第360話 数々の秘密と想像の翼
「さて、少し話はずれましたが……《分化》をやってみましょうか」
イザークがまるで素振りでもしてみようか、みたいな言い方で軽くそう言った。
やってみましょうか、で出来れば苦労しないと思うのだが……。
俺とリナがそう思っているのが伝わったのかもしれない。
イザークは苦笑して、
「……いえ、そんなに難しいものではないのですよ? と言っても、中級に達した吸血鬼にとっては、という限定はつきますが……。ただ、下級でも努力次第では可能ですので、リナさんもおそらくは身に着けることはできます。問題はそもそも二人とも《分化》出来ない種族である、という場合でしょうが、まぁ、そのときはそのときで、ということで」
最後に付け足した部分についてはどうしようもない話だから構わない。
俺やリナが、吸血鬼の亜種なのか、それともそれに近い能力を有する別種なのか、もしくは完全に異なる独立した種族なのかは分からないからだ。
だが、人の血肉を餌とする、という部分については同様であるし、回復力も吸血鬼に匹敵するのは事実である。
おそらくは亜種か、近い種族であると考えて頑張るのは方向性としては間違っていないだろう。
「……それで、一体どうやるんだ?」
俺がイザークに《分化》のやり方を尋ねる。
魔術でも気でも聖術でもそうだが、基本的なやり方が分からないと手の付けようがない。
料理だって包丁の使い方と調味料の種類くらい知っておかないと簡単なのだって出来ないのと同じだ。
かつてのロレーヌは包丁を両手で持ってジャガイモを叩き切ろうとしていたくらいである。
切れたはいいが、まな板も同時に二つに割れた記憶がある。
初心者というのは何事もそういうものだ……。
「とりあえずは、イメージですね。自分の体が、別のものの集合体だと考えるのです。《別のもの》とは何かと言われれば、それは人によります。私の場合は《蝙蝠》が一番簡単で、馴染み深かったので《分化》を使うとこうなりますね……」
イザークはそう言って指先だけを《分化》させると、そこからばさばさと二、三体の蝙蝠が飛び上がり、そしてまた、ふっとイザークの指先に同化した。
「部分的な《分化》も可能なのか」
ロレーヌがそう尋ねると、イザークが答える。
「と、言うより部分的な《分化》の方が初歩です。体全体を《分化》する方が難しいですね。意識や視点が別れるので、統一するのに苦労します。部分的に行う場合は、左右で別のものを見る、くらいの感覚で済みますから、ここから慣れていくのが楽です」
その説明は、言っていることは理解できるが、しかし実際にそういう感覚に自分が陥るのだと考えると、ひどく酔いそうな気がした。
しかし、あれだな。
以前、小型飛空艇を操った時の感覚に近いのかもしれない。
あのときは視点が別れただけだったが……意識か。
「なんだか少し怖いんだが」
俺が思わずそう言うが、イザークは、
「それほど恐れることはありません。一人で行っていたら、そのまま意識が無限に分散してそのまま消滅、ということもあり得ないとは言えないのですが、ここには一応、先達である私がいますので。危険な場合は強制的に元に戻すことが可能です」
……なんだか怖さが倍増したんだが。
失敗すると消滅するのか?
躊躇どころじゃすまないぞ。
そんな俺の心配を、別のものとしてとらえたらしいイザークは、続ける。
「ああ、強制的に戻すことが可能なのは、慣れていない最初だけですので、その辺りはご心配なさらずに。ご自分で《分化》を制御できるようになりますと、もう外部からの干渉は受け付けなくなってしまいますからね」
そこは心配していないんだけどな、と思ったが口にしないでおくことにする。
怖がってる、なんて思われたくないんだっ!
などという小さなプライドがあったりなかったりするわけだが、何にせよ身に付けておいた方が良い技能なのである。
怖かろうが何だろうがやるのだ。
気にしても仕方がない。
「……とりあえず、やるだけやってみるか……。俺とリナ、どっちが先にやった方が良い?」
イザークにそう尋ねると、イザークは少し悩み、それから答えた。
「先にリナさんにやってもらいましょうか。正直、レントさんの場合、力が大きいですから、何が起こるか想像がつかない、というのもありますし……」
「なるほど、確かに。点火の魔術のこともあるしな……」
ロレーヌがイザークの言葉に頷いて同意した。
本来、小さな種火が出るくらいの魔術で、巨大な炎柱が出現してしまうのだ。
確かに、俺がやると何がどうなるのか分からない……。
でも、水の魔術だったら結構しっかりと普通に使えたんだけどな。
なんで点火の魔術はあんななんだ?
分からん。
まぁ、飲み水は確保できるから別にいいか。
焚き火の種火係はこれからリナに任せることにしよう……。
俺が担当したら放火係にしかなりそうにないからな。
「……誠に遺憾だが、それは正しい意見だろうさ。じゃ、リナ、準備はいいか?」
俺がリナにそう尋ねると、彼女は頷いて、
「はい! 頑張ります!」
と言ってきた。
気合十分らしく、怯えている様子はない。
俺よりもずっと肝が太いようだ。
……まぁ、最初に会った時からずっとそうだったしな。
流石にこの格好じゃ街なんて行けないって、という優柔不断な俺に、行けます行けます言い続けたのはリナである。
暴勇とか無謀に近いところもあるかもしれないが、冒険者にはそういう勇気も大事だ。
あまり行き過ぎると死ぬが、今のリナはそうそう簡単には死なないと言うか死ねないだろうし、ちょうどいいくらいのバランスに落ち着いていると言えるかもしれない。
「……では、やってみましょうか、リナさん。まぁ、やり方はさっき言いましたが、まず、自分の体が、何らかの《もの》の集合体だととらえるのです。それが出来たら、指先からそれが一つ、独立するようなイメージをするのです……無意識も作用するので、思っていたのとはことなる《もの》が体から離れることもありますが、慌てずに、それがもう一つの自分だと認識するのです……」
イザークがリナにそんな風に語り掛けていく。
リナはイザークの言葉を聞きながら、想像の翼を広げているのだろう。
目をつぶって、集中している。
そして、ついにそのときは訪れた。