金曜日
8時31分。
確実に遅刻だ。
さっき私は「もう出るからー」と、何度も布団の中で叫んでいたような気がする。
とりあえず、ベッドの上で耳をすましてみる。
居間に誰かがいる気配が、まったくしない。
ああ、そうだ。
さっきお母さんが、「学校はー?」とか「お母さん出かけなあかんねんけどー」と私の部屋のドアの前で言っていた。
パソコンの画面を見てみる。
だちゅらさんに書こうとしたメールの保存が、昨日の21時47分。
11時間近くも眠り続けていたのか。
2日連続で早起きした反動なのだろう。
親がどこに出かけたのかは、見当もつかない。
近場かもしれないから、そうこうしているうちに帰ってくるかもしれない。
とりあえずいったん家を出ようか。
私はあまり使っていなかった折りたたみ傘をカバンに入れる。
カーテンを開けてみると、雨は降っていない。
私はパソコンの電源を落とす。
終了に向けて切り替わっていく画面を見ながら、ついさっきの生々しい内容の夢を思い出す。
頭がぼんやりしているせいで、「もう出るからー」と私が何度も言ったあとに見た夢なのか、それともその直前に見ていた夢なのかは分からない。
あるいは、いったん起きて夢の続きを見ていた可能性もある。
夢の中では、クジラの正体はだりあであることが判明したと、大きなニュースになっている。
だりあの顔写真が、何度も何度もニュースの映像に登場する。
だちゅらさんも取材を受けるが、クジラともだりあとも関係ないことを延々と話す映像が流れる。
私はあのエスカレーターを必死に歩いて登ろうとするが、なかなか前に進まない。
そうこうしているうちに、私はあのエスカレーターと完全に一体化する。
エスカレーターと一体化しながら、近くの大型ビジョンに映し出すためのニュース映像を必死に編集している。
編集しながらも、エスカレーターに乗ろうと次々やって来る人を、うまく捌いていかなければならない。
ちょっとでも気を抜くと、人が奈落の底に落ちる。
さっき確かに私はエスカレーターと完全に一体化して、人をうまく捌くコツを少しずつ掴んできたところだったのに、目が覚めてくるにつれて感覚的なものが分からなくなっていく。
パソコンの電源が落ちて、ファンの音が止まって家の中はより静かになる。
音が完全に止んでから、今までずっと回転音が聞こえていたことが、分かるということ。
これが毎回、不思議な感じがする。
あらためて、窓の外を見てみる。
雨は降っていないが、良い天気でもない。
私はゆっくりと立ち上がり、カーテンを閉める。大きくため息をついてから着替える。
とりあえず、出かけよう。
家を出てから、財布の中に定期入れが無事に突っ込まれたままであること、モバイルバッテリーを持ってきていることを確認する。
私は歩きながら、財布から定期入れを取り出す。そして定期入れから定期券を取り出す。この定期券は、財布の中のポイントカードを入れるためのポケットに入れる。
定期入れは、地下鉄の駅のゴミ箱に捨てる。
まゆみに何かメッセージを送っておこうと思ってスマホを取り出すと、ちょうどバイブレーションで通知。まゆみからだろうか。もし私からのメッセージへの返信というわけではなく、まゆみのほうから送ってきたのだとしたら、これは珍しい。
「もう学校行ってもうた?」
うーんそうくるか。
あえて授業が始まっているはずの時間に送ってくるということは、まゆみも学校に行っていないということだろうか。
私は地下鉄に乗りながら、まゆみとメッセージをやりとりする。
おお、朝にこんな風にテンポの良いやりとりができるとは。
とりあえず20分後に梅田のあのエスカレーターで、ということになった。
これはやはり、どうしてもいま話したいのだ、という強力な意思があるということだろう。
「なにその格好」
あのエスカレーターを昇りきったところに、まゆみは見たこともない格好で立っていた。
「なんかぁ……制服やったら。いかにもサボってます、みたいな感じになるかなと思って」
それは、私もサボるのはもう確定ということなのだろうか。
「ちなみに一昨日も、私服やで。また違うバリエーションやけど。さらに化粧もしてたし。たぶんクジラのガス抜き作業とかしてた人もな、ああ、近所に住んでるアクティブなお姉さんが見物に来たんやなあ、としか思ってへん」
「昨日、だちゅらさんにメールしてみた?」
まゆみはゆっくり歩きながらたずねる。
「いや。絶賛推敲中」
「私も一通送ってみたけど。まだ返信ない」
「そうかあ……まゆみは、今日。寝坊?」
「まあ、寝坊といえば、寝坊。なんか全然寝られんかって。2時くらいまで起きてて。なーむとかだりあにとっては、2時って全然たいしたことないんかもしれんけど。私としてはこれは、な。もう、異例中の異例。ほんでな、それやのにな。4時くらいに目ぇ覚めて。しばらくボーっとして。で、6時くらいからな。二度寝」
「一昨日、さあ。まゆみがクジラ見に行ってた日って。始発で出たん?」
「えっ? ああ、ちゃうちゃう。始発ちゃうで。始発やとな。十三で待たされんねん。乗り換えで。だからな、2本目」
私とまゆみは、どちらが主導するともなく、なんとなく改札を通過する。
「あんな。一年前な。始業式の日」
「うん? うん」
「十三駅のホームのな。もともとの待ち合わせ予定の場所って、覚えてる?」
「ああ、うん。覚えてんで。なに? 行ってみたい?」
私は黙ってうなずく。
まゆみは歩きながら伸びをする。
「うーん。一年前。うん。そうやなあ。一年やなあ。あれから」
十三駅で電車を降りると、まゆみは無言で歩いていく。
私は黙ってついていく。
「ここやな。ここでまず、私とだりあは合流した」
私は、一年前にだりあが立っていたであろう場所に立って、周囲を見る。
遅い時間帯だからか、人が少ない。
しばらくして、すぐ近くの柱に「YOU KILLED DOUGLAS GENELVEFT」と書かれていることに気づく。
いや、書かれているのではない。これはステッカーだ。
そう、これは……YKDGのステッカー。それも最初期のバージョン。
私は無言でステッカーを指差す。
まゆみは無言でうなずく。
私はしばらく、ステッカーを撫で続ける。
このステッカーは、貼られたばかりだ。それも、昨日とか今日とか。
あるいは、もしかしたら。
つい……数分前?
「もしかして、だりあが貼った?」
私が笑いながら問いかけると、まゆみは困惑する。
「ふふっなんでそうなる? ……いや、うん。どやろ……ありえなくはないかも」
私はスマホでYKDGの話題をチェックしてみる。
新しい動きがあったようだ。
以前からYKDGが批判していた組織の一つに、タイダル・カテドラルという企業がある。このタイダル・カテドラルが、つい数時間前に奇妙な声明を出したことが話題になっているようだ。
日曜日にうちの学校の近くに突如としてあらわれた、クジラの死体らしき、あの物体。あれこそが、7年前に姿を消したダグラス・ジェネルベフト本人なのだ、というのである。
また、自分たちこそがダグラス・ジェネルベフトの正統な後継者であり、自分たちに相談することなくジェネルベフトの「遺体」に管を差し込んだりするのは言語道断なのだという。
今すぐにメタンガスを抜く作業をやめるべきである、と主張している。
さらに、自分たちであれば、しかるべき儀式を行うことによってダグラス・ジェネルベフトを蘇生させることも可能だ、としている。
ここ数日のあいだ沈黙していたYKDG会長は急に元気になって、「ついに本性をあらわした」として盛大にタイダル・カテドラルへの攻撃を展開しているようである。
タイダル・カテドラルは、ここ数年で急激に規模を大きくした企業である。
カリフォルニア州に拠点を置き、最初は目立つ存在ではなかった。
シリコンバレーの企業がタイダル・カテドラルと距離を置き始めると、タイダル・カテドラルはカリフォルニア州での「布教」を放棄して、カリフォルニア州以外の全米に一気に拡大することを志向し始めた。
タイダル・カテドラルは、単に高額セミナーを実施するような、単純な組織ではない。
その戦略の複雑さと異様さは他の組織とは一線を画すものであり、それでいて、ジェネルベフト型の性格に関心が薄い人に対しては比較的クリーンな企業であるという印象づけに成功している。
去年の11月にイギリスの一対一のトーク番組にYKDG会長がオンラインで出演した際にも、YKDG会長はこの企業を攻撃していた。
「私はね、あなたの眼の前にある、そのノートPCがですね」
「えっ? ああはい、私の目の前の、これ。はい」
「それがですね、ジェネルベフト型の性格にみえてくるんですよ」
「えーと、つまり?」
「そのPCがですね、ジェネルベフト型の性格であるとしか思えないんですよ。さらに言えば、『ラップトップ型ジェネルベフト』としてとらえられるようなものかもしれません。あるいは、『液晶一体型ジェネルベフト』の可能性などについても考慮する必要がありそうですね」
「ええ、そうですね、ええっと、あなたが皮肉の達人であることはよく理解しているつもりですが、その皮肉は私にはやや高度すぎるようです」
このやり取りの中でYKDG会長が念頭に置いているのは、明らかにタイダル・カテドラルである。
トーク番組の中でYKDG会長はタイダル・カテドラルという名前を一度も出していないが、ブログではよく名指しで批判していた。
タイダル・カテドラルは、ジェネルベフト型の性格をさらに4つに分類した。
「UVレジン型ジェネルベフト」。
「硬化促進剤型ジェネルベフト」。
「インパクトドライバー型ジェネルベフト」。
「有孔ボード型ジェネルベフト」。
ただでさえ理解が難しいジェネルベフト型の性格について、このような分類を持ち込むことによって、さらに理解が難しくなった。
また、ジェネルベフト型の性格をさらに4つに分類しているのはタイダル・カテドラルだけなのだが、この分類がタイダル・カテドラル独自のものであることを理解していない人も多い。
通常は、まともな調査方法ならどの国でも8パーセントから11パーセント程度がジェネルベフト型の性格になるとされている。
しかしタイダル・カテドラルがジェネルベフト型性格をさらに4つに分類したことにより、この4つの中のどれかは自分に当てはまっているような気がしてくる、と感じる人が増加した。
最初から戦略的にそうしていたのか、あるいはこのような混乱がビジネス上有利だということに途中で気づいたのか、数年前からはわざと混乱をしかけるようになったのではないか、と見られるようになった。
なお、タイダル・カテドラルではない第三者のアンケート調査では、米国南部の40歳以上の男性は自分を「インパクトドライバー型ジェネルベフト」であると考えがちだという結果が出ている。
ジェネルベフト型の性格についての高額なセミナーを実施する団体についてはかねてより問題視されていたが、タイダル・カテドラルの場合は高額なセミナーは実施せず、オンラインの会員制サロン、微妙な価格設定のCDやDVDの販売、複雑な代理店制度などを戦略の核としている。
安直な発想で金儲けをしようとする他の組織の強引な勧誘などがニュースになることはあっても、タイダル・カテドラルは表面上は紳士的なので、あまりニュースにならない。
そして細く長く搾取するためのシステムをじっくり整えていったのである。
代理店制度については、その複雑な利益の配分のあり方から、マルチレベルマーケティングやネットワークビジネス、つまりマルチ商法としてとらえられるものと類似しているという指摘もある。
ただしタイダル・カテドラルは、あくまでも関係者全員が幸せになるための代理店制度であり、マルチ商法の類いとはまったく無関係である、と主張している。
日本国内において最初にタイダル・カテドラルとマルチ商法が結び付けられたのは、数年前にある男性が詐欺容疑で逮捕されたことがきっかけである。
この男性は同時に40人以上の女性と交際し、結婚を匂わせながら、浄水器などの様々な商品を女性たちに購入させていた。
単に商品を購入させるだけでなく、たいていは同時にマルチ商法の会員として契約することも要求していたわけだが、この各種契約の要求の中にタイダル・カテドラルの代理店契約も含まれていたのである。
「ふっ……ふふふ」
まゆみが突然笑い出す。
「掲示板の。匿名の書き込みやけどな。梅田のヨドバシカメラで。領収書にタイダル・カテドラルって書いてくださいって店員に言ってる客がいたって」
まゆみのスマホをのぞきこむと、今年の3月の書き込みだった。
「そういやだりあ、ヨドバシでたまにCD-RとかDVD-Rとか買ってたで。今はどうなんか、分からんけど」
へえ、だりあもCD-R買ったりするんだ。
まあ、自分の部屋にパソコンがあるんだし、CD-Rくらいは買うか。
私とまゆみはしばらく十三駅のホームでネットを徘徊したりアイスを食べたりして漫然と過ごすが、結局梅田に戻ることにしてまた電車に乗る。
梅田に着いてからは、2人の足はなんとなくヨドバシカメラに向かう。
まゆみがヨドバシカメラの建物を撮影しようとしてデジカメを取り出すと、デジカメを落としてしまう。
「うっげー。このデジカメ。5000円もしたのに」
「5000円……えっ5000円? 5万じゃなくて?」
「ちゃうんやなあ。5000円なんやなあ。まあ、だいぶ古いモデルやけど」
「どこで買ったん?」
「古着とかも売ってるとこ……あっ、そうや、なーむ。そこで服、買ってみたら? 結構、300円とか500円とかで、いろんなんあんで」
「サボんの確定なん」
「何をいまさら。デジカメとかも。もっと古いモデルやったら、3000円とかのもあんで」
私はすぐ横の巨大な建物をゆっくりと見上げる。そしてつぶやく。
「まあ……目の前にも。ヨドバシあるけど」
「そうやなあ。新品を買う財政的な基盤があるんやったらどうぞ」
私は何も答えず、しばらく車の往来を眺める。
まゆみはデジカメの電源を何度も入れ直したりテスト撮影をしたりして、動作に異常がないか確認している。
そしてズーム機能の確認をしている時に、ふとまゆみは手を止める。
「カテドラルって……あの綴りやったっけ……ほら。あれなんちゃうん」
まゆみは目を細めてつぶやく。
「なにが?」
「ほら、あの車。タイダル・カテドラルって書いてへん?」
「ええ?」
本当だ。
確かに車の側面に、「TIDAL CATHEDRAL」とある。
車のすぐそばに、ヨドバシカメラの紙袋が6つ置かれている。A3のプリンターも地面に置かれている。このプリンターもヨドバシカメラで購入したようだ。
車には茶色の段ボールが6箱、積んである。
購入したばかりのものは、まだ車には積まないつもりなのだろうか。
運転手なのだろうか、30代くらいの外国人の男性がボンネットに腰掛けてスマホでずっと話している。反対側を向いているので、私とまゆみが見ていることには気づいていない。
「ていうかほら、あのナンバー」
まゆみは口を動かさずにボソボソと話す。
「えっああ……車の?」
「そう。学校の近くに、支部か何かあったりして」
「えっ……まさかあ」
「まさか」と言ってはみたものの、そうだったら面白いのに、と思っている自分に気づく。
タイダル・カテドラルは日本でも勢力を広げようとしているが、公開されている日本法人のオフィスは現時点では東京にしかない。
関西に新しい拠点をつくろうとしている可能性というのは、十分にありそうではある。
代理店としての契約をしている人間が「タイダル・カテドラル」を名乗ったり、タイダル・カテドラルの本部の人間であると誤認されかねない行為は固く禁じられている。
そのため、単に代理店として契約している個人ではなく、日本法人か米国本社の関係者であることはほぼ間違いないだろう。
「これさあ、今さあ。私のスマホ、あの紙袋に入れるとするやん。ほんでもしな、私の親がほんまに変なアプリをな、私のスマホに入れてるとするやん。そしたらうちの親、あの車の移動を追跡して、右往左往すんのかな」
「ははっ」
急に何を言い出すのだろう、と思って私は笑う。
そもそも、まゆみのお母さんが本当にそんなアプリを、まゆみのスマホに入れるだろうか。
「なんか、こないだ、な。いろいろ調べてみて。そういうアプリ。位置情報だけじゃなくて、いろんな機能があるやつもあんねん」
位置情報、か。
もしまゆみのお母さんが本当に監視しているとしたら、それはそれで面白いかもしれないな、とは思う。
「ふふ。まゆみのお母さん、拉致された、とか思うかな。自分の娘が。タイダル・カテドラルに。あっでも場所が公開されてない拠点に向かうとしたら、そもそもタイダル・カテドラルと結びつけて考えることが出来へんかも」
ボンネットに腰掛けた男性は、通話が終わってしばらく自分のスマホを操作したあと、また通話を始める。
別の人となのか、あるいはさっき話していた相手と続きの会話をまた始めたのかは分からない。
そうだ。良いことを思いついた。
「あんな、まゆみ」
「うん」
「まゆみが私のスマホにな、その変なアプリ入れんねん」
「うん? ……うん」
「ほんでな。私がな。あそこを通り過ぎる時に、スマホを落としてまうねん。あの紙袋に入ってまうねん」
「うーん。うん」
「ほんでな、まゆみのスマホでな、追跡すんねん。私のスマホを。あの紙袋に入ったスマホを」
「ほお。うん。いや。えーと。うん。それって、私がなーむをストーキングしてる疑惑が発生せえへん?」
「してるやん。すでに。待ち伏せとか」
「待ち伏せっていってもな。結構、空振り多いねんで? 結構、一時間くらい待ってたりとか」
「いやだから、空振りが減るからええやんか」
とりあえず、私のスマホからまず、写真は消しておこう。
写真は30枚もなかったので、全部消去。
あんまり何もかも消すと、それはそれで追跡のためだけに用意したスマホだと思われるかもしれない。
私はスマホをまゆみに手渡す。まゆみは渋々、インストール作業を始める。
アプリのインストール中、私は周囲の様子を観察する。
「いちおう、アプリは。うん。入れたけど。ていうか、ほんまにやんの?」
「おし。じゃあ行ってくっか」
「いやっちょっと待って! 設定せえへんと」
「ああそうか。設定。うん。取得すんのは、位置情報だけ、な。位置情報だけ。それだけ設定して」
「でも、これなあ。私のスマホで、なーむのスマホを追跡してるってことがあ。うちの親に、バレる可能性は。やっぱり。あるっていう」
「いや……。いや、大丈夫。もしな、まゆみの親にバレてもな。私に頼まれたって言えばオーケーやん。私がこういう実験をやりたかったからって。私がそう証言するし。で、タイダル・カテドラルにバレてもな、高校生が、同級生をストーキングしてて。で、追跡されてるスマホをな、あの紙袋の上で、思わず落とした。それだけ」
「えーと、ちょっと待ってな。えーと。はい、えー、うん。はい。オーケー。設定はオーケー。で、えーと、なに? 実験。うん。これは実験」
「そう。ただの実験。実験中に、ドジってスマホを落としちゃった」
「落としちゃった」
「落とすのは……そうやなあ。やっぱり私がやらんと、不自然やわなあ」
「そうなりますなあ」
そうだ。私があの紙袋に、入れるのだ。
私はしばらく、ボンネットに腰掛けている男性の動きを観察する。
こちらに気づいているそぶりはない。
「そっから動かんとってな」
私はそう言ってすぐ立ち上がり、歩き始める。
いざ、決行。
自然に、自然に。
車のそばの、紙袋に。
ボンネットに腰掛けた男性は、スマホでずっと話し込んでいる。私にはまったく気づかない。
顔は下に向けずに前を向いたまま、どの紙袋がいいのかを素早く判断する必要がある。
6つの紙袋のうちの1つに、オフィスチェア用のクッションが入っていることに気づく。
これだ。
この紙袋なら、スマホに衝撃がないはず。
自然に、自然に。
通り過ぎる時に。そっと、手を離す。
入った、か?
うまく紙袋の中に入ってくれたのかどうかは、分からない。
でも失敗していたら、硬いものがぶつかる音がするはず。
私はとりあえず、振り返らずに歩き続ける。そしてヨドバシカメラの店内に入る。
店の中に入ってから、制服を着たまま決行してしまったことが急に不安になる。
ぐるっと大回りして戻ってくると、すでに車はない。
まゆみはさっきと同じ場所でしゃがんでスマホの画面を見ている。
「あの紙袋は?」
「車に積まれた。無事。そういう意味では、とりあえず大成功」
まゆみはスマホの画面を見つめたまま、とても嬉しそうに話す。
「めっちゃ自然に落としてた。もう。めっちゃ自然。なんか目的があるようには、到底見えへん」
「制服着てああいうことしたの、まずかったかも」
「いや、どうやろ。セーラー服やし。うちの学校、制服にあんま特徴ないよな」
「特徴なさすぎて目立つっていう説、ない?」
「まあそれはあるかも。でも目撃した人が、他人に言葉で伝えにくいってのはあるよな。なーむやったら、その制服の特徴、なんて伝える?」
「えっうーん、なんやろ……そうやなあ……特徴のないセーラー?」
「ほらあ」
私とまゆみはしばらく同じ場所でしゃがんで、周囲の様子を確認する。
誰も私たちに注意を払っていないようではある。
私はまゆみのスマホで、私がまゆみに送ったメッセージの中に「ジェネルベフト」という単語を使っていないかどうか、確認する。
もうあの紙袋に入って旅立ってしまったので、今さら遅いのだが。
だいぶ遡って確認するが、とりあえず「ジェネルベフト」という単語を直接的に使っているメッセージは見つからなかった。
私はふと、さっきの「領収書の宛名にタイダル・カテドラルって書いてくださいと頼む人を見かけた」という旨の書き込みは、本当はだりあが書いたのではないか、という考えが浮かぶ。
もう一度まゆみにその書き込みを探してもらうが、なかなか見つからない。
ないなあ、どこやったっけなあ、と言いながらスマホを操作するまゆみの手の動きを見つめながら、これはもしかしたら、ジェネルベフト反応の一種かもしれないな、と考える。
ジェネルベフト反応は、ジェネルベフト型の性格を持つ人物ではなく、その周囲の人々のほうに起こるものを指す。
身近にジェネルベフト型の性格の人がいると、その人物とはまったく無関係な事柄について、その人物と結びつけて考える傾向が強くなる現象のことである。
オンライン上の書き込みについて「これはあの人が書いているのではないか」と考えたりするのもそうだし、システム障害などについて「あの人の仕業ではないか」と考えたりするのもそうだ。場合によっては天文現象や災害を、その人物と同一視したりすることもある。
これはダグラス・ジェネルベフト本人が提唱した概念ではなく、去年あたりから急速に広まったものである。
大規模な調査はアメリカでしか行われておらず、調査方法の妥当性については様々な疑問が投げかけられている。
ジェネルベフト反応は存在していないが、ジェネルベフト反応という概念の急速な受容のあり方そのものは非常にジェネルベフト反応的であり、逆説的にやはりジェネルベフト反応は存在するのである、というような、やや込み入った主張をする人もいる。
「南やなあ。南のほうに向かってんなあ」
まゆみはそうつぶやいて、しゃがんでいる私の太ももの上にスマホを置く。
いつの間にか、さっきの書き込みを探すのは断念していたようだ。
「南かあ。西に向かってくれたら、面白かったのに」
やはり、ナンバープレートだけで安易に判断するべきではなかったか。
学校の近くに向かうなら、西に向かうはずだ。
もう私のスマホは永遠に帰ってこないかもしれないな、と思って立ち上がる。
私とまゆみは、とりあえず私が制服を着たままなのを何とかしよう、ということで合意する。
そして阪神電車に乗って、古着のある店に向かう。
阪神電車は人生で10回くらいしか乗ったことがないかもしれない。
駅から店に向かう途中で、高速道路の下をくぐる。
くぐってから1分くらい歩くと「買います!!」という看板が見えてくる。
店に入ると、レジの横にデジカメが並んでいるガラスケースがある。
まゆみは一瞥して「今日はデジカメはイマイチかもなあ」とつぶやく。
私が服を選び始めると、あっこれ似合うんちゃう? あっこれもええなあ、とまゆみがいろんなものをすすめてくる。
「そういやさあ、服って。指紋が採取しにくいんよな」
私はハンガーにかけたままのキャミワンピの手ざわりを確認しながら、つぶやく。
「なんてなんて?」
「指紋。布製品は、指紋が採りにくいねって話。まあ、布製品でも可能ではあるみたいやけど。ダグラス・ジェネルベフトが、な。行方不明になる数日前にな。三重県のスーパーで、肉とか焼き肉のタレとか。買ってんねんけどな」
「ああー、うん。知ってる。なーむから借りた本にも書いてあった」
「あれな、防犯カメラの映像でな。いろんなタレをな。見てな。買わずに棚に戻したやつも、あるわけ。その戻したやつって、ダグラス・ジェネルベフトの指紋がついてたんかなあ、て」
「ああ。うん。まあ……ついてるやろな」
「ガラスとかそういうのは、な。かなりくっきり指紋が採取できんねんけどな。コップとかそういう類いのもんとかな。瓶とかな。なんか小学校のころさあ……ていうか今も売ってるんかもしれんけど。指紋採取キットっていう。そういうセットのやつがあって。おもちゃの。あれのセットの中にな、指紋採取テープっていうのがあってな。あれって最初にまず、鏡とかに自分の指紋つけて、ベビーパウダーふりかけて。ハケで軽くシャッシャッてやるとな、指紋のとこだけベビーパウダーが残るわけ。で、その残ったとこの上からな、その指紋採取テープを貼り付けるとな。そのテープに指紋が転写されるっていう。あのテープがな。あれが普通のセロテープと違うんかどうか、未だに謎やねんよなあ……そういや、ベビーパウダーはそのセットの中にはなくって、自分で用意せなあかんねん。だから私が初めて自分で買ったベビーパウダー、その指紋採取キットのためやわ」
「要らんわーその情報。なーむの新事実。なーむの初めて買ったベビーパウダー、指紋採取のため! 要らんわー。なーむの新しい、新事実。あっ二重表現」
店に入る前はトップス一点とボトムス一点だけの合計2着の購入にとどめておこうと決めていたつもりが、6着で計3500円購入することになった。
私は崩すつもりがなかった一万円札で支払う。
500円ならカンパすんで、というまゆみからのありがたい提案を丁重にお断りする。
私は会計を済ませたあと、レジの横にあるガラスケースの前に、あらためて立つ。
さっきは気づかなかったが、ノートパソコンも置いてある。
「あっ中古ノートええなあ」
「なんで? 買い替えたいん?」
まゆみはパソコンにはあまり興味なさそうだ。
「うん。まあ。ていうかファンの音がなあ。デスクトップのパソコンって。うるさくって。でもノートPCでもうるさいやつあるみたいやけど」
自分でそう言ってから、まゆみだったらファンの音があまり気にならないかもしれない、と考える。
店のトイレで購入したばかりの服に着替えて出てくると、変身が無事に完了した私の姿をまったく見ようとせず、まゆみはスマホの画面を凝視している。
「関空やなあ」
私はまゆみのスマホをのぞきこむ。
関西空港。関西空港にあるのか。私のスマホが。
タイダル・カテドラルが関西に新しい拠点をつくろうとしていて、その新しい拠点のためにヨドバシで買い出しをしていたという推測は、まったくの誤りだったのだろうか。
新しい拠点ではなく、さっき購入したものは海外へ運ぶつもりなのだろうか。
私のスマホも、このまま海外に運ばれていく運命なのかもしれない。
しばらくすると海外から凄腕の暗殺者が続々とやってきて、私を狙うことになったりするのだろうか。
私はすぐ横のコンビニでサンドイッチやお菓子を買って、ミスタードーナッツの店の前にある黄色い柵に腰掛けて食べ始める。
まゆみはゼリー飲料と紙パックの紅茶だけでいいらしい。
「なんかここさあ、最近。私、ちっちゃい頃にも何回か来たことあるんちゃうかって気がしてきてて。でもそん時はな、古着とかなくて。古本屋やった気がすんねんよな。チェーンの。でもブックオフじゃないやつ。漫画とか、セットで買った記憶あって。でもな、ほんまやにここやったんかどうか、確信がな。持たれへんのよな。このミスドもな、当時からこの1階にあって。親と一緒にこのミスドも入ったような記憶もあんねん」
私は小さく「そうなんや」とだけ答える。
「あっ!」
突然、まゆみが叫ぶ。
まゆみは目をカッと見開いたまま、しばらくスマホの画面を凝視する。
「どないした」
私のスマホ、ついに飛行機に乗って旅立ったのだろうか。
それとも破壊されるなどして、急に現在位置が分からなくなったのか。
あるいは、ものすごい超高速で移動して、もう私たちのすぐ後ろにいるとか?
「だちゅらさんから……返信きた。学校のパソコンからメールしたって」
「うそお。何分前?」
「4分前」
4分前か。だちゅらさんは、まだパソコンの前にいるのかもしれない。
まゆみがすぐに返信すると、1分後くらいにだちゅらさんから再び返信。
昼休みなので、学校の図書館にあるパソコンで一時的にやり取りが可能、とのことだ。
私とまゆみが古着のある店に来ていて、私がたったいま着替えたばかりであることを伝えると、だちゅらさんもその店に行ってみたい、とのこと。
だちゅらさんは部屋の中を整理中で、小学校時代の服などを処分しようとしているところなのだという。
なお、私とだちゅらさんが昨日会ったことや、だちゅらさんのメールアドレスを私やまゆみが知っていることなどについては、だちゅらさんはまだだりあに話していないのだという。
「どうなん?」
「なにが」
「なーむから見て。やっぱり、だちゅらさんは。ジェネルベフト型の性格なん」
「どうやろ……なあ……」
おおお……まゆみの方から聞いてくるとは。
私は一卵性双生児とジェネルベフト型の性格についての興味深い研究結果について、まゆみに話し始める。
途中で、これは以前にもまゆみに説明したかもしれないな、と気づくが、私は構わず話し続ける。
そう。一卵性双生児について、考えるということ。
それは、ジェネルベフト型の性格はどこからやってくるのか、を考えるうえで重要である。
一卵性双生児の片方がジェネルベフト型の性格だった場合、もう片方もジェネルベフト型の性格である確率は、一緒に育ったのかどうかで大きく変わるからである。
別々の場所で暮らした一卵性双生児に限定すると、片方がジェネルベフト型の性格だった場合に、もう片方がジェネルベフト型の性格である確率は50パーセント程度の確率となる。
これは遺伝的要因が非常に強いことを示している。
一卵性双生児かどうかとは無関係にランダムにピックアップすると、たいていどの国でもジェネルベフト型の性格は8パーセントから11パーセント。
もし遺伝的要因が皆無なのであれば、この8から11という数字に近くなるはずのところが、50という数字になる。
ジェネルベフト型の性格に関心を持つものはたいてい、ある時点から、果たしてどういう人がこの性格になりやすいのだろうかと考え始める。
そして、親の教育のあり方だとか貧富の差だとか、様々な仮説が思い浮かぶ。
ほどなくして、何度も確かめられているこの一卵性双生児についての研究結果を知り、環境要因に基づく仮説はことごとく、ただの願望でしかないのかもしれないと思い至ることになる。
しかし、これだけなら単に、ジェネルベフト型の性格になるかどうかは遺伝的要因が大きいんだねえ、で終わる。
この50パーセントという数字は別々に暮らした双子に限定して調査した場合であるわけだが、興味深いのは、一緒に育った場合の数字と比較した時なのである。
生まれた直後から15年以上継続して一緒に暮らした一卵性双生児に限定してみると、片方がジェネルベフト型の性格だった場合に、もう片方がジェネルベフト型の性格である確率は15パーセント程度までに低下するのである。
もし環境的要因が皆無なのであれば、50という数字に近くなるはずのところが、15という数字になる。
アメリカ国内での複数の研究機関の調査により、アメリカ人の場合にこうなることは分かっていたが、最近は他の国での調査も進んでいる。
今年の1月にはドイツで、そして2月には日本でも、似たような統計結果が出るらしいことが示されたのである。
この著しい数字の変化については、さまざまな解釈がある。
親が知らず知らずのうちに2人になんらかの差をつけてしまっていたのだ、と信じる人もいる。
だが片方だけがジェネルベフト型の性格になった双子を詳しく調査してみると、親が極端な放任主義だったり、そもそも親が2人の見分けがついていない場合なども多数ある。
大人が考えるような、一般的な意味での「環境の違い」とは無関係に起こる現象なのだと考えるのが現在の定説である。
同じ世代の子供同士では、誰かがジェネルベフト型の性格に近づいていくと、別の誰かはジェネルベフト型の性格でなくなる、というように、無意識に自分の性格を選び取るような機構があらかじめ備わっているのだ、という主張をする人もいる。
また、神秘的な力がはたらいているのだ、と考える人もいる。
「北上してるー! ずっと!」
まゆみが突然、叫ぶ。
「うそお……」
「これ、さっきと違う道やなあ。ああー。うん。あれ? ああ、やっぱり。これ、うん。阪神高速やなあ、たぶん。阪神高速をずっと北に、移動中」
「へえ。あれさあ、あのほら、さっき私とまゆみがここ来る前に、なんか、くぐったやん。ほら。あれも阪神高速?」
「えーと、いや。ちょっと待ってや……。ああー。そうやな。うん。さっきくぐったのは、阪神高速ではあるけど。でも湾岸線ではないなあ。いまあの車が走ってんのは、阪神高速の湾岸線やと思う」
関空には、立ち寄っただけだということだろうか。
「え、さっきな。私がスマホ入れたやん、紙袋に」
「うん」
「あのあとな、車に乗ったのって、あのボンネットに座ってた人だけなん」
「そうそう。誰かと合流したりとかは、せず。なーむが紙袋にスマホ入れてから2分ぐらい経ってからやと思うけど、通話が終わって。ほんで購入したもん慌ただしく車に積んで、自分で運転していった」
「そうかあ」
梅田から関空まで運転した人と、関空から北に向かって運転している人は別なのだろうか。
そもそも、車が同じとは限らない。あの車はまだ関空にあって、別の車に荷物を載せ替えた可能性だってある。
あるいは、スマホの存在に気づいて、スマホだけを運んでいる可能性だってある。これから解析するための場所に向かうのかもしれない。
しまった。ブラウザの、履歴。
「あんな、さっきな。ブラウザの履歴。消すの忘れた」
「履歴? なんの?」
「私のスマホ。紙袋に入れる前に。まゆみへのメッセージの中にジェネルベフトという言葉はないかもしれんけど。でもブラウザで何回も何回も、ジェネルベフトで検索しとったわ。あと、ブックマークとかも。それ関連のがいっぱい。タイダル・カテドラルで検索したこととかは……今日はないけど。でも今までに一回ぐらいは、あるかもしれんし」
「確かになーむの検索の履歴とか、あんま高校生っぽくないかもなあ」
「家のパソコンのほうは、な。ブラウザ終了するたびに、履歴が全部消えるようにしてんねんけどな。スマホはそういう設定してへんかった」
タイダル・カテドラルの関係者があのスマホの存在に気づいたら、落とし物だとして警察に届けるだろうか?
あのスマホはあくまでも落とし物であり、偶然にあの紙袋に入っただけなのだということで私が押し通すのであれば、早めに私もスマホを紛失したと警察に届け出ておかないと不自然かもしれない。
さっきは、こんなチャンスは二度とないと思って勢いで行動したけど。
考える時間が必要だ。
とりあえず2人とも制服ではなくなったから、いかにも学校をサボっている高校生という感じではない。
私とまゆみは、ひとまず本屋にでも行こうか、と電車で移動する。
そしてJRなんば駅の近くの大型書店で立ち読みする。
立ち読みしながら時々、まゆみのスマホで現在位置を確認する。
淀川を越えたあたりで、また動きがなくなった。
今度は空港ではなく、パーキングエリアで立ち止まっているようだ。
あるいは、いよいよ本当にスマホの存在に気づいて、パーキングエリアのゴミ箱に投げ捨てたのかもしれない。
道路地図を立ち読みして、そのパーキングエリアのあたりを確認する。
この道路地図、たぶん私の家の居間にもあったはず。
そして、自分の家やまゆみの家の周辺、だちゅらさんの学校の周辺も地図で見てみる。
だちゅらさんが3年通い、これからあと3年通うことになるであろう学校。そして、だちゅらさんの毎日の電車の経路。
こんな遠い距離を毎日通っているのか。
でも、もしかすると、うちの学校にも。だちゅらさんの学校の近くに自宅があって、長い時間をかけて西へ西へと移動してうちの学校にやってくる、そんな生徒もいるのかもしれない。
そして雑誌を立ち読みしている時に、思わぬ発見。
ふぁむふぁむクンが部屋の中で観ていた映画は、実在しているらしいことが分かったのだ。
だりあの漫画では登場人物がどんな映画を観ているのか一切分からない場合が多いが、ふぁむふぁむクンが映画の中のセリフについて話しているシーンもある。このセリフが、実在している映画のセリフだったのだ。
今ちょうど12年ぶりの新作が劇場公開されている映画監督による、12年前の作品。
この12年前の作品はネット配信がされていないことをまゆみのスマホで確認し、私とまゆみは天王寺駅に移動する。
天王寺駅の近くで、私はこの映画のDVDをレンタルする。そして近くの個室型ネットカフェで観ることにする。
2人席の、フラットブース。
入店してから、私のスマホの現在位置が淀川河口付近のパーキングエリアから動いていないことを確認すると、すぐにまゆみは寝始める。
私は寝息をたてているまゆみのすぐ横で、映画を観る。
やっぱり、この映画だ。間違いない。
ふぁむふぁむクンは、この映画を観ていたのだ。
ということは、だりあもこの映画を観た可能性が高いということだ。
そして、この映画の主人公も、ジェネルベフト型の性格だと思わせる描写が多数ある。同じ監督の以前の作品や、いま公開されている映画の主人公はどんな描かれ方なのだろうか。
映画を観終わると、もう夕方の6時を過ぎている。
「もう行くで、まゆみ」
私はまゆみの体を揺さぶって起こす。
「うーん。あっ……。ちょおー。ひざまくら、し損ねたやん」
「それは……また来週」
まゆみはしばらく何か考えて、
「ふふっ来週ってなんや来週って」
とつぶやいて、また寝てしまう。
ブース内のパソコンでクジラ関連のニュースをチェックしてみると、明日からクジラの周囲に柵がつくられて立ち入り禁止になるらしい。
一部、登山道も立ち入り禁止とのことだ。
クジラを見に行くなら、やはり一昨日が最後のチャンスだったのだ。
こういうのは、まゆみの勘があてになるということか。
私はまゆみのスマホを勝手に操作し、自分のスマホの現在位置を確認する。
あっ……これは。
学校の、すぐ近く。
そうなのか。
本当に、そうなるのか。
これは、一時的にそこにとどまっているだけということなのか、それともそこに何らかの拠点があるのか。
私はまゆみのスマホの画面を見ながら、いま自分のスマホがある場所の周囲の地図をルーズリーフに書き写す。
私は音が漏れないように両手で囲いをつくり、寝ているまゆみの耳に小さな声で早口で伝える。
「おーい。まゆみ。起きてる? もう行くで? あんな、深夜に一回、公衆電話から電話するかもしれんから。出てや。春休みに、ガラケー壊れてから5日ぐらい連続で、公衆電話からかけたやん。だから公衆電話からの着信自体は、あんま不自然ちゃうわけやん。でな、もしな、私のスマホが移動してたらな、動いた、とだけ言って。移動してなかったら、ない、って一言だけ言って」
「んんんー。おっけー……」
ネットカフェのレジでの支払いの時にまゆみの横顔を見ると、さっき寝ている時についたのだろう、ほっぺたに奇妙な型がくっきりとついている。
私は家の近くのコンビニでお菓子を買い、コンビニのトイレで制服に着替える。
家に帰ってから、下校中に気分が悪くなって駅のベンチでしばらくボーっとしてた、食欲がないからご飯はいらない、と言ってすぐに自分の部屋に入る。
念のため、明日は授業がないというウソも言っておこうかとも思ったが、いろいろ聞かれるとボロが出るかもしれないな、と考えて何も言わないことにする。
私は自分の部屋でお菓子を食べながら、パソコンでジェネルベフト関連の話題をチェックする。
YKDG会長が関空に到着した時の動画が公開されている。
到着したのはついさっきで、夕方6時よりあとだ。
あの車とは無関係だろう。
YKDG会長は、タイダル・カテドラルの関係者をあのクジラの死体に近づけるべきではない、と警戒を呼びかけている。
YKDG会長と同じように、世界中からいろんな人があのクジラを目指して集まってきているのかもしれない。
あの車が関空に立ち寄ったのも、タイダル・カテドラルの米国本社の人間と合流するためだったと考えるのが自然だ。
関空でその米国本社の人間を乗せて、うちの学校の近くまできたのだ。
パーキングエリアで長時間とどまっていたことから、米国本社の人間はそこで別の車に乗って別の場所へ向かった、などの可能性もあるかもしれない。
私は夜中の1時を過ぎてから、こっそり家を出る。
公衆電話がない。こういう時、実に困る。
地下鉄の駅にはあったのかもしれない。
でも地下鉄の駅にある公衆電話を利用するには、駅が利用できる時間帯でないとだめだ。それはつまり、終電の前だ。
終電の前となると、もっと早く家を出る必要があった。でもそれだと、親にバレそうである。
私は30分以上かかって、ようやく公衆電話を見つけ出す。
暗記している電話番号にかける。
頼む、まゆみ、寝てるとかやめてくれ、と何度もお祈りする。
4コール目でようやく、まゆみは出た。
「まずカネが先だ。ブツはそれからだ」
低い声だったので、番号を間違えたのかと焦る。
「いいからいいから。そういうの。ちょおまじで。もお。で、動きない?」
「ないなあ」
私は、ありがと、と言ってすぐに切る。
たったこれだけのことを確認するのに30分も公衆電話を探しまわる羽目になった。
何か暗号を決めておいて、ジェネルベフトとはまったく関係のない話題の掲示板に書き込んでもらう、などの方法がよかったかもしれないな、と歩きながら考える。
私は家に戻ってから、パソコンではなく本の道路地図を使って、スマホがあるあたりを確認する。
学校から歩いていける距離ではある。
でも、すぐ近くとまではいえない。
それに、駅からは離れている。だからこのあたりを歩いたことはない。
だりあの家から近いのかどうか、明日確認する必要はありそうだ。
本当に、タイダル・カテドラルのオフィスか何かが、ここにあるのだろうか。
私は、壊れたと思ったら実は生きていることが判明したガラケーを取り出す。
春休みの2日目に電源が入らなくなって、ついに寿命かと思ったガラケー。
中学の3年間、使い続けたガラケー。
春休みの最終日にもう一度確認したら、あっさり電源が入った。その時にはもう、私はスマホユーザーになってしまっていた。
試しにこのガラケーでまゆみにかけてみるが、もう通話はできない。
私はパソコンでだちゅらさんのアカウントをチェックしてみる。
新作だ!
つい2時間ほど前に、アップされたものだ。
背景に、巨大なクジラが浮かんでいる。
だちゅらさんのオリジナルキャラクターは、後ろ姿だ。
今回のこの大胆な構図は、だちゅらさんのイラストとしては異色だ。
私も何かだちゅらさんにメールしておこうと思うが、なかなか一行目が決まらない。
「昼間はどうも」か?
「古着、見に行きましょう!」か?
それともだりあの話か?
私が新作を見てしまったからには「新作、見ました!」か?
同時代を生きるという喜びを強調するように「クジラ、まじやばいっすね!」か?
何を書いても的はずれになるような気がして、今日もやっぱりいつまでもメールが完成しない。