第百六話「兄貴の気持ち」
シルフィと一緒に学校に登校してきた時、
俺はノルンの引きこもりを知った。
教えてくれたのはリニアとプルセナだ。
彼女らは朝一番、校門の前で待っていた。
そこで昨日一日ノルンが寮の自室に閉じこもって出てこない、と教えてくれた。
「……ボク、見てくる!」
それを聞いた途端、シルフィは女子寮に向かって走り出した。
俺はというと、動きを止めた。
そのままシルフィについていけばいいのに。
「ノルンが引きこもった」という事実を前に、テンパってしまった。
俺にとって、引きこもるとは、それだけ重い意味を持っていた。
「ボス……行かなくていいのか?」
「ほうっておくの?」
俺は呆然としていた。
どうすべきか。何をすべきか。
わからなかった。
自分の時は、引きこもったら出てこなかった。
なぜか。
外には、敵が多かったからだ。
学校にいけば、またいじめられると考えたからだ。
そう。
いじめだ。
引きこもりを外に出しても、いやな目にあうだけだ。
なら俺がすべきは、原因の排除だ。
ノルンに会うより前に、ノルンが引きこもった理由をなくすのだ。
咄嗟にそう考えた。
理由。
真っ先に思いついたのが、イジメである。
自分の記憶がまざまざと思い浮かぶ。
高校の食堂。
5分ほど並んで、ようやく自分の順番がきたと思ったら、
いきなり前に割り込んできた、強面の不良たち。
俺はくだらない正義感をもって、彼らを注意した。
はぁ? しらねぇよ、としらばっくれる不良ども。
俺は声を大にして、周囲の人々に聞こえるように、彼らの行いを喧伝した。
チラチラとこちらを見てくる周囲。
俺は得意げになって、自分の正義を主張した。
そして、ボコボコにされた。
二度と立ち上がれないぐらいに打ちのめされた。
ちょっとした出来事で、日常生活は地獄に変わる。
ノルンがもし、同じ地獄を味わっているというのなら、
俺はそこから救い出してやりたい。
不良どもをぶちのめして、居場所を作ってやりたいと思う。
不良の保護者が出てきたら戦おう。
貴族や王族だろうがかまうものか。
全力で抗ってやる。
俺を本気にさせたことを後悔させてやる。
たとえ、ノルンの行いや言動が発端だったとしても。
世の中にはやっていいことと、悪いことがあるのだ。
ノルンは俺の妹だ。
俺の事が嫌いで、アイシャの事が嫌いで、
そして今の状況が全部気に食わないと思っていても。
俺の妹だ。
兄貴というものは、弟や妹を守らないといけないのだ。
見捨ててはいけないのだ。
---
俺は、リニアとプルセナを引き連れ、一年生の教室へと向かった。
一人でも良かったが、俺は自分の風貌には自信がない。
リニアとプルセナが一緒なら、ナメられる事もないだろう。
「ボス……」
「リニア、やめるの、なんか本気で怒ってるの、怖いの」
二人は、俺の行動に関して、少々疑問を持っているようだ。
わからないでもない。
俺だって、自分がみっともない行動をしている自覚はある。
付き合わされる方の情けない気持ちもわからないでもない。
だが、今の俺はモンスターペアレントだ。
恥は掻き捨てる。
一年の教室、ノルンの通う部屋にたどり着いた。
すでにホームルームは始まっているようだ。
「失礼します」
俺は扉を開け、堂々と中へと入る。
「る、ルーデウス……さん。今は授業中で」
「少々、お時間を拝借します。いいですね」
「しかし」
「いいですね」
俺は教師を押しのけて、教壇に立った。
教室内を見回す。
どいつもこいつもきょとんとした顔をしている。
この中にノルンをいたぶった奴がいるのだ。
殴ったり、蹴ったりしたのか。
もしかすると言葉の暴力かもしれない。
こちらに来て、家族ともうまくいってないノルンに声のナイフを浴びせかけ、八つ裂きにしたのだ。
「皆さんご存知かと思いますが、先日この教室の一名が不登校になりました」
「……」
「皆さんご存知かどうかはわかりませんが、僕の妹です」
教室内がざわめいた。
「まだ妹から事情は聞いていませんが、
不登校になる理由というのは、それほど多くはありません。
学校に行きたくなくなるような理由。
それを作った人が、この中にいる。
僕はそう思っています」
俺は教室の中を見渡して言う。
俺と目があって、何人かが目を伏せた。
ちょっと強面で、まだ一年だというのに制服を着崩している。
怪しい。あいつらかもしれん。
ていうか、あれ、もしかして一号生筆頭じゃないのか。
名前は思い出せないが。
まさかあいつらが……。
いや、まだそうと決め付けるのは早計だ。
「そうした方に、多くは望みません。
もしかすると、遊びのつもりだったり、
妹と仲良くしようとして、つい変な流れになってしまったのかもしれない。
きっとうちの妹にも悪い所はあったのでしょう」
教室中に目を光らせる。
どいつだ、どいつが酷いことをしたのだ。
あいつか? あの貴族のボンボンみたいな感じか?
それともあっちか、魔族の悪そうな奴か。
いや、ああいう普通そうな女子の方が怪しい。
イジメは一見普通そうな子が行うからな。
「出来れば、名乗り出てください。
決して怒ったりはしません。
ただ、妹が傷ついたことを理解し、謝罪をして欲しいのです」
名乗り出た瞬間にバラバラにしてやる。
この中には、ノルンと同じぐらいの年の子もいる。
だが年上も多い。
何人かは、十代後半だ。
見てみぬふりをしたのか、それとも参加したのか。
十歳の子供相手にやることか。
「……」
誰も何もいわない。
あっけに取られて、俺を見ているだけだ。
「あ、あの……」
一人の女子が、おずおずと手を上げる。
俺は即座にそいつに岩砲弾をぶち込もうとして、やめた。
気弱そうな女の子だった。
年齢は十三歳ぐらい。狸系の獣族だ。
ショートボブで、どんくさそうで、丸っこくて。
なんというか、イジメられる側の人間だ。
「こ、この間、あたし、ノルンちゃんと、ちょっと話してて……」
「つい、酷いことを言ってしまった、と?」
ただの口喧嘩であるなら、しょうがないかもしれない。
「い、いえ、その、私、ルーデウスさんのこと知ってて。
でも、ノルンちゃんは普通の子で。
だから、お兄さんとは違うね、って言ったら、すっごく怒って……」
怒った?
俺と違うといわれて、ノルンが?
どういうことだ。
「あ」
ふと、脇にいた教師が声を上げた。
俺がそちらを向く。
年増の女教師だ。
まさか、こいつが何か言ったんじゃあるまいな。
イジメというものは、子供だけで行われるわけではない。
教師主導で行われている可能性もあるのだ。
「何か思い出しましたか、先生」
「先日、ノルンさんに一つの宿題を出したのですが……」
「宿題を大量に出して、やりきれなかったから裸に剥いて職員室に立たせたと?」
「ま、まさか! ただ、少々出来が悪かったので、
お兄さんを見習って、もう少し勉強しなさい、と」
「……」
「そしたら、泣きそうな顔になって、頑張りますと」
あれ?
今度は泣きそうな顔?
「そういえば、俺も……」
教師を皮切りに、教室内の数名が、口々に声を上げ始めた。
---
教室から移動し、食堂へとやってきた。
この時間、食堂は閑散としている。
俺は席について、テーブルに突っ伏した。
少々打ちのめされていた。
俺のせいだった。
ノルンは俺と比べられたり、引き合いに出された時だけ、感情をあらわにしたそうだ。
教室内の生徒たちは、俺とノルンが兄妹であることに気づいていたのだ。
そりゃそうか。
アイシャと違い、俺とノルンは父も母もいっしょだ。
顔立ちも結構似ている。
そして、ノルンは俺と一緒にされることを、嫌がった。
比べられる事はもちろん、俺の名前を出してほめられる事も、嫌がったそうだ。
ああ、もちろん、彼らは悪くない。
少なくとも。悪気があって比較したわけではない。
中には、親しみを込めて言ったものもあっただろう。
あの悪名高い番長とは違うね、と。
ただ、俺はこの学校では有名だ。
有名という事は、それだけ引き合いにも出されやすい。
けど、ノルンにとっては、きつかったかもしれない。
彼女は前の学校でも、アイシャと常に比べられてきた。
常に下に思われて、ストレスの溜まる生活も送ってきたのだろう。
新しい学校で、寮生活を始めて。
ようやくアイシャと離れられた。
と、思ったら今度は俺と比べられる。
どこに行っても、自分は兄妹の中で一番下の味噌っかすだと突きつけられる。
苦しいだろうな。
挙句、例のパンツ事件だ。
一年生の中には、あれで心に大きな傷を負った者はいない。
アリエルのフォローのおかげで、一応は笑い話で済んだ。
脱ぐことを強要した、とは聞いていたものの、
実際はさほど凄惨な場面ではなく、リニアとパンツを交換する、ほほえましい光景だったそうだ。
それを脇から見ていた奴がカツアゲの現場だと思い、アリエルに通報しただけの話のようだ。
そっちのフォローはアリエルに任せている。
なんとかしてくれるだろう。
とはいえ、ノルンは言い様のないショックを受けたはずだ。
あんな変態より、自分は下なのだ、と。
「はぁ……」
俺は、何をやってるんだろうな。
一人ではやとちって、教室まで行って。
あんなことをして。
何がモンスターペアレントだ。
ただの馬鹿じゃないか。
「二人とも。今日はありがとう。なんか俺、馬鹿みたいだったな」
とりあえず、二人に礼を言った。
馬鹿の片棒をつがせてしまった。
無駄なことをさせてしまった。
「妹のために動くのは馬鹿じゃニャいぞ」
「でもちょっと意外だったの。見直したの」
俺はコップを作り、水を入れる。
飲む。
何の味もしない。
だが、一息ついた。
「ニャあ、ボス。これからどうするんだ?」
「どうもこうもないでしょう。俺のせいで引きこもったのですから」
引きこもった。
そう、引きこもったのだ。
日数は一日だが。
引きこもってしまったのだ。
「無理やりにでも授業を受けさせるの」
「そうニャ」
「部屋から出てこないとアホになるの」
「そうニャ、そうニャ」
「リニアみたいなアホになるの」
「プルセナの言うとおりニャ……ニャ!?」
こいつらの漫才に付き合う気にはならない。
引きこもりの難しさは、よく知っているつもりだ。
誰も、好き好んで部屋から出てこないわけではない。
出てこないのは、出てこないなりの理由があるのだ。
無理に外に連れ出しても、何の解決にもならない。
事態が悪化するだけだ。
かといって、引きこもらせたままもよくない。
確実に後悔する。
一ヶ月でも二ヶ月でも、何もしなかった時間は後に響く。
俺が言うんだから間違いない。
ただ、それを説明してもわかるまい。
あの頃に戻れればなんてのは、後悔するまで引きこもったからこそ出てくる言葉だ。
一年、十年と引きこもらなければ、後悔は生まれない。
そして、後悔が生まれたときには、もう遅いのだ。
だから親はみんな、子供に努力させようとしているのだ。
大なり小なり、後悔しているから。
「兄妹で、一番能力が低くて、そのことを他の人にあれこれ言われたら、どうすればいいんでしょうね」
そう聞くと二人は顔を見合わせて、肩をすくめた。
「……あちしは馬鹿じゃないからよくわからニャいニャ」
「私たちはそこそこできている方なの」
たしか、こいつらは馬鹿で種族を率いる器じゃないから、ここに送り込まれたのだったか。
族長に相応しくなるように勉強してこいと。
馬鹿でも、これぐらい楽天的なら、別に問題はないのか。
けれど、ノルンはもっとナイーブだ。
一緒にされては困る。
「あ、でも、一つだけ例があるニャ」
リニアは自慢げに一つの名前を出した。
「ギレーヌ叔母さんは、何をやらせてもうまく出来ない乱暴者だったけど、剣術を始めたら剣王になったニャ」
「あー……なるほど」
ギレーヌは少し例外だろうが。
しかし、思いもよらない才能というのはあるかもしれない。
大体、俺やアイシャと同じ事をする必要はないのだ。
比べられたくないのなら、比べようのない事をすればいい。
それが何かは思いつかないが。
しかし、この世は広い。
魔術でも、剣術でもない、何か見つかるだろう。
もしかすると、本当にやりたい事の才能はないかもしれない。
ザノバのように。
しかし、それでもザノバは毎日が結構楽しそうだ。
人形を作ったり、眺めたり、愛でたり、コレクションしたりする。
それだけでいいのだ。
幸せに暮らせれば、それで。
しかし、それを言った所で納得するとも思えない。
俺だったら、納得しない。
「とはいえ、何を話せばいいんでしょうね」
「難しく考える必要はニャい。ガツンと一言ニャ」
「そうなの。さっさと出てきて授業に参加しろ、ってだけなの」
簡単に言ってくれる。
いやだが、もしかすると。
俺が難しく考えすぎているだけなのだろうか。
思えば、ノルンはまだ十歳だ。
今はちょっと癇癪を起こしているだけなのかもしれない。
大体、引きこもりといったって、まだ1日で、今日で2日目だ。
これぐらいなら、引きこもりというより、閉じこもりぐらいなのではないだろうか。
ちょっと気分が落ち込んで閉じこもるぐらいは、誰でもあるだろう。
話すべきではない。
手出しするべきではない。
その考えは、『逃げ』だったのではないだろうか。
兄として出来る限り支援し、出来る限り快適に暮らしてもらう。
それで良かったのではないだろうか。
うっとおしいと思われるぐらいで、良かったのではないだろうか。
中学生、高校生ならともかく、ノルンはまだ小学三年生ぐらいなのだから。
「よし、会いに行きましょう」
気づけば、そう決めていた。
「それがいいニャ」
「頬を一発パシンと叩けばすぐなの」
俺が言って、いう事を聞いてくれるだろうか。
原因は俺なのだ。
俺が何かを言って、聞くとも思えない。
いや、考えるまい、今はとにかく、会って何かを話さなければ。
「会えるでしょうか」
ノルンがいるのは女子寮だ。
寮の前の道は歩けても、中までは入れさせてもらえないかもしれない。
「こっちから無理やりいくニャ」
「潜入するの。手引きは任せるの」
リニアとプルセナが、大きな胸をドンと叩いた。
---
潜入。
といっても、そう難しくはない。
こちらには味方も多い。
シルフィやアリエル王女もいる。
アリエルは現状を話すと、快く味方に付いてくれた。
とはいえ、ゴリアーデ他、女子寮自警団の皆様はこちらの事情を汲んでくれそうもないので、こっそりと潜入する運びとなった。
工作員はリニア、プルセナ、シルフィの三人だ。
シルフィはしょんぼりしていた。
「ごめん、寮でのノルンちゃんの事は任せてって言ったのに……話を聞いてもらえなくて……」
「いや、シルフィは悪くないよ、大体俺のせいだった」
俺はシルフィに、何があったのかを説明した。
ノルンが誰のせいで引きこもってしまったのかを。
シルフィは暗い顔をしつつ、首をふる。
「ルディは、悪くないよ」
「でも、俺が……」
俺が……俺が……。
いや、俺は何もしていないのだが。
何をすればよかったのかも、わかっていないのだが。
けれど、俺が何とかしなければならないのだ。
---
夜。
食事時を狙い、俺は女子寮へと移動する。
現在、女子の大半は食堂へと移動している。
食堂ではアリエルが演説している。
それを聞くべく、食堂には人が集まっている。
しかし、全員ではない。
食堂に全員は入りきれないからな。
とはいえ、一階に巣食う自警団の皆様は積極的に参加するよう、何か策を打ったようだ。
俺は、出来る限り隠密に定められた窓の下へと移動する。
窓枠には、一輪の花が飾られている。
俺はそれを目当てに移動し、下から小石を投げる。
小石が窓枠に当たると、すぐに窓が開いた。
俺は土魔術『土槍』を使い、己の体をエレベート。すばやく中へと侵入した。
同時に、土槍を解いて、地面を平らに戻しておく。
部屋の中に入ったとたん、濃厚な獣くささが鼻についた。
獣くさいのだが、しかしあまり嫌な感じはしない。
というのは、獣とはいえ思春期の女の子の匂いだからだろうか。
生物というのは、自分の子供を作れる相手の匂いには、寛容に出来ているらしいし。
「ご苦労」
「ようこそニャ」
出迎えはリニアだった。
彼女は暗がりの中、目をランランと輝かせていた。
猫の目だ。
周囲を見渡す。
基本的には、どこの間取りも一緒だ。
二段ベッドに、机と椅子、クローゼット。
暗いのでよくわからないが、少々散らかっているようにも見える。
「あんまりジロジロ見ないで欲しいニャ、恥ずかしいから」
「失礼」
暗い中、やや手探りで出口を目指す。
手に何かふれた。
結構やわらかい素材だ。
「あ、それプルセナのブラだニャ」
「……」
プルセナはこのサイズなのか。
でかいな。
「むふ、もって行ってもいいニャよ?」
「よくないだろ」
俺はプルセナのブラジャーを投げ捨てた。
普段なら、口元に当てて思い切り吸い込むぐらいはするだろうが、今はそんなことをしている暇はない。
リニアが扉を内側からノックする。
ノックが帰ってくる。
「オッケーなの」
その言葉と同時に飛び出し、目の前に用意されていたカートの中へと飛び込んだ。
洗濯物を運ぶためのカートだ。
そこに詰まっていたシーツにもぐりこむ。
匂いでわかった。
シルフィの使っていたシーツだ。
体を完全に隠すためだろう、毛布やシャツも下のほうに詰まっていた。
全てシルフィのものだ。
しかし、不思議と興奮は沸いてこない。
今はノルンだ。
ノルンは今、辛い思いをしている。
引きこもり、閉じこもり、一人でいる。
俺は彼女を救ってやらなければならない。
兄貴として。
「よし、行くニャ」
カートが動き出す。
俺はその間、ノルンの事を考える。
子供の癇癪ならいい。
でも、もし、もっと根強いものだったら。
俺はどうにかできるだろうか。
少なくとも、俺は兄貴たちに追い出されるまで、家から出なかった。
俺が兄貴や親の立場だったとして。
俺は俺を部屋から出す方法を思いつけない。
「ついたニャ」
考えがまとまらないまま、
カートは目的地に到着した。
ノルンの部屋に。
---
部屋に入る。
暗い。
明かりがついていない。
俺は部屋の隅に備え付けられたロウソクに火をともす。
薄暗い明かりに照らされ、一人の少女がベッドで足を抱えて座っていた。
暗がりの中、二つの目が浮かび上がっている。
ノルンは座ったまま、じっとこちらを見ていた。
「……」
俺は慎重に歩き、椅子に座った。
こういう時、何を言えばいいのだろうか。
俺は、なんと言ってもらいたかったのだろうか。
思い出せない。
言おうと思っていた事は、全て吹き飛んでいた。
思い出せるのは、言われて嫌だった事だけだ。
安易なことだけは、言われたくなかった。
少なくとも、頭ごなしに何かを言うのは厳禁だ。
『学校に行きなさい』。
『誰が金を出してると思ってるんだ』。
『他の人に迷惑を掛けるんじゃない』。
この辺は、逆効果だ。
リニアやプルセナの言うとおり、一発ガツンと殴りつけるのもいいかもしれない。
ノルンは十歳だから、それで俺の言うことを聞くかもしれない。
けれど、それは解決とは程遠い。
きっと、近い将来、また似たようなことが起こる。
そのときは、ノルンはより意固地になっているだろう。
大体、引きこもりの原因は俺のせいだ。
俺がどの面をさげてそんな事をいえようか。
偉そうな顔で殴ったりできようか。
なら、やはりまずは謝るべきだろうか。
しかし謝った所で、何が解決するというのか。
俺の噂は消えないし、やっぱりノルンは俺と比べられる。
「ノルン」
「兄さん」
声が被った。
俺はノルンの言葉を聴くべく、口をつぐんで押し黙る。
ノルンもノルンで、口をつぐんでしまった。
千載一遇のチャンスを逃した気がした。
俺は、自分から口を開くことにした。
「ノルン。ごめんな。お前、こっちに来てから、つらいだろ?」
ノルンは何も言わない。
「せっかく新しい学校なのに、俺のせいで、こんな事になって。なんていえばいいか……」
ノルンは何も、言わない。
「俺さ、お前のこと、よくわかんなくてさ……」
ノルンは、何も、言わない。
俺は、他に何も言えることがなかった。
道中あれこれ考えたのに。
大体、俺はノルンの事を何一つ知らないのだ。
遠ざけて、触れないようにして、知ろうとしてこなかったのだ。
「……こんな事になっても、どうすればいいのかわからないんだ」
ノルンは押し黙っている。
何を考えているのか、わからない。
俺の言葉を聴いたのかどうかさえも、わからない。
やはり、ダメなのだろうか。
パウロが戻ってくるまで、放置しておくしかないのだろうか。
うん。
そうだな。
ここは一度引いて、色んな奴に相談してみるべきだ。
ナナホシも、年頃の女の子の思考についてなら、わかるだろうし。
エリナリーゼなら、うまいこと連れ出してくれるかもしれない。
何も、俺が一人で抱え込んで解決する必要はないんだ。
「……あ」
ふと、昔の事を思い出した。
俺が引きこもった時、兄貴が俺の部屋に来たのを思い出した。
あの時、兄貴は俺に向かい、あれこれと正論をぶった。
俺は、それに心の中で唾を吐いた。
何も言い返すことなく、徹底的に無視した。
兄貴はそれでも、しばらくは俺の傍にいた。
俺をじっと見て、何かを言いたげな目で俺を見ていた。
俺は、こんな奴に俺の気持ちはわからないと、最後まで突っぱねた。
……これが、あの時の兄貴の気持ちか。
無反応な俺に、押し黙る兄貴。
兄貴は、何時間かそうしていたが、やがて俺の前から去った。
それ以後、兄貴が俺に接触してくる事はなかった。
あのあと、兄貴が何を考えたかはわからない。
ただ、兄貴は来なかったが、色んな奴がきた。
もしかすると、あれは、兄貴の手引きだったのではないだろうか。
結局、俺はそいつらの話なんて、聞かなかった。
……多分。
ここで引いたら、もう戻ってこられない。
ノルンも、引きこもったままになってしまう。
立ち去ってはだめだ。
俺は薄明かりの中、ノルンをじっと見つめていた。