれば、いくらでも俺を殺す方法はあったのに。あいつは俺を殺せるタイミングでは絶対に仕掛けてこなかった。それどころか、俺が別の事でピンチになると、影ながら助けてくれたもんだ。まるでベ○ータみたいな奴だな」
ベジ○タって……。
「もっとも、あいつは野菜の国の王子様とは違う。
エリスは俺のそばにいたいだけだったんだ。
あいつは、ずっと俺のことが好きだったんだ。
俺の事が好きで、俺のために一生懸命で……。
でも、口下手で、どうしていいかわからないから、結局殴るしか出来なかっただけでな」
そんな事を言われても。
俺には妻も子もいる身だ。
そりゃ、エリスの事が好きだった時期もあったけど。
でも、それは……過去の事だ。
「でも、俺にはシルフィとロキシーが……」
「問題ないさ。シルフィはそういう所には寛容だし、
ロキシーは自分が俺と釣り合ってないと思ってるから、許してくれる。
エリスだって、事前に説明しておけば、納得はするさ。
ああ、でも殴られるのは覚悟しておけよ。そういう女だからな」
「んなこといったって……」
「好きって言ってくれる女をみんな囲う。いいじゃねえか、何がいけないんだ。男の甲斐性だろうが」
「人ごとだと思って、勝手な事を言うなよ」
「俺は誰も手元に残っていないから、言ってるんだよ」
そう言う老人の言葉には、妙な重みがあった。
でもなぁ……。
「シルフィやロキシーには、責任もあるし……」
「責任ってんなら、エリスに対する責任だってあるんだよ。
あいつはお前のためにずーっと頑張ってたんだ。
ちょっと口下手で通じてなかっただけで、ずっとな。
責任を取ってやらなきゃ、あいつの努力はなんだったんだ。
……そうギレーヌに責められることになるぞ。エリスの亡骸の前でな」
エリスの、亡骸?
「エリスも、死ぬのか……?」
「ああ、俺を庇ってな。あれは確か……アトーフェと再戦した時だったか。本気の魔王様が思いの外強くてな、油断したよ」
老人は、懐かしむようにそう言って、口の端を歪めた。
アトーフェ相手に油断できるとか、どんだけ強いんだ、未来の俺は。
本当に俺なんだろうか、疑わしくなってきた。
「いいか、絶対に手紙を送れ。後悔したくなかったらな……今ならまだギリギリ間に合うはずだ」
「あ、ああ、まあ、そう言うなら、送るけど。でも、どこに送るんだよ」
「剣の聖地だよ。薄々感づいてただろ」
剣の聖地か。
シャリーアから、そう遠くない。
やはりというかなんというか、そこで修行をしていたのか。
剣の修行……か。
「わかった」
「突き放すような事は書くなよ。エリスが自暴自棄になったら、お前、殺されるぞ」
「わかってるよ」
エリスがどういう人物かは知っているつもりだ。
……知っているつもり『だった』か。
もし、この老人が言う事が本当だとしたら。
彼女は俺を捨てたつもりでは無く、俺にはそれがわからなかった。
考えてみれば、口下手な彼女が、手紙をうまく書けるわけもないのだ。
そうして、すれ違って、不幸を生むのか。
「ふぅ」
老人は重苦しい息を吐いた。
そして、ハッとした顔で、顔を上げる。
「それと、重要なことをいい忘れていたが、ヒトガミには敵対するな」
「敵対するなって、騙してたんだろ?」
「ああ、でも、ヒトガミには勝てない。
俺では勝つことができない。
俺では、ヒトガミの所には、辿りつけないんだ」
老人は、悔しそうに言った。
ヒトガミの所に辿りつけない。
という事は、やはり、あの場所はこの世界のどこかにあるのか?
「それがわかった時は、震えたよ。
俺はロキシーやシルフィの仇を取ることすらできないんだ。
あいつを倒すために、こんなに頑張ったのにさぁ、届かないんだぜ?
重力だって操れるようになったのに、俺の手の届く範囲に奴はこないんだ」
そう言って、老人は机の上にあるインク壺を指差す。
インク壺がふわりと浮き上がり、すぐにコトリと落ちた。
机の上に、インクがポタリと飛んだ。
「宙に浮く事もできるし、遠方の相手に通信する事もできる。腕だって生やせる。それどころか、時間すら飛び越えて、過去に飛べるようにまでなった……まあ、この魔術は失敗だがな」
失敗。
何が失敗なのだろうか。
この男は、現に今、この場にいるのに。
「お前もうすうす感づいていただろうが、この世界の魔術ってのは万能だ。そこに気づけば、大体なんだって出来る」
老人はそう言いつつ、左手を持ち上げる。
自慢気な動作とは裏腹に、老人の顔色は土気色を通り越して真っ白だった。
目の下にはどす黒いクマができ、唇は青色に染まっている。
「だが、こんな力、もうなんの意味もない。
遅すぎたんだよ。
俺が強くなった時、守りたい奴は誰一人として残っていなかった」
老人の目は相変わらずギラついているが、その瞳には既に力が無かった。
息は荒く、細い。
「いいか、もう一度言うぞ。
俺はヒトガミが憎い。
けど、奴には勝てない。勝つ方法が無い。
俺では、ヤツのところにたどり着く術が無い。
ヒトガミの居る場所に到達するために必要なものが、俺が生きている時代には無いんだ。
だから、奴とは戦うな。
あいつの目的が何かは知らないが、媚びへつらってでもいい、あいつと敵対するな。
いいように、やられるだけだ。
それなら、今の、誰も死んでいないうちに……」
老人の手が、急に力を失い、落ちた。
顎が上がり、視線が天井を向いた。
「お前がやるべき事は、三つだ。
ナナホシに相談しろ。
エリスに手紙を送れ。
ヒトガミを疑え、でも敵対はするな。以上だ」
「……」
返事が出来ない。
いきなりそんな事を言われても、言葉が出るわけがない。
ただ、老人が、必死に、俺に何かを伝えようとしている事だけは、なんとなく察した。
「も、もっと、具体的なアドバイスとか、無いんですか?」
「懐かしいな、そういや、この頃の俺はたるんでいたなぁ……まあ、もちろん、俺としても、もっと細かく、色々と、教えてやりたい所だが……時間切れだ」
「時間は無いとか、時間切れって、さっきからなんなんだ、深夜アニメでも始まるのか?」
「いいや……終わるんだよ。ていうか、あんまり他人に甘えるなよ。こっちの世界に来た頃、最初の頃は、そんな誰かに頼ってばっかりじゃなかっただろう……」
老人は、まるで孫でも見るような目で、俺を見た。
そう言われると、確かに最近は誰かに頼りっきりな気もする。
「それに……こうして、俺が来た事で、歴史は変わったはずだ。今、何かを言っても、そうなるとは限らない……そして、過去転移がこういう形になった以上、俺の歩んできた、歴史は変わらない…………」
次の瞬間。
老人の目が、ブレるように焦点を失った。
両手をだらりを下げて、顎をあげて、辛そうにあえいだ。
「お前は……俺とは違う人生を送るだろう。今までどおり、成功もすれば、失敗もするし、反省もするし、後悔もするだろう」
老人は身動ぎをして、椅子から落ちた。
「おい、大丈夫か!?」
慌てて駆け寄って抱き起こして……ぞっとした。
老人の体は、ガッチリした見た目からは考えられないぐらい、軽かった。
40キロも無いかもしれない。
なんだこれ、なんなんだ。
「俺が……未来から来たからって、失敗に取り返しがつくとは、思うなよ。
この魔術は失敗だ…………人生に、やり直しは、ないんだ……」
老人はうつろな視線を彷徨わせつつ、震える手でローブの中に手を入れた。
「日記を起点に、飛んだから……持ってきたんだ…………俺が経験したことが、書いてある…………お前は……後悔しないように、頑張ってくれ……あんな奴に、笑われて、俺みたいに……ならないでくれ……」
老人はギラついた目をうるませながら、毛羽立ったローブの懐から、分厚いファイルのようなものを取り出した。
これまた古ぼけているが、しかし、見覚えがあった。
俺が先ほど作ったばかりの、日記帳だ。
日記帳は俺が受け取る前に手から滑り落ち、ごとりと床に落ちた。
しかし、俺が目を奪われたのは、そこではなかった。
日記帳を取り出す時に、ちらりと見えた、ローブの内側は、何やら凹んでいた。
まるで、服の下に何もないかのような……。
「なんだよ、それ、その身体……?」
「ハッ、未完成……だったのさ…………俺の過去転移では……体全てを……持って来ることが……できなかった……」
「えっ、だって、腕も生やせるって、さっき……」
「もう、魔力が無いんだ……悪いな……せめて、クリフが生きていれば、過去転移も、うまく…………もうちょっと、ここで、情報を……」
「……ごめん、もういいから、喋るなよ」
「……お前に……後悔を……ヒトガミの、思い通りに……なんでこんな所で……言うべきことは……過去にきたんだから、せめて、ひと目……」
老人の目はすでにどこも見ていなかった。
言葉は意味をなさず、曖昧な単語が流れ出るだけだった。
目の下はいつしかドス黒い色に染まり、顔には死相が出ていた。
死ぬ寸前の、いや、これは死人の顔だ。
「あ」
しかし、ふとその目が、焦点を結んだ。
俺の後ろ、肩越しになにかを見た。
そちらに、ぶるぶると震える手を伸ばす。
「ああ、シルフィ、ロキシー……くそう、相変わらず可愛い、なぁ……」
老人の目から、一筋だけ涙がこぼれ――光が失われた。
身体から力が抜けて、コトリと首が落ちた。
……死んだ。
振り返る。
扉は開いていない。
結構大きな音を立てたから、誰か起きてきたのかと思ったが……。
老人は、死ぬ間際、なんの幻を見たのだろうか。
そう思ったら、二階からトントンと誰かが降りてくる音が聞こえた。
「!」
俺は慌てて部屋の外に出た。
すると、杖とロウソクを持ったシルフィとロキシーが、二階から降りてきた所だった。
「ルディ、何か声と物音が聞こえたけど、誰かいるの?」
「泥棒ですか?」
二人は俺の姿を見て安堵した声を出しつつも、しかし警戒色は緩めず、警戒している。
二人に老人のことを話すべきだろうか。
………………いや。
「いや、ごめん。ちょっと寝ぼけてさ。変な夢みて、魔術使っちゃったんだ。起こしちゃったみたいだね、ごめん」
「夢で寝ぼけて魔術って……叫び声みたいなのも聞こえたけど、大丈夫なの? えっと、辛いなら、一緒に寝ようか? ほら、辛いことを忘れるなら、人肌が一番っておばあちゃんも言ってたし……」
「いや、いいよ、なんかエッチな事しちゃいそうだし。シルフィもまだ本調子じゃないだろ?」
シルフィの魅力的な提案を断ると、ロキシーが難しい顔をした。
「どうしても辛いなら、わたしは構いませんが……いや、でも最近もしかしてと思う所もあるので、できれば触るだけぐらいに抑えてもらえると……」
「いや、いいって、今日は」
ロキシーの言葉に、ふと、老人の言葉が思い出された。
老人はロキシーが妊娠していると言った。
ロキシーが思う所とは、その事だろうか。
「……本当に大丈夫だから、二人は部屋に戻って。
俺も、部屋を片付けたら、寝るからさ」
「ルディがそう言うなら、そうするけど……大丈夫じゃなかったら、言ってよね?」
「一応、夫婦なのですから、遠慮はしないでください。ではおやすみなさい」
シルフィとロキシーは心配そうに言って、二階に上がっていった。
それを見届けて、俺は研究室の方に向き直った。
とにかく、まずは老人の言葉を確かめる方が、先だろう。
老人が何者なのか、よくわからない。
本当に未来から来た俺なのか、それとも別の何かなのか。
死ぬほどの危険をおかして、やってきた。
その行動に信憑性はあるが、唐突すぎて信じきれないのも確かだ。
「……」
ただ思った。
俺はあの二人を失いたくない。
そして、老人のように後悔して死にたくもない、と。
---
その後。
俺は二人を寝室に戻し、今晩は絶対に部屋の外に出ないようにと厳命した。
2階にある家族全員の部屋を周り、土魔術で外側から鍵を掛けた。
1階のすべての部屋を周り、誰もいないのを確認した。
それから研究室に戻り、老人の身ぐるみをはいだ。
「……っ!」
彼の体には、腹がなかった。
肋骨から下の部分には大穴が開き、骨と、皮だけが見えていた。
内臓が、ほとんど無いのだ。
だが、腹を除けば、立派な身体だった。
六十代後半とは思えないほど筋肉があり、身体の至るところに歴戦の傷跡が残っていた。
胸には溶接したような傷跡、ホクロは俺と寸分違わぬ位置にあった。
身体を見る限り、俺と同じだ。
違いがあるとすれば、左手がある事ぐらいだろうか。
自分で生やしたとか言ってたな……治癒魔術も、相応の腕前という事だろうか。
老人は、日記帳以外には、特に何も持っていなかった。
装飾品もなければ、杖もない。
ローブの下にはシャツとズボンとパンツだけだった。
ローブの懐にも、ズボンのポケットにも、何も入っていなかった。
俺だったら、シルフィやロキシーが死んだら、その遺品ぐらいは持ち歩くと思うのだが。
でも、50年か。
無くしてしまったのかもしれない。
俺はそれらを部屋の隅にまとめ、老人を傍らに落ちていた毛布で包んだ。
死体を抱いて、台所にある裏口へと向かう。
「……」
台所には、昨晩の料理の食べ残しが皿の上に盛ってあった。
これを、ネズミが食べるというのだろうか。
だとするなら、処分しておくとしよう。
裏庭から外へと出て、近所にある空き地までやってきた。
そこに穴を掘り、老人の死体を入れて、火を付けた。
魔術の火はあっという間に老人を燃え焦がし、骨へと変えた。
人の肉が焼ける異臭が漂う。
自分の死体の臭いだ。
「うっ……」
そう考えると吐き気がしてきて、空き地の隅に吐いた。
死体を燃やした後、魔術で壷を作り、老人の骨を入れる。
この骨は、パウロと同じ場所に埋めてやろう。
老人が本当に俺なら、それが一番嬉しいはずだ。
骨を拾った後、穴を埋めてから家に戻った。
裏口から中へと入り、研究室へと直行する。
骨壷を彼の遺品の傍に置き、自分の杖を手に取る。
向かう先は地下室だ。
すでに、魔眼は開いている。
老人は行くなと言った。
ネズミが出てきて、食い残しをあさり、ロキシーの中にいる胎児が、ネズミの持つ病気に感染するから、と。
だから、俺は確かめなければならない。
ネズミが本当にいるのかを。
そうしなければ、俺は老人を信用することが出来なかった。
それに、本当にいるのであれば、放置しておく事も出来まい。
「……」
地下室への階段は暗かった。
俺は懐から光の精霊のスクロールを取り出し、周囲を照らした。
階段を降りて行き、深呼吸をして扉に手を掛ける、
「……ん?」
すると、階段の隅。
わずかに溜まった埃の中に、気になるものを見つけた。
足跡だ。
ネズミの足跡。
その足跡は地下室へと続き、出てくる足跡は無い。
俺は地下室への扉を……開けなかった。
扉の中央付近に魔術でこぶし大の穴をあけて、そこに杖を差し込んだ。
そのまま、杖に魔力を送り込む。
イメージは氷、範囲は部屋全体。
地下室には魔力付与品や、アイシャが家庭菜園で使う肥料などがおいてあるが、構うつもりはない。
「……フロストノヴァ」
ぽつりとつぶやいて、一瞬で凍らせた。
念のため、もう一度。
「フロスト、ノヴァ」
部屋の隅々まで、完全に冷気を行き渡らせる。
穴の中から光の精霊を侵入させて明るくし、穴を覗いて部屋の中が完全に凍りついているのを確認。
扉を開けた。
凍りついた扉を開き、中に入って即座に閉じた。
「……」
ネズミはすぐに見つかった。
神棚への隠し扉の近くで、真っ白に凍りついて、死んでいた。
半開きになった口からは、紫色に透き通る歯が見えた。
まるで、魔石のような歯である。
俺は二匹目がいないかを、部屋の隅々までよく探した上で、土魔術で箱を作り、ネズミの死体を棒で挟んで、その中に入れて完全密封した。
この死体は、焼却処分をするのが妥当だろうか。
それとも、魔術ギルドあたりに預けて、研究してもらうのが妥当だろうか。
後者だな。
老人の言った魔石病の情報と合わせて報告すれば、本当かどうか確かめる術にもなる。
もっとも、凍りついた死体から病原菌が取れるかどうかは分からないが。
地下室から出て、鍵を閉めた。
更に、穴を開けた部分を塞いだ。
魔石病の細菌は空気感染しないし、感染力も弱いらしいが、何が起こるかわからない。
しばらく、この地下室は開かずの扉となるだろう。
俺は研究室へと戻ってきた。
目が冴えて、寝られる気がしなかった。
まずは、何をすべきだろうか。
今できることは、なんだろうか。
この、古ぼけた日記帳を読むべきだろうか。
これを読めば、これから先、何が起こるかわかるかもしれない。
だが、歴史は変わると言っていた。
あるゲーム風に言うなら、ここは別の世界線。
未来から俺が来て変化した世界だ。
この日記を読んで予習をしても、その通りの事は、起こらない可能性も高い。
ふと、インク壷と、机についた黒い染みが見えた。
老人が魔力のこもった拳で叩いた跡。
老人の言った、三つの事を思い出した。
その中に、今この場で出来ることはあった。
俺は椅子に座った。
「……」
まず、エリスへの手紙を書くことにした。
第15章 青年期 召喚編 - 終 -
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第16章 青年期 人神編