千五百七十八年 三月下旬
三月に入り静子配下の事務方は、徐々に忙しくなり始めた。逆に静子の仕事はどんどん少なくなる。
日々の細々とした決裁に関しては権限を委譲してしまったため、重要な決断を下す以外にはやることがないのだ。
ルーチンワークにまで落とし込まれた仕事は、いちいち静子の決裁を仰ぐことなく処理され、承認もしくは棄却の最終判断だけが上がってくるようになった。
これらは偏に静子を支える事務方が育ってきたことだと喜ぶべきなのだが、どこか一抹の寂しさを感じずにはいられない。
余りにもやることが無いため暇を持て余した静子は、主君である信長の仕事を補佐するべく問い合わせを実施した。
「主君である貴様が率先して休まないと、配下が気兼ねして休めないのだ。しっかりと休んで範を示せ!」
「し、しかし……皆が働いてくれているのに私だけが安穏と休んではいられま――」
「やかましい! 貴様の配下はおろか、領民たちからすらも貴様を休ませるようにとの嘆願が届いておる。貴様が最優先ですべきは休んでいる姿を見せて、皆を安心させることじゃ!」
それだけ言うと信長は問答無用とばかりに通話を打ち切った。尾張と安土とを繋ぐ日に三回の定時連絡を利用した相談だったのだが、けんもほろろにあしらわれてしまう。
そうは言っても性分というのは変えられない。どうしたものかと思案した末に一計を思いつき、次回の定時連絡の際にまたも信長との通話を申し込んだ。
通話に応じて貰えない可能性もあったのだが、果たして信長は静子との対話に応じてくれた。
「どうした、何か大義名分でも思いついたのか?」
「大義名分などとんでもない。これは私にとっても、上様にとっても利のあるご提案です」
「ほう! ならば申してみよ。貴様のことだ、土弄りに関することであろう?」
「ふふふ、見くびって頂いては困ります。是非とも上様のお耳に入れたいことがございます。まあ、朝方に上様から叱られて、私の領分じゃないと後回しにしていたことを思い出したのですが――」
時は少し遡り、先々月の末ごろに遠く相模国へと派遣していた華嶺行者が帰ってきた。
春先とはいえまだ肌寒いにもかかわらず、静子は華嶺行者と室内で向き合っているだけで猛獣が傍にいるような熱気を感じる。
「静子様、ただいま戻りました」
「ご苦労様でした。それで、どのような状況でしたか?」
「静子様が仰られたように、遠江国と駿河国との国境付近の沿岸部に油の匂いがする湧き水がございました」
華嶺行者はそう言うと懐からガラス容器に入った濃い琥珀色の液体を差し出した。
「これが原油……もっとドロッとしているのかと思っていたのですが綺麗なものですね。確かに灯油のような匂いがします」
「『とうゆ』とやらは良く解りませぬが、拙僧はこれと似たような匂いの物を他所で見たことがございますぞ」
「え!? 相良油田以外にも原油が湧き出す場所があるのですか?」
「ええ。もっと泥土と申しますか、黒く粘つく泥のようなものですが匂いは似ておりますな。現地では『燃ゆる水』と呼ばれておりました」
「そ、それはどこに?」
「越後国は黒川の山中に油壺と呼ばれる黒い水が溜まった沼のようなものがありましてな、これが松明を作るのに存外使い勝手が良いのです」
「――と言うことがありまして、上杉様に連絡をして『越の燃ゆる水』の調査をしようかと」
「ふむ、足満が申しておった外洋に出る為に必要となる燃料か。確かに興味深いが貴様が関わる必要はない」
「ところがどっこいあるのです! 越の臭水が時の帝に献上されたとの記録が朝廷にあるのです、これを確認するのに私以上の適任者はいないかと」
「咄嗟に考えたにしては上出来だが、詰めが甘い。そのような些事は貴様の養父(近衛前久のこと)に頼めば済む話だ。貴様の休養は変わらぬ」
珍しく頑なな信長の態度に静子は悄然として通話を切るのだった。
信長に窘められて以降は暫く大人しくしていた静子だったのだが、半月も経つとあれやこれやと動き回り始めてしまう。
勿論、仕事関係の一切合切には関わらせて貰えないため、手慰みにと優先順位の低い案件に手を出し始めた。
それは尾張一帯で流行している娯楽に関し、公式ルールを制定することだった。
限定的とは言え兵農分離がなされ、また治安に優れ領民の可処分所得も高い尾張に於いては庶民文化が花開いている。
囲碁や将棋などの織田家主導で推奨している娯楽も、伝播してゆく過程において様々なローカルルールが盛り込まれる始末。
当初からルールを定めて流布させていたため、これらについては公式ルールが存在するが、双六や花札などについては把握しきれない。
暇を持て余していた静子は、乱立しているローカルルールを収集し、体系立てて整理しなおすことで公式ルールを模索する。
一見何の生産性も無いように思えるが、やり始めてみると存外に面白く、目下静子が取り組んでいるのは『〇×ゲーム』のルール化だ。
まるばつゲームの優位性はとにかく準備が必要ないことにある。極論すれば棒きれ一本あれば地面にマス目を引くだけで始められる。
このマス目の数をどうするかがキモであり、最小の三×三だと一瞬で勝負が決まり、かつ先手が有利になってしまう。
何せ中央のマスに印を書き込めば、後手は勝ち筋が限定されてしまうからだ。
そこで静子は盤面を拡張し、五×五や九×九の盤面をルールとして定めた。
三×三の盤面では、それぞれの印が縦横斜めのいずれかで3つ並べば勝利となる。
しかし、五×五以上の盤面となると先手が3つ並べるのを後手が防ぐことが出来なくなるのだ。
そこで五×五以上の盤面では4つ印が並ぶことで勝利となるようルールを追加する。
盤面が広がっただけと侮るなかれ、これによって新たな定石が編み出され始めたのだ。
九×九の盤面に至っては、既に勝負がついていることに気付かないことすらあり、上級者用とされているほどだ。
ルールの制定と周知を領主である静子主導で行っていた結果、城下町や学校を中心に競技人口が増え、流行が始まった。
「娯楽は勝ち負けがあってこそ面白い。切磋琢磨した腕前を競いたがるのは人の性だよね」
予想外に盛り上がる領民たちを見て、静子は『第一回静子杯まるばつゲーム大会』の開催を宣言した。
三×三の盤面に関しては後手が最善手を尽くしても引き分けにしか持ち込めないため、五×五と九×九の盤面の二部門それぞれに大人と子供の部を設ける。
それぞれの部門に於いて上位三位までを表彰し、優勝者には賞金までが下賜されるという大盤振る舞いだ。
また三位までに下賜される記念品も豪華であり、本榧の盤面に色付き玻璃(ガラス)の駒という手の込みよう。
これらの賞品賞金に射幸心を煽られた領民は、こぞって参加を表明し、思い付きで始まった割に空前の規模での開催となった。
ただし、静子本人はあくまでも休養中であるため、金は出せど口は出さずという体を貫き、運営は配下の手隙な事務方へと丸投げする。
予想以上の好評の内に終了を迎えた大会についての報告を受けた信長は言う。
「面白そうな大会だ。角力だけに限らず、わしの名を冠した大会を安土で開くのも面白そうだ」
そう言うや信長は安土へと持ち込むためと言う大義名分の下、静子から全ての業務を他の者へと引き継がせて仕事を取り上げる。
再び暇を持て余した静子は、新しい娯楽を広めてみたり、既存の娯楽を組み合わせてみたりと抵抗を試みた。
そしてその度に信長の介入を受け、仕事を取り上げられるという攻防を一か月ほども繰り返してみせた。
そして遂に静子の恐れていたことが現実の物となる。つまりはネタ切れだ。
「わっはっはっは!」
それを知った慶次は呵々と笑って見せた。清々しい程に笑い飛ばされた静子は、ふくれっ面で抗議するが慶次は構わず続けた。
「そこまで笑わなくても良くない?」
「いや悪い悪い。少しでも楽な仕事をしたいという相談は良く聞くが、手に負えない仕事を回して欲しいというのは初めてだ」
「どうせなら他の人が手に余らせている仕事を手伝えれば、誰にとっても有意義なんじゃないかと思ってね」
「手持ち無沙汰だから仕事をしたい、なんて言う奴は静っちぐらいだろうよ。ま、織田の殿様がここまで強硬な姿勢を取るんだ、これまでのような甘い対応はしないという意思表示だろう」
「う……」
慶次の指摘に静子は思わず頭を抱えてしまう。如何に策を弄しようとも、今回の静子には致命的な欠陥があった。
即ち味方の欠如である。誰しもが静子を思いやるがゆえに一致団結して休ませようとしているのだ。
静子一人が孤軍奮闘したとて、大勢の人間が常に目を光らせているため、何をしていても信長の耳に入ってしまう。
「偶にはゆっくり温泉にでも浸かって、物見遊山にでも出かけてみちゃあどうだい?」
「温泉は毎日でも入れるし、物見遊山と言っても皆の事が気がかりで楽しめないよ」
「これは重症だな」
静子の言葉に慶次は笑いながら言う。
(今までの滅私奉公ぶりを考えれば、少しぐらい自分本位に振る舞ったところで罰は当たるまいに、そんな考えをしないところが静っちらしい)
彼女はそれこそが為政者たるものの責務だと答えるだろうが、全ての為政者が当然のように責務を果たしていれば乱世になどなっていない。
我がことを二の次にして、世のため人の為にと働き続ける静子は稀有な存在であり、そんな彼女だからこそ誰もが休んで欲しいと望むのだ。
「ここは逆に考えるんだ。暇だから何かをしないとと思うんじゃなく、したい事だけをするってのはどうだい?」
「……考えて見る」
和やかな慶次とは対称的に静子は重苦しいため息を吐いた。
人間というものは良くしたもので、どんな状況にもやがて慣れてゆく。
最初は焦燥感から居ても立っても居られないでいた静子だが、二週間も経つと日の出と共に起き出して畑仕事に精を出し、日暮れと共に就寝するという生活リズムが出来つつあった。
そして昼餉を済ませた静子は、中庭に面した縁側で一人一服していた。
静子邸は当初信長が図面を用意したがために無駄に広い敷地を持っており、よくよく見てみると中庭が殺風景だと言うことに気が付いた。
「そうだ、回遊式庭園を作ろう!」
回遊式庭園とは広大な土地に設営された庭園に対し、園内を一巡することで様々な景観を回遊しながら鑑賞できるというものだ。
日本庭園の集大成とも言われ、中でも代表的な造りとして中央に大きな池泉を据え、その外周に各地の名勝を再現する造園方式の池泉回遊式庭園が有名だろう。
日本三大庭園と名高い兼六園や、後楽園、偕楽園はそれぞれの大名が手掛けた大名庭園であり、作庭技法の頂点とも言われるが、その技術は戦国時代の今は存在しない。
無いならば作れば良いというのが思考の根底にある静子は、早速回遊式庭園を作るために必要となるものを調べ始めた。
そして直ぐに壁にぶち当たってしまう。造園というのは機能性だけを追及した土木建築とは決定的に異なり、美的センスや遊び心などが求められる。
そしてそれらは経験に裏打ちされたものであり、一朝一夕で身に付くものではなかった。
更に自分のセンスが他人様に誇れるようなものでないことを自覚している静子は、センスに優れる人物を起用することを思いつく。
「……と、言う感じで新しい庭園を作ろうと思うのよ」
「お任せ下さい義姉上、この私が義姉上のご要望を盛り込み、かつ凡百の庭とは一線を画す庭園を作り上げてみせましょう!」
静子が知る限りで、最もセンスが良くて庭園に造詣の深い人物であるところの前久に相談したところ、彼は自身の嫡男である信尹を推挙してきた。
確かに天才肌の信尹であれば想像以上の庭園を造り上げるかもしれない。しかし、信尹には静子に推薦できるほどの実績が無かった。
つまるところは、こういうことだろう。流石は近衛家の嫡男であると、誇れる成果を挙げる機会を与えたいという親心の発露と言ったところか。
実際に静子の推測は的を射ており、全く新しい庭園を信尹が手掛けて完成させたとなれば、それは大きな名誉となると前久は考えていた。
凡人ならば一世一代の大事業を素人に任せるのかと立腹もしようが、発端からして手慰みの静子にとっては渡りに船であった。
更に言えば信尹の非凡な才能を目の当たりにし、洗練された彼の美的センスにも信を置いている静子としては、信尹の起用に否やは無い。
「この手のものは時間が掛かると相場が決まっています。ただ徒に時間を掛けて、進捗が見えないのは困ります。定期的に計画の全体像と、進捗を報告するようにしてください」
この戦国時代に於いても既に岩や砂を用いて水を表現する枯山水の技法は存在し、平安の世より続く池庭や、新しく生み出された茶庭などの様式が確立されている。
それらの集大成が前述の回遊式庭園となるが、それ以外の庭園が劣っているかと言われればそうではない。
回遊式庭園にはどうしても広大な敷地が必要となり、限られた敷地に造園するならば茶庭などの方が適しているとさえ言える。
「しかし、それでは……」
「解っています。逐次報告していれば誰かが真似をして先に我こそが本家だと発表してしまうことを恐れているのでしょう? それについては心配いりません。既に貴方の名で大々的に宣伝を打ちました。後は貴方が自身の腕前で期待に応えれば良いのです」
「『京便り』ですか。確かにアレならば京中の貴人に周知できますね。義姉上のご期待に沿えるよう努力いたします」
「いち早く広告を打って大々的に宣伝をしたのです。否が応にも注目が集まりますから、誰の目にも新しく見事な庭園を造って度肝を抜いてあげなさい」
切っ掛けこそ尾張にある静子邸の中庭であったが、今回の造園に於いては京にある静子の京屋敷で行われることとなっている。
今や朝廷で流行している文物の多くが、尾張から発信されていることに忸怩たる思いを抱えている公家は多い。
ここへきて更に庭園などの京が最先端であると誇っていた文化までが、尾張発の物に取って変わられてしまえば冷静では居られないだろう。
公家達の矜持をいたずらに刺激しないためにも、ここは花を持たせるべきだとの政治的判断が下された。
「過去の栄光にしがみつき、変化を拒む連中なぞ放っておいても自滅しそうなもの。それよりもどんな庭にしようかと柄にもなくワクワクしておりまする」
今回信尹が手掛けるのは実に4ヘクタール(前述の後楽園は7ヘクタール)にも及ぶ巨大な庭となる。これが静子の手に掛かれば、全てが平らに整地された駐車場の如く殺風景極まる庭になることは間違いない。
完全に均した上で矩形に領域を区切っていけば、なるほど無駄の無い効率的な敷地利用が出来るだろう。
そうして静子自らが手掛けた図面を目にした信尹が、思わず頭を抱えたのは言うまでもない。
「資金については気にしなくて良いよ。とりあえず貴方が思うがままに設計して見なさい」
「潤沢な資金はありがたいのですが、それでも目安となる予算を教えて頂きたいのですが……」
「私の場合、私財が減るよりも増える方が早いから使わないと貨幣が不足しちゃう」
「一度で良いからそんな台詞を口にしてみたいものです」
ため息を吐く静子に対し、信尹は表面的には羨んで見せる。このあたりが信尹の如才無いところであろう。
静子の場合は追従などせずとも本音を出して問題無いのだが、習い性となった処世術は無意識に言葉を紡ぐのだ。
「今では昔に付けていた作付け日記ですら、お金を払ってでも見たいと願いにくる人が沢山いるしねえ……」
「多少の謝礼を払うことで数年にも及ぶ時間を短縮できるのならば、誰もがそうすると思いますよ」
静子は実に様々な情報を織田家に与する組織に対して公開している。
それらを実際に活用して成果を上げた例も枚挙に暇がなく、資料の信ぴょう性が高くなるに連れて貸し出し待ちの行列が出来るようになった。
そうして得られたデータに関しても、謝礼とは別に静子の許へと自主的に寄せられることとなり、更に情報の精度が上がってゆく好循環が出来上がっている。
「話がそれましたな。庭園についての話を進めましょう」
信尹の言葉に静子は小さく頷いた。
信尹に依頼してから数週間が過ぎ、三月も下旬に差し掛かると公家の間で信尹の話が囁かれるようになった。
当初は若者らしく破天荒で奇抜な庭を造って目新しさを狙うかと思われたのだが、定期的に公開される図面を見るたびに様子が異なることが明らかとなった。
景勝地や名勝を巧みに再現する試みは、さながら京に居ながらにして日ノ本全土を一巡できるという設計が為されており、造園について造詣の深い者ほど深く魅了される。
そしてその道の権威たちが認め始めると、一様に奇を衒いすぎだと貶していた者達が手のひらを反して褒め称える。
その報告を耳にした静子は苦笑するしかなかったが、既に静子では良いも悪いも理解できない領域へと差し掛かっているため、信尹を信頼して任せることにする。
「また退屈になったなあ」
造園であれば少しは関われるかもしれないという根拠のない自信を持っていた静子だが、残念ながら彼女の美的センスでは信尹との会話が成立しない。
当然ながら静子が信尹との会話についていけないのだ。信尹にとっては岩を一つ置くだけでも意味があるのだが、静子にとっては何処に置いたところで大差ないと考えるのだから救えない。
少しは無聊を慰められるかと思ったのだが、彼女の計画は見事に頓挫した。
「本格的にやることが無くなったなあ」
かくして再び暇を持て余し始めた静子は、近頃日がな一日日向ぼっこをして過ごすことが増えていた。
そして周囲もそれに対して何を言うでもなく、『しっかりお休みをされているようで安心だ』と言わんばかりに眺めてくる。
遂に日向ぼっこにも飽きてしまった静子は、家人を集めて宣言するに至った。
「――という訳で、暇だから角力大会を開きます」
こうなったらスポーツ観戦でもするかと思い立ち、静子は参加者を募って角力大会を催すことにした。
大々的にやると運営やら設営が面倒くさいため、あくまでも静子邸内に限っての参加受付とする。
その結果、集まった参加者の面々は長可や慶次などの静子の側近、上杉景勝や兼続などの越後勢、藤次郎や片倉小十郎など伊達勢であった。
彼らは普段から合同で練習をすることもあるため、おおよその強さを互いに把握しており、イマイチ盛り上がりにかけた。
そこで静子が発破を掛ける。
「優勝者には帝に献上したものと同じ酒を樽で進呈するよ。更には昨年仕込んで絶品との評価を得たカラスミも一箱付けちゃう!」
この発言に参加者たちは一気に沸き上がった。帝への献上酒ともなれば、その年最も出来の良かった蔵の中でも最高の物が選ばれる。
それは金を出せば手に入るという物ではないため、飲兵衛ならばいつかは飲んでみたいと願う垂涎の的であった。
更には酒のつまみとして供されるカラスミについては、尾張に来て日の浅い伊達家の面々ですら魅了された絶品である。
下世話な話になるが、これらを仮に現金化したとすれば一財産と言っても過言ではない額面になることは疑いようもない。
こうして俄かに目をギラつかせる修羅たちの饗宴が始まる。
「土俵に上がれば立場の上下など関係ない。お天道様に恥ずかしくない行いをすることだけを留意して、全力で戦ってください」
こうして急遽催された角力大会の火蓋が切って落とされた。角力についても少年部門と成人部門が分けられ、少年部門のダークホースとなったのが伊達勢であった。
ただでさえ伊達勢は尾張に来て日が浅い。誰がどのような角力を取るのか未知数であることが良い方に働いた。中でも隻眼の藤次郎の取り組みでは、観客たちの盛り上がりが最高潮に達する。
「はじめ!」
行司の掛け声と共に藤次郎が全力で相手に向かって突進する。すわ激突するかと思われた直前に、藤次郎の姿が掻き消えた。
藤次郎は相手の体当たりを寸前で回り込んで側面に密着し、回しに手を掛けると足を払って相手を勢いのまま前方へと押し出す。
衝撃を覚悟していた相手は、思わず蹈鞴を踏んでつんのめり、土俵を割りそうになる。
しかし、対戦相手もさるもので、みごと土俵際に踏みとどまって耐えてみせた。
そこで藤次郎は、対戦相手の重心が後ろに寄ったところを更に回すように勢いを付けて押し出した。
「やるじゃねえか!」
片目しか視力の無い藤次郎は、相手との距離感を測ることが常人よりも難しい。
それにも拘わらず神業とさえ言える精度で間合いを見切り、『柔よく剛を制す』を体現するかのように見事な取り組みを見せた。
年若い少年に似合わない老獪な技巧に観客は魅了される。
「これは今後が楽しみだね」
土俵際の特等席から観戦している静子も、藤次郎の戦いぶりに思わず笑みを浮かべる。
小兵である藤次郎の大金星は、体格に劣る少年たちの希望となった。
それからも終始大会は盛り上がった。藤次郎とは対称的に小十郎は正統派の強さを誇り、力と技のぶつかり合いは大いに観客を沸かせる。
「俺の勝ちだ!」
「見事! 次は某が!」
少年の部は小十郎が主君である藤次郎を破り優勝し、成人の部は何故か飛び入り参加してきた華嶺行者が圧倒的身のこなしで優勝を掻っ攫った。
それでも盛り上がった面々は熱が冷めないようで、大会の後も各自が好き勝手に取り組みを始め、それを肴に大宴会へと雪崩込むのが容易に想像できる。
「酒と料理を増やすよう庖丁人に伝えて。これは入浴からの宴会になるだろうから」
「承知しました」
小姓に酒と料理を増やすよう言伝を託すと、静子の傍に慶次が腰を下ろす。体中土で汚れているが、その顔は楽しげな表情を浮かべている。
「表彰式をやるつもりだったんだけど、誰も優勝賞品を気にしてないね」
「皆火がついちまったからな、熱が冷めるまでは収まらんよ」
「そう思って酒と料理は増やすよう伝えておいた」
「流石は静子、話が解る!」
静子の言葉に華嶺行者に軽くあしらわれた長可が反応する。彼も体中についた土を払ってから、静子の傍に腰を下ろす。
土俵の上では兼続が放った渾身の体当たりを、風に舞う木の葉のように不自然な動きで躱す行者。
徳俵に足が掛かった兼続があわやこれまでかと覚悟を決めた時、唐突に華嶺行者の動きが止まった。
それは厨房から漂ってくる香しいカレーの匂い。陶然とした表情で鼻をひくつかせる行者の背を兼続が軽く押す。
無双を誇った魁偉なる巨僧はふらふらと土俵を出て、厨房の方へと向かっていった。
「相変わらずだな華嶺の旦那。あの図体だと言うのにかすりもしねえ」
「そうかと思えば、カレーの匂いに負けるのだから呆れてしまうな」
「そうでもない。皆も腹が減ってくる頃合いだろ。そろそろお開きにして飯にしないか?」
長可の言葉に静子は周囲を見渡した。彼の指摘通り、あちらこちらで座り込んで観戦している者が多く見受けられる。
角力は楽しいが流石に疲労困憊であり、これ以上は動けないという様子がありありと窺えた。
それでも彼らがこの場を離れないのは、主催者たる静子が終了を宣言しないからだ。
華嶺行者を下した兼続が静子の方へと目を向けた。それを受けて静子は両手をパンパンと打ち鳴らして全員の注意を集める。
「はい注目! そろそろ皆も満足したでしょう? そろそろお開きにしてお風呂に入ってきなさい。その後は宴会にしましょう」
「優勝とかはどうするんだ?」
慶次の突っ込みに静子は小さくため息を吐いた。今更優勝者を称えるという状況でもないため、彼が静子からとある言質を取りたいのが丸わかりだった。
静子はわかった上でそれに乗ることにする。
「今さら誰がどうとか言うのは無粋でしょう。酒と料理は用意させているから、好きなだけ飲んで食べなさい」
「さっすが!」
静子の宣言に一同が快哉を叫ぶ。
「ただしちゃんとお風呂に入ってからです。泥だらけの体を綺麗にしてきなさい」
「はーい」
「(でっかい図体した子どもたちだなあ)風呂を終えたら各自で勝手に初めて良いですよ。宴会に上役が居たら気を遣うでしょうし」
元気よく返事する男たちに、若干失礼な事を思う静子だった。
「よっしゃ! ではまず風呂からだ!」
そう言うや否や長可が全力疾走で風呂場へと駆け出した。それを見た者達も我先にと、そのままの恰好で風呂場を目指す。
静子邸の大浴場は温泉を利用しているため、大人数でも多少手狭になる程度で支障はない。
しかし、彼らは肝心なものを忘れていた。誰もそれに気が付かず、風呂場へと向かった事に静子は呆れつつ近くの小姓に命じる。
「全員の着替えを脱衣所に運んであげて」
小田原城は本丸に臨む広場にて、新時代の到来を告げる産声が上がった。
「なんと、これほどとは……」
硝煙の立ち上る銃口から吐き出された弾丸は、射撃手の人相すら確認できない程の距離に設置された的を見事貫いていた。
「これが、織田軍に匹敵しうる新しい火縄銃なのか!」
「従来の物とは比べ物にならぬ飛距離と、威力。これを大量に用意できれば、向かうところ敵なしの織田軍とて恐るるに足らずというものよ!」
「見事だ、流石は知恵者として音に聞こえた『高座の弥勒』よ! 金も人もどれだけ費やしても構わぬ、これを急ぎ可能な限りの数用意せよ!」
「はっ!」