深淵卿編第二章 卿の○○が……消えた?
朝の日差しが差し込むリビングに、フレッシュな香りと仄かな湯気が漂っている。
「こうすけ君。もう一杯飲む?」
「あ、いただきます」
そっと差し出されたティーカップに、ほんのり微笑みながら食後の紅茶を継ぎ足したのはソフィ・グラント。エミリーの母だ。
お猫様を彷彿とさせる吊り気味の目元は、なるほど、確かに母娘だと納得するほどそっくりだ。
とはいえ、纏う雰囲気はエミリーと異なりとても穏やかである。自己主張の強さや、勝ち気な性格が目元にあらわれているタイプではなく、物静かにスッと眼を細めて真贋を見抜くような、思慮深さを感じさせる鋭い目元という印象だ。
今は辞めているが、元会計士という職業は、確かに彼女に似合っていると思わせる。
「おいおい、エミリー。紅茶のおかわりくらい、お母さんが入れてもいいじゃないか。目くじら立てるのはやめなさい」
「ち、違うし! 変なこと言わないでお父さん!」
浩介が母手ずから紅茶を注いで貰っている光景に「むむっ」と頬を膨らませたエミリーに、父親であるカールが苦笑いしながら諫めの言葉を口にした。
カールもまた穏やかな気性で、年齢を感じさせない艶のある金髪はエミリーに受け継がれているように見える。ソフィも金髪ではあるのだが、どちらかと言えばカールの方が近い。
ちなみに、カールの職業は国内に数店舗あるレストランのオーナーだ。彼自身も料理人ではあるが、今はほとんど経営の方に注力している。
とはいえ、腕は本物なので、よくメシマズと揶揄される英国の一家庭に居候中の浩介も、それは間違った評価だと言えるような美味しい食事に毎日ありつけている。
エミリーも、プロの料理人であるカールの手ほどきを小さい時から受けており、最近は特に熱心に習っているので料理は得意な方だ。浩介的に、エミリーのパイ系料理は絶品だと思っている。
「なに言ってるんだい、カール。強力な恋敵もいるんだよ。エミリーがコウスケの一番になりたいんなら、些細なチャンスも逃しちゃいけない。男はね、甲斐甲斐しい女には弱いもんさ」
紅茶を上品に口にしつつ、ほんのり笑いながらそう言ったのはシーラ・グラント。
アルツハイマーを患っていた彼女だが、今は随分とハキハキしている。グラント家の特徴なのか、シーラもまた勝ち気な猫目をしているのだが、以前はほとんど閉じられていた目蓋も、今ははっきりと開いていた。
「いや、お義母さん。本人達の前でそんな生々しい話……」
「カール、あんたはどうにも気が弱いねぇ。父親なら、娘の戦いを応援してやりな」
「いや、戦いって、そんな大げさな」
「戦いだろう? 恋は戦争だよ。突撃の精神がなくて、どうして惚れた男をものにできるんだい」
うぅ、と口ごもるカールお父さん。婿養子だから、というだけでなく、シーラには基本的に頭が上がらない。
勝ち気で、負けず嫌い、強き意志は鋼の如く。それがグラント家の祖母シーラの気質だ。
間違いなく、エミリーの内面は祖母似である。まだまだ未熟で直ぐに涙目になるし、やせ我慢やただの意地っ張りの域を出ないが、ベルセルク事件を最後まで走り抜けた意志の強さはシーラ譲りだろう。
そんな、本来の祖母の姿とやり込められる父の昔からの光景に、エミリーはほっこり笑みを浮かべながらポツリと呟いた。
「ふふ、お祖母ちゃん、すっかりよくなったわね。……これも、こうすけのおかげよ」
「俺はただ仲介しただけだ。やってくれたのは南雲……いや、直接的には白崎だからな」
「確かにそうだし、香織さんにも、ま、まま、魔王様にも感謝してるけど……繋いでくれたのはこうすけだもの」
ベルセルク事件の後、少しして浩介はハジメに頼み事をした。
そう、アルツハイマーを患っているシーラを治療できないかという依頼だ。
アルツハイマーのような脳神経の破壊や脳全体の萎縮などは魔法薬であっても治療は難しい。だが、南雲一家には反則技がある。そう、再生魔法だ。
アルツハイマー病の克服はエミリーのライフワークの一つでもある。とはいえ、トータスの魔法薬などを含めた研究を本格的にできるのはまだ先の話。
万人のための地球で使える治療薬はエミリーが研究するにしても、彼女の身内くらいは治療して貰えないかと頼んだのだ。
エミリーとしても、本当は自分の手でシーラを治療してあげたかったのだが、進行具合も考えると意地を張るところではない。
そんなわけで、エミリーも、魔王様に挨拶がてら直接頼むことにしたのだが……
魔王一家との初邂逅を思い出した浩介とエミリーは、
「……悲しい、事件だったな」
「ぅ!? やらかしてごめんなさい! でも、できれば思い出さないでぇ!」
椅子の上で三角座りし、両手を頭に、小っちゃくなるエミリーちゃん。
しかし、かりちゅ○ガードしても思い出の槍は防げない。
エミリーが何をやらかしたのか。
ここで一つ、魔王一家と謁見することが決まったエミリーの心情に言及すると、彼女は非常に緊張していた。なにせ、あの〝電話一本で天からちゅどん事件〟の黒幕と会うのだ。
しかも、アビスゲート卿化した浩介ですら敵わないと言わしめる、言ってみれば浩介のボスと会うのだ。
エミリーちゃんの頭の中は、某ドラゴン○エストの大魔王が魔王城で邪悪に高笑いしている光景で一杯だった。
そして、悪いことに魔王一家のテンションもちょっと高かった。なにせ、ハジメからしたらまさに〝仲間♪ 仲間♪〟という感じなのだ。
そして、ラナと結婚した暁にはハウリアの族長になるだろう浩介の嫁とあらば、それは新たなハウリアの家族が増える可能性があるということであって、当然、シアのテンションも上がる。
テンションの高い二人に釣られて、他の嫁~ズもテンションが上がり、最終的に「どうせ会うなら、期待に応えて魔王一味らしく行こう!」と演出過多で会うことにしたのである。
「いや、あれは仕方ないって。というか、明らかに過剰演出かつ悪ノリした南雲達が悪い。普通に会いに行って、なんで家の玄関に『汝、願いを叶えたくば、試練を乗り越えてみせよ!』なんて看板が立ててあって、しかも玄関入ったらダンジョンになってるんだよ。普通にビビるって」
「ヴァネッサは大喜びだったけどね」
そう、魔王さんの悪ノリ演出とは――南雲家の玄関くぐったら偽ライセン大迷宮~♪ だったのだ。(遊園地のアトラクションをハードモードにしたレベルです。危険性はあんまりありません)
具体的には、玄関に入ると同時に訓練用アーティファクトであるゲームの世界に飛ぶようにしておいたのである。現実の世界では浩介もエミリーも、そして魔王様に謁見するならと仕事をぶっち切ってついてきたヴァネッサも、玄関でくて~と倒れた形だ。
ハジメ曰く、「いや、ほら、魔王と会うんだと意気込んでいたようだから、魔王らしく辿り着くまでに試練を用意してやろうかと思って。気遣いだよ?」ということらしいが……
めちゃくちゃ楽しんでいたヴァネッサはともかく、エミリーは終始涙目で、しかし、持ち前の負けず嫌いと意地でどうにかクリアした。
そうして辿り着いたゲーム内魔王城の玉座の間で、威圧感たっぷりに佇む魔王ハジメと、暗雲と雷龍で演出するユエ様と、竜化状態で玉座を囲うティオと、堕天使っぽく黒い翼を出して宙に浮く香織と、天を仰いでいるピンク仮面等々、雰囲気たっぷりに待ち構えていた魔王一家を見て、エミリーちゃんはついに白目を剥いて意識を飛ばした。
現実に戻って来たエミリーちゃんは、南雲家のリビングで目を覚まし、「いやぁ、良いリアクションするなぁ」と上機嫌なハジメ達を見て、かつ、そんなハジメに「やり過ぎだボケェ!」と抗議する浩介を見て、安堵のあまり……
チョロチョロチョロチョロ~
と、やってしまったわけである。
安堵の後に襲い来る猛烈な羞恥にわんわんと泣き出したエミリーを見て、流石のハジメもやり過ぎたと思ったのだろう。
謝罪しつつ必死に「大丈夫だぞ~、怖くないぞ~。ほ~ら、どこにでもいる普通の善良な日本人だ」とあやしにかかる魔王様という珍事が発生。
更には、女の子には辛すぎる黒歴史を作ってしまったと、ユエ達嫁~ズも総出で慰めにかかるという始末。
粗相の痕も魔法でさくっと後始末し、大人版ユエが優しく抱き締め、シアがいい子いい子とナデナデし、香織や雫が甘いお菓子をあ~んしたりし、ミュウやレミアも優しく語りかけ、ようやくエミリーは立ち直った。
……おそらく、家族以外であそこまで南雲一家に気遣われ、かつ優しく甘やかされた者はエミリー以外にいないだろう。
「ま、まぁ、結果としてお祖母ちゃんを無償で治してもらったわけだし……話してみたら凄く優しかったし……もう、き、気にしてないんだけどね!」
虚勢を張るエミリーちゃん。気にしているし、ハジメを見る度にめちゃくちゃ緊張するようになってしまっている。唯一、一族に迎えるからと特に気にかけてくれているシアにだけは完全に心を許しているのが、まだ救いか。
「とは言っても、南雲達も結構常識から外れてるところあるからなぁ。エミリー、何かあったらちゃんと言うんだぞ?」
きっと、ハジメも「卿に常識云々は言われたくない」と思っているだろうし、エミリー自身も「こうすけも大概な気がする……」と思っていたりするが、そこは恋する乙女なエミリーちゃん。
優しい気遣いの言葉だけで簡単にポッとしちゃうチョロインである。
頬を染め、嬉しそうに目元を和らげ「うん……ちゃんとこうすけに言うね」と、はにかみながら口にする。
ジッと見つめてくる嬉しそうなエミリーに、浩介もまた照れたように頬をポリポリと掻いてみたり……
「まぁ、この様子だと心配はなさそうだけどねぇ」
「エミリーったら、本当にこうすけ君のこと好きねぇ」
「……小さなエミリーは、もういないんだねぇ」
家族のしみじみとした言葉と表情に、ハッと我に返って真っ赤になるエミリー。
誤魔化すようにあたふたと新しい紅茶を入れようとティーポットに手を伸ばし、慌てすぎて倒しそうになる。すかさず浩介がフォロー。エミリーの手に重ねるようにして支える。更にポッとなる初々しすぎるエミリーちゃん。
ほのぼのポッポッしている朝のグラント家。本日はカールも休日なので実に穏やかな雰囲気だ。
と、そのとき、不意に浩介が「ん? この気配は……」と玄関先へ視線を向けた。
直後、バンッと開かれるグラント家の扉。
「グッドモ~~~~~~~ニングッ! コウスケさん! 貴方のヴァネッサがやって来ましたよ!」
「帰れ。むしろ土に還れ」
ビシッと決まったスーツ姿で、万歳しながら飛び込んできたのは英国国家保安局の捜査官ヴァネッサ・パラディだった。見た目はベリーショートのクール系美人なのだが、このように極めて残念な本性を持っている。
バイブルは日本の漫画であると豪語する生粋のオタクだ。そして、自称〝コウスケさんの三番目の嫁〟である。
ヴァネッサは浩介の辛辣な返しにも全く動じず、勝手知ったる我が家のような足取りで椅子の一つに座った。
自分、コウスケさんの嫁なんで。つまり、エミリー博士とも身内=グラント家の一員なんで。何か問題でも? というのがヴァネッサの主張である。
※エミリーを〝グラント博士〟と呼んでいたヴァネッサは、ベルセルク事件後、〝博士〟あるいは〝エミリー博士〟と呼ぶようになった。博士は博士なので、博士は外せないとのことらしい。
「おはよう、ヴァネッサさん。朝食はもう食べた?」
「おはようございます、ソフィさん。それに皆さんも。ソフィさん。朝食はまだ食べておりません。私は、お腹が空きました」
物欲しそうな眼でソフィを見やる図々しい駄ネッサさん。最初の頃のクール系美人はどこにいったのか。
ソフィはくすくすと笑うと駄ネッサの分の朝食を用意すべくキッチンへと向かった。
「で、どうしたのヴァネッサ。お仕事は? もしかして、またお仕事放り出して来たんじゃないでしょうね」
「マジで、いい加減クビになるぞ。最近、お前の姿が見えなくなると、局長さん決まって俺に連絡してくるんだからな。毎回、冷え切ったあの人の声を聞く身にもなってくれよ」
ヴァネッサの分の紅茶を入れてあげながら尋ねるエミリーと、ジト目で苦言を呈する浩介。
ヴァネッサは如何にも「心外な!」と言いたげな表情になると、紅茶を一口。美味しかったのか、少し口元をほころばせた後、来訪の目的を口にした。
「遊びに来たわけではありませんよ。コウスケさん、魔王陛下が来られたのなら一報くらい入れて頂きたいものです。昨日、いらっしゃったのでしょう? その件で、局長が事情を聞いてこいと、私を向かわせたのです」
「え? よく気が付いたな。家の中に直接転移して、そのまま転移で出て行ったのに」
グラント家の周囲に住んでいる保安局の護衛官達が騒がないよう気を遣っての直接転移だったのだ。なのにバレているとは保安局も侮れないと、浩介は感心したように目を見開く。
「その反応ですと、やはりグラント家に来られたのですね」
「げっ、かまかけたのかよ」
「ええ。実は別の場所で目撃情報がありましてね。どうやら御仁、森の一部を焼き払ったようで、その騒動から当局が情報を掴んだのです」
「あいつ昨日の今日で何やってんの!? っていうか何があった!?」
昨日、シアとデートだから後を任せると言って出て行った後、ハジメは英国の北方にある森の一部を焼き払ったらしい。
話を聞いただけでエミリーちゃんがガタガタと涙目で震えている。面識のあるカールとシーラも「うわぁ」と言った様子でドン引きしているようだ。
「御仁が英国にいるならコウスケさんと接触している可能性は極めて高いですからね。何故森を燃やしたのか、この国で何をする気なのか、さぁ、コウスケさん。――吐いてください」
「なんで俺が尋問されてんの!? 知らねぇよ!」
「そんな……。局長と約束されたのでしょう? この国で何かするときは一報を入れると。電話してこない理由があるのだろうと、こうしてわざわざ私を派遣したというのに、酷いですよ。出勤中に買った朝食用のサーモンサンドを食べる前に裁断機にかけられ、朝から局を追い出された私に免じて話してください」
「いやマジで。昨日、来たのは確かだけど別件だから。放火の理由なんて皆目見当もつかねぇよ。それと局長さん、マジでヴァネッサには容赦ねぇな」
浩介は乾いた笑い声を上げた。
ちなみに、マグダネス局長自らが監修した保安局の裁断機は、なんでも裁断する。
重要な書類も、ヴァネッサのウサミミカチューシャも、アレンのスマホも、ヴァネッサのサンタ帽も、アレン特製の女性局員の情報が詰まった複合金属製チップも、ヴァネッサのバイブルも、アレンの「いつ、渡すべき理想の女性が現れるか分かりませんからね!」と用意していた貢ぎ用の高価な指輪も、そしてヴァネッサのサーモンサンドも、まとめて一切合切、細切れにできる。
最近の保安局では、ウィンウィンと裁断機の動く音がする度に局員がビクッと震える事態が多発している。今度は、一体誰の何が細切れにされたのか……
英国が誇る鉄の女を怒らせてはいけない。
国家保安局局長様の裁断機は、彼女の象徴になりつつあった。
浩介は咳払いを一つして、ハジメの来訪目的と依頼の内容を語った。
ちょうど、ソフィが朝食を作り終えて持ってきたので、ヴァネッサは瞳を輝かせて食べながら耳を傾ける。
サクサクで香ばしいパンに、トロリととろけて染み込んだバター。ふわふわのスクランブルエッグに、カリカリジューシーな厚めのベーコン。さっぱりしたレモン系のドレッシングがかかったサラダ。体の芯まで温まる黄金色の野菜スープ……
「……ヴァネッサ、聞いてるか?」
「ふぁい? ひぃてまふよ? ろうぞ、ふふけてくだふぁい」
もりもり、もりもり、はふぅ~うましっ!
本当に聞いているのか疑わしい食べっぷりだが、まぁいいかと浩介は説明を続ける。
説明が終わると同時に、ヴァネッサも口元をナプキンでふきふき。
「なるほど。それはまた厄介な依頼を受けられましたね、コウスケさん。あ、ソフィさん、朝食ごちそうさまでした。大変、美味でした」
「ヴァネッサさんはいつ見ても良い食べっぷりねぇ。見ていて気持ちがいいわ」
「これはお恥ずかしいところを。局勤めとなってから、どうにも早食いが癖になっていまして。直すべきだとは思っているのですが、美味しい料理だとつい……」
「保安局の捜査官だもの。体が資本のお仕事なんだから、遠慮せず、いつでも食べに来てね?」
ほのぼのとしたやり取りを見る限り、言葉とは裏腹に〝バチカンに対する調査〟より〝グラント家の朝食〟の方が強い関心を持っていそうだ。やはり、このSOUSAKANはもうダメかもしれない。
「ヴァネッサ……お前、朝食を食べに来たのか、仕事しに来たのか、どっちなんだよ」
「優秀な捜査官である私は、どっちもこなすのです」
「さいですか……」
キリッとした表情でそう言うヴァネッサに、浩介はもうジト目を向けるだけだ。
「しかし、御仁の件が無関係とすると……参りましたね。森林放火の後の足取りがさっぱり掴めないのです。その後、何か連絡はありましたか?」
「いや、俺の方にはないな。ちょっと何してんのか聞いてみるか」
グラント家の分身用に用意したスマホからハジメにコール。しかし、電波の繋がらない~のアナウンスが流れるだけで繋がらない。
「繋がりませんか……。せっかく我が国におられるのですから、局長が是非、この機会にご挨拶をしたいと言っているのですが……」
「いや、それは止めといた方がいいぞ。なんせ、シアさんとのデート中だからな」
「それは……確かに」
「まぁ、日本での会談が未だ実現してないし、局長さんの気持ちも分からないでもないんだけど」
「ええ。いつの間にかグラント家だけ日本に行っていたというのも、局長的に地味にショックだったようですよ。一応、最優先事項に設定しているので、御仁のOKが出次第、可能な限り都合を合わせて渡航するつもりでいらっしゃるのですが」
「南雲も、いろいろ忙しいからなぁ。あいつ的にそれほど優先順位が高くないというのが悲しいところだな」
ハジメ的に、英国の保安局と繋がりができたところで大したメリットはない。コネができるという意味なら、浩介を通すだけで十分だ。その辺り、一任できるくらいに浩介を信頼している。
なので、優先順位的には、自身の事業やトータスとのゲートの簡易化、実際に降りかかっている面倒事……どころか、家族の団欒>局長さんとの会談、くらいのレベルなのである。
一応、ハジメ的に何度か都合の良い日を伝えたこともあるのだが、タイミング悪く、マグダネス局長の方がどうしても都合をつけられなかった。
なにせ、ハジメとの繋がりは保安局局長としての立場のみで、英国政府としてのものではないのだ。下手に繋がりが広がって南雲一家に手を出す輩が出れば、それこそ国家保安に関わる。
多忙に多忙を重ねる中、周囲に怪しまれずに、かつ極秘に、マグダネス局長は出国して会談を果たさねばならないのだ。
そんなわけで、何度かすれ違いが生じてしまい、未だに会談は目処すら立っていないのが実情なのである。
「仕方ありませんね。局長にはそのまま伝えましょう。とはいえ、放火の件は事情を聞きたいので、もし御仁と連絡がついたら一報いただけますか?」
「うん、まぁ、それはいいよ。流石に、俺も気になるし」
話が一段落ついたところで、一応、ヴァネッサも仕事中の自覚があったようで席を立った。早速、局に戻って報告するつもりなのだろう。
「バチカンの方に関しては、あまりお力添えできないと思いますが、一応、こちらも局長には伝えておきます。それと、企業関連の情報ならこちらも手を出しやすいので、何か分かればお知らせします」
「企業の方は南雲が自分でやるっぽいから大丈夫だと思うけど……そうだな。頼むよ」
頷いたヴァネッサは、「それでは皆さん、また夕食時に会いましょう」と、夕食をせびる気満々のセリフを言いつつ退出しようとする。
と、そのとき、浩介が不意に表情を強ばらせ動きを止めた。
「こうすけ? どうしたの? ヴァネッサの図々しさにキレちゃったの?」
エミリーが小首を傾げて尋ねる。だが、その問いかけにも浩介は答えない。虚空を見つめたまま微動だにしない。
「コウスケさん?」
「おいおい、一体どうしたんだい?」
ヴァネッサとカールが訝しむような表情になる。ソフィとシーラも、次第に心配するような表情になっていく。
「ね、ねぇ、こうすけ? どうしたの? 答えてよ、お願い!」
エミリーが、とうとう不安そうな声音になりながら、浩介の肩を揺さぶった。
そこでようやく視線をエミリーへと向けた浩介は、息を吹き返したように口を開いた。
「ッ、本体の方でちょっとな。今、バチカンの……たぶん、図書館とか修道院の辺りにいると思うんだけど……ちょっと爆発があった」
どうやら本体の方で何かあったらしい。妙に言葉を濁しているのは、一瞬、エミリーの顔色を覗ったことからすると過剰な心配をかけないためか。
逆にそれが、エミリー達からすれば深刻な事態を想像する根拠となったようで、不意に訪れたシリアスな空気に誰もが表情に緊張を滲ませる。
とはいえ、相手は浩介だ。エミリー達からすれば非常識でファンタジーな最強のヒーローである。どうにかなるわけがない。
なので、どこか楽観的な気持ちのまま、浩介の様子を見ていたのだが……
その気持ちは、文字通り幻の如く粉砕されることになった。
「っ!? なんだ!? 赤い霧!? 毒ガスか!? くそっ、次から次へとなんだってんだ!」
分身体を別に操作する余裕がないのか。おそらく、そのままトレースされた本体の言葉が切迫した状況を伝えてくる。
そして、わけが分からないまま少し時間が流れ……
不意に、分身体が虚空に視線を投げたまま、ポツリと言葉を零した。
――馬鹿な選択して、ごめん
分身体を通して、伝えようとしたわけじゃない。きっと、内心の想いが零れ落ちただけ。
そんな小さな言葉を最後に、浩介は――
消えた。
「え?」
エミリーの、キョトンとした声。何が起きたのか、全く分からないといった表情。
だが、現実は目の前にある。
否、ない。
浩介は、いつも傍にいた浩介の分身体は、消えたのだ。
「え? え? こう、すけ?」
呼んでも、応える者はいない。
未だに、現実に認識が追いつかない。
だっておかしいのだ。浩介の分身体は優秀だ。致命傷級の攻撃を受けるか、浩介自身が消さない限り、そう簡単に消えたりはしない。
そして、このグラント家の分身体はエミリーの護衛のためのもの。どれだけ日常的に魔力を消費し続け馬鹿にならない負担を抱えても、浩介が決して消さなかった分身体なのだ。
故に、つまり、それは……
本体である浩介に、分身体を維持できないほどの〝何か〟があったという証。
「ッッ!!!? こうすけ! こうすけっ!!」
ようやくそこに思い当たったエミリーは、パニックになったように声を張り上げた。
「ッ。落ち着いてください、博士!」
「落ち着けるわけないでしょう! こうすけがっ、こうすけの身に何か!」
完全に我を失っているエミリーを見て、同じく硬直していたヴァネッサは逆に少し冷静さを取り戻したらしい。
イヤイヤと首を振って錯乱するエミリーの両肩を強く掴むと、
「エミリー・グラントッ!!!」
「――ッ」
彼女の名を強く呼んだ。自身を取り戻させるかのように。
覇気に満ちたヴァネッサの声音に、エミリーはビクンッと震えた後、ゆっくりと瞳の焦点を合わせる。
「ヴァネッサ……」
「落ち着いてください。エミリー博士。パニックになっても何も解決しません」
初めて会った時のような冷徹でプロフェッショナルなヴァネッサの表情と声音に、今度こそエミリーは落ち着きを取り戻した。
一度深呼吸したエミリーは、強い輝きを取り戻した瞳をヴァネッサへと向け口を開く。
「ヴァネッサ、どうすればいいと思う?」
その言葉に、ヴァネッサは一つ頷く。ソフィもカールも、そしてシーラも息を呑んでヴァネッサを見つめる中、彼女は答えた。
「今、分かっていることは、コウスケさんの本体がバチカンにいて、そこで何かが起きたということ。そしてその〝何か〟は、一般観光客も目撃している可能性が高いということです」
「あ、そっか。こうすけ、バチカン図書館とか修道院の辺りにいるって言ってたもんね」
唸るようにしてカール達も続く。
「爆発がどうのとも言っていたね。隣接しているバチカン庭園は観光名所だ。予約制とはいえ、この時間、観光客がいないということはないはずだよ」
「こうすけ君が余裕をなくすくらいだもの。もしかしたら、大聖堂や広場、もしかしたら美術館にいた観光客も、その爆発には気が付いてるんじゃないかしら」
「なるほど。ヴァネッサさんは情報収集は簡単だって言いたい訳だね?」
その通りだと、ヴァネッサは頷いた。遅からず、バチカンで起きた騒動は報道されるだろう。少なくとも、〝バチカン市国内で爆発が起きた〟という客観的事実だけは大々的に流れるはずだ。情報局と連携すれば、かなりの情報を仕入れることができるはずである。
「とにかく、局長に報告します。コウスケさんの身に何が起きたのかは、局長ならどうにかして情報を仕入れてくれるでしょう。とはいえ、私としては、それほど心配はしていません。分身体を維持できずとも、あのコウスケさんなら必ず、どんな状況でもどうにかして連絡をくれるはずですから」
「……うん。うん、そうよね、ヴァネッサ!」
自分達が信じたヒーローなのだ。絶対に大丈夫。そう、強く信じる。
「問題は、むしろこっちです。大丈夫だとは思いますが、コウスケさんという絶対の守護者がいなくなったグラント家をどうするか……」
「狙われる可能性があるのかい?」
カールの険しい声音での質問に、ヴァネッサは首を振った。
「いえ、今のところそのような情報は入っていません。少し前にお伝えした通り、ベルセルク事件については終息したと考えていただいて問題ありません。とはいえ、気になることはあります。コウスケさんがバチカンに向かった理由です」
「……帰還者の情報をバチカンが集めているようだったから、だったわね」
「ええ。そして、今回の騒動です。考え過ぎならそれでいいのですが、楽観視はすべきでないでしょう。博士、それにカールさん達も。私としては、一時的に保安局へ避難されることをオススメします」
確かに、もし帰還者にまつわる事件なのだとしたら、浩介どころか、帰還者の中心人物である南雲一家と繋がりがあるグラント家にも、なんらかの手が及ぶ可能性はないとはいえない。
あくまで〝念の為〟というレベルではあるが、備えておくことに越したことはない。
「うん。私はヴァネッサの提案に賛成よ。こうすけの情報も保安局にいる方が早く手に入りそうだし、これからどう行動するにせよ、保安局の力を頼った方がスムーズだわ」
「……そうだな。万が一ということもある。ヴァネッサさん、申し訳ないが頼めるかい?」
「無論です。周囲の護衛官にも連絡しますので、皆さんは支度を」
テキパキと動くヴァネッサは、やはり優秀な現役エリート捜査官だ。次々と連絡を入れ、マグダネス局長にも報告し、段取りを素早く纏めていく。
そうして、ご近所付き合いの一環で一緒にお出かけ~という様子を装って、グラント家周辺に住んでいた保安局の護衛官達が幾人か集まり、傍目にはワイワイと楽しそうに、しかし内心では緊張を孕んで、一行は保安局へと出発したのだった。
そんな彼等の車列を、とある家の前で庭に水を撒く善良そうな男が、道路の清掃をしている業者の男が、犬の散歩をしている老人が、ランニングしている若い女が――ジッと見つめていた。
いつもお読み頂ありがとうございます。
感想・意見・誤字脱字報告ありがとうございます。
何故かプロローグの後編みたいになってしまいました。
話が進まず、すみません(汗
感想欄で質問が多数あったので、ご説明を。
修学旅行編との時系列ですが、バチカン編の後に修学旅行編という形にしたいなと考えています。
なので、ちょろっと出てきた「わたくし~」な幼女陰陽師(?)は、まだ出会っていません。
いつか書くと思うので、そのときは、バチカン編の後だなと思って頂ければ助かります。
PS
たくさんのフルールナイツ候補を挙げて下さり、ありがとうございました!
あ、そういえばいたな…と気付かされるキャラもいて、大変参考になりました。
またフルールナイツが出る話を書く時には、序列第八位と第九位も出したいと思います。
あと、感想で、前の話で300話だと気が付きました。
おめでとうコメ、ありがとうございました!
PS2
念の為、以前の番外編でも冒頭に書かせて頂きました注意書きをば。
本作品は――フィクションです! 実際の団体、国、制度等とは一切関係ございません!
バチカン市国などが出てきますが、架空世界のバチカンですので、
本来存在しない施設や部署が出てきてもご了承のほど、よろしく願い致します。
心のフィルターを、よろしくお願いします。