第310話 反逆者イザーク・ハルト
「貴方は、何のために戦っているのですか?」
そう聞かれて、私は至極素直に答えた。
太陽がどこから昇ってどこに沈むか。
手に持った瓶を固い床の上に落としたらどうなるか。
水に熱を加え続ければどうなるか。
そんな質問をされたときのように。
――――。
迷いのない私の答えに、あの方はふっと笑って、
「……何も、学んでいないのですね。いえ、諦めなかった、とも言えるでしょうか……。けれど、それでも貴方方には無理なのです」
と、穏やかに私に言った。
当然の話だが、私はその言葉に、内容に深く強い怒りを覚えた。
なぜ、お前などに我々の崇高な目的を否定されなければならないのだ、と。
どうして無理なのだとわかるのか、やってみなければわからないではないか、と。
それから私はあの方に詰め寄った。
するとあの方は、
「では、賭けをしましょう。もしもあなたが……私を殺せれば、勝ち。出来なければ私の勝ちです。私が勝った時は……きっぱりと、その目的は諦めてください。期限は……どうしましょうか? 貴方が死ぬまで、ということでもいいですよ」
ふざけているのかと思った。
反逆騎士たる私が、たかが小娘一人を殺せないなどと、本気で思っているのかと。
しかし、結果を見れば火を見るより明らかだ。
私は、あの方を殺せなかった。
賭けは未だに続いている。
◇◆◇◆◇
自分に与えられた部屋の中で、久しぶりに取り出したのは懐かしい愛剣だった。
構えると、強く磨かれた魔力の宿る、銀色の細い刀身と、柄に刻まれた龍を穿つ一角獣の紋章が目に入った。
これを初めて手にした時、どれほどの喜びを感じたことだろう。
しかし、これはあの時からずっと、箪笥の肥やしになっていた。
なぜなら、今の私には、もう必要のないものだからだ。
今の私の仕事は、この家の使用人である。
魔物を相手にすることもたまにはあるが、そのときは普通の武具を持てばそれで足りる。
これは、あくまでも限定された相手に対して振るうもので……だから私はもう、使うことはないのだと思っていた。
ただ、それでも……心のどこかであのとき感じた誇らしさや、この剣の持つ意味を忘れられず、手放すことも出来なかった。
あの方に対して、それは良くないことだとは思っていたが……でも、あの方は気づいておられただろう。
私のすることなど、あの方にとってはすべて矮小で……いや、私に限らない。
《彼ら》のすることもまた、小さく、くだらないことに思っておられたのかもしれない。
だからこその否定、だからこその私に対する賭けだったのだろう。
そこからすれば、これから私がしようとしていることもまた、あの方にとっては無意味だ、ということになるかもしれない。
過去の因縁はもう断たれた。
今更……わざわざ相対するようなことではないと、そうおっしゃるかもしれない。
でも、私には、そうやって割り切ることは出来なさそうだった。
それで、私は結局、愚か者のままだったのだ、と悟る。
変わったと思ったのに、あの頃とは違うものに。
現実は、こんなものなのかもしれない。
何かになろうとして、何か大きなことを達成しようとし、けれど現実に打ちひしがれて膝を折り、差し伸べられた大きくやわらかな手を掴んでしまった。
そういうことだと。
何もなかったのだ。
私には。
聞いた話を思い出す。
この間、この家を訪ねて来た少年を、里の者に引き渡すときのことだ。
「……そう言えば、僕を誘った《仲間》が言っていました。イザーク・ハルトという名前に聞き覚えはないか、と。貴方の事ですか?」
少年が、里を異にする《仲間》に誘われて、この街まで来たという話はすでに聞いていた。
その際に語られたのが、彼らの存在を表舞台に出し、正当な権利を享受できる《人》として扱われるように社会を変えよう、という目的だった。
その言葉に乗って、少年はマルトにやってきたわけだが、結局マルトでは《仲間》と合流することが出来ず、衝動を抑える薬も減ってきて、仕方なく村の長老に聞いていたこの家を頼ってやってきた、ということだった。
そのため、さして知っていることはないような雰囲気だったのだが、初めに誘われたときに、なんとなくと言った感じで聞かれたのが、その名前だったらしい。
イザーク・ハルト。
つまりは、ラトゥール家の使用人である、私の名前だ。
「……なぜその方はそんな名前を尋ねたのでしょう?」
私が少年に聞くと、少年も首をかしげて、
「さぁ……? ただ、何気なく聞いたようでしたけど、結構重要な質問だったみたいだって言うのは分かりましたよ」
「どうして?」
「答えを聞く様子がちょっと違いましたから。僕、やっぱり里では跳ねっ返りで通ってましたから、よく怒られてて……だから人の顔色を見るのが大分得意になってしまって。あのとき聞いてきた人の表情は、その僕の目から見て、そう見えたんですよ」
少年は本来出ることを許されないはずの里から、こうして辺境の田舎町までやってきてしまうほどの行動力と反抗心があるタイプだ。
なるほど、そのような技能も育ってもおかしくはない。
何がその人を成長させるのかは分からないものだ。
そんな彼の目から見て、そのように感じられたということは……どこまで正確かはともかく、どうでもいい世間話というわけではなかったというのは確実だろう。
つまり、イザーク・ハルトを探している誰かがいる、ということをそのとき私は知ったのだ。
剣を腰に差し、屋敷の出口に向かう。
生垣の迷宮は簡単に横に逃げていき、まっすぐに進んで、私は屋敷の正門の鉄格子を開いた。
それから、街に向かうべく歩き出そうとしたのだが、
「……イザーク。行くのですか?」
と、後ろから声が聞こえた。
振り返ると、門に寄りかかる少女が一人。
私の主……つまりは、ラウラ・ラトゥール。
その瞳は、その容姿の伝える年齢とは異なり、心の奥底まで覗き込みそうな深い色をしていた。
私はその顔から眼を逸らし、答える。
「……申し訳ありません。賭けは……終わるかもしれません」
「……はぁ。頑固ですね、貴方は。好きにしなさい。けれど、賭けの幕を他人の手で引かせるのはおやめなさい。もしもその時が来るのなら、自分の手で」
それはつまり、何が何でも戻る様に、という意味にほかならなかった。
私はそれに目頭が熱くなるのを感じたが、
「はい。かしこまりました」
それだけ言って、踵を返し、街に向かう。
昔から燻り続けてきた因縁、それを、ここで断つのだ。
心の底からそう思った瞬間だった。