第百九話「ターニングポイント3」
事件が起きたのは、ある日の事だった。
朝、俺はいつもどおりトレーニングをする。
バーディガーディは見かけないが、気にする事はない。
あいつは気まぐれだ。
いちいち気にしていても仕方がない。
……というのはエリナリーゼの受け売りだが、まさにその通りだろう。
トレーニングから帰ってくると、
アイシャとシルフィが何やら深刻そうな顔をしていた。
俺が帰ってくると、二人して俺の顔を凝視する。
「……あ」
「ルディ……」
なんだろう。
何か問題でも起こったのだろうか。
ちょっと不安な気がする。
「えっと、あはは、いざとなると、なんかちょっと怖いね……」
シルフィが耳の後ろをポリポリと掻きつつ、苦笑していた。
「怖がる事はありません。ほら、シルフィ姉、勇気を出して!」
アイシャに促されて、シルフィが前に出てくる。
彼女は胸の辺りで手をもじもじさせながら、顔を赤くして俺の前までくる。
そして、お腹に手を当てて。
言った。
「えっと、ルディ。ボク……ここ二ヶ月、来てないんだ」
来てない……何が?
とは聞けない。
「それでね、ちょっと体調も悪くて、もしかして、とは思ってたんだ」
俺はシルフィのお腹を凝視した。
細いお腹だ。
まさか。
いやまさか。
「そ、それでね、昨日アイシャちゃんと、近くのお医者さんの所に行ったんだけど……。その、多分、おめでたです、って」
「ぉ……おぉ……」
声が震えた。
手も震えた。
足も震えている。
おめでた。
出来たって事か。
夢じゃなかろうか。
頬をつねってみた。痛い。夢じゃない。
ごくりとつばを飲み込む。
そうか、そうだよな。
あのコンビも言ってたじゃないか。
やればできる。
俺はそのつもりでやっていた。
予定通りといえばその通りだ。
長耳族はそう簡単にはデキないと聞いていたから、
案外早くデキてしまって、ちょっと戸惑っているだけだ。
「えっと、ルディ……どうかな?」
シルフィが不安そうな顔をしている。
どうかなって、俺はどういう反応をすればいいんだ。
いきなり過ぎてわからない。
「さ、触ってみてもいいか?」
「え? あ、はい、どうぞ」
俺はシルフィの細い腹を撫でる。
いつも撫でているのと同じ感触だ。
細い腰に、脂肪の少なく、引き締まったお腹。
触ると暖かくて、柔らかな感触を返してくる。
言われてみると、少しだけ大きくなっているのだろうか。
いや、気のせいか、まだ触ってわかるようなものでもないだろう。
「そうか、ここに、俺の子供が……」
口に出してみると、喉の奥に何かが生えた気がした。
沸き上がってくるものがあった。
なんだこれ。
叫びだしたい。
俺に、子供。
子供が出来た。
現実味がない。
けれど、なんだろう、すごい嬉しい。
いや、嬉しいなどという言葉ではとても言い表せない。
なんだこれ、なんなんだ……。
「お兄さま。奥様に一言、言うべき事があるのでは?」
アイシャの言葉で我に返った。
「え?」
言うべきこと。
なんだろう。
おめでとう?
違う、そうじゃない。
ありがとう。
そうだ、ありがとうだ。
「シルフィ、ありがとう」
「え? ありがとう?」
シルフィは苦笑しながら、微笑んでいる。
違ったか。
じゃあ何が正解だったのだろうか。
知識を探る、パウロはゼニスになんて言ってたっけ。
ノルンが出来た時のパウロの言葉を思い出せ。
『よくやった』。
『でかした』。
そんな感じの言葉だった。
アイツなんでそんな上から目線だったんだ。
妊娠が女の努力次第で出来るとでも思ってたのか?
ありうるな、あいつならありうる。
……妊娠。
シルフィが妊娠した。
このショートカットの可愛い女の子が、俺の子供を。
俺が。
そう考えるだけで、言葉に出来ない感動が浮かび上がってきた。
なんか、涙が出てきた。
「ごめん、なんか、なんかさ、うまく言えない。シルフィ……」
「……わっ。ルディ?」
俺はシルフィに抱きついた。
そのまま持ち上げて、振り回したくなる。
いかん、あまり乱暴に扱ってはいけないのだ。
そっと、そっとだ。
お腹の子供に差し障るかもしれない。
「……ふふ、ルディ、いっつも子供欲しがってたもんね」
シルフィは俺の背中に手を回して、ぽんぽんと叩いてきた。
俺はぎゅっと抱きしめてから、体を離した。
シルフィと見つめ合う。
つぶらな瞳に俺が映っている。
涙が溢れてひどい顔だ。
シルフィの瞳はすぐに閉じられた。
俺は彼女の頭を撫でながら、その唇に口付けをした。
柔らかな唇の感触。
これが愛か。
「こほん」
アイシャの咳払いで、俺は我に帰った。
気づけば、シルフィの胸と尻を揉みしだいていた。
「お兄さま、奥様の体に差し障りがあるので、しばらく性交渉は厳禁でお願いします」
いかんいかん。
今の時期は手出しをしてはいかんのだ。
いくら愛おしくても手を出してはいかんのだ。
ああ、でも二ヶ月前とすると、その間にもやってたし、少しぐらいは。
いや、だめだ。我慢しよう。
「ああ。もちろんだ」
釘を刺された。
アイシャはふっと笑い、スカートの裾をぴらっと持ち上げた。
「なんでしたら、その間は私がお相手をしてもよろしいですが」
「寝言は寝ていえ」
アイシャはガクッと頭を落とした。
お誘いはありがたいが、俺はお前にはなぜか欲情しないのだ。
もっとも、俺も妹に手をだすという事自体を悪いと思っているわけではない。
だからちょうどいい。
俺はこの世界では、家庭崩壊につながるような事はしないのだ。
「ではお兄さま、私はこれより、アリエル様にこの事を伝えに言って参ります。
奥様も、お仕事はお休みになられた方がいいでしょうし」
アイシャはすまし顔でそう言った。
妊娠したら護衛は出来ない。
確かに、休暇をもらった方がいい。
「いや、俺が行こう。俺が説明するのが筋というものだろう」
「はぁ……お兄ちゃんはシルフィ姉についてて、もっといっぱい話す事あるでしょ?」
妹にため息を付かれて嗜められた。
話すこと。
そうか、これからの事とか、もっと色々話さないとな。
「では、行ってきます」
「ああ。任せる」
アイシャが出かけ、俺とシルフィが残された
---
俺はシルフィと並んでソファに座る。
おずおずとシルフィの手を握ると、彼女も握り返してきた。
そして、俺にもたれかかってくる。
「……」
「…………」
何を話していいのかわからない。
責任を取る、という単語が浮かんだが、
しかしすでに結婚はしているし。
「あの、シルフィ」
「なに、ルディ」
「これから大変だろうけど、その、よろしくお願いします」
「うん、任せて」
シルフィは、ふふっと笑って、俺の膝の上に頭を載せた。
俺は手を握っていない方の手で、シルフィの頭を撫でる。
耳の裏側あたりをさわさわと。
「ねぇルディ」
「はい」
「男の子がいい? 女の子がいい?」
唐突に聞かれて、俺は戸惑う。
そうだ、二種類あるのだ、子供には。
「って、選べるものじゃないけどね」
シルフィはそう言って、はにかみながら笑った。
男の子と、女の子。
どっちがいいだろう。
どっちが生まれるのだろう。
やはり家を継ぐとかそういう理由で、長子は男の方がいいんだろうか。
いや、武家じゃあるまいし。
別に女に継がせたって問題無いだろう。
今のところ、俺の財産といってもたかが知れているし。
いや、そこまで難しく考えなくていいか。
男の子か女の子。
生前の俺だったら、迷うことなく女の子と言っただろう。
ゲスい顔で、女の子の女の子な部分がどう成長するのか毎日デジカメで撮影して観察日記をつけてやるぜ、とか言ってただろう。
馬鹿な男だ。
しかし、今ならどちらでもいい。
元気であれば。それでいい。
「でもね、ルディ。ボク、なんか安心したよ」
「なんで?」
「これでようやく、きちんとルディのお嫁さんになれたかなって」
「……」
どこの世界でも、番になるという事は、子孫を残すという事だ。
シルフィも多少、不安に思っていたというか、少々焦っていたのかもしれない。
できにくい体質だから。
もちろん、そんな心配は無用だ。
「でも、これからルディに我慢させちゃうね。アッチの方で」
「我慢なんかじゃないよ」
当然の務めというやつだ。
俺はパウロとは違うのだ。
「もし俺が他の女に手を出したら、本気で怒ってくれても構わんよ」
「……別に怒らないけどね、でもちょっと寂しいって思っちゃうかもしれない」
寂しい、だけで済むのか。
いや、でもなぁ。
裏切れないだろ。常識的に考えて。
逆の立場で考えてみろよ。
「俺は、シルフィが他の男に手を出されたら、怒ると思う」
そう言うと、シルフィは「んふふ」と笑った。
この笑顔が俺だけに向けられている。
嬉しいなぁ。
俺達はしばらく、言葉もなく穏やかに過ごした。
---
夕方、アイシャがノルンを連れて戻ってきた。
「お、おめでとうございます、シルフィさん」
「うん、ありがとう、ノルンちゃん」
ノルンはシルフィに向かってぺこりと頭を下げる。
シルフィはにこりと笑って、その頭を撫でた。
頭を撫でられ、ノルンの口元が緩んだ。
まんざらでもないという顔だ。
彼女は頭を撫でられるのが好きなのだろうか。
ともあれ、仲が良さそうで結構だ。
「皆様、本日中にご挨拶をとの事でしたが、後日にまわしてもらう事にしました」
アイシャは淡々と告げた。
今日は家族だけで、という俺の意向を汲み取ったらしい。
だから、ノルンだけを連れて戻ってきたようだ。
そんな意向を出したつもりはないのだが。
まぁいいだろう。
確かに、現時点であれこれ言われても恐縮してしまうというか、こっ恥ずかしいしな。
何日か置くべきだ。
「アリエル様より、奥様に最低でも二年は休むようにとのお達しです。学校にも休学届を出しておくと。エリナリーゼ大叔母様が、その間責任を持って護衛を引き受けると申し出てくださいました」
「お祖母ちゃん、大丈夫かな。呪いの事とか……」
「なんとかするとおっしゃっていましたので、問題ないでしょう」
エリナリーゼは自己管理がうまそうだし、魔道具もある。
問題はないだろう。
空き教室なり、体育倉庫なり、授業中でも使える場所は沢山あるしな。
「ザノバ様は五日後の夕方においでになるようです。
こちらはお食事をなさるそうなので、用意しておきます。
アリエル様は十日後に、同じく夕方においでになるようです。
お夕食をお召し上がりになるかと聞いた所、必要ないとの事でした。
クリフ様とエリナリーゼ大叔母様の両名はアリエル様と共に来るそうです。
リニア様とプルセナ様は、しばらくしたら適当に顔をだすとの事でした。
具体的な日程はわかりません。
ナナホシ様は祝辞をおっしゃっておりました。一言おめでとうと。
バーディガーディ様は見つかりませんでしたが、伝言を残しておきました」
淡々と。
まるで秘書のようだ。
アイシャは優秀だな。
「そうか、ご苦労様、アイシャ」
「はい、お兄さま」
アイシャはそう言って、ふふんと鼻を鳴らしてノルンを見る。
ノルンはむっとした顔でアイシャを見返す。
アイシャは俺の前ではいい所を見せたいらしく、よくこういう動作をする。
腹違いという事で少しわだかまりがあるようだ。
気にするな、平等だと言い聞かせてはいるが。
この二人は他愛のない事でよく口喧嘩をしている。
喧嘩するほど仲がいい、とはいうし、冷戦状態にならなければ大丈夫だろう。
喧嘩中も、致命的な事は言ってないしな。
「それにしても、子供が生まれるって言ったら、父さんが来た時にびっくりするだろうな」
「お父さん!」
そう言うと、ノルンがパッと顔を明るくさせた。
ノルンはお父さん子だ。
きっと、将来の夢はお父さんと結婚する事、とか言ってたんだろう。
「お父さんの驚く顔、みたいですね!」
「ああ、あいつは孫に対しては相当甘いタイプだ。きっと喜ぶぞ。ノルンとアイシャが生まれた時もデレッデレだったからな」
そう言うと、アイシャとノルンは気まずそうにしていた。
自分の記憶にない時の話をすると、ちょっと気まずいか。
「楽しみですね、兄さん」
ノルンのその言葉に、俺達は笑顔になった。
俺とシルフィが結婚して。
パウロとゼニスとリーリャがいて。
そして妹二人もいる。
ブエナ村にいた頃に夢想していた理想が、すぐそこにあると思ったのだ。
---
悪い知らせは、それから二ヶ月後に届いた。
緊急速達便で送られてきたその手紙の出された日付は半年前。
差出人の名前はギース。
速達便特有の、極めて短い文面であった。
『ゼニス救出困難、救援を求む』
その書面を見た瞬間、俺は目の前が真っ白になった。
---
気づけば、真っ白い部屋にいた。
俺はデブで卑屈な姿に戻っている。
同時に精神がささくれ立つ。
イライラと目の前を見据えた。
そこには奴がいた。
モザイクに隠れて笑い続ける人神が。
「やあ」
おい、どういう事だ。
「何がだい?」
あの手紙だ。
ギースからの。
ゼニスが救出困難だって。
どういう事だ。
「どういう事も何も、大変なんだろうね」
お前は!
言ったじゃねえか!
ベガリット大陸にいったら、後悔するって!
あの言葉はなんだったんだ。
俺を騙したのか!?
「騙してなんていないよ。君はベガリット大陸に行けば後悔する。
それは、今でも変わらない」
ああ、そうか。
わかった。
つまりあれだな。お前はこういいたいわけだ。
ベガリット大陸に行けば後悔する。
けど、行かなくても後悔する、ってな。
「そんな事はないさ。
現に、君、昨日までの時点で後悔したかい?
友達もたくさんできた。
いろんな人物にあえて、君自身も少し成長した。
体の不調も治った。
妹とも仲良くなった。
それに、結婚して子供だって出来た」
……確かに悪くはない、悪くはない。
けどな!
お前は言ったんだよ!
ベガリット大陸には行かない方がいいって。
騙したんだよ。
「騙してないよ。現に僕は今でも同じ事を言う。
ベガリット大陸には、行かない方がいい。
後悔する事になる」
でも、だって。
家族のピンチだぞ。
せめて理由を教えてくれよ。
「それは言えない」
くそっ。
そういえば、お前はそういう奴だった。
「酷い言い草だね。僕の助言でいつも助かっているのに」
助かっているのと、騙されるのじゃ話は別だ。
なあ、せめて、せめて何か教えてくれよ。
俺は何を後悔するんだ?
これじゃ、物事を天秤に掛けることすらできやしない。
「普通の人は、天秤になんて掛けられないんだけどね。
君は贅沢だなあ」
贅沢でもなんでもいいんだよ。
俺は後悔したくないんだ。
「ちょっと考えてみればわかるだろう。
君は一年半、学校生活を送った。
妹たちは、一年掛けてここまできた。
間違いなく行き違いになっただろう?」
いや。
妹は俺の手紙を見て、ここまで来たんだ。
もし手紙がなければ、ミリスに残るか、港町に残るかしていたはずだ。
「いいや、手紙がなくても、パウロは娘をアスラ王国まで送ったよ。
あの国には、リーリャの家族がいるからね」
……なるほど。
言われてみると、そうか。
「今だってそうさ。今から旅に出て。
そしたら、シルフィとの子供はどうするんだい?
ベガリット大陸に、行って、帰ってくる。
その間、君は自分の奥さんを一人にするのかい?」
結局、どう動いても後悔するって事かよ。
「そう。後悔は避けようと思っても避けられない。
ベガリット大陸に行けば、君は大きな機運を逃すことにもなる。
だから、行かない方がいい」
ちっ。
お前がそこまで言うのなら、確かに俺は後悔するんだろう。
わかったよ。
「そうかい、で、助言は聞くかい?」
ああ、一応、教えてくれ。
「コホン。ルーデウスよ、次の発情期を待ちなさい。
そこで、リニアとプルセナがあなたに迫ってくるでしょう。
この二人のどちらかと関係を持ちなさい。
そうすれば、あなたはさらに幸せになることでしょう」
おい、いきなり浮気の話かよ。
俺はシルフィに操を立てるって決めたんだぞ!
あいつらとはそういう関係じゃない!
でしょう……でしょう……でしょう……。
エコーを残し、意識が薄れていった。
---
目が覚めた。
シルフィが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
気づけば、ベッドの上に寝ていた。
「あ、ルディ、大丈夫? うなされてたよ」
「ああ……」
あの手紙を受け取った後、どうしたのだったか。
よく覚えていない。
茫然自失な状態になったのを覚えている。
ここ最近が順調すぎたせいか。
ショックが大きかった。
ギースからの手紙。
救援を求むという文字。
何かが起きたのだ。
しかし、人神の言葉もある。
俺が今から旅立って、行き違いになる可能性。
楽観的すぎるかもしれないが、あの手紙はギースが慌てて出しただけかもしれない。
そう、差出人はパウロではない。ギースなのだ。
あの新入りの猿野郎なのだ。
どうして奴が俺にこんな手紙を出したのか。
奴がゼニスを探してくれていたからだ。
少なくとも、パウロの手紙にギースという名前は無かった。
ギースは単独でゼニスを探し、見つけたのだろう。
手紙を出したのも半年前。
もしかすると、彼が手紙を出したのは、パウロたちと合流する前かもしれない。
その時はどうしようもないと思って手紙を出した。
もしかすると、パウロにも同様の手紙を出したのかもしれない。
だが、すぐにパウロと合流して事なきを得た……かもしれない。
すべて『かもしれない』だ。
実際はどうなのか、遠い地にいる俺には皆目見当もつかない。
シルフィの子供の事もある。
ベガリット大陸まで、どれだけ急いでも、一年は掛かる。
港町イーストポートまでは一度通った道だ。
だから、あるいはもっと時間を短縮できるかもしれない。
でも、仮に半年で行き来したとしても、往復で一年。
やはり無理だ。
妊婦を置いて、出かけるわけにはいかない。
「やっぱり、あの手紙の事だよね」
「……」
俺は答えられない。
シルフィとの約束もある。
突然いなくならないで、と。
確かに俺は約束した。
事前に一言言えば突然ではないなんてのは、詭弁だ。
例えよく話し合っても。
納得いくような書置きを残しても。
残された方はやはり辛いのだ。
「ねぇ、ルディ、ボクの事は……あまり気にしないでもいいよ?
今はアイシャちゃんもいるし、ね」
シルフィは若干辛そうな顔でそう言った。
不安でないはずがない。
彼女は当然ながら、妊娠経験がない。
日々大きくなるお腹。
階段を上るのもきつくなっていく日々。
俺はもしかすると、旅先で死ぬかもしれない。
戻ってこないかもしれない。
そんな不安と戦わなければいけないのだ。
「……俺はいかない。シルフィといるよ」
そう言うと、シルフィは困った顔をしていた。
人神の言葉が頭に残っていた。
結局、どちらを選んでも後悔は残る。
そんな言葉が。
---
そうして、三日が過ぎた。
シルフィも、アイシャも、ノルンも、みんな不安げな顔をしている。
俺は、ベガリット大陸に行かないと宣言した。
けれど、それが本当にそれでいいのかどうか、わからない。
判別が付かない。
宣言はしたものの、まだ迷っている。
相談できるような相手は、そう多くなかった。
そのうちの一人。
エリナリーゼはこう言った。
「そうですわね、あなたは残った方がいいですわ」
あなたは。
そんな言葉で、俺はエリナリーゼの真意を悟った。
「エリナリーゼさん、もしかして、いくんですか?」
「ルーデウス。シルフィはわたくしの孫。
孫夫婦のために一肌脱ぐぐらいはさせてくださいまし」
どうやら、例の救援を求む手紙は、彼女の所にも届いていたらしい。
しかし、彼女は行くという。
残される者もいるというのに。
「アリエル王女の護衛はどうするんですか?」
「学校にいる間なら、危険なんてほとんどありませんわ。護衛をするのが馬鹿馬鹿しいぐらいですわよ」
いくら危険が少ないからって、いざという時はあるだろうに。
いや、それを考えるのはアリエルだ。
エリナリーゼは善意で護衛をしていたのだ、引き止める理由もあるまい。
「クリフはどうするんですか?」
「別れますわ。恨まれるかもしれないけど、仕方ありませんわね」
「なんで説明しないんですか。言えばわかってくれますよ」
エリナリーゼは、静かに笑った。
いつもの妖艶な笑みではない。
寂しげな笑みだった。
「クリフは、純粋な子ですわ。才能もあるし、前向きだし。
将来は、教皇になるかもしれない器。
わたくしに対する愛は、若い頃の気の迷い……。
ということにしておくのが、一番いいんですわ」
そんな言い方はクリフがかわいそうだ。
ミリス教には、一人の相手を愛すべし、という教義がある。
もし、エリナリーゼがいなくなれば、クリフの信仰が揺らぐかもしれない。
あいつは芯のある男だが、信仰を失えばどうなるかわからない。
「それに」
と、エリナリーゼは最後に言った。
「あなたにこの土地に残るように言ったのはわたくしですわ。
尻拭いぐらいはさせてくださいませ。
だから、あなたはわたくしに任せて、ゆっくり待っていればいいんですわ。
帰ってきた時に、元気な曾孫を見せてくだされば、ね」
ぴしゃりと言われたその言葉。
エリナリーゼの気持ちは、揺るぎないものであるらしい。
---
ザノバにも相談した。
彼は、それを聞いても、表情一つ変えなかった。
「左様ですか。師匠ならば、すぐに解決して戻ってこれるでしょうな」
あっけらかんに、そう言った。
「余はここで研究を続けてまっていますので、お早い帰還を願っております」
「お前は行くなというか、もしくは付いてくると言うと思ったよ」
以前、シーローンで別れた時は、泣きつかれた。
今回も、そういう事を望んでいたのかもしれない。
しかし、ザノバの言葉は逆だった。
「師匠が供をお望みでしたら、余とて断りませんが……余は旅慣れてはおりませぬゆえ、足手まといになりましょう、それに……」
ちらりとザノバが見たのは、ジュリだった。
「彼女を長旅に連れ歩くわけにもいきますまい」
ジュリはまだ幼い。
ジンジャーに任せて、ここに置いていくというのも手だが。
そうなると、研究が滞ることになる。
旅に出たら、ギリギリまで魔力を使う、というのも危ない。
「ザノバ……俺さ、行くべきかな?」
「それは、師匠の決める事です」
俺の決める事。
突き放すような言葉に聞こえた。
相談したいんだがな。
と、ザノバはふと、言った。
「ですが師匠。一つだけ言わせてもらうと」
「ん?」
「父親が見ていなくとも、子は生まれます。不安ならば、行くべきかと。
その間、余が責任を持って奥方様を守りましょう」
ザノバの言葉には実感がこもっていた。
そうか。
国王は、いちいち自分が妊娠させた王妃や側室のことを見ているわけでは、ないものな。
「無論、余としては常に師匠の傍にいたいのですがな」
「そうか……ありがとうザノバ」
シルフィは一人じゃない。
アイシャもいるし、アリエル達もいる。
一人じゃない。
一人じゃないのだ。
---
ベガリット大陸に行くべきか。
行かざるべきか。
エリナリーゼは自分が行くから待っていろという。
ザノバは、自分にまかせて行ってこいという。
俺はどうするべきなのか。
行くべきだろうか。
ザノバのいうことはもっともだ。
確かに、母体が健康なら、子供は自然と生まれてくる。
父親はいてもいなくてもいい。
いや、そんな馬鹿な。
俺は王様でもなんでもない。
父親はいた方がいいに決まっている。
シルフィは気にしないで行ってきてというが、
初産だし、不安なはずなのだ。
本当は、行かないでくれと泣き喚きたいはずなのだ。
それに俺は散々、シルフィに子供を望むような事を言ってきた。
実際にそれほど望んでいたかというと、自分でもわからない。
でも、シルフィはきちんと受け止めてくれていた。
それを、妊娠したら旅に出ます、というのは。
裏切りではなかろうか。
だが、俺は今まで、パウロたちの事を後回しにしていたように思う。
自分の事を優先して。
ED治療などといって学校に行った。
だからこそ、このタイミングでこそ、
行ってパウロを、家族を助けるべきじゃないのか。
後回しにしていたものの帳尻をあわせる時ではないのか。
……わからない。
どちらを選んでも後悔する気がする。
---
悩んでいるうちに、四日目になった。
眠れない日が続いている。
早朝、トレーニングをする気も起きなくて、玄関でぼんやりと過ごす。
この町は、夏でもかなり涼しい。
特に朝方は少し肌寒いぐらいだ。
俺は登ってくる朝日を、ぼんやりを眺めていた。
「……ぁ!」
ふと、後ろで声がした。
振り返ると、玄関が開いている。
立っていたのは、ノルンだった。
彼女は、俺が冒険者時代に使っていた大きな鞄を背負っていた。
中身がパンパン詰まっていて、長旅を予感させる格好だった。
だが、十歳であるためか、まるでピクニックにでも行くような……。
「……」
俺は、黙って彼女を見る。
ノルンは、気まずげに目を逸らした。
イタズラの現場を見つかってしまった時のような顔をしていた。
「どこに行くんだ?」
「……」
ノルンは答えない。
俺はもう一度聞いた。
「どこに、行くんだ?」
ノルンは俺を見て、意を決したように口を開いた。
「に、兄さんが、行かないなら、私が、行こうと思ったんです」
俺は再度、まじまじと彼女を見る。
行く、行くとは、ベガリット大陸にだろうか。
もう一度、ノルンを見る。
ノルンは小さい。
あまりにも小さい。
まだ十歳なのだ。
「……」
用意した荷物、必要なものが全然足りていないのではないか。
金は持っているようだが、使い方はわかっているのだろうか。
ルートは知っているのか。
危険を回避するための手段はあるのか。
この町を出たら、すぐにでも人攫いに捕まるのではないか。
「ノルン、お前じゃ無理だ」
「でも、だって、兄さん……お父さんとお母さんが、大変なんですよ!?」
ノルンは涙の溜まった目を、俺に向けてくる。
「なんで、なんで兄さんは助けに行かないんですか!?」
なんで。
そりゃ、子供が生まれるからだ。
家族がいるんだ。
「兄さん、とっても強いのに、旅だって出来るのに! なんで……」
俺は旅が出来る。
エリナリーゼほどとは言わないが、五年も冒険者としてやってきたのだ。
それなりのノウハウもある。
まだまだ上を見ればキリが無いが、そこそこ腕も立つはずだ。
今ならルイジェルド抜きでも、魔大陸を踏破できるかもしれない。
「……」
そうだ。
俺には、出来るのだ。
行く、行かないの二択で考えていたが。
ノルンのように、行きたくてもいけない、というわけではないのだ。
俺には能力がある。
ここからベガリット大陸まで往復できる能力がある。
だからこそ、ギースも俺に救援の手紙を送ったのだ。
他の誰でもなく、俺に。
「……ノルン。わかったよ」
「に、兄さん……?」
シルフィの世話は、他にしてくれる人がいる。
けれど、救援には俺が行かなくちゃいけないのだ。
俺以外に、いないのだ。
ベガリット大陸を踏破して、迷宮都市ラパンへと赴き。
そこで起こっている問題を解決出来るような奴は。
「俺が行く。ノルン、家の事を任せてもいいか?」
ノルンの顔が、パッと輝いた。
そして、すぐにキュッと口元を結び。
真面目くさった顔で、頷いた。
「はい」
「アイシャと喧嘩しないで、シルフィの事を助けてやってくれ」
「……はい!」
「よし、いい子だ」
シルフィには、悪いことをすると思う。
生まれてくる子供にも。
もしかすると、愛想をつかされてしまうかもしれない。
いや。
違うな。
ここは信じるべきなのだ。
「俺は、ベガリット大陸に行く」
そこで家族を助ける。
そう、決意した。
第11章 青少年期 妹編 - 終 -
次章
第12章 青少年期 ベガリット大陸編