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第191話「股下デルタ」

 花園中学は、頭がお花畑の人間が通う中学ではない。花園という地域に存在している、まともな中学校だ。その花園中の文芸部には、三角関係に悩む者たちが集まっている。そして日々、どろどろの恋愛劇を演じ続けている。

 かくいう僕も、そういった恋愛模様に身を投じる系の人間だ。名前は榊祐介。学年は二年生で、厨二病まっさかりのお年頃。そんな僕が、部室でいそしんでいるのは、備品のパソコンでネットを巡回して、何の役にも立たないネットスラングを調べて喜ぶことだ。


 そんな、愛憎渦巻く面々の文芸部にも、天然無垢な人が一人だけいます。よしながふみの「大奥」の世界に迷い込んだ、「けいおん!」の平沢唯。それが、僕が愛してやまない、三年生の雪村楓先輩です。楓先輩は、三つ編み姿で眼鏡をかけている文学少女。家にはテレビもなく、活字だけを食べて育ったという、純粋培養の美少女さんです。


「サカキく~ん。ネット詳しいわよね。教えて欲しいことがあるの~」


 間延びしたような声が聞こえて、僕は顔を向ける。楓先輩は、ととととと、と駆けてきて、僕の横にすとんと座る。先輩は、ぴたりと僕に寄り添って、餌を待つ雛のような顔で、僕を見上げてきた。僕は親鳥のように、先輩にネット知識を与えなければならない。僕は、今日も一日がんばるぞい、と思いながら、先輩に声を返す。


「どうしたのですか、先輩。ネットで知らない言葉を見ましたか?」

「そうなの。サカキくんは、ネットの玄人よね?」

「ええ。第一特殊部隊デルタ作戦分遣隊、通称デルタフォースのメンバーのように、サイバーテロと果敢に戦っています」

「そのサカキくんに、聞きたいことがあるの」

「何でしょうか?」


 先輩は、最近ノートパソコンをお父さんに買ってもらった。文芸部の原稿を、勇猛に書き進めるためだ。先輩は、そのパソコンをネットに繋いだ。そこで、危険なネット論壇に遭遇した。そのせいで、ネット初心者の楓先輩は、ずぶずぶとネットの罠にはまりつつあるのだ。


「股下デルタって何?」


 う、うん。まあ、女性のある部分を指す言葉だけど、エロいと思わずに見れば、エロくないよね! 僕は、そう思いこもうとする。


 そう。僕には、欠片もやましいところがない。だから、女性のどの部分を見ても、エッチな気分にはならないのだ。それが、股間と太ももの間にできる、逆三角形の空間であっても、何とも思わないと断言できる!


 僕が、そんなことを考えていると、部室の片隅で、「ガタン」という、誰かの立ち上がる音が響いた。


「うん? 何だろう。誰が、音を出したのかな?」


 僕は、疑問に思いながら顔を向ける。そこには、僕と同じ二年生の、鈴村真くんが立っていた。鈴村くんは、恥ずかしそうに頬を染めて、僕の方を見ている。


 鈴村くんは、華奢な体に、女の子のような顔立ちの男の子だ。そんな鈴村くんには、他人に隠している秘密がある。

 実は鈴村くんは、女装が大好きな、男の娘なのだ。鈴村くんは家に帰ると、女物の洋服を着て、等身大の姿見の前で、様々な可愛いポーズを練習している。そして、女の子の格好をする時には、「真琴」という女の子ネームに変わるのだ。


 僕は、その真琴の姿を、これまでに何回か見たことがある。そして、数々のエッチなシチュエーションに巻き込まれたのだ。


「ねえ、サカキくん」

「何かな、鈴村くん?」


 鈴村くんは、もじもじとしながら、僕に話しかけてくる。


「今日の昼休みに見せた、あの姿のことは、絶対に話さないでね」

「えっ?」


 一瞬疑問を頭に浮かべたあと、僕は昼休みのことを思い出す。そう。大変危険なシチュエーションを、鈴村くんと体験してしまったのだ。僕は、その時の記憶を、鮮明に蘇らせる。


 今日の昼休みのことである。僕は、食事を食べたあと、ラノベを読みつつ、その本のネットの評判をチェックしていた。

 僕はネット時代の読書家なので、自分の感想だけでなく、他人の感想も受容して、その作品を立体的に理解するのだ。そういったことをしていると、僕の前に鈴村くんがやって来た。


「ねえ、サカキくん」

「なに、鈴村くん?」


「ちょっとお願いがあるんだ」

「どんなお願い?」


「うん。話を聞いてもらいたいんだ。できれば、人のいないところで。そう。体育館の用具室が、この時間に使えるはずなんだけど……」

「いいよ。じゃあ、行こうか」


 鈴村くんは、用意周到だなあ。僕と話をするために、体育館の用具室の状況を調べているなんて。僕は、そう思いながら席を立ち、鈴村くんと連れ立って、体育館に向かった。


 体育館に、そっと侵入して、その端にある、用具室に入る。少し埃っぽく、微かに汗の臭いのするその場所で、僕と鈴村くんは二人きりになる。

 窓は小さいものしかなく、僕たちの頭の少し上にある。そこから漏れる日の光は、用具室に舞う細かな埃を、黄金の粉のように染めていた。


「それで、鈴村くん。話って何?」


 僕は、親友という気軽さで、鈴村くんに尋ねる。


「うん。ちょっと待ってね。準備をするから、後ろを向いて、もらえないかな」

「分かったよ」


 何か、女装をするのだろうか?

 僕は、鈴村くんが学校で女装する姿を、何度も見ている。だから慣れたものだ。いわばベテランだ。歴戦の勇者。古参の戦士。僕は落ち着き払って、鈴村くんの声を待った。


「サカキくん。準備ができたよ」


 さてさて、どんな姿になっているのだろう? そう思い、僕は振り返った。鈴村くんは、上半身は男子用の学生服の白いシャツで、下半身には膝上のスカートをはいていた。


「す、鈴村くん。その格好は?」


 女の子に、男物のシャツを着せたような姿に、僕は驚く。その格好は、情事のあとのお泊まりの様子を、僕に想像させた。鈴村くんは、少し照れた様子で髪の毛をいじり、しゃべり始めた。


「実は、今日見て欲しいものは、このスカートの中身なんだ」

「中身って、どういうこと?」


「うん。僕は、よく女の子の格好をするでしょう。でも、なかなか再現が難しいものがあるんだ」

「それは、何なの?」


「股下デルタ。男性の骨格には難しい、絶対空域だから」


 ごくり。僕は、思わず唾を飲み込む。股下デルタは、女性の股間と太ももの間にできる逆三角形の何もない空間だ。

 そういった隙間が生じるのは、女性特有の事情がある。女性は二次性徴の際、将来の出産に向けて、骨盤が大きく広がる。そのことにより、足の付け根が、体の正中線から離れるのだ。そのために、足の付け根部分が左右に移動して、その間に空間ができるのである。


 その場所は、ネットの世界で、股下デルタと呼ばれている。あるいは、絶対空域。何もない空間に萌えを見出すという、形而上の萌え要素だ。その空隙は、男子である鈴村くんには作りだせないもののはずだ……。


 僕は、鈴村くんの顔を見る。恥じらいの中に、妖艶さが混じっている。男の娘の顔。真琴の表情が、その前面に出てきていた。

 その様子を見て、僕は息をのむ。もしかして、真琴ならば、股下デルタを僕に見せてくれるかもしれない。僕の驚く姿を見た真琴は、微かな笑みを浮かべて、スカートに手をかける。


「ねえ、サカキくん。見て」


 真琴は、するするとスカートを手繰りあげ始める。なめらかで、きめの細かい太ももがあらわになる。その脚のラインは、優美なカーブを描いている。女性とほとんど変わらないフォルム。僕は、その生足を、食い入るようにして目でたどる。そして、鈴村くんの股の位置を凝視する。


「サカキくんなら、もっと近くで見てもいいよ」


 甘い吐息が漏れた。真琴は、わずかに興奮しているような声で言う。

 僕は、その進言に従い、膝を折り、顔を近付ける。僕の目の前に、たくし上げられたスカートの生地の束がある。この緞帳が上がりきった時、そこに魅惑の空間が現れるはずだ。それは、三位一体の形を描く、至高の空間。そこには何もない。しかし僕は、その虚ろな三角形を見て、萌え死ぬだろう。僕は心を空にして、その瞬間を待つ。


 ――我が心すでに空なり。空なるがゆえに無。


 僕は思わず、「ブラック・エンジェルズ」の雪藤洋士の台詞を、心の中でつぶやく。

「服部半蔵 影の軍団」の千葉真一の台詞、「我が身すでに鉄なり。我が心すでに空なり。天魔伏滅」から着想を得たであろう、その名台詞とともに、僕は心を無へと導いていく。


 それは、摩訶般若波羅蜜経、そして、その注釈書である大智度論の中で語られている、三解脱門に通じる心ではなかろうか? 三種の解脱の門。略して三脱門。あるいは三門。一に空門、二に無相門、三に無願門。


 体は、無性によるがゆえに空なり。そして、空のゆえに無想なり。さらに、無想のゆえに無願なり。

 一切を空と観ずる空解脱。一切に差別相のないことを観ずる無相解脱。その上で願求の思いを捨てる無願解脱。僕は、股下デルタの虚ろな空間を想像することで、悟りの境地にいたろうとする。


 今、僕は解脱する!!!

 その時である。


「おい、誰かいるのか!」


 体育教師の声が聞こえた。僕は慌てて立ち上がる。


「鈴村くん。スカートを脱いで! ズボンをはいて!」

「う、うん!」


 僕たちは、大急ぎで動き回り、鈴村くんを男子の姿に戻した。そのどさくさで、鈴村くんの股間を見たはずだけど、そこに股下デルタがあったかまでは、確認できなかった。


 僕は、意識を文芸部の部室に戻す。僕の目の前には、楓先輩がきょとんとした顔で座っている。


「それでサカキくん。股下デルタって、何なの?」


 そうだった。僕は、楓先輩に、ネットスラングの意味を尋ねられていた。僕は、鈴村くんとの危険な密会の記憶を振り払うために、股下デルタについて解説を始める。


「楓先輩。席から立ってもらえますか?」

「うん。いいよ」


 楓先輩を立たせた僕は、先輩の体を指差しながら説明を進めていく。


「人間の体は、男性と女性では違います。卵巣や精巣といった器官の差や、乳房の発達具合。体の大きさや、脳の構造。その違いは、骨格にもおよびます。その骨格の差の中で、特に顕著なのは、下半身の腰の部分になります。


 女性は出産の際に、二本の足の間から子供を産みます。また、出産前の妊娠期に、お腹の中で胎児を育てます。

 そういった機能を果たすために、女性の骨盤は大きく、そして広くなっています。そのため、骨盤に付いている足の位置が、男性と女性では異なっています」


 僕は、楓先輩の腰と僕の腰を比較しながら説明する。先輩は、ほっそりしていて、あまり女性的な体つきをしていない。そのため、説明の例としては、あまり適切ではない。

 まあ、いい。仕方がない。僕は、細かな問題点に目をつむりながら、話を続ける。


「そういった、骨格上の違いから、男性にはできない空間が、女性には生じるのです。股間と両足の太ももとの間に、逆三角形の隙間ができるのです。この空間は、女性らしい肉体の象徴とでも言うべきもので、昔より、男性の鑑賞対象になっていました。

 この場所に、与えられたネットスラングが、股下デルタなのです。また、ほぼ同一の場所を指す言葉として、絶対空域というものもあります。というわけで、実物を見てみましょう」


 僕は楓先輩に、スカートをたくし上げるようにと促した。

 目の前の、楓先輩の顔が、羞恥の色に染まる。僕は、その理由が分からなかった。


 ああ! 僕はようやく、楓先輩が、なぜ恥ずかしがっているのか気付く。昼休みに、鈴村くんの股下デルタを見逃した僕は、本能のおもむくままに、その続きを楓先輩で再現しようとしてしまったのである。


 ああ、何という、本能寺。僕は、ここで焼け死ぬしかない。楓先輩の真っ赤な顔は、僕の心を焼く紅蓮の炎と化す。僕は、蘭丸ならぬ、鈴村くんを従え、本能の蠢くこの文芸部で焼死するしかないのだ。


「さ、サカキくんのエッチ~~~~!」


 僕は、楓先輩に猫パンチをもらった。僕は、その拳の一撃を受けて、床に突っ伏した。


 それから三日ほど、楓先輩は、僕が近付くとスカートを押さえて逃げ回った。どうやら、スカートの下の股下デルタを見られると思い、恐れているのだろう。


「大丈夫です、楓先輩! 楓先輩は、まだあまり女性らしい体つきではないので、おそらく股下デルタは存在していません!!」


 先輩は、悲鳴を上げた。それからさらに三日ほど、楓先輩は、僕と口を利いてくれなかった。


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