【書籍化】離婚するつもりだった。(短編版)【コミカライズ】
戦地にてバーナードが母親から受け取った手紙によると、結婚したらしい。
五年前に夫と死別した母親でもなく、家に残してきた十歳下の妹でもなく、バーナードが。
「……なんでだ?」
徴兵に応じて戦場に立つようになって、早二年が経過していた。その間、一度も実家に帰っていない。
妻になったという、チェリー・ワイルダーなる女性には一度も会ったことがない。
それどころか、名前も初めて聞いた。
(どこの誰なんだ、チェリーさん。なんで結婚した? 俺が知らないってことは、チェリーさんだって俺のこと知らないよな? その結婚になんの意味が? いや、たぶんなんらかの利権があって、結婚することによって得られる何かがあって、何かが何かで何かだからたぶんその何かを)
だん、とバーナードは手紙をテーブルに叩きつけた。
「どうした? 借金の督促状でも届いたか?」
隣に座り、薄いスープを啜っていた同僚のコンラッドが横目を流して聞いてくる。栗色の髪に薄い水色の瞳、頬から顎にかけて無精髭の散った苦み走った美形。コンラッド・アーノルド。地元に帰れば伯爵家の三男らしいが、長引く戦場暮らしで困窮と雑魚寝に慣れきった姿に貴族らしさは見る影もない。
一方のバーナードはといえば、くしゃくしゃ癖っ毛の金髪、ぼやっとした翠眼に童顔。バーナード・アストン。没落子爵家の跡取りで、戦争が始まる前から平民同然の暮らしをしてきた。お嬢様暮らしの忘れられない母親に、蜘蛛の巣の張る食堂でえんえんと「貴族とは」と教え込まれて育ってきたが、一歩外に出ればそんなことは綺麗さっぱり忘れて街の子どもたちと遊び暮らす毎日だった。おかげで戦場にはそれなりに適応しているが、戦後の生き方は見当もつかない。
「借金するような生活は送っていない。仕送りだって欠かしていない。それなのに、足りなかったんだろうか。家族に売られてしまったようだ」
「実家に残してきた趣味の本や蒐集品が?」
「……っ、絶妙にいやなこと言うよなお前。じゃなくて、俺が売られたんだ、見ず知らずの女性に」
「何が楽しくてバーナードなんか買ったんだ、その女性は」
「俺が聞きたいよ」
コンラッドに混ぜっ返されているうちに「自分の戸籍に知らないうちに知らない女性が参加していた件」が、たいした問題ではないような錯覚に襲われた。
そんなわけ、ない。
「とにかく。まだまだ戦争は終わらないだろうし、俺が実家に帰ることもないだろう。そもそも生きて帰れる保証も何もない。そんな結婚は無効にしておいてくれと返事を書く」
言うなり、バーナードは返信をしたためる。名前しか知らない妻。年齢不詳、外見の想像もつかない。結婚した理由も。しかし細々と相手の事情を聞いたところで何になる。この遠距離結婚はすみやかに解消されるべきなのである。解消……つまり、離婚。
【一度も会わないうちに、人妻から未亡人へのジョブチェンジはどうかと思うが?】
一ヶ月後、返事が届いた。
【あなたが死ななければ良いだけでは?】
* * *
チェリーがバーナードに対して「あなたが死ななければ良いだけでは?」と手紙を書いたのには、さしたる理由もない。
一度も会ったことがなく、どんな相手かも知らないので「生きて帰ってきてください。あなたの大好きなラズベリーパイを焼いてお待ちしています」といった一般的な内容すら書けなかったのだ。
さすがに、嘘はいけない。
「……何が好物か、聞いてみれば良かったのかな」
三日以上悩んで、一行だけひねり出して手紙に書いて出して、青空の下で洗濯板で下着を洗っている最中に唐突に思いついた。
話を弾ませれば良かったのではないかと。
結婚したのだから。
だが、チェリーは自分を面白みのある人間とは思っていなかったし、相手にそれを期待されているとも思えなかった。
何しろ、夫となったバーナード・アストンなる人物はチェリーのことを何も知らない。
なぜ結婚したかも、知らないはずである。
そして、きっと知らないまま死んでしまう。
「当家の跡継ぎであるバーナードが、このたび最前線に送られることになったようです。おそらく、もはや帰宅は望めないでしょう。そこであなたに提案があるのです。書類上で構いませんので、バーナードと結婚してください」
ある日、人づてにチェリーのことを知ったというアストン家の奥方が家に訪ねてきて、貧乏長屋の玄関先でやぶからぼうにそんなことを言い出したのだ。
「突然そのようなことを言われましても。会ったこともない方です」
「断らない方が良いでしょう。あなたにもメリットのあるお話です」
奥方は、チェリーの足にしがみついている三歳のノエルをちらっと見て、気難しい顔で話を続けた。
「未亡人には寡婦年金が入ります。夫が戦死者であれば、遺族年金となり、さらに額が高くなります。……そちらの子はあなたのお姉様の残した子と聞いておりますが、父親が私の甥のライアンであると。ライアンの子であれば、当家の跡継ぎとして問題ありません」
話の内容が、半分くらいしか理解できなかった。
(つまり、バーナードさんは近いうちに死んでしまう方で、死ぬ前に結婚していれば妻である私に高い年金が入るということ? その高い年金を、奥方の血縁にあたるノエルの養育費に使いたいという意味かな?)
頭の中で一生懸命噛み砕いて考えてみてから、自分なりに出した結論を確認の意味で尋ねてみた。
「ノエルを引き取りたいというお申し出でしょうか?」
すると、奥方は銀色の眉をきつくひそめ、青灰色の目を眇めてチェリーを見返してきた。
「子どもはあなたが当家にて育てるのです。当家には子どもの世話をする者がおりません。それに、バーナードの妻であるあなたが当家で暮らしていないのは変です。すぐに越して来なさい」
厳しい物言いだった。
チェリーに対し、物分りの悪い小娘だと苛立っている様子も見られた。だが、わからないものは、わからない。
(貴族の奥様の言うことは難しいわ)
チェリーは気持ちがくじけかけていたが、「我が家には子育て担当はいないから、子どもと一緒に来て引き続きあなたが面倒をみなさい」という内容は理解した。
たしかに、長らく子どもがいなかった家であれば、使用人も年寄りばかりでこんなやんちゃざかりの子どもは持て余すことだろう。
ノエルはチェリーの実子ではなく、一歳になる前に揃って事故で死んだ姉夫婦の子だったが、引き取って以来自分の子として育ててきた。しかし、ほんの一ヶ月前に頼りにしていた母も病気で亡くなってしまい、父もだいぶ前に戦地で亡くなっていて、自分ひとりで育てるのに無理を感じ始めていた矢先であった。
住むところを保証し、養育費の算段もしてくれる、しかも引き離さずに引き続き育てさせてくれると言われれば、断る理由は特になかった。
「わかりました。私はお屋敷で使用人として使っていただけますと嬉しいです」
「無論、そのつもりです」
即座に返事をしてから、奥方は難しい顔のまま「あなたを使用人としてあてにしているという意味ではなく、人手が無いのです」と続けた。
奥方の深緑色のドレスも揃いのボンネットも、チェリーの目からしても古ぼけて見えた。戦時下ということを差し引いても、財政状況が苦しいのが伝わってくる。使用人もだいぶ解雇してしまったのかもしれない。
チェリーとしては、降って湧いたこんな話で「貴族の奥様だー!」と喜ぶ気もなかったので、現実を粛々と受け入れた。
「たいした荷物もありませんので、すぐにでも行けます」
そう答えると、奥方は明らかにほっとした様子で二、三度頷いてから言った。
「誰かに聞かれたら、その子は、バーナードとあなたの子だと答えなさい。いいですね」
ん? とチェリーは首を傾げた。
いま謎の既成事実を作られた気がする、と。
「……もしかして、バーナードさんは戦場に行く前にすでに私と関係があり、本人の知らぬ間に私が産み育てていた子を奥様が私ごと引き取って、その際に内縁関係から正式な妻として迎える、ということでしょうか?」
かなり頑張って考えて尋ねると、奥方はようやくほんの少しだけ笑みらしきものを浮かべて「ええ、上出来です」と答えた。
チェリーは姉の子が実子になり、しかもその父親が見知らぬ男性になるという事実についてどういうことか考えてみたが、途中で面倒になって打ち切った。
付き合っている男性も好きな相手もなく、ノエルの養育費は死活問題であり、夫となる相手は会わずに死ぬらしいので実質いないも同然である。
何も問題はない。
よろしくお願いしますと奥方に告げて、アストン家の嫁となったのである。
引っ越してわかったことと言えば、アストン家は没落しきって大変な貧乏であること。
バーナードの十歳下で、チェリーにとっては五歳下の病弱なご令嬢キャロライナがいること。
使用人は台所周りを担当しているメイドがひとりで、奥方もキャロライナも家事能力はまったくなし。屋敷には人の手が入らないまま魔境になった部屋がいくつもあり、食堂にすら蜘蛛の巣が張っていて、どこもかしこも薄暗かった。
現在は、バーナードからの仕送りが頼りであるらしい。
(バーナードさんが死んだらどうするつもりだったのよ!?)
さすがに、あまりの無策ぶりに驚いた。
そして、嫁いだその日から猛烈に掃除を始めた。燭台や陶器の小物などの掘り出し物があると「埋もれさせるくらいなら」と奥方に直談判して質屋に持っていき、受け取ったわずかなお金で種芋を買って庭で育てた。
食べられるハーブや木の実を探してきて食事に料理を一品増やし、キャロライナの寝具や下着をこまめに洗濯した。
「チェリーさんがいなければ、どうなっていたかわからないわ。兄と結婚してくれてありがとう」
深窓のお嬢様育ちのキャロライナは、ひびわれたチェリーの手を取ってはらはらと涙をこぼしてお礼を言った。
いつも気難しい顔をしている奥方も、掃除が不得意なメイドもチェリーに感謝を示してくれた。
ノエルは広い家の中で楽しく走り回り、チェリーに邪魔にされるとキャロライナの部屋に行って本を読んでもらって過ごしていた。
三ヶ月経つ頃にはすっかり家の空気が様変わりしていたが、そこに戦地の夫から手紙が届いたのである。
【一度も会わないうちに、人妻から未亡人へのジョブチェンジはどうかと思うが?】
金銭的な問題を言えば。
バーナードの仕送りよりも、遺族年金のほうが高くつくらしいとは知っていた。
しかし、もし敗戦国となれば年金制度がいつまで保証されることか。
まったくあてが外れることを思えば、バーナードが生きている方がまだお金になるのかもしれない。
チェリーは、まったく会ったこともない夫にそのことをどうにか伝えようとして悩みに悩んで返事を書いたのである。
【あなたが死ななければ良いだけでは?】
* * *
二年以上戦場で生き延びてきたバーナードであるが、このとき生きるか死ぬかの最前線にいた。
「いや~、明日死ぬかもしれない。今日寝ている間に死ぬかもしれない」
コンラッドと軽口を叩き合っていた場に「死ななければ良いだけでは?」という無愛想極まりない手紙が届き、走り書きで返事をしたためた。
その返事が無事に相手に届くかどうかもわからない。
ただ、なぜ見ず知らずの自分とチェリー某が結婚したかというと、母親と妹が遺族年金をあてこんだな、と思い至っていたので、むしろ死を望まれているはずだと信じていたのだ。
(俺が首尾よく死なないと、あてにしている金が入らんぞ)
たった一文、書き終わった直後で近くに砲撃があり、散り散りで逃げ出すことになった。
落ち着いて手紙を後方に送れたのは、それから数日後。
受取人である「妻」の元へいつ着くかは、わかったものではなかった。
(届いたときには俺はもう、死んでいるかもしれないな)
* * *
戦地から手紙が届くのはある種の奇跡でもあって、まず、手紙を書くひとが生きていなければならない。
さらに言えば、手紙を持った支援部隊が無事に後方まで届けてくれる必要がある。
緊急性がないので、そこから実際の受取人の手元に届くまで順番待ちとなり、ようやく届いた頃にはかなりの時間が経っていることもある。
つまり、そのときにはもう差出人は生きていないかもしれないのだ。
【生きて帰っても良いのか?】
(バーナードさん、この結婚が遺族年金目当てと気づきましたね……)
いかにも安定していない場所で書いたとみられる走り書きを目にして、チェリーは彼の内心を察した。
律儀に仕送りを絶やさない子爵家の嫡男様である。
自分が生きているよりも死んだ方が価値があると、冷静に判断したのだろう。
それはチェリーもわかるのだが、巷では戦争が勝利で幕を閉じるだろうという噂が流れ始めていた。
全面勝利というよりは、痛み分けで少しばかり有利な条約を結べる見通しが立った程度とのことだが、未来は一応明るい。
それでも、不景気の世の中で遺族年金があてにしているほど入るとは限らない。
であれば、いっそバーナードには生きて帰ってきて、当主としてしっかりこの先数十年でも働いてもらった方が、キャロライナやノエルの生活は安泰だとチェリーは思うのだ。
当然、バーナードにも考えることや好みの問題もあるだろうから、チェリーは彼が帰ってきたら離婚に応じるつもりでいる。
ノエルの行く末は気になるが、奥方もキャロライナもそれこそデレデレに可愛がっているので、チェリーが出ていくことになってもいきなり追い出されることはないだろう。
もしバーナードが新しい妻を迎え、そこに子どもができたときにノエルが邪魔になるなら、チェリーが引き取るのはやぶさかではない。
そうだとすれば近くには住んでいたい。
できれば、このお屋敷の掃除と家庭菜園の世話を続けたいので、使用人としてこのまま置いてくれたらと思う。
バーナードが結婚しても、もとから自分と彼は書類上の夫婦なので、新しい妻との間で謎の三角関係なども生まれないはずなのだ。
チェリーは菜園でいくつも芋を掘り起こし、次の種芋と食用に振り分けながら手紙の返事を考え続けた。
忙しい彼が戦地でなるべく手っ取り早く読めるように、簡潔な文章でなければ。
夜に皆が寝静まってから、窓際で星明かりを頼りに手紙をしたためる。
「遺族年金をあてにしているわけではない、死ぬ必要はないってお伝えしないと。戦争が勝利で終わりそうなときに、死に場所を探しに行ったら困るわ」
手紙を出した後になって、好きな食べ物を聞き忘れたことに気付いた。
奥方とキャロライナに確認したところ、ミンスパイということだった。
それならば、彼が帰ってきたときにとにかく作ってあげよう、と思った。たくさん食べてくれたらいいのに。
離婚前提の妻だが、そのくらいはしてもいいはずだ。
* * *
【離婚には応じますので生きて帰ってきてください】
戦争が今日終わるらしい、という噂が前線基地にも流れて変に間延びした空気になっていたある日、その手紙はバーナードの手元に届いた。
「お、愛妻からの手紙か?」
どうにかこうにか一緒に生き延びたコンラッドが、バーナードの手元をのぞきこんで冷やかしてくる。
周りの顔ぶれはずいぶん変わり、目減りしていた。
バーナードは、いつも通り軽口を叩いて「愛したつもりはないが?」と返そうとしたが、どうしてもうまくいかない。深い溜め息をつき、すす汚れで真っ黒の手で顔を覆った。
「どうした?」
いまにも冷やかそうとしている口ぶりのコンラッドに重ねて尋ねられ、バーナードは指の間から青い空を仰いだ。
「どうも感傷的になっているようだ。俺は戦争に来る前にこのひとと結婚し、子どもに恵まれ、その二人の元に帰るために今まで必死に生きてきたような気がする」
「どういう妄想だよ。会ったこともない相手だろ……」
笑いながら茶化したコンラッドだが、からかいきれずに途中で口をつぐむ。
声もなく、バーナードが泣いていたからだ。
静かに涙を流しつつ、バーナードが呟いた。
「帰ったら離婚だ……。せっかく生き延びたのに」
「は?」
コンラッドはバーナードの手から手紙を受け取り、短い一文に視線をすべらせる。
しばし無言で考え込んでから、ぼそりと言った。
「お前さ、彼女からもらった手紙後生大事に持っていたよな」
「ペラ紙一枚だからな。他に読むものもないし、時間をつぶす物もないし、何度か読んだ。というか、毎日読んでいた。何を考えてこんなそっけない文章書いたんだ、どんな女だよって思いながら」
「それさ、もう愛だよな」
「それなのに、俺は離婚される……。彼女の中ではどうでもいい存在だったんだ」
「会ったこともないからだろ? 会えばうまくいくかもしれないぜ?」
バーナードが考えるに、童顔の自分よりも苦み走った美形のコンラッドの方が男前である。
顔も知らない夫が帰ってくるなら、絶対にコンラッドの方が嬉しいはずだ。
思い余って言ってしまった。
「チェリーさんを頼んだ」
「頼まれねえよ。俺は故郷に恋人残してきてんだ、お前とは違う」
「俺の場合は妻だが?」
「なんでいまマウントとった? おう、やんのか?」
じゃれあっているうちに喧嘩になり、喧嘩している間に戦争が終わった。
二人は戦場で別れ、それぞれの帰る場所へと帰ることになった。
* * *
夫が帰ってくるらしい。
遺族年金のあてもなくなったいま、チェリーは用無しの妻であって、本来ならさっさと屋敷を立ち去るべきなのだろうが、いかんせん庭で茄子とトマトが育ちすぎていて、置いてはいけなかった。
書類上の結婚は済んでいるので、一度本人に会って離婚もしなければならないのだし、と自分に言い聞かせる。
ぐずぐずしているうちに、時間は流れていった。
「この茄子とトマトを売れるだけ売って、ミンスパイの材料を買ってきます」
今日明日にでも兵士が帰ってくるのでは、と町で噂が出始めた頃、チェリーは屋敷で唯一のメイドに声をかけた。返事は「ぼっちゃんはミートパイですよ。奥様とお嬢様はときどき適当なことを言いますから」と言われた。
どちらが本当のことを言っているかわからなくて、両方作ろうと決めて市場に向かった。
その日はとても天気が良く、市場は妙に活気にあふれていた。
耳に飛び込んでくる人々の話によれば、駅についた列車から何人か兵士たちが下りてきたらしい。
(バーナードさんは最前線まで行っていたはずだから、もう少し遅いお着きよね)
慌てることはないわ、と思いながらチェリーは茄子とトマトを露天に並べた。ものの見事に飛ぶように売れた。誰も彼もが浮かれた空気だった。
小銭で膨らんだ小袋を持ち、今度は自分が買い物をしようと辺りを見回したチェリーは、装飾品の露店の前でぼんやりと佇んでいる兵に気づいた。
それは、安っぽい作りの櫛やネックレス、指輪の並ぶ店である。
くしゃくしゃで埃っぽい金髪の青年は、見ているのか見ていないのか、とにかく気の抜けた様子で立っていた。
戦場から日常に戻ってきて、まだうまくこの世に魂が馴染めていない様子だ。
チェリーは思い余って、すぐそばまで歩み寄り、声をかけた。
「何かお探しですか?」
青年は、翠の瞳でチェリーを見下ろして「指輪……」と呟いた。
(あら、きっと帰りを待つ女性がいるのね)
久しぶりに会うのに、お土産が欲しいのだろう。
微笑ましい気持ちになりつつも、青年の様子が気になって「相手の方のお好みは?」とさらに踏み込んで尋ねてみた。
「聞いたことがない。何も知らない。君が選んでいい」
「そんな」
できませんよ、という言葉を呑み込む。
(本人が選べないから、頼まれているのよね。ここで私が断ったら、このひとずーっとここから動かないかもしれない)
チェリーは端から品物を眺めて、気に入ったひとつを見つけて「あれが良いと思います」と言った。
「ありがとう。助かった。君はとても良い人だ」
青年は大げさな感謝を口にしながら、懐に手を入れてくたびれた革の財布を取り出す。
ひらりと一枚紙が落ちて、チェリーの靴先にたどりついた。「あっ」と慌てた青年の声を聞きながら、チェリーはそれを拾い上げる。
黄ばんで汚れてよれよれになったその紙には、何やら見覚えのある字が書かれていた。
「ああ、ありがとう。それ、妻からの手紙なんです。戦場でずっと持っていたんですよ。離婚した方が良いんだろうなって思っているうちに本当に離婚を切り出されて、でも生きて戻ってきてもいいって。だからとにかくまず会って話そうと。いま全然手持ちがなくて何も買えなくて、本当は食べ物の方が喜ばれるかなって思ったんですけど、どうしても彼女に贈り物がしたかったんです。どうだろう、やっぱりいらないかな。でも、せっかくあなたが選んでくれたので指輪買ってきます」
固まったままのチェリーにまくしたてるだけまくしたて、青年は店主に声をかけて指輪を買う。それからついでのようにブレスレットも買って、チェリーに差し出してきた。
「これはあなたに。親切にしていただいたお礼です。せっかく戦争が終わったので楽しく暮らしてください。あっ、でもいらなかったら売ってもいいですよ。というかいらなかったですか。食べ物の方が良かったかな」
悩み始めたので、黙っていては話がこじれそうだと思い、チェリーは潔く「ありがとうございます」と言ってブレスレットを受け取った。
青年はとても嬉しそうに微笑んで「親切な方に会えたので気持ちが軽くなりました。俺は妻がいる身なので食事に誘ったりはしませんが、あなたにこの先、幸せなことがあると良いなと思います」と言ってきた。
何から彼に伝えるべきなのか。
どう名乗れば伝わるのか。
短い間に悩み抜き、チェリーはひとまずずっと聞きたかったことを聞いてみることにした。
「ミンスパイとミートパイはどちらがお好きですか?」
★たくさんお読みいただき、どうもありがとうございました!
「短編として好き」と「続編希望」でたくさん感想を頂きまして、作者として何が良いか考えていました。
公開時期は未定ですが、ただいま連載版準備中です。
楽しんで頂けるよう一生懸命書きますので、よろしくおねがいします(๑•̀ㅂ•́)و✧
※後書きの訂正まで気がつかず、そのままですみません!2024.5.1より連載版公開中です!お越し頂けますと嬉しいです!(2024.5.7 追記)